本日のコラム☆「『宗教』について」 | 大阪・天満橋 パーソナル/プライベートヨガ専門☆ココロとカラダの調律師・パーソナルヨガトレーナーAyakoのハッピーハーモニーライフ

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ひらめき電球こちらは2012年8月27日にマイベストプロ大阪に掲載されたコラムですひらめき電球

皆さまこんにちは!ご訪問ありがとうございます。
ヨーガインストラクターAyakoです。

今回は、「宗教とは」という、少し難しいテーマを選んでみました。

ヨーガは「実践する哲学」と言われていますが、書物によっては、
「宗教」と書かれていることもあります。

確かにヨーガには、宗教的な側面があります。
しかしこれは、何をもって「宗教」とするかにもよると思います。

一般的に、「宗教」というのは、特定の神を信仰したり、教団の教義にのっとって生活したり、
拝んだり祈ったりすれば神様に助けてもらえる、という印象があるのではないでしょうか。

しかし、それは本当に「宗教」でしょうか?
そもそも、「宗教」とは何でしょうか?
その定義はあるのでしょうか?

疑問に思ったので、調べてみました。

広辞苑の解説
神または、なんらかの超越的な絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰、行事。又それらの関連的体系。帰依者は、精神的な共同社会(教団)を営む。原始宗教、民族宗教、世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)他、多種多様の宗教がある。

宗教学者、岸本英夫による定義
「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり、その営みとの関連において神観念や神聖感を伴う場合が多い」

Wikipediaの説明
宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである

※全てネットからの引用ですので、もし間違いがあれば申し訳ありません。

言葉にすると、なんだかややこしいですね。正直、よくわかりません。
どうも宗教は「集団」としてとらえられることが多いようです。

ですが、本当にそうでしょうか?
集団でなければ「宗教」ではないのでしょうか?

読み方は色々ありますが、「宗」という漢字の意味を調べてみると、
「根本とするもの。おおもと」「中心となるもの。尊ぶべきもの 」というものがありました。

これが、本質に近いのではと思います。

私の「宗教」の解釈は、一般的に言われる「神様云々」ではなく、「宗(たか)い教え」です。
つまり、根本的な真理を説く「尊い教え」は、全て「宗教」と言っていいと思っています。

科学であれ音楽であれ、その分野が何であれ、純粋な「真理」に向かう教えは、
全て「宗教性」を持つと言っていいのではないでしょうか。

ヨーガの教えも真理を説いた尊いものですので、そういう意味では「宗教」であると言えます。

私の思う「宗教」は、純粋に「真理を説いた尊い教え」のみであり、
何か神様を拝むように強要したり、祈れば助けてもらえるというような「取り引き」があったり、
ましてや相手に教義を押し付けたり、相手の信仰を否定するようなものは、
決して本当の「宗教」ではないと考えます。

なぜならそれは、決して「尊い教え」ではないからです。

そして、その「尊い教え」は、集団でしか存在できないようなものではないと考えます。
教えを学ぶかどうかは、完全に個人の問題だからです。

つまり、私の考える「宗教」とは、集団で特定の神様を拝むことでもなく、
お札や像を買えば救われるとか、何らかの取り引きをするものでもなく、
ただ純粋に、尊い教えを学び実践する、個人的思想と活動のことです。

もちろんこれは、あくまで私個人の「考え」ですし、
それ以外の解釈を否定するものではありません。

人それぞれに「宗教とは」という解釈があって、その一つとして、私には私の考えがあり、
こういう考えの人もいる、という参考にしていただけたらと思います。

そして、純粋に「真理」を説いている「宗教」に、悪いものはない、と思います。

なのに、「宗教」が原因で争いが起こっているのは、「宗教」が悪いのではなく、
それをしている「人間」が悪いのです。

自分の都合のいいように教えを曲解したり、自分の利益を得るために利用したり、
私利私欲のために、その宗教をおとしめているだけにすぎません。

「真理」は、それを強要することはありません。
「真理」は、何かを否定することはありません。

それを理解していない「人間」が、自分の信じるものだけをよしとし、
それ以外のものを否定し、それを相手に強要するのです。

しかしそれは、「宗教」=「尊い教え」に反することなのです。

「宗教」とは、みんなが信じるから私も信じる、というものでもなく、
一つの教義を絶対として、それ以外のものを否定するものでもなく、
教祖の言うことを鵜呑みにし、盲目的になることでもなく、
自分にとっていいからと、相手を強引に勧誘するようなものでもなく、
拝めば神様が助けてくれる、というようなものでもなく、
ただ純粋に、根本の真理を説く「教え」なのです。

「尊い教え」という意味においては、ヨーガには「宗教性」がありますし、
実際に神を称えるマントラを唱えたり、シヴァ神などに祈りを捧げる流派もありますが、
感覚として、言葉で表現するならば、「宗教」というよりは、
やはり、「実践する哲学」と言った方がしっくりくると思います。

実際には、どんな「分別」をしようが、ヨーガがヨーガであることには変わりませんし、
「哲学」と呼ぼうが「宗教」と呼ぼうが、あくまで「ヨーガを他の言葉でどう表現するか」
というだけのことではあるんですけれど。

私自身は、「本質を説く教えとしての宗教」は素晴らしいと思っていますし、
誰かが宗教をしていれば、それを尊重はしますが、
一般的に言われている、神様を拝むものや、儀式や形式や階級にこだわるようなものや、
また、お札や何かを買えば幸せになれるというような「宗教」は、あまり好きではありません。

「宗教の本質」と、「宗教をしている人」と、
「宗教の形をした金儲け」は、全て違う、ということです。

どんな宗教であれ、それを他者に「強要」したり、他のものを「否定」したり、
また「欲」に基づいたものであれば、それはもう、真っ当な宗教ではないと思います。

自分に良いものだからといって、相手にも必要なものとは限りませんし、
本当に相手に必要なものであれば、無理強いなどしなくても、自然に受け入れられるものです。

何かが自分にとって大切だからといって、他のものを否定する理由にはなりませんし、
その他のものを大切にしている誰かを、否定していいわけでもありません。

そして、人の不安や欲望につけこんで物を買わせたり、高額なお布施を請求したり、
また、そうしなければ不幸になるといって脅すような、「お金」を目的としたものは、
決して宗教ではありません。

そこには、「尊さ」が微塵もないのです。
尊くなければ、それは宗教ではないのです。

世の中には、たくさんの宗教があります。
日本にも、古くから神道があり、仏教も根付いています。

「宗教をしていない」という人でも、お正月には初詣に行ったり、お盆にお墓参りに行ったり、
宗教とは意識せずに、お寺や神社に日々自然にお参りしているのではないかと思います。

本来「宗教」とは、何か堅苦しいものや、無理矢理やらされるようなものや、
ことさら強調してするものでなく、日々の中に、自然にあるものではないでしょうか。

何かの教団や、宗派や流派に属してるとか属してないとかでなく、
何教だとか、人種だとかの違いに関係なく、
誰の根底にも、自然を敬う心があり、真理を求める心があり、宗教性がある。

身近にありながら、深く考えることのない「宗教」ということについて、
自分自身の「宗教性」について、一度見つめていただけたらと思います。

自分自身のあり方や精神性、考え方について、より深く理解できる手がかりとなると思います。



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いつも良い考えに恵まれますように音譜
素敵な言葉が生まれますようにキラキラ
いつも心が優しさで満たされていますようにラブラブ
皆様の毎日が、幸せでありますようお祈りしていますクローバー

最後までお読みいただき、ありがとうございましたニコニコ