前回の続きです。

 (前回) 【マタイ27章】 選択には責任が伴う … 裏切り者のユダより悪質な群衆(レギオン)

 

今回も、選択責任について、マタイ27章から見ていこうと思ってましたが……

『マタイ福音書』より『ヨハネ福音書』のほうがより詳しいし、

この人を見よ エッケ・ホモ」という有名なピラトの言葉も載っているので、

今回はヨハネ19章をメインにみていきたいと思います。

 

【今回のもくじ】

 
・ 福音書ごとに、異なる個性と視点とテーマがあります
・ 「この人を見よ」 己の選択責任を自覚せよ
・ 自分で選択しているようでも、実は神に誘導されている
・ 「見よ、あなたたちの王だ」 ユダヤ人の王を支持するピラト
・ 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 全世界に宣伝するピラト
・ これでいいのだ
 
***************************
 

■ 福音書ごとに、異なる個性と視点とテーマがあります

 

イエスの十字架刑にまつわる出来事は、

新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四書)で、

それぞれの視点から語られています。

内容が共通している部分もあれば、異なる部分もあります。

 

同じ出来事なのに、福音書ごとに伝える内容が異なるのは、

福音書に書かれている出来事が創作ではなく、事実だった証拠だと思います。

 

ほんの少しでも、ものを書く作業をしたことがあれば、わかります。


・どの目撃者に取材し、どの目撃証言を採用するかによって、
 現場レポートの内容が異なってしまう。

・人間の記憶はいい加減で、自分にインパクトのある部分しか覚えていないうえに、

 その記憶ですら無意識に脚色されてしまっているから、
 現場に居合わせた者どうしの証言内容が食い違うことは珍しくない。

・著者の個性、想定している読者層、伝えたいテーマによって、レポート内容が左右される。

 

たとえば『マタイ書』はユダヤ人向けだから旧約聖書の引用が多いとか、

ギリシア人ルカが記した『ルカ書』は非ユダヤ人向け(日本人向け)などと言われます。

現代でも、メディアごとに記事内容・傾向が異なっているのがあたりまえですよね。

 

イエスが十字架刑につく前後の経緯を知りたければ、

四福音書それぞれを見ていく必要があって、ちょっと面倒くさいです(笑)

でも、同じ場面を4つの視点から見ることで、

よりリアルに立体的に考えることができるメリットもあります。

 

神は唯一、イエス・キリストは一人、福音も一つですが、

それを実感する経緯は人それぞれだし、それを伝える方法も人の数だけあります。

神様は、「みんな同じ」を求めていないのです。

 (参考) 「私はロボットではありません」… 神は人間に個性と自由意志を与えた。

 

今の時代にも、神を信じた人の心の中では、

現在進行形で、その人独自の福音書が綴られ続けているはずです。

それを自覚するか、表に出すかは別としても。

 

私がこのブログの「神と聖書と日ユ同祖論」で書いていることは、

『KAZによる福音書』なのかもしれません……あんまり値打ちなさそうな書だけど(^_^;)

きっと神様は喜んでくれていると信じて、今回も書いていこうと思います。

 

■ 「この人を見よ」 己の選択責任を自覚せよ

 

『マタイ福音書』では、イエスの公開裁判の場面はわりとあっさり書かれていますが、

『ヨハネ福音書』は、総督ピラトの様子をかなり細かく記しています。

 

「メシアのイエスではなく、囚人バラバを釈放しろ」と、

ユダヤ群衆から要求されたピラトの言動に注目してみましょう。

 

【ヨハネによる福音書 19章】  ※丸括弧は節番号

 

 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 (1)
 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、 (2)
 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。 (3)

 

 ピラトはまた出て来て、言った。

 「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。

 そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 (4)

 

 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。

 ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 (5)

 

 祭司長たちや下役たちは、

 イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。

 

 ピラトは言った。

 「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。

 わたしはこの男に罪を見いだせない。」  (6)

 

 ユダヤ人たちは答えた。

 「わたしたちには律法があります。

 律法によれば、この男は死罪に当たります。

 神の子と自称したからです。」  (7)

 

 

ピラトが群衆に言った見よ、この男だ」(5)という言葉は、

後世のキリスト教徒に大きなインパクトを与え続けたようです。

 

ラテン語聖書では「エッケ・ホモ、ECCE HOMO」と訳され、

「エッケ・ホモ」というタイトルの西洋絵画がたくさんあります。

日本語では「この人を見よ」という訳語が定着しています。

 

ともかく総督ピラトは、聞き分けのない群衆をいさめたかったのでしょう。

ピラト自身が、イエスを直接尋問しましたが、イエスに罪は見出せなかった。

イエスが無実であることを群衆に理解させるために、

ピラトは「この人を見よ」と、イエスを群衆の前にさらした。

 

ピラトが期待したのは、ただ単にイエスの姿を見てもらうことではないですね。

イエスの姿を見ることで、群衆が自問して、我に返ること……

自分がいったい何を選択しているのか、その結果どういうことになるのか、

冷静に考え直すようにと、ピラトはうながしているわけですね。

 

「イエスを十字架につけろと言う自分は、本当に正しいだろうか?」

 

イエスの姿を見て、そう自問できる人なら、

「囚人バラバを釈放しろ」「イエスは十字架刑にしろ」と叫んだことを、撤回するはず。

ほんの少しでも罪の意識があれば、この場面でイエスを直視できないと思います。

実際に罪を自覚して、その場から黙って立ち去った人も何人かはいただろうと思います。

 

でも、ピラトの期待は空振りに終わりましたね。

 

 祭司長たちや下役たちは、

 イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。(6)

 

無学な庶民ならまだしも、ユダヤ人の指導的立場にある祭司長や下役たちが、

しっかりイエスを見たうえで、「十字架につけろ」と叫んでいる。

 

前回記事でも解説しましたが、

霊的な死人は、神から与えられた無二の「個」としての命がないゆえに、

自分の罪を自覚できません。

霊的に死んでいるから、彼らの魂には神の息がなく、神由来の良心もはたらかない……

 

 ……彼の前に、神への恐れはない。
 自分の目に自分を偽っているから

 自分の悪を認めることも

 それを憎むこともできない。

 

 彼の口が語ることは悪事、欺き。

 決して目覚めようとも、善を行おうともしない。

 

 床の上でも悪事を謀り

 常にその身を不正な道に置き

 悪を退けようとしない。

 

 ――旧約聖書 『詩編』 36編1-5節

 

当時のユダヤ宗教エリートも霊的死人でしたから、

「この人を見よ」という勧告の真意を察することもできず、

ただ物理的にイエスを見ただけでした。

あるいは、己の罪を認めたくないために、

無意識に真意を察することを拒んだのかもしれません。

 (参考) 御神体のカガミ(鏡・神我見)… 神と顔を合わせる安心感と、気まずさと。

 

彼らの心理事情がどうであれ、

イエスを凝視して「十字架につけろ」と叫べるマインドが怖いですね。

 

その点、総督ピラトはローマ人で、神ヤハウェなど信じていなかったと思いますが、

無実のイエスを十字架刑にすることは、どうにか回避しようと努力しています。

非ユダヤ人のピラトには良心が生きていた、霊的死人ではなかった。

 

■ 自分で選択しているようでも、実は神に誘導されている

 

良心が生きていたピラトは再びイエスを尋問し、群衆に再考をうながします。

まずピラトとイエスの会話を見てみましょう。

 

 ユダヤ人たちは答えた。

 「わたしたちには律法があります。

 律法によれば、この男は死罪に当たります。

 神の子と自称したからです。」  (7)

 

 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 (8)
 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。

 しかし、イエスは答えようとされなかった。 (9)

 

 そこで、ピラトは言った。

 「わたしに答えないのか。

 お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、

 このわたしにあることを知らないのか。」  (10)

 

 イエスは答えられた。

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。

 だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 (11)

 

 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。 (12)

 

総督ピラトの裁量次第で、イエスを釈放することも十字架につけることもできる。

人間の目にはそう見えるし、ピラト自身もそう考えていたわけですね。

 

これまでにもピラトは、総督として重要な決定をするたびに、

「決定権は自分にある」 「これは自分が選択したことだ」 「自分の思い通りだ」

という満足感と責任感を、多少なりとも意識していたはずだと思います。

そういう人物でなければ、総督にはなれないでしょうし。

だからピラトにとって、群衆の要求に屈した選択をする(無実のイエスを死刑にする)

という状況は、総督としてのプライドが傷つく不愉快事です。

 

ピラトは、イエス本人から無実の証言を引き出したくて、再尋問したのでしょう。

お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにある(10)」と、

イエスに対してピラトの権限をアピールしています。

「あなたが無実なら無実だと言いなさい、そうすればわたしの権限で釈放してあげよう」

ということですね。

 

しかしイエスは自己弁護をしないで、ピラトに霊的真相を語ります。

神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。

 だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。(11)」

 

ピラトが総督の地位にあるのも、その日にエルサレムにいたのも、

イエス裁判に巻き込まれたのも、すべては神の采配によるもの。

「権限はこのわたしにある」とピラトが言う、その権限は、神が与えたもの。

ピラトは自分の意志でなにかを選択したつもりでいても、

実は神にそのように誘導されている、選ばされている。

 

ピラトがイエスの言葉の霊的真意をどの程度理解したかは不明ですが、
とにかくイエスは無実だという確信は得たようです。
これまでにも多くの裁判をして、いろんな人を見てきた経験から、
イエスが一般の人とは何か違うということを感じ取ったのかもですね。
 
■ 「見よ、あなたたちの王だ」 ユダヤ人の王を支持するピラト

 

イエスを尋問した後、ピラトは再びユダヤ群衆に勧告します。

 

 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。

 しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。

 「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。

 王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」  (12)

 

 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、

 ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 (13)
 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。

 

 ピラトがユダヤ人たちに、

 「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 (14)

 彼らは叫んだ。

 「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」

 

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、

 祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 (15)

 

 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 こうして、彼らはイエスを引き取った。 (16)

 

「この人を見よ(5)と言ったピラトが、もう一度念押ししてますね。

「見よ、あなたたちの王だ(14) と。

 

「見よ、あなたたちの王だ」という言葉は、

この人を見よ」とはまた別の、重要な意味をもっています。

 

この騒動の5日前、イエスがエルサレムに入城した際、

イエスは『ゼカリヤ書』の預言内容を成就させるために、あえて子ロバに乗りました。

 (参考) 子ロバに乗るキリスト … スーパースターじゃない、humble(謙虚、質素)な救い主メシア

 

 娘シオンよ、大いに踊れ。

 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

 見よ、あなたの王が来る。

 彼は神に従い、勝利を与えられた者

 高ぶることなく、ろばに乗って来る

 雌ろばの子であるろばに乗って。

 

 ――旧約聖書 『ゼカリヤ書』 9章9節

 

イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入ったのは、

暗に「私がゼカリヤ書に預言されている王だ」と自称しているようなものです。

預言書に精通している宗教エリートは、きっとその意味がわかったはずです。

だからユダヤ群衆にこう叫ばせています。
 

 しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。

 「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。

 王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」  (12)


総督ピラトはユダヤ教には関心がないし、ゼカリヤ書の内容も知らなかったはずです。

なのに、ピラトはまったく自覚なしに、

「見よ、あなたたちの王だ」(14)と、ゼカリヤ預言を支持しています。

 

ユダヤ人たちが、イエスを王として認めない一方で、

非ユダヤ人のピラトが、「イエスはユダヤ人の王である」と、

ユダヤ群衆の前で強調しているのが滑稽というか……逆ならわかるのですけれどね。

 

さらにピラトは、イエスをユダヤ人の王と認めないユダヤ群衆に反論しています。

 

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、

 祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 (15)

 

ユダヤ宗教エリートたちは、かつてイエスに、

「ローマ皇帝に税金を納めるのは、ユダヤ律法にかなっているか否か」と、

意地悪な問いかけをしたことがありました。

この時のイエスは、銀貨に皇帝の肖像が刻印されているのだから、

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(税金を納めてよい)と答えて、

質問者を黙らせています。

 

この意地悪な質問の背景には、ユダヤ人の選民思想があります。

 

【ユダヤ選民思想】

 

・神ヤハウェが我らユダヤ人(イスラエルの民)を選んで神の民とした。

・神ヤハウェのみが我らを支配する王である。

・ローマ皇帝という非ユダヤ人の王に従って税金を納めるのは、

 神ヤハウェに背く罪だ。

 

 王権は主にあり、主は国々を治められます。

 ――旧約聖書 『詩編』 22編29節

 

しかしイエスの公開裁判の場面では、

ユダヤ群衆は神の選民であることを都合よく忘れ、

わたしたちには、皇帝のほかに王はありませんと、平気で叫びます。

 

ローマ皇帝直下のピラト総督は、イエスを「ユダヤ人の王」と認めているのに、

神の選民ユダヤ人は、「ローマ皇帝のみがユダヤ人の王」だと答えているわけです。

ちぐはぐですね。

 

イエスを釈放したいというピラトの努力はまったくムダに終わってしまいました。

 

 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 こうして、彼らはイエスを引き取った。 (16)

 

しかし……

 

あきらめたらそこで試合終了ですよ。

 

という天の声を聞いた(であろう)ピラトは、

裁判試合には負けてしまったものの、人間勝負で挽回することを考えました。

 

■ 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 全世界に宣伝するピラト

 

結局イエスは十字架刑を受けることになりました。

ピラトにしてみれば、ユダヤ宗教エリートの策略にはめられたことになります。

 

当時の全世界を治めるローマ帝国の総督たる者が、

被支配地域の宗教者ごときに利用され、ピラト自身の希望を貫けなかった状況は、

たいへん不愉快で悔しいことだったでしょう。

誰だって、他者にはめられて何かを「選ばされる」というのは、

とても後味の悪いことですよね。

 

ここでピラトが、ユダヤ宗教エリートに復讐をします。

 

 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。

 それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。 (19)

 

 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、

 多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。

 それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。 (20)

 

 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、

 「『ユダヤ人の王』 と書かず、

 『この男は 「ユダヤ人の王」 と自称した』 と書いてください」

 と言った。 (21)

 

 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 (22)

 

ユダヤ宗教エリートに対する、ピラトの嫌がらせ、あてつけですね。

 

ピラトはイエスの信奉者ではありませんでしたが、敵の敵は味方といいます。

こうなったらとことんイエスの味方をして、イエスをユダヤ人の王と宣伝することで、

ユダヤ群衆を悔しがらせてやろうと考えたのでしょう。

 

イエスの十字架刑の場面を描いた宗教絵画には、

罪状書きの札に「 INRI 」と書かれているものがあります。

INRI は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」のラテン語の頭文字、

IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM のことです。

 

(ヨハネの福音書)https://www.youtube.com/watch?v=ldh60QOHlww

 

イエスの十字架の頭上に、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と罪状書きを掲げる。

しかも3か国語で併記するという親切さ。

ピラトは国際感覚にもすぐれた人だったのでしょう。


 ヘブライ語 … ユダヤ人

 ラテン語 …… ローマ人

 ギリシア語 … ギリシア人

 

当時はギリシア・ローマ文化が花盛りの頃です。

「すべての道はローマに通ず」の時代。

ラテン語とギリシア語は、ローマ帝国の第一言語と考えていいです。

 

この日のエルサレムは、ユダヤ人最大の祝祭である過越祭の前夜でした。

過越祭は日本のお正月で、その前夜は大晦日みたいなイメージです。

ユダヤ人以外にも、多くの外国人がお祭りの見物でエルサレムに来ていたようです。


たとえば、今回は取り上げませんでしたが、

キレネ人シモンという外国人は、たまたまそこを通りがかっただけなのに、

無理やりイエスの十字架を共に担がされるという、とばっちりをうけました。

(後にキレネ人シモンはイエスを信じ、キリスト教界の重要人物になったようです。)

 

エルサレムに、一年でもっとも多くの外国人が訪れているであろう日だからこそ、

ピラトが掲げた3か国語の罪状書きは、外国人観光客へのおもてなし……ではなく、

ユダヤ群衆への痛烈なカウンター攻撃になります。

 

十字架刑の騒ぎと、その罪状書きを見た外国人たちは、

きっと帰国後に、その出来事を土産話にするでしょう。

 

「そういやエルサレムのお祭りで、十字架刑になった人がいてね、

 罪状書きが 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 になってたんだよ。

 何のことだろうね?

 ユダヤでクーデターでもあったのかな?」

 

こういう世間話が、イエス復活後にキリストの福音を広める伏線になるわけですね。

私は個人的に、神はこういう手段をよく使う御方だという印象があります。

 (参考) 神の言葉の種 … 悪魔のウンコとダークホースが、神の言葉を拡散する。

 

ピラト自身は、ユダヤ宗教エリートに嫌がらせをしたかっただけなのに、

全世界に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という福音宣伝をしてしまったことになります。

ピラトは自分の意志で(しかも幼稚な対抗意識でもって)反撃したつもりで、

神に踊らされていたわけですね。

 

ユダヤ宗教エリートは、罪状書きの内容にアホくさいクレームをつけます。

ナザレのイエスは「ユダヤ人の王」ではなくて、「自称ユダヤ人の王」にしてくれと。

総督ピラトはニヤリとしたでしょう。

 

 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 (22)

 

お前たちの指図など受けない、わたしがお前たちの支配者だ。

わたしはわたしの思うままに事をなす!

 

ピラトはそうアピールしたかったのでしょう。

イエスを巡る裁判試合に負けたピラトは、

ユダヤ宗教エリートを悔しがらせるという人間勝負には勝利したのでした。

 

しかし霊的に見るなら、ピラトが「わたしが書いたもの」と思っている内容は、

実は神に書かされたものです。

神が書いたものは、書いたままにしておけ」ということです。

 

ユダヤ宗教エリートも、総督ピラトも、

自分たちの我を押し通して実現したつもりでいましたが、

最終的には神の総取りなのですね。

 

 人は心に自分の道を考え計る、
 しかし、その歩みを導く者は主である。

 ――旧約聖書 『箴言』 16章9節

 

人が最上だと思っている計画でも、神から見ればそうではない。

神はそれをはるかに上回ることを計画されている。

「すべて自分の思い通り」とほくそ笑む人を、神はそのまま泳がせて利用する……

 

■ これでいいのだ

 

最終的に、すべてが神の思うままになるのだとしても、

そのプロセスとして、人間が自発的になにかを選ぶことは必要です。

 

神の業は、人の働きをとおしてあらわれる……

ふつうの日常の営みの中に、神の手がまぎれこんでいる。

 

私について言えば、今回記事は、エッケ・ホモについて触れた後は、

アリマタヤのヨセフとニコデモの話を進めるつもりでした。

なのに、なぜだかポンテオ・ピラトの主役回になってしまいました……

それが今回の神様のご計画だったということでしょう。

 (参考) 見えているのに、見えていない。… 人を錯覚から解放して、真実に導く神

 

これまで私は、ピラトというキャラにはぜんぜん興味が無かったのですが、

書きはじめると、いろいろ見えてくるものがあって面白かったです。

私が当初書くつもりだったことに固執していたら、
こういう気づきも発見もなかったでしょう。
だから私の思い通りにいかなくてOKなのです。
 
もともと書く予定だったことは、次回以降に書くつもりです。
ただしインシャーアッラー(神の御旨ならば)。
 
次回に続く↓
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
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 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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