エル・カンターレが明かされた秘密:心のコントロールによって、どのような世界にでも心を通じさせることができる――With Savior(救世主と共に)――

 

 

どう生きたらいいのだろう?

人間はどこから来て、どこへ去っていく存在なのだろうか?

 

その疑問にお答えするためには、今まで隠されていた真実を知ってほしいのです。

あなたの悩みは、仏法真理を知ることで、すべて解消することでしょう。

神とは、人間とは、そしてその人生とは何かを知れば、未来に向けての生き方、人生にチャレンジする勇気が湧いてきます。

 

あたなにも、幸福になってほしい。そして、世界の人々にも幸福になってほしいと願っています。

 

 

真実を知ることであなたも幸せになれる――With Savior(救世主と共に)――

あなたに『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を贈ります。

 

 

Happylife-Happyhealth、今日のブログは、Happy Science『大悟の法』より  心のコントロールによって、どのような世界にでも心を通じさせることができる をご紹介いたします。

 

 

【真実の世界観、心の法則】 ついては、『大悟の法』 に詳しく書かれています。

要点を数回に分けてご紹介してゆきますので、楽しみに読みすすめてください。

 

 

【目 次】

1.    心の自由性、さまざまな世界に通じるような”チャンネル“ を合わせていくという点に自由性が与えられている。それを見事に自分の手中に置いて、コントロールすることのできる境地が、悟った人の特徴です。

 

2.    繁栄の想念を常に発信し、形成していくと、それは、ちょうど磁石のようになって、まわりの世界に影響を与え、アイデア、協力者、お金など、さまざまな成功の要素が、その力によって、ぐっと引き寄せられてきます

 

3.    正しい方向を教えることが仏弟子の仕事、それは、正しい“北極星”のありかを示し、「北の方向はこちらである」ということを教え続けているのが、神の使徒であり、光の天使であり、如来や菩薩なのです

 

4. 自主的に守る「戒」と共同生活のルールである「律」、心というものは自由性を持っており、一つの方向に向かって絞り込めば、それが実現してくるのです

 

5. 仏教は自由で寛容な教え

 

 

心の自由性

                                                                                

■悟った人の特徴

 

かつて、中国仏教形成の第一人者といわれる天台智顗(538~597)も説いたことですが、人間は、さまざまな心の状態を出すことができます。

 

たとえば、人間の性格について、「穏やかな人である」「寛容な人である」「知的な人である」「熱心なひとである」など、

 

いろいろな定義の仕方があり、それぞれの人について、いちばん特徴的な性格というものがあります。

 

しかし、「ある人には備わっているが、別の人には完全に欠けている」という性格はないのです。

 

その量の多少や傾向性の違いはあっても、どのような人も、さまざまな素質を同時に兼ね備えています。

 

おとなしい人だからといって、絶対に怒らないかといえば、そんなことはありません。おとなしい人でも、どんどん問い詰められたりすれば、怒り出すことはあります。

 

また、怒りっぽい人だからといって、いつも怒っているかといえば、そんなことはありません。穏やかでやさしいときも、やはりあります。

 

そのように、表れ方にデコボコがあり、優劣はありますが、「十界互具」といわれるように、すべての人のなかに、

 

仏の世界、如来の世界、菩薩の世界、あるいは地獄の世界なで、さまざまな世界に通じるような、心の働きがあるのです。

 

そういう心の可能性があり、そのように ”チャンネル“ を合わせていくかという点に自由性が与えられているわけです。

 

この自由性が与えられていることを知り、それを見事に自分の手中に置いて、コントロールすることのできる境地が、悟った人の特徴です。

 

したがって、「いま、自分の心はこういう状態にある。こういう原因によって、こういう結果になっているのだ。そして、今後、このように考えれば、こうなるであろう」

 

ということが自己認識できるようになること、さらに、「自分の心の作用が、他の人にどのような影響を与えているか。

 

あるいは、自分や世界の未来にどのような影響をあたえていくか」というところまで認識していくことが大事です。

 

ほんとうの意味で、心の法則をつかみ、心の自由性を獲得することが、悟りたるものであることの第一条件なのです。

 

 

■想念は磁石のように世界に影響を与える

 

幸福の科学の書籍には、成功の法則もいろいろ書いてあります。成功、あるいは発展、繁栄というものも、仏神が創った宇宙の要素の一つであり、宇宙のなかに遍満し、至ることろにある要素です。

 

この繁栄の想念を常に発信し、形成していくと、それは、ちょうど磁石のようになって、まわりの世界に影響を与えていきます。

 

砂鉄を紙の上にまいて磁石を近づけると、砂鉄が磁石に引きつけられ、見事な波紋を描きます。

 

それと同じように、繁栄という方向に向かって、ある人が“電磁波”を出しはじめると、その電磁波に合わせて、成功の要素になるものが集ってくるのです。

 

アイデア、協力者、お金など、さまざまな成功の要素が、その力によって、ぐっと引き寄せられてきます。

 

このように、心の作用というものは実体を持っているものなのです。

 

どのような心を持つかによって、自分自身が変わり、その変わった自分は、一種の磁石のような作用を持ち、一つの創造性を持ちます。

 

その創造性は、自分自身の現在および未来を変えていき、さらに、他の人の未来をも変えうる力を持ちます。

 

そして、それは自分と他の人を変えるのみならず、同時に世界をも変え、宇宙にも影響を与えていくのです。

 

■正しい方向を教えることが仏弟子の仕事

 

私は、自分の悟った内容を、法話として説いたり、本として出したりして、いろいろなかたちで、みなさんにお伝えしています。

 

その仏法真理の本は、一冊一冊が巨大な”磁石“です。そういう磁石が何百万の単位で世の中に出ていき、人々の心を変えていくのです。

 

その磁石に引きつけられた人は、その人自身もまた、磁石に変わっていきます。

 

それはちょうど、長いあいだ磁石にくっついていた鉄が、それ自体もまた磁石となって、ほかの鉄をくっつけるようになるのと同じです。

 

磁石そのものが、他のものをまた磁石に変えていく力を持っているのです。

 

伝道も、結局、こういうことなのです。「心の法則を伝えたい」という熱意そのものが磁石となって、心の法則が伝わっていきます。

 

そして、心の法則を知り、その使い方をマスターした人は、この世において、真実の人生、幸福な人生を生きられるようになります。

 

さらに、それを自分で味わって幸福な感覚を得た人が、また磁石となって、それを発信していきます。これが伝道の過程なのです。

 

これは幸福になる方法の話ですが、その反対の場合もあります。世の中には破壊的な想念を持った人もいます。

 

そういう破壊的な”逆磁石“を持った人が出てくると、それによって多くの人が不幸になることもあります。

 

特に、非常に破壊的な想念を持った人が、政治的な指導者や思想的な指導者となり、高い立場、指導的な立場に立った場合には、ほんとうに逆磁石になって、

 

すべてのものを破壊し、狂わせていきます。世の中にはそういうこともあるのです。

 

そのような逆磁石の働きは、何千年、何万年にもわたって続いています。

 

それと戦い、正しい“北極星”のありかを示し、「北の方向はこちらである」ということを教え続けているのが、神の使徒であり、光の天使であり、如来や菩薩なのです。

 

力だけで比べると、どちらも強いように見えて、真理はどちらなのかが分かりにくいこともあります。しかし、明らかに北は北なのです。

 

その正しい方向性を教えることが、仏弟子としての仕事でもあるのです。

 

 

■自主的に守る「戒」と共同生活のルールである「律」

 

心というものは自由性を持っており、その方向性は自由時代です。それが一定のよい方向に向かうことによって、いっそう集中度が高まり、念いの実現性が高くなります。

 

たとえば、念いを繁栄という方向に絞り込めば繁栄が現れ、智慧という方向に絞り込めば智慧が現れ、精進という方向に絞り込めば精進が現れます。

 

一つの方向に向かって絞り込めば、それが実現してくるのです。

 

したがって、各人がそれぞれ、「自分はこういうことをしよう。しかし、こういうことは住まい」という、自分に合わせた戒めを持つことが大切なのです。

 

仏教には、「戒」というものがあります。これは、交通ルールのようなものとは違って、各人が自分で「これを守ろう」と設定するものです。

 

たとえば、「毎月一冊、仏法真理の本を読もう」という誓いを経てれば、それはその人にとっての戒になります。

 

そして、毎月読むことにしていたのに、「今月は読み損ねた」ということになれば、それは破戒、すなわち戒を破ったことになります。ただ、それに対する罰則は何もありません。戒には罰則はないのです。

 

しかし、戒めを破ったことに対して、自分自身が深い慚愧の念、後悔の念を味わい、「こんなことではいけない。

 

もっともっと自分を強くしなければいけない、自分を鍛えなくてはならない」と思うわけです。それによって、修行が進んでいくのです。

 

戒と聞くと、普通は「不自由なもの」と考えがちですが、ほんとうはそうではなく、各人が自分の修行のレベルに合わせてつくっていくものです。

 

釈迦教団においては、在家の信者に授けられていた「五戒」(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)も、「5つ全部を守らなければいけない」というものでは必ずしもなく、

 

「まず、どれか一つだけでも守りなさい。二つ守れるなら二つ守りなさい。三つなら三つでもよろしい。五つ全部守れるなら、さらによろしい」というかたちでした。

 

したがって、たくさん守ろうと思う人は、百戒でも二百戒でもよかったのです。

 

そのように、自分を向上させるために、自主的に立てて守っていこうとするものが戒なのです。

 

これに対して、罰則のあるルールとして、「律」というものがあります。それは、出家教団における共同生活のためのルールです。

 

現代でも、学校の寮などに入ると、「起床は××時です」「食事は××です」「門限は××です」「消灯は××です」などの規則があり、

 

「これを守らないと、寮から出てもらいます」ということになります。このような、罰則付きのルールのことを律というのです。

 

共同生活のなかで、お互いに修行の邪魔をしないようにするために、「このルールを守る範囲内においては、お互いに相手の権益を侵害することなく、

 

自由を満喫できる」という共通項を定め、それを律と呼んだのです。「この律を守っていれば、共同生活が可能である。律に定めがない範囲では、自由に行動してかまわない」ということだったわけです。

 

そして、率に反した場合には、その程度に応じて、いろいろな罰則がありました(たとえば、一週間の反省行とか、教団追放など)。

 

このように、仏教には戒と律があり、戒は自由なものだったのですが、律は共同生活に即したルールであり、違反すると罰則があったのです。

 

律は出家者にはありましたが、在家にはありませんでした。在家の人たちが守るのは戒だけであり、罰則はなかったのです。

 

戒は自主的なものであり、「なるべく守ろうと努力してください。守れなかった場合には、反省して、もう一度、がんばってみましょう」というものであったわけです。

 

戒の内容は、仏教的精神に則った方向のものであれば何でもよく、各人が自分で考えていました。

 

現代的に言えば、「毎日、運動をしよう」「食べ過ぎないようにしよう」「寝すぎないようにしよう」というものでも戒になります。

 

そのように、戒は自由なものであり、罰則は特にありませんでした。これが仏教教団のあり方です。

 

自由には、放縦、すなわち、「ほしいままに何でもできる」という意味での自由ももちろんありますが、もう一つ、「自分で自分をコントロールする。

 

自分で目的性を持ち、方向性を決める。自分で一定の範囲を決め、そのなかで生活していこうと決める」という意味での、意志を含んだ自由もあります。

 

この意志を含んだ自由は、責任を伴う自由であり、非常に責任感溢れる自由です。このような、責任感に裏打ちされた自由論が仏教の本質なのです。

 

「お互いに迷惑をかけずに、思う存分に修行をして、心の法則をマスターしよう。自分自身の心の奥にある、宇宙につながっているものを手に入れよう」というスタイルであったわけです。

 

 

■仏教は自由で寛容な教え

 

仏教の教えの特徴としては、「自由」と「平和」の二つがあります。

 

仏教は、一つには、非常に自由な教えであり、決して不自由なものではありません。それは教義においても当てはまります。

 

釈尊の没後2500年のあいだに、仏教教団にはいろいろな教派が数多く出ましたが、そのなかには、仏陀が説いた教えとは正反対のことを唱えているものもあります。それを許容するほど、仏教は器が大きいのです。

 

仏陀が説いた教えのなかから一部分のみを取り出して、それをのべ伝える人が、あちこちに出たのですが、それを許容するものが、仏教にはもともとあったのです。

 

たとえば、日本の鎌倉期には、「座禅こそが仏教だ」と説いた人(道元)もいます。

 

確かに、釈迦仏教にも座禅はありましたが、仏陀の教えは座禅しかなかったわけではなく、心の教えもあり、さまざまなものを含んでいました。

 

また、「念仏こそが仏教の本質である」(「仏教は念仏である」とも)と説いた人(法然・親鸞)もいます。

 

その念仏とは、「南無阿弥陀仏」と口で称えることを指すようですが、もともとの念仏の意味は、そういうことではありませんでした。

 

本来の念仏とは、「仏の姿を心に思い浮かべ、仏と一体になっていく。仏を念じて仏と一体化する」ということであり、「南無阿弥陀仏」と称えることではなかったのです。

 

ただ、これも、「南無阿弥陀仏」と言葉で表す過程において、仏と一体化していくことはありうるので、完全に否定することはできません。

 

あるいは、日蓮宗系の一部の教団では、「法華経こそが正しい教えである」と言って、それを行動の原理、折伏の原理としています。

 

確かに、釈迦教団においても、間違ったものに対して厳しく破折した面があったことは事実です。

 

そういう意味で、仏教はさまざまな面を持っていました。仏教には、さまざまな面についての寛容さがあったのです。

 

それが、仏教の二千数百年の流れのなかで、多様な教えや新しい宗祖が数多く出てきたことの理由です。

 

そのすべてをのみ込み、ガンジスの河のように滔々と流れてきたのが、仏教の教えなのです。

 

なかには、仏陀の説いた教えとは逆様のことを説いている場合もあり、川が逆流することまで許していいるようにも見えます。

 

 

Happy Science『大悟の法』 より

 

 

                                   

仏法真理は「真実を知ること」であなたを「幸福へ、健康へ、成功へ」導いてくれるのです。---With Savior(救世主と共に)---

 

                                                 

『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を知りたい方は、Happy Scienceの経典をご参照ください。今日のブログは、Happy Scienceの 『大悟の法』 よりお伝えしています。