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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)事業撤退を考える

会社を起業した時、私が考えた理想は会社を大きくすること、介護の仕事で生活ができる社員を育てる事、そして事業を継承してくれる人材を育てる事だった。

 

残念ながら、すべて出来なかった。しかし個人事業でなんとか20年続けることが出来たのは、ひとえに周囲に支えられてきたからであって、自分一人の力ではない。

 

しかし我が社の居宅介護支援事業所も来年度で事業終了を予定している。それは居宅介護支援事業所の管理者要件が主任ケアマネを取得する事になっているが、私は取得する意思が無いためである。

 

だから続けようと思えば資格を取れば良いだけの事だが、そこまでしてしがみつくつもりもないというのが本心だ。

 

(2)他社に目をつけておけ

従って、ここ数年は新規の利用者をほとんど受け入れていない。つまり利用者は減る一方だが、来年のクローズの時に引き継げる数が多いと大変なので受けていない。つまりはソフトランディングを狙っている。

 

こうした手段を使えるのは他に収入ラインがあるからで、実は安心して生活している。

 

もしも主任ケアマネの要件が無くなったらその時に考えるが、簡単に言えば引き継ぐ手間がなくなっただけで済む。だから新規を受けるかと言えばそれはその時に考える。こう考えると、私の場合はどのように転んでも何とかなるという事だろう。

 

しかし明日どうなるかもしれない状況で経営にヒヤヒヤしている事業所も押いはずだ。

 

特に人不足と言われている介護業界で、訪問介護のサービス提供責任者要件、居宅介護支援事業所の管理者要件のハードルが上がったという事は衰退しろと言っているに等しい。

 

もしも人が余る位にいるのであれば「質の向上」という名目で要件を厳しくするのは必然だが、この人不足の状態で要件を厳しくするのは殺人行為だ。

 

それで被害を被るのは高齢者だが、事業所の引継ぎもままならない状態になりかねない。

 

そうすると、今のうちに事業を引き継いでくれるであろう他者に目星をつけておかなければならないという事になる。

 

(3)事業継承は人それぞれのやり方で

以前、私の知り合いでデイサービスの経営権を譲渡するのに300万円だかを払って引き継いだ事業所があった。その事業所が他社に渡す時は譲渡金が無く、ただで引き渡したのだが、要するに介護事業の継承と言っても、すでに価値は無い。

 

我が社にも譲渡してくれと言う営業は来るが、考え方として金になるうちに売り払うというのはアリだと思う。要は事業を辞めようというタイミングで、買いたいという会社があればマッチングできるという事だ。

 

そういう事業継承を斡旋する会社はいくらでもあり、データを見ると良さそうなに見える事業所も無いわけでは無いが、やはり私には手を出そうという気が無い。

 

クローズするにも人それぞれのやり方はあると思うから、これは何とかなる案件だろうとも思う。

 

(1)言われ続けた「最近の若い奴」

誰でも通る道なのだろう、私も散々「最近の若い奴は・・・」と言われてきた。それはだらしない、弱いという事を言いたいがため、もしくはそういう人が「俺の若いころはもっと・・・」という昔自慢をしたいという事もあったと思う。

 

自慢話をしたい人は多い。それも経験したことが珍しい事なら、周りの人も「すごいですねえ」となり優越感に浸れるというものだ。

 

しかし聞いている方はハッキリ言って興味が無い。腹の底では「時代が違うんだよ」とそっぽを向いている。

 

介護の仕事をしていると、高齢者と話が合わないという人もいるが、そりゃ生きてきた時代が違うし、その時の価値観も違うから当たり前だ。そういうことを学び理解し、共感するからこそ人間関係が育つのであって、それは介護職にとって基礎知識だとも思っている。

 

(2)ビジネスマンの「さしすせそ」

最近、営業マンのトークが同じように思える。おそらくイントロからクローズまで、こういう言い回しで、場合によっては突き放してみたいなテクニックを学んでくるのだろう。

 

そんなテクニックの一つに「さしすせそ」があるという。

 

  • さ・・・さすがですね / 最高ですね
  • し・・・知らなかったです
  • す・・・すごいですね / 素敵です / 素晴らしいです
  • せ・・・センスがありますね
  • そ・・・そうなんですか!?
というもので、逆に使わない方が良いものでは「たちつてと」があり、以下のとおりである。
 
  • た:たいしたことない、たいした〇〇ではない
  • ち:違います、違うと思います
  • つ:つまらない
  • て:適当
  • と:とんでもない〇〇です
ビジネスの世界では成約に結び付けるのが目的だが、プライベートではそこまでもミッションが無い。従って、上っ面の相槌であれば「さしすせそ」を使っておけば、まあ間違いはないというものだ。
 
まあ、世代間ギャップというのはどうしても起こる。分かりやすい対立軸だからだ。だから「若造」だの「老害」だの言い合ってもしょうがない。上っ面の薄っぺらい会話で場を繋ぐというのもテクニックだろう。
 
(3)価値観の押し付け合い
若い人の方が合理的と言うか、解の最短ルートを知っている。出来るものは出来るし、出来ないものは出来ないのだ。それはいくら考えても出来ないものは出来ない。
 
出来ないものに時間をかけてもしょうがないし、それだったら別の事をやるというのが合理的というものだ。
 
それは価値観というもので、理解しようとしても難しいものである。それに多くは自分の価値観を相手に押し付けようとする。それは昔からある慣習とか、周囲の納得とか、おそらく押し付けられる側は納得できないような理由なのだろう。
 
まあ、お互いの価値観を尊重して、目標を達成できれば良いよねという事だろう。しかし目標が達成できなかった時の価値観の衝突は予め考える事は少ない。
 
おそらく時代を超えてリーダーと言うのはそういうリスクも含めた考えを持てる人の事を言うのだろうと思う。
 
とはいえ、最近私も「最近の若い奴は・・・」と言ってしまう事があるから気を付けようと思う。

 

(1)介護自体が崩壊している。

コメントを見ると「若い人はやりたがらない」というものが多く見られる。しかしそうじゃない。若い人だけでなくベテランの人もやりたがらない。つまり「ヘルパーをやりたい」と言う人自体は全世代いないという事だ。

 

また、給料や待遇の面を上げるコメントも多く見られる。しかし給料を上げたからと言ってやる人が増えるかと言えば懐疑的である。

 

それは「ヘルパーの仕事は奴隷のような扱いをされる」という、人としての尊厳を奪いかねない現実が実際にあると言われているからだ。

 

それは「福祉=奉仕」という考えがあるからか、奉仕する人は何があっても我慢しなくてはいけないと思っているからか。

 

いすれにしても「人の世話をする」こと、特に高齢者の世話をするという事が苦痛以外何物でもないという状況であれば高齢者介護の世界は崩壊する。

 

(2)介護という名の我慢大会

私は老人ホームや訪問介護、今はケアマネをしており、高齢者の仕事はかれこれ20年を超える。そこで出会った高齢者は数知れずで、嫌な高齢者もいれば良い高齢者もいたというのが実態だ。

 

それは家族にも言えることで、人によっては理解できないような面倒なことを言ってくる人もいるという。

 

仕事の過酷さも筆舌に尽くしがたい。

今年の夏は特に暑く、熱中症覚悟で業務に取り組むヘルパー。更にコロナ禍ではバイ菌扱いされながらも業務を行うヘルパーも多かった。

 

人の世話をしているのに「ウィルスを持ち込まれては困る」と言われる始末なのだ。それで仕事をキャンセルしようものなら、さらに「どうしてくれるんだ」と文句を言う。

 

人員の余裕も無いから、休みのヘルパーが出た時には利用者の時間をずらしてもらう事になる。そうするとお昼ご飯が15時という事も実際にありうるのだ。

 

つまり利用者もヘルパーも「我慢」をしているのだ。

 

多くの人が助かっているという見方をすればそうだろうが、もはや介護の現場は「我慢大会」の様相を呈しているという意見もある。

 

(3)下の世代に介護を「やらせる」

興味深いコメントで「中学高校から介護を学ばせるべき」というものがあった。

 

一つは既に校外の人の話を聞く機会と言うのがあって、実際に介護の話をしたという人もいるだろう。そしてもう一つは卒業と同時に資格を与えるという極端なものまである。

 

これには「若い世代に介護を押し付けるのか」という意見もあれば「いざ介護が必要な時におろおろしないために今から学ばせるべき」という意見もある。

 

しかしそもそも「人の世話をしなくてはならない」意味が何処にあるのか分からないままに学べば、多くのヘルパー講習受講者がヘルパーの仕事をしないように、介護の悪い所だけ見えてやらなくて済む方法を見つける手段になりかねないと思うのだ。

 

そこには確かな倫理観があって、言葉で説明するまでも無い「1+1=2」位、人の世話をするのが当たり前にならなくてはいけないのだろう。

 

そう思うと、人間関係というのは薄い方がよほど楽だ。多くの人間関係を持つことはそれだけ気を使うし、煩わしいことも多い。

 

しかしそれ以上に助けられたりと言うこともある。そういう人とのつながりというものが希薄になった現代において、「助け合い」という事の意義を説くことは難しいのかもしれない。