マタイ福音書の2章後半。

イエス・キリストの出身地が、

ガリラヤ地方のナザレになった経緯が書かれています。

 

幼子イエスを殺そうとするヘロデ王から逃れるため、

父ヨセフ、母マリアは、イエスを抱えてエジプトで難民生活をし、

ヘロデ王の死後、再びイスラエルに戻る。

 

2章の最後はこう締められてます。

 

 そこで、ヨセフは起きて、

 幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。

 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いで

 ユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。

 

 ところが、夢でお告げがあったので、

 ガリラヤ地方に引きこもり、
 
ナザレという町に行って住んだ。

 「彼はナザレの人と呼ばれる」と、

 預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 

 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 2章21-23節

 

 

アラビア語聖書では、

「ナザレ」という地名は「ناصرة ナースィラ」。

「勝利」という意味です。

 

だから、預言者たちがメシアについて言った

「ナザレの人」は、「勝利の人」って意味になりますね。

 

私は聖書辞典の類はもっていませんから、

原語のヘブライ語でも、

「ナザレ= 勝利」かどうかは存じませんが……

 

少なくとも、アラビア語聖書の読者には、

新約聖書の序盤で、

イエスが「ナザレ人/勝利者」であることが分かります。

その方が、聖書を読み進める上では都合がいいと思います。

 

聖書がいう「勝利」は、この世の生存競争に勝つとかじゃなくて、

「死を滅ぼす勝利」、「命の勝利」のことだから。

 

イエスが十字架刑で死に、3日目に復活する。

「罪の結果である死」を、イエスが引き受けてくれたことで、

私たちすべての人は、復活の主イエスの命を生きられる。


福音書序盤で「ナザレ/勝利」のイエスと意識しておけば、

終盤の十字架刑~イエス復活の流れが、

よりスムーズに受けとりやすくなると思いました。

 

 

アラビア語聖書の翻訳者は、

わざわざ町の名前を「ナースィラ/勝利」と括弧でくくってます。

しかも文末にはびっくりマーク!をつけてる。

聖書読者に、「勝利」という地名を意識してほしいのでしょうね。

(※ アラビア語は右から左に読む)

 

ナザレ = 勝利

 

これを前提に、新約聖書を読むと、

なるほどと納得できる箇所が増えておもしろいです。

 

たとえば、マルコ福音書1章。

イエスに追い出された悪霊のセリフに注目。

 

 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。

 

 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。

 我々を滅ぼしに来たのか。

 正体は分かっている。

 神の聖者だ。

 

 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

 

 ――新約聖書 『マルコによる福音書』 1章23-26節

 

雑魚レベルの悪霊ですら、

イエス・キリストの正体をよく知ってるんだなあと、

いつ読んでも感心してしまいます。

 

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。」

 

悪霊は、イエスの出身地の話をしてるんじゃない。

イエスが「勝利のイエス」だと言ってるんですね。

 

イエスは神の聖者にして、勝利のイエスだから、

悪霊はイエスに滅ぼされるしかない。

 

 

イエスが十字架刑になった際、

ローマ総督ポンテオ・ピラトは、

十字架にこんな銘板を付けさせましたね。

 

 

「ナザレのイエス ユダヤ人の王」

 

ポンテオ・ピラトは、ユダヤ宗教エリートへのあてつけとして、

そういう銘板をつけたつもりでしょうが。

結果として、「イエスは十字架刑の死に勝利するユダヤ人の王」

という預言板になってしまいました。

 

(関連記事)

 

 

『使徒言行録/使徒行伝』の3章、ペテロの言葉も、

「ナザレ = 勝利」と読めば、合点がいきます。

 

イエスの直弟子だったペテロとヨハネが、

足の不自由な物乞いにかけた言葉です。

 

 ペトロは言った。

 「わたしには金や銀はないが、

 持っているものをあげよう。

 ナザレの人イエス・キリストの名によって

 立ち上がり、歩きなさい。」

 

 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。

 すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
 躍り上がって立ち、歩きだした。

 そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、

 二人と一緒に境内に入って行った。

 

 ――新約聖書 『使徒言行録』 3章6-8節

 

私はいつもペテロの言葉にひっかかってました。

どうしてイエス・キリストに、

「ナザレの人」という出身地名をつけるのかなって。

 

イエスという男性名がけっこうありふれてるから、

他のイエスさんと混同しないために、

「ナザレ村出身のイエス」と言ってるのかな?

と思ってました。

 

しかし、「ナザレ = 勝利」ならば。

 

「勝利の人イエス・キリストの名によって

 立ち上がり、歩きなさい。」

 

ああ、それならスッキリわかる。

 

すべての人の罪をひきうけ、

死に勝利したイエス・キリストの名で命じるからこそ、

足が不自由な人を癒せたわけですね。

 

この当時は、イエスの復活・昇天から、

まだそんなに月日が経ってない時期でした。

だから「イエス・キリスト」というだけでなく、

「ナザレの人/勝利の人」という説明も添えたのかなと思いました。

 

とにかく、聖書に「ナザレのイエス」と出てきたら、

単に出身地の話をしてると思わず、

「勝利の人」という意味も加味して読むのがお勧めです☆

 

 

 

キリスト教会の、毎週日曜日の礼拝と、

春のイースター/復活祭は、

復活の主イエス・キリストを記念していますね。

死に勝利したイエスです。

今年は4月4日ですね。

 

異端・カルトと呼ばれる宗教は、

イエスの復活を認めないか、

イエスはたしかに復活したけどまだ不完全などと言うようです。

 

たとえばエホバの証人は、

イエスの死と復活は認めるが、

イースターを祝うのは認めないと公言してます。

理由は、イースターの元は異教の春分祭りだから……らしい。

 

イースターの趣旨を勘違いしてるから、

そういう発想になるんですよね。

 

クリスマスもイースターも、

イエス・キリストと私たちの絆を深めるための祝祭です。

 

 × 日付を記念する

 

 ◎ 出来事を記念する

 

日付はどうでもいいのです。

 

クリスマスは、イエスの誕生日に注目するんじゃなくて、

イエスが人間の世界に来て、私たちと出会ったという事実に注目する。

 

イースターは、イエスが復活した日付に注目するんじゃなくて、

イエスが死から復活して今生きておられる事実に注目する。

 

イエス・キリストを生ける神と信じて従う者には、

毎日がクリスマスで、毎日がイースターです。

毎日イエスと出会い、毎日イエスの命をいただいているから。

 

ただ、キリストを信じる者どうしがあつまって、

合同でクリスマスやイースターなどを記念したい場合は、

参加者にわかりやすい日付を設定しておくのが便利です。

 

クリスマスは冬至の後。

イースターは春分の後。

普段の礼拝は日曜日。

節目としてわかりやすいし便利だから、それでいいと思います。

 

永遠の命であるイエス・キリストを前に、

祝祭の日付を論じるのは無意味ですね。

 

復活の主イエス・キリストは、

昨日も、今日も、永遠に変わらず、

私たちと共にいてくださる、命の主です。

 

イエスにまつわる日付ではなく、

ナザレ/勝利のイエスご本人を見つめて、

今日も明日も歩んでいきたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 

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