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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)老人ホームというのはどういうイメージだろうか。

一つは終の棲家として穏やかに暮らせるイメージ。人それぞれだろうが、一人で穏やかに老後を暮らしたいという人のいれば、友達に囲まれて賑やかに暮らしたいと思う人もいるだろう。

 

そして介護が必要であればその世話を24時間してくれるという事。これにより清潔な状態で過ごすことが出来る。

 

私も年を取ったら入る事になると思っている。

そこで個人的希望はその時にならないと出てこないだろうが、何かと不自由なとか不便とか「不」が無いようなところに行きたいとは思う。

 

(2)施設の立場から考えれば

施設の側から見れば、その時の状況にもよるだろうが第一には「生活をさせる場」である。そして第二は「安全の場」であり、個人の価値観による「生き甲斐」などは二の次という事だろう。

 

つまりは施設運営が原則であり、「共同生活」という概念が強い所も多い。そうすると我儘で、和を乱す人には退去してもらうという選択肢も当然ある。高齢者の中にはとにかくトラブルを起こす人もいるからだ。

 

そもそも客と従業員との関係は、暴力を振るわれてもやり返せない関係にある。何をされても泣き寝入りで、高齢者にはちょっとした注意するだけというのも当たり前のようにあった。

そしてトラブルが起こっても、それは施設内の問題だからと取り合ってくれない事も多かった。さらにはこういう事例が前例として出来ると行き場所を失ってしまう高齢者も出て来るという事で、何とか施設内で抑えることを行政も進めてきた。

 

しかしこれがこういう記事にもなるようになったのは、昨今のカスハラという言葉が浸透してきたからであろうと思う。個人的にはそれが当たり前だと思う。

 

弱い高齢者を外に放り出すのかという批判もあるだろう。しかし施設で問題を起こして施設が持て余すような高齢者は弱者ではないとおもう。

 

(3)入れる施設探し

ではこういう高齢者は誰の責任で次の施設を探すのかと言えば、第一には本人、そして今住んでいる施設の責任において探すべきだろうと思う。そうすると「入りたい施設」ではなく「入れてくれる施設」にならざるを得ない。

 

様々な環境整備については記事の通りだが、人生の最後に住まいを追い出されるようなことが無いようにしたいものだ。

 

(1)便利屋に使われている?

過去の経験で阪神淡路大震災、東日本大震災を始め、大きな災害に見舞われることは想定しておかなくてはならない。それで介護事業者も研修や自治体からの要請があり、防災には何らかの対応が求められている。

 

我が区で水害に対する避難計画作成の依頼があった。大きな河川の氾濫を想定したものだから地域は限定される。これは自治体の仕組みから言えば、自治体が介護事業者に計画作成を委託するという形で委託費も支払われるというものだ。

 

それで内容を見ると、利用者がどのように避難するか、という事であり、介護従事者が利用者のもとに駆け付けて救助しなければならないというものでは無い。

 

この記事のコメントにも多くあるように、我々介護事業者は何でも自治体の便利屋のように使われているから、救助するまで協力城と言われているように思ってしまうが、実は違うという事だ。

 

(2)誰も支援する人がいないからケアマネ

介護事業所にはこのような防災計画云々の他に「BCP計画」作成の義務がある。これは「業務継続」という事で、災害時・感染症発生時の二つのパターンがある。これも自分たちの事業所が業務を続けることが出来るように体制を整えるという事であるという事が第一義である。

 

しかし前回のコロナ禍では、完全に防具を着て利用者宅に訪問するという事も随所に見られた。

 

要するに高齢者に対して「誰も支援する人がいない」からケアマネが出動しなければならない状況に追い込まれて、危険を顧みずに飛び込んだというのが実態だ。

 

つまり「貧乏くじ」という奴だ。

 

だからそこまでしてやらなければならないのか?という気持ちが心のどこかにある。しかし介護従事者というのは「奉仕」という点で様々に便利に扱おうとされる。「利用者の為に」という善意を利用して、何でもかんでも押し付けてくるのだ。

 

例えば「避難行動要支援者の心身の状況に関する取り組み指針」というのがあり、ケアマネの役割も明記されているという。この指針は分厚いので探すまでは至らなかったが、こうした事からも地域課題ややるべきことは理解しながらも、「やりたくない」と思ってしまうのだ。

 

(3)介護従事者は追い込まれている

ハッキリ言って、このような災害やら何やらが起こったら、介護従事者も自分の身を守るだけで精一杯だろうと思う。施設従事者だって、わざわざ出勤できないだろうし、感染症の話になれば自分が媒体となって家族に持って来てしまうかもしれない。

 

私も何かあっても動くことは無いだろうと思う。

 

そもそも混乱時に動いたら、町の混乱を助長するだけだ。

 

この記事はまず「自助」の話出るという事。まずは自分の身を守るという事だと思う。しかしコメントにあるような意見があるという事は、「災害が起こったら、家族よりも利用者を優先して助けに行かなくちゃいけないのか?」という「恐れ」があるからだと思う。

 

実はそういう所まで追い込まれているという事の証だと思うのだ。

 

(1)介護、というより人生に答えは無い。

そう言ってしまうと身も蓋も無いが、介護業界が大好きな「グループワーク」というのはまさにそれ。

 

そこに意義を見出すとするならば、様々な意見を聞いた上で自分なりの最適解を出すという事だろうと思う。

 

そもそも自分一人での考えというのは限界がある。どんなに知識があっても違う目線というのは必要だろう。だから話し合いをして色々と意見を言っても全否定するような人もいて、ハッキリ言って迷惑なのだが、そうした意見の中にも「おや?」と思う事があるから厄介だ。

 

何でも自分の考えや価値観でできるものは良いが、対人関係ではそうもいかない事も多い。そういう場面で自分を保つというのも必要だ。

 

(2)ファシリテーターというもの

ケアマネは様々な研修が課せられ、ファシリテーターと言われる講師みたいな人がいる。議論が迷走した時に道筋をつけるというのが役割だが、うまく回せる人もいればそうでない人もいるというのが実際に思う事だ。

 

更に参加者はある程度の解答が欲しい場面がある。しかし多くの場合、解釈が広範で答えが出ない時も多い。

 

例えば虐待ケースでもそう。

高齢者が家族に虐待を受けている可能性がある。支援者にすればその高齢者の身体財産を守る、という事を考えるが、高齢者にすれば、例え虐待と言われようと家族といたいという人もいる。つまり高齢者を隔離して身体財産を守るべき、という支援者はその家族を壊すことになりかねない。

 

そうした恐れがある時に答えを示せと言われても難しいと言わざるを得ない。

 

それを「頼りない研修講師」とレッテルを張るのは筋違いというものだろう。

 

しかし「あなた方の方が経験がある」という講師の逃げの姿勢が問題だ。

 

本来であれば、答えの出ない問題に対し、もがきながら出来ることを対応していき、例え結果が悪くてもやるべきことはやったといなるようにというべきだとは思うのだが。

 

(3)講師も受講生もつまらない

コメントの中に「なぜ研修講師に?」という事があるが、それはアルバイトだからだろう。ケアマネで稼げる金額なんてたかが知れている。出来る副業の一つが研修講師なのだ。だから講師よりも知識や経験のある受講生がいてもおかしくない。

 

受講生は研修に参加する事でありがたい話が聞けると思っている人もいる。自分が悩んでいることに対して最適解を示してくれると思っている。

 

しかし介護の世界というのは解答が無いものが多い。そうなると研修の満足度はぐっと減る。そういう顧客満足度の低いものは一般的には見放されるものであろう。

 

それでもケアマネの研修は義務付けられている。つまりそういう顧客満足度の低い=聞いてもしょうがない研修を受けさせられ、退屈な時間を過ごすのがケアマネの研修だ。

 

講師も受講生もつまらない研修という事であろう。そうすると毛マネの研修というのは天下り団体の存続と、講師のアルバイトのためのものと思ってしまう。