ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)楽しみと苦労、その考え方は。

介護保険というのは、もともと家族で面倒を見ていた親の介護を地域で面倒を見るという方針の転換で出来た制度だ。それには戦後の都市化・核家族化・少子化などの現象が複雑に絡み合い、結果として親の介護が出来ないという状況になった。昔は「親の面倒を子が見るのは当たり前だ」という人は多かったし、今でも本来はそうあるべきなのだとは思う。しかしそれが出来なくなった時の施策としては随分とお粗末な制度だと思う。

 

繰り返すが介護保険制度というのは家族で面倒を見ることが出来なくなったから地域で面倒を見るという前提があった。しかし四半世紀を過ぎて「家族が見れる事は家族が見る」というように変わっている。つまりそれは介護サービスがどうのこうのというより、家族の方が介護サービスよりも家族の世話を当てにしている人もまだまだいるという事だ。

 

家族介護というのは昔から行ってきたものであり、多くは長男の嫁が担ってきたと言われている。だから密室で何をされているか分かったものでは無いという事も今では危惧されるし、戦前の寿命は今よりもずっと短い。介護で苦労という事はあろうが、複合家族で分担してきたという面もあるだろう。

 

つまり一人一人の楽しみというモノは無いかもしれないが、一人一人の苦しみも分担できていた。それは周りを含めて貧しいが故の生き方であっただろうし、外国人から見れば「幸せ」に映ったという本も残っている。そう考えれば幸せというのはお金は物質だけではないという事が分かる。

 

(2)日本は家族のつながりが薄い民族になった。

とはいえ、時代は移り変わり個人の楽しみというものと、苦労を自分がやらなくて済むように外注できる仕組みで生きていく時代である。その中で介護というのは「苦しみ」であることは実際に行った人の本音だろう。

 

「孝行したい時に親は無し」という言葉があるが、今は「孝行したい時に親は介護」という時代である。その介護というモノは介護サービスを利用する側と家族との思惑がずれる場面というのは多い。

 

・住まい→住み慣れた自宅(利用者)VS施設(家族)

・介護する人→子供にやってもらいたい。そもそも親の面倒は子供が見るのが当たり前、(利用者)VS他の人にやってもらいたい。自分ではやりたくない。(家族)

など、利用者の意向と家族の意向を本音で語ればズレはいくらでも出て来る。高齢者にすれば死の足音が近づいている恐怖の中、衰え行く身体であっても出来るだけ元気でいたいと思う。家族は「いつまで介護が続くのか」と終わりの見えない苦労にウンザリするという光景はたくさん見て来た。

 

動画の中でも話されているが、日本というのは結婚した後は親子のつながりが減る民族なのだそうだ。日本は家族主義という事も言われていたが、欧米に比べても他のアジアの国と比べてもそうでもないらしい。更に「人に迷惑をかけない」という習ってきた美徳だが、介護という場面で家族にやってもらいたいというのは最小限の迷惑のかけ方という事なのだろうと思う。

 

(3)この動画は役に立つ勉強だ。

さてこの動画の中で印象に残ったのは「参照域」という言葉。

例えば大金持ちにすれば5000円の食事だって大したことは無いが、安月給の人には500円のクーポン券でも嬉しいもの。どこのラインで満足するかは人それぞれだが、その参照域が低ければ満足するものも多くなるという事。これは介護でも当てはまる事だろう。例えば一人暮らしの親の家に行って用事をするよりは、施設に入ってもらってちょくちょく面会に行くという事もあるだろう。どのラインであれば良好な親子関係でいられるかというのを見極める一つの材料という事にもなると思う。

 

介護というのは時に親を憎み、良好な関係を築けない時もある。私もそのようなケースは沢山担当してきた。やはりアドバイスとしては「親を嫌いになる前に施設に入れた方が良い」という事で、この動画の趣旨にも沿っていると思う。

 

ケアマネの研修というのは本当に役に立たないことが多いが、この話は無料でも本当に勉強になる。研修期間はこの先生の爪の垢を煎じて飲んで欲しいくらいである。

 

 

 

 

 

 

(1)「感謝」という事を説明するのは難しい。

子供の頃「おじいちゃん、おばあちゃんには席を譲りましょう」と言われていた。しかし子供心に「席を譲る」という事がイマイチ理解できていなかった。席を譲るべき高齢者は子供の自分よりも身体が大きい人もいるし力の強い人もいる。何で労わらなければならないんだろうという思いがあった事は事実だ。

 

特に子供だから大人から怒られる事も多い。そんな怖い大人に対して「労わりましょう、ねぎらいましょう、感謝しましょう」と言われても、怒られて殴られた相手にそんな気にはならない。

 

それが理解できるのは相当後になってからだと思う。あの時に怒られたり嫌な事を言われたおかげで、怒られないように行動したり、嫌な事を言われないように言動に注意したりで世の中に通用するという事が実感できた時に初めて意味が分かるというモノだろうと思う。

 

だから「感謝」という事を子供が理解するのは難しい。「今こうして生活出来ているのはご先祖様が頑張って努力してこられたおかげなんだよ」と言われてもピンと来ない。子供でも何かした時に「ありがとう」と言われる事はあっても、それが人の心を繋ぐ大事な事と思える子は少ないだろうと思う。

 

(2)「感謝」というのはされる事を期待するものでは無いが。

「感謝」というベクトルは「感謝を受けた側」が「その行為をした側」に向けるもの。だから「その行為をした人」は感謝されるような事と思っていなくても感謝される事もある。逆にどんなに尽くしても感謝を感じない人もいくらでもいる。感謝という言葉は薄っぺらく並べてると右から左に流れていく。

 

記事は電車で席を譲ってもらえなかった高齢者が怒ったという話だが、実際にに逆のパターンで高齢者が怒っている所を見たことがある。それはバスの出来事で、片麻痺の高齢者が乗ってきた時に席を譲ろうと声をかけた女性がいたが、あろうことかその女性に対して怒り始めたのだ。言語障害もあるのだろうか、何を言っているのかはよく分からない。おそらく「バカにするな!」という事を言いたかったようだ。

 

席を譲ろうとすれば「バカにするな」。席を譲らなければ「最近の若い奴は礼儀がなっていない」と、譲っても譲らなくても文句を言ってくるという話は溢れている。そうすると、いずれにしても文句を言われるのなら譲りたく無くなるのもその通りだろう。

 

つまり「感謝」というのはされる事を期待するものでは無いにしても、高齢者という人生の先輩がそういう行動を取ると尊敬もされないし「ああいう年寄りにはなりたくない」と嫌悪されてしまう。

 

(3)「自分というかけがえのない存在」というのを都合よく解釈した結果。

自分さえ良ければよいという考え方は最近よく見られるようになった。人の好意は当たり前、自分は一つの損もしたくない。損をするかもしれな事は人に押し付け、自分だけは得をしたい。そんな世の中のように思う。

 

更に「感謝」という言葉。自分は「感謝されうる存在」としてそれぞれの価値観で自分をアピールする。つまりこれも「自分というかけがえのない存在」というのを都合よく解釈した結果のように思う。

 

介護の仕事をしていてもこういうことを思う時はしょっちゅうある。そりゃあ、みんながみんな自分勝手な主張をすればまとまるものもまとまらないし、人間関係はギスギスする。

 

それだけ余裕の無い時代という事だろうと思う。それに対してあれこれ言うことは出来るだろうが、今の介護事情というモノを如実に表しているようなエピソードのように思う。

 

(1)来年3月で閉鎖する居宅介護支援事業所は多いだろう。

この方、居宅介護支援の「処遇改善加算」とケアマネの負担軽減とする「資格の更新制」の廃止を成果として挙げている。

 

単純に問う。本当にそうかと。

 

以前にも取り上げたが処遇改善加算は4割近くの居宅秋ご支援事業所が申請すらしていない。資格の区新制の廃止というが、更新の手続きなんて運転免許の更新と同じくらい簡単だ。本質はあのケアマネの業務に全く役に立たない、下らない研修の廃止だ。ケアマネは、あの無意味な研修の為にどれだけ時間とお金を使わされたかという事だ。

 

そして誰もが答えられない「ケアマネの質」を大上段に振りかざし、意味の無い研修や重箱の隅をつくような指導を繰り返した結果が今なのである。そして役に立たないような成果を主張されても、ケアマネにすればバカにされているとしか思えない。

 

そして来年3月には管理者要件の経過措置期間が切れる。我が社もその終了に合わせtれ居宅介護支援事業所を閉鎖する予定だが、同じ考えで閉鎖する事業所は相当数上るだろうと思う。

 

(2)非営利な事を営利法人に押し付ける介護保険制度。

介護保険制度というのは評価出来る事もあれば、利用者・家族、それに介護サービス事業所にしても、この法律があるから安心して老後を支えられるというモノではない。その具体的な内容については各々で挙げてもらうとして、そうした法の不備や矛盾による軋轢の矢面に立ったのがケアマネだと言って良い。

 

そもそも介護サービス事業所の多くは営利法人である民間企業だ。民間企業である以上、利益を最大化しなければならない。だから利用者を呼び込む営業部門や自社のサービスを利用させる仕組みが必要になる。いずれにしても経営的に考えるとその役割を担うのはケアマネになるのだ。

 

しかも介護保険開始当初は、居宅介護支援事業の約8割が赤字事業だった。サービス事業所は、他のサービスで出た利益を赤字事業に補填しなければならなかった。営利法人にとって赤字事業というのは本当に厄介だ。しかしケアマネがいなければ利用者を確保できない。赤字であっても雇わなければ他のサービス事業が成り立たなくなる。だから経営者はイライラしながらも雇い続けた。

 

それは制度を作る側は百も承知だっただろう。そういう赤字を押し付けながら、「ケアマネは公平中立、事業所の利益よりも利用者の利益を優先」という価値観を強めていった。結果として介護の仕事をする人がいなくなっていった。

 

(3)ハッキリ言ってケアマネは何も悪くない。

行政からは散々タダ働きを強いられ、更に運営指導ではちょっとしたミスで何か月分の報酬を返還させられる。利用者や家族からは便利屋に扱われる。会社からは利用者確保責任を問われる。サービス事業所からは自分たちの至らない所をケアマネに押し付けてくる。

 

そもそもケアマネという仕事自体が成り立っていないのだ。

 

それは介護事業全体に言えることかもしれない。ちょっと儲かる仕組みを作れば「利益率が高い」と報酬削減の根拠にさせられる。

 

こういう所に切り込まない以上、成果を主張されてもどうにもならない。介護崩壊という津波は余程の事をしないと止められないだろう。