先日の仕事帰りのこと。

 

先輩スタッフと一緒に駅まで歩いていたら、

「すみません……」と、

若いお兄さんが声をかけてきました。

 

何かしら?

 

まさかナンパじゃないでしょう(笑)

 

水商売のスカウト?

キャッチセールス?

宗教勧誘?

 

宗教勧誘だったら私も負けないわよ!

 

心ひそかに臨戦スイッチを入れる私に、

お兄さんはこう言いました。

 

「この近くに、すぐにトイレを借りられる所はありますか?」

 

それは大変だ∑(゚Д゚)

 

「ここからなら、そこの駅に行くのが確実だと思いますよ。

 たしかコインロッカーの横にトイレもあったはず……」

と答えて、お兄さんとは別れました。

 

 

 

 

お兄さんのトイレが間に合うことを切に祈りつつ……

 

トイレを探すのって、神様を求めるのに似てると思いました。

 

本当に切羽詰まって、

自力ではどうしようもなくなってから、

やむなく救いを探し回るんだよね。

 

そして無事にトイレを見つけたら喜び、

トイレの中では救われた感謝が止まらない。

 

 

まだ何も感じていない人は、

トイレのことなど眼中にない。

トイレに行くことを嘲る者すらいる。

 

学校のトイレでウンコしづらい問題も、

生理的にはたいへん深刻なことですね。

 

しかし大小の排泄の必要を感じるや、

誰でも頭の中は「トイレに行きたい」でいっぱいになる。

 

ウンコするクラスメイトを笑ってた子も、

自分がその立場になったら

悔い改めてトイレに行くでしょう。

 

まして外出先ならなおさら。

救いのトイレを必死で探すわね。

 

通りすがりの人にトイレの場所を尋ねるって、

けっこう勇気要ると思うけど。

あのお兄さんはそれだけ必要に迫られていたのでしょう。

 

必要は信仰の母ですね!

 

キリスト者の信仰生活に努力はいらない。


お腹いたくてウンコ漏れそうなときに

トイレの個室を確保できたなら、

もうそこから出られないのと同じ。

 

いったんイエス・キリストの救いを知ったなら、

もう二度と神様から離れられない。

 

私はトイレがない生活に耐えられない以上に、

キリストの救いがない生き方には耐えられない。

 

だからイエス様は、それぞれのタイミングで、

私たちと出会ってくださるのかもしれない。

 

便意を感じてない人にキリストの救いを話しても、

聞き流されてしまうから。

当人が魂の便意に気づいて慌てるまで待ってるのかも。

 

キリスト教では、

クリスマス前の4週間をアドベント/待降節というようです。

今年は11月27日(日)がアドベント初日です。

今がまさにアドベント期間です。

 

キリストの誕生を待つアドベントは、

救いのトイレを探し回る苦しい期間であり、

救いの必要を自覚する悔い改めの期間なんだろうとも思います。

 

 

 

 

キリスト業界では、

神様の救いを求める人を、

「魂の飢え乾きを覚える」

と表現することが多いようです。

 

命のパンと水をイエス・キリストからいただく。

魂の飢え乾きを満たせるのは神様だけ。

たしかにそれは正しい。

 

しかし私たちの魂は、

魂の飢え・渇きを満たすという

インプットの必要だけでなく。

 

魂に蓄積される汚物を排出する

アウトプットも同じだけ必要だと思います。

 

口から食べたり飲んだりした分だけ、

必ず大小のものを外に出すじゃないですか。

 

出すべきものを出さない、出せないのは

死に至る難病です……

 

魂のアウトプットは、

良きものなら世に出して貢献したらいいし。

 

ネガティブな嘆き、悲しみ、怒りなどは

神様と二人きりのところで、

神様にだけ吐きだしたらいい。

トイレの個室なんかまさにぴったりの場所だよね。

 

冗談抜きで、自宅のトイレに聖書を常備するのもおすすめです。

トイレ内に聖書の言葉カレンダーをかけとくのもいいですよ。

生理的必要と魂の実益を同時に満たせます。

家族伝道手段としても◎

 

 

 

聖書でも、「神様に心を注ぎだす」という表現が何度か出てきます。

 

たとえば詩編。

 

 民よ、どのような時にも神に信頼せよ。

 御前に心を注ぎ出せ。

 神は我らの逃れ場。〔セラ

 

 ――旧約聖書『詩編』 62編9節

 

 

詩編62編は、「神に向かって沈黙せよ」という一方で、

心を注ぎ出せ」ともいってるのが面白いですね。

 

神様の前で沈黙するのも、

心を注ぎだすのも、

共通するのは「神様を信頼する」です。

 

神様の前で沈黙するのは、

神様の救いを信頼しているから。

 

神様に心を注ぎだすのも、

神様の包容力を信頼しているから。

 

 

人前では、いろいろマナーを守って、

自分のことを我慢しなきゃいけない場面もあります。

 

しかし神様の前では、我慢してはいけない。

神様に対して我慢するのは、不信仰の罪です。

 

×「神様に言ってもムダ」

×「これを神様に言ったら怒られる」

×「こんな醜い本心を打ち明けたら神様に嫌われる」

 

↑謙遜に見えて、実は不信仰。

神様を信頼していないから。

 

トイレを我慢するのは愚かです。

神様を求める心を我慢するのはもっと愚かです。

 

我慢は罪!

神様の前では我慢しないで、

出したいものはぜんぶ出しましょう。

 

× 神様に言ってもムダ

◎ 神様に隠してもムダ

 

どうせ神様にはぜんぶバレてるんです。

バレバレなんだから、我慢する意味がありません。

無意味な我慢はやめましょう。


悩み相談、罪の告白、愚痴、八つ当たり……

人には言えないことも、

神様には何でもうちあけてよいのです。

 

その点、まじめなキリスト者よりも、

私のようにふざけたキリスト者の方が、

神様に遠慮なく心を注ぎだしやすいんだろうと思います。

 


神様の救いを求めている人に、

あれこれ条件・制約・関門を設ける宗教があります。

トイレの入り口で通せんぼをしてるのと同じです。

ぜったいに許せない、悪魔の手先です。

 

カルト宗教だけでなく、

教義的に正統なキリスト教会でも、

トイレの入り口で通せんぼをするような教会文化を

大事にしてる場合がある。


頑迷な宗教者は、

自分がトイレに入らないばかりか、

トイレに行きたい信徒をも入らせない。

 

トイレを我慢しながら、

神様に感謝と賛美だけを捧げたとして。

それを神様が喜んで褒めてくださるのでしょうか。

 

「早くトイレに行きなよ。

 すっきりしてから賛美と感謝を聞かせてよ」

 

私だったらそう思う。

我慢しながら何かをしてほしくない。

大切な人ならなおさらです。

 

芸能アイドルはトイレに行かないらしいけど。

キリスト者は堂々とトイレに行くべきです。

そして神様の前にも堂々と出ていって、

どんなくだらない心でも注ぎだしていきましょう。

 

 

 

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