こんにちは、ご訪問ありがとうございます。
ココロとカラダの調律師・パーソナルヨガトレーナーAyakoです
今回は、
「信じる」
ということについて
考えてみたいと思います。
生きる上において
「信じる」ということは
大切なことだと思います。
自分を信じる、
友達を信じる、
先生を信じる、
家族を信じる、
会社を信じる、
効果を信じる。
私たちは人であれ物であれ
色んなものを信じて生きています。
(こちらは2012年2月25日のコラムを加筆修正したものです。)
しかし、以前の記事で
「人とは曖昧なもの」というお話と
究極的には相手のことを
「理解できない」ということも
お話しさせていただきました。
【人間とは曖昧なもの】
【「理解できない」ことを理解すること】
そして、人だけでなく
人が作った物や概念も
それを作っているのが
曖昧な「人」なわけですから、
永遠ではありませんし
確実なものでもありませんし
決して絶対的なものではありません。
曖昧でいいかげんで
究極的に理解できないものを
どうやって信じればいいのでしょう。
私たちは「信じる」ということの
「対象」を日常の中では
「プラクリティ」におきがちです。
「プラクリティ」とは
「目に見える世界」であり、
この物質世界の全てです。
空気など肉眼では見えないものでも、
どれだけ小さかろうが
物質は全てプラクリティです。
それが人間が作った物であろうがなかろうが、
そこは関係ありません。
そして、人間の「感情」も
心は目に見えませんが
プラクリティに含まれます。
人間の思いも思考も、
全てプラクリティなのです。
しかし「プラクリティ」は
常に変化し続けています。
ですから、人であれ物であれ
全てのプラクリティは
曖昧で不確かなものです。
その、曖昧で不確かな
プラクリティに対して
信を置くならば、
「常に変化する」
ということのみにおいて
信じるべきだと思います。
動き続けること、働き続けることが
プラクリティの「本質」だからです。
今、どんなに苦しくても、
それはいつか必ず変化します。
今、どんなに楽しくても、
それはいつか必ず変化します。
それがどのように変化するかは
わかりません。
しかし、必ずそれは
永遠に続くわけではないのです。
それが宇宙の法則であり、
真理だからです。
どんな対象であれ、
それを「信じる」ということは、
それそのものの
「本質」
に向けられるべきなのです。
プラクリティの本質は
「働き」
です。
では、人の「本質」は何でしょうか?
それは、
「サット、チット、アーナンダ」
です。
サット=純粋な存在、
チット=純粋な意識、
アーナンダ=純粋な喜び。
これが、私たち人間の本質です。
自分を含めた全ての人の本質が
純粋であること。
その一点においてのみ、
私たちは信じるべきなのです。
そして、全ての「本質」そのものは、
「プルシャ」
です。
人であれ物であれ、
その本質を信じるということは、
プルシャ=神を信じることと同じなのです。
では、その「プルシャ」に対して、
私たちはどのような
「信」を持てばいいのでしょうか。
以前「自分から与える」ことを
テーマにしたコラムの中で、
相手に対し見返りを求めないことと、
相手に与えたものを相手に委ねるという、
「愛」と「信」について
書かせていただきました。
【「愛」に「情」を混ぜるとややこしくなる】
※クリスマスの記事です
この中で「愛する」ということについて
サンスクリットでは
「私の愛は貴方の中にある」
と表現することを
お話しさせていただきました。
「愛する」ということと同じように、
「信じる」ということも、
サンスクリットでは
「私の信頼は貴方の中にある」
と表現します。
つまり、自分の信頼は、
「もう完全に相手に与えてしまっているもの」
なのです。
その、相手に与えた信頼を
相手がどう扱おうが
相手の自由なのです。
そこには一切の取り引きを
挟むべきではありません。
それこそが、絶対的な「信」なのです。
「せっかくあげたのに、
そんな扱い方しないでよ」
とか、
「せっかくあげたんだから、
あなたからもちょうだいよ」
という、
条件をつけたり、
見返りを求めたとしたら、
それは「信」ではないのです。
ですから、真の「信」においては、
「裏切り」などあり得ません。
何らかの見返りを求めた
「期待」であれば、
「裏切り」はあるかもしれません。
しかし、「信」には
裏切りは存在しないのです。
裏切りとは常に
「裏切らないでほしい」
という「期待」に対してあるものなのです。
それはプルシャではなく、
プラクリティなのです。
相手に対して与えたものを、
もし相手が雑に扱って捨ててしまったら、
もちろんそれは残念だと思います。
しかし、相手に与えたものに対して、
本来自分がどうこうできる権利はありません。
既にそれは相手のものだからです。
もちろん、それを相手に与えるときに、
「このように扱ってね」
という条件をつけたり、
「同等のものをちょうだいね」
という取り引きをしたりという、
それが相手と自分の間で交わされた
「契約」
であったならば、
この限りではありません。
そのように「取り引き」したのであれば、
その約束は守られるべきでしょう。
ですが、それはプラクリティですから
永遠ではありません。
いつ状況が変わるかわからないですし、
絶対的なものではありません。
相手を信じることも、
相手を愛することも、
その本質は純粋なものです。
決してそこに
「契約」という取り引きや
条件付けをするべきではないのです。
「取り引き」という、
見返りを求めるエッセンスを混ぜた時点で
純粋ではなくなるのです。
「信」も「愛」も、
見返りを求めず、
ただ相手に与えるものなのです。
与えたものを相手がどう扱うかに対する
「執着」を手放したものなのです。
ですから、もし、
「こんなに信じているのに裏切られた」
と思うことがあれば、
それは自分が信じるものを間違っていたり、
信じ方を間違っていただけなのです。
ただ相手に期待し、
その期待に応えてくれるよう
願っていただけなのです。
真に信じるとは、
その信じた相手が何をしても、
信じた結果が自分の意に添わなくても、
それを否定も肯定もせず、
ただそれを認め、
受け入れるということなのです。
しかし、真に信じるとはどういうことか、
アタマではわかっていても
それを実行することは
とても難しいと思います。
相手を完全に信じることができる人など、
世界にどれぐらいいるでしょうか。
私も、相手に期待ばかりしています。
ですが、まずは自分から
与えなければならないように、
自分から信じなければなりません。
相手から信じられるだけの、
相手の信に足る存在でなければ
なりません。
常に変化し続ける
相手のプラクリティではなく、
不変かつ普遍であり本質である
相手のプルシャを信じること。
もしプラクリティに基づいたものを
信じるのなら、
「必ず変化して絶対ではない」
という前提を忘れてはいけないこと。
そして、本来世界中の全ての人の本質が
「純粋である」
ということを、
純粋に信じたいと思います。
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