エル・カンターレが明かされた秘密:真実の世界観、心の法則があなたを幸福へ導く【大悟の瞬間】――With Savior(救世主と共に)――
人間はどこから来て、どこへ去っていく存在なのだろうか?
その疑問にお答えするためには、今まで隠されていた真実を知ってほしいのです。
あなたの悩みは、仏法真理を知ることで、すべて解消することでしょう。
神とは、人間とは、そしてその人生とは何かを知れば、未来に向けての生き方、人生にチャレンジする勇気が湧いてきます。
あたなにも、幸福になってほしい。そして、世界の人々にも幸福になってほしいと願っています。
真実を知ることであなたも幸せになれる――With Savior(救世主と共に)――
あなたに『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を贈ります。
Happylife-Happyhealth、今日のブログは、Happy Science『大悟の法』より 真実の世界観、心の法則があなたを幸福へ導く【大悟の瞬間】 をご紹介いたします。
【真実の世界観、心の法則】 ついては、『大悟の法』 に詳しく書かれています。
要点を数回に分けてご紹介してゆきますので、楽しみに読みすすめてください。
【目 次】
1. 霊的存在は100%ある
・「霊的存在が、この世を離れた世界に住んでいる。さらに、導きの偉大な光の存在がある」という世界
2. 心は大宇宙とつながっている
・釈尊は、「広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている」ことを発見された
3. 自他一体の悟り
・広大無辺な霊界には、人間の魂、動植物の魂に相当するもの等が数多くいます。
・これらが協力し合い、あるいは依存し合って生きている。そうした世界であることを、釈迦は悟った
4. 偉大なる大我
・「このような心であれば、こういう世界に通じる。こういう人たちと通じる」「このような思いを出せば、こういう未来が展開する」という、共通の、「心の法則」がある。
・「自分という霊的存在が、実は個別の自我ではなくて、永遠の魂ともつながっている。永遠の大我ともつながっている。そして、個々別々の人たちの心が、みな、つながっている」ということを悟るに至った。
・釈迦は、「霊的世界につながる我」という自我観を、「無我」という言葉で表したのです。
・「根本仏の大きな念い、自己実現の念いが、個別の生命として表れて、花を咲かせているのだ」という世界であることを、釈尊は知ったのです。
5. 利他、愛他の思想へ
・人間の生きていく意味として、「他の者、同じく魂修行をしている多くの人々を、慈しみの眼でもって見、そして、はぐくみ、導いていき、共に幸福になっていこう」という悟りがあった。
大悟の瞬間
■霊的存在は100パーセントある
宗教は世界各地にあります。しかも、交通手段も連絡手段もあまり発達していなかった時代から、別々の国に、同じような根拠を持った宗教が数多く存在しています。
そして、それぞれの宗教において、仏や神に相当する偉大な光の存在があり、また、死後の生命や生まれ変わりの思想が数多く見られます。
これを見ても分かるように、「霊的存在が、この世を離れた世界に住んでいる。
さらに、導きの偉大な光の存在がある」という世界観は、宗教そのものをすべて否定しないかぎり、永遠に生きつづける真理なのです。
私が1981年に悟った内容のなかで、「どうしても、これだけは外せない」と思うことは、やはり、「霊的存在は100パーセントある」という感覚です。
もちろん、私はそれ以前にも、霊的なものは信じていましたし、「人間には転生輪廻があるだろう。また、仏や神なるものは存在するだろう」と思っていました。
しかし、それを、感覚的なるものとしてつかんだということ、思想的なるものから離れて、現実のものとしてつかんだということは、非常に大きな衝撃でした。
この点から二重写しにして見るかぎり、2500年あまり前の、釈尊の「菩提樹下の悟り」においても、霊的覚醒を抜きにして、その悟りが成り立つはずはないのです。
何十日もの反省的瞑想のなかで、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)は、自分の殻を取り去り、真実の自己を見つめると共に、霊的世界を確実なるものとして垣間見たのです。
それも、偶然性によるのではなく、自己の主体的な考え方や判断によって、霊的世界を確認し、その世界に入っていけるようになったのです。
この実体験が、きわめて強い確信を生んだはずです。
■心は大宇宙とつながっている
それでは、釈尊が、座禅をして、心の垢を取り除き、深い深い瞑想の内に入っていったときに見たものは、いったい何だったのでしょうか。
実は、釈尊は、「この地球上に、個々人が、小さな豆粒のような存在として生きている」というものではない世界を見たのです。
「自分の内に、広大無辺な宇宙につながるものがある。その自分の内なる宇宙は、身長1メートル数十センチ、体重数十きろの、一個の体のなかに閉じこもっているものではない。
それは無限に広がっていて、自分の目に見える、この3次元の宇宙を包みほどの、大きな宇宙につながっているのだ」ということを知ったのです。
大宇宙の根本仏(根本神)がつくったと思われるような、無限の多次元空間の神秘。
そのなかには、自己の魂というものも当然あるけれども、それを突き抜けて、さらに霊界世界があり、霊界世界のなかに、「魂の兄弟」やそれ以外のさまざまな光の存在がある。
また、天国・地獄と言われる世界があり、その世界のなかに、幸福に暮らしている魂たちも、不幸に暮らしている魂たちもいる。そうした広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている。
こういうことを発見したのです。
これは、「自分というものは、自分であって自分ではない。自分という存在がないわけではなく、それはあるが、
その自分は、独立した一つの存在、切り離された存在ではないのだ。近代の哲学や文学が追及しているような、実存的な自分ではないのだ」ということです。
自分の内には、大宇宙そのものとつながっているものがあるのです。その大宇宙は、3次元の星の世界ではありません。
さらにそれを包み込んだ大いなる宇宙とつながっている世界が、自分の内にあるのです。
マゼランの航海を待たずとも、自分の心の内を見れば、はるかなる世界まで、自由自在に行き来することができたのです。
■自他一体の悟り
そして、釈尊は、「第一次的な霊眼によれば、自分と他人は別個のようにも見えるが、
もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。
「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のように見えるけれども、そうではない」ということです。
これは、もちろん、魂的に近接な「魂の兄弟」とのつながりということでもありますが、それだけではありません。
魂の兄弟たち以外にも、広大無辺な霊界に生きているものたちがいます。
人間の魂もあれば、動植物の魂に相当するものも数多くいます。これらが、バラバラに住んでいながら、実は同時に、協力し合い、あるいは依存し合っていきているのです。
そうした世界であるということを、釈尊は悟ったわけです。
ちょうど、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が、全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生物たち、生命たちが、
根本仏(根本神)の構想した曲を奏でているのです。そうした世界がそこにあるのだということを、釈尊は知ったわけです。
■偉大なる大我
これを無我の思想に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
人間は、この世でいきていると、「この体が自分だ」というように認識してしまいますが、体だけが自分ではないのです。
もちろん、体とぴったり合った形をした霊魂というものがあり、これもまた、形は有限のように見えます。
しかし、これは実は、有限のものであって有限ではないのです。それは大宇宙とつながっています。
潜在意識といわれる世界のなかにおいては、広大無辺な霊界とつながっていて、共有意識、あるいは共通認識というような、全人類に共通している霊的想念の世界とも、つながっているのです。
それはちょうど、電話やテレビの世界と同じで、あらゆる霊的存在と、一瞬にして、つながるような世界です。
各人は、ばらばらに住んでいるように見えても、ちょうど、電話の配線工事がなされていて、それぞれの電話機にコードがつながっているようなものなんです。
各人の存在は、そういうものであるのです。各人は別個の “ナンバー” を持っていながら、実は、すべてがつながっている存在なのです。
そして、それをつなげているものは、いったい何かといえば、それこそが、心の法則にほかなりません。
心の法則は普遍のものであり、その法則には、人種や性別、年齢、あるいは時代を越えて、共通のものがあります。
「このような心であれば、こういう世界に通じる。こういう人たちと通じる」「このような思いをだせば、こういう未来が展開する」という、共通の、心の法則があるのです。
釈尊は、内なる自分を見つめると共に、「この霊的存在が、実は個別の自我ではなくて、永遠の魂ともつながっている。永遠の大我ともつながっている。
そして、個々別々の人たちの心が、みな、つながっている」ということを悟るに至ったわけです。
現代的な言葉で言えば、「表面意識だけが自分なのではない。潜在意識のなかにも、自分と通じるものがある。自分は潜在意識とも同通している」ということです。
その潜在意識は、自己の潜在意識であると同時に、霊界世界にある、他のさまざまな霊的存在とも、一瞬でつながるものなのです。
これは私も経験していることです。テレビの画面を観ていても、そこに出てくる人の意識と一瞬にして通じます。
写真を見てもそうです。いろいろな人の意識と通じます。また、その人の守護霊や、その人に憑いている不成仏霊と通じることもあります。
写真の人物が故人であれば、その人自身の霊が出てくることもあります。
このように、あの世というのは、瞬間的にすべてがつながるような世界です。そういう強力なネットワークができている世界なのです。
要するに、釈尊は、物質的に見える自分とは異なった。「霊界世界につながる我」という自我観を持ったのであり、それを「無我」という言葉で表したのです。
無我とは、「我がない」ということではなく、「偉大なる大我とつながっている我」ということであったのです。「大我とつながっており、相互に影響し合っている存在、
お互いに、別のもののようでありながら別なものではなく、同じようでありながら同じではない存在」ということです。
そういう世界であったということ、「根本仏(根本神)の大きな念い、自己実現の念いが、個別の生命として表れて、花を咲かせているのだ」ということを、釈尊は知ったのです。
これが空間領域での無我の思想です。
■利他、愛他の思想へ
この無我の思想は、言葉を換えて言うならば、当然ながら、利他、愛他の思想へとつながっていくものです。
「自分は、孤立して独りで生きているものではない」ということを悟ったとき、利他、愛他の行為は、元なる自分自身を生かすことであり、
利他、愛他の思いとは、同時代の同期生として生きている魂たちを、共に愛し、慈しむ心なのです。
したがって、愛他、利他の思いそのものもまた、一つの無我なのです。
「この世的なる自我のみならず。孤立した我のみならず」ということを知ったがゆえに、愛他、利他の思いが開け、そういう行動観が生まれてくるわけです。
釈尊の無我の思想には、「自分の心の内なる広大無辺な領域を知り、その法則に精通する」ということと同時に、人間の生きていく意味として、
「他の者、同じく魂修行をしている多くの人々を、慈しみの眼でもって見、そして、はぐくみ、導いていき、共に幸福になっていこう」という悟りがあったのです。この点を忘れてはいけないと思います。
宗教の世界、あるいは超能力の世界において、霊的な感覚を持っている人は数多くいますが、愛他、利他の思いまで届かずに、
霊的なもののみに関心を示しているうちは、まだ、魂的には、仙人界や天狗界と呼ばれる裏側の世界に属していいると言わざるを得ないのです。
菩薩や如来といわれる人たちのいる、本来の表側の魂系団に入るためには、「真実の自己を知る」ということと共に、
「その真実の自己を知る行為が、利他愛他へとつながっていく」ということが必要です。そういう悟りが必要なのです。
これは、共に社会を発展させていく力とつながる宗教であることを意味します。
Happy Science『大悟の法』 より
仏法真理は「真実を知ること」であなたを「幸福へ、健康へ、成功へ」導いてくれるのです。---With Savior(救世主と共に)---
『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を知りたい方は、Happy Scienceの経典をご参照ください。今日のブログは、Happy Scienceの 『大悟の法』 よりお伝えしています。