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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)介護は「そもそもやりたくない事」

昨今言われている介護職への研修。ハッキリ言うが、実に下らない。場合によってはケアマネを辞めようかと思うような内容である。

 

ケアマネに限らず介護職というのは利用者の徐々に動かなくなる身体の恐怖と、それを支えきれなくなる家族の怒りや焦燥などの苦しみの感情に寄り添い、支援していく仕事である。

 

だからこそ一般に行われる研修はその職責の重みを感じ、多くの人を救えるだけの知識を身に着け、というのは理解できなくもない。

 

しかし研修で、これだけの知識を持ってもらわなければいけないとなればなるほど、介護職離れが進む。

それは求められるスキルがどんどん上がる一方、待遇は上がらないという現実があるからとの言えるが、そもそも高齢者の世話という「そもそもやりたく無い仕事」であるという面を無視しているとも思うのだ。そこに目を向けない限り、この問題は解決しない

 

(2)介護の世界は悪い事、嫌な事が多い。

そもそもなぜ高齢者の世話をしなくてはならないのか、という疑問に対してどれだけの人が明確に回答できるだろうか。

 

昔は大家族だったから、という人もいると思うが、介護が必要ないなった時にその担い手となったのは「長男の嫁」と言われていた。つまり今も昔も誰かに押し付けていたのは変わらないのだ。

 

だから介護という面倒なことは人に任せて、遺産はしっかり貰いたいというのが家族の本音だろう。そういう事だって考えなくてはならない。

 

悪い事、嫌なことを考えればキリがないが介護の世界なのだ。そこに目を向けられる人は少ないかもしれない。

 

では、そういう人は何を学べばよいのか、という事である。

 

それは「聞いてよかったと思える話を聞く」ということである。私もYOU TUBEでいろんな番組を見る。話を聞いていて良かったと思える話は人生訓であったり、ホッとする話だったり、悪い奴をやっつける勧善懲悪の話だったり、正直、介護の番組はほとんど見たことが無い。

 

それは聞いていてもつまらないし、為にならないのである。

 

とある番組で「ヘルパーの質が~」という事を言っていたので、コメントに「ヘルパーの質ってなんですか?あなたはそれをジャッジするに値する人ですか」とコメントしたら回答は無かった。

 

つまり介護の人は上っ面の話や制度の話で番組を組み立てる人が多い。だから人の心に刺さらないのだと思う。

 

(3)言葉の力を信じている

私は弱い人間で、言葉によって沢山助けられてきた。

それは弱い心を克服し、生きる活力を生み出し、明日への糧になったからだと思う。

 

そしてそういう言葉を言える人は死ぬ気でその世界で頑張ってきた人だろうし、その思いがあるからこそ説得力もある。

 

医者や弁護士の話もその範囲に入り、そこに「本気」があるからこそ言葉の重みというものがあるんだと思う。

 

ドラマのセリフでも良い。心に刺さる言葉があれば、それは明日への活力である。

 

私は言葉の力を信じている。

介護の番組で人の心に刺さる言葉を言える人が出てきたとき、介護の未来も変わると思う。

 

 

(1)仕事の一区切りを

私は今55歳。来年度末で居宅介護支援事業所の管理者要件になった主任ケアマネの資格を取るつもりは無いから、我が社でのケアマネ業務は一旦終了となる。その後については全くの未定で、どこかの事業所に潜り込んで仕事をするか、将又全く違う仕事をするか、全く分からない。更に言えば、この要件自体がどうなるかも分からない。いすれにしても全く未定の状態だ。

 

他の収入があるからどうしても仕事をしなくてはならない状態ではない。

 

だから私にとってケアマネという仕事はライフワークであり、損得勘定や利害関係などの人間関係の煩わしさやらの面倒くささを耐えながらするものでもないという事である。

 

(2)件数は持てるだけ持ちたいと思う。

もし居宅介護支援事業所の管理者要件から主任ケアマネが外れたとするならば何件持つか、となれば「その時の持てるだけ」という事になるのだろうと思う。

 

管理者要件に主任ケアマネがなった事で、随分依頼を断ったと思う。それは終わりが見えている状態で引継ぎが大変だという理由が一番だし、何よりも中途半端で終わるのは個人的に好きではない。

 

だから今のままで続けられるのであればそのまま続けたいと思うし、何歳まで続けるかと言えば、おそらく相当年齢が行くまで続けるだろう。少なくとも60歳代で終わるということは無い。自転車の乗れる限り続けられると思う。

 

そう考えると、個人事業としてのケアマネが集まった合同事業所みたいな形だったら続けられるのかなと思う。就業規則などは各会社のやり方で良いし、自分がやりたい範囲での仕事という事で良いと思う。

 

そんなビジネスモデルがあれば乗りたいが、おそらくそんな事にはならないだろうから、来年で終了という事を前提に未来を考えようとは思っている。

 

(3)人は自分の為だけに生きていけるほど強くない

勿論、未練が無いわけでは無い。

 

というのも33歳で起業して、曲がりなりにも20年以上会社を存続させてきたという自負がある。そしてそれは介護事業というものがあったからこそできたもので、更に言えばこの仕事をするがゆえにであった沢山の人がいて、そういう人に支えられてきたという感謝の思いは強い。

 

だからこそ、ケアマネを辞めるという事については残念であるが、制度がそのようになるという事であり、私がそれに従わないという事であれば去るしかないのである。

 

そして仕事が減るという事は、それだけ頼られる事も少なくなったという事かなとも思う。それでも今いる利用者や家族には全力で向き合っているし、その位の力を注がないと捌ききれないという見方もあるだろう。

 

介護というのはそれだけ一般の人にとっては難題である。だからこそそこに寄り添い解決方法を提案するというケアマネの仕事は、神業に近いものを感じる人もいるようだ。

 

人は自分の為だけに生きていけるほど強くない。人の為に生きていける人ほど強くなれるとも思う。

 

そういう意味でも介護の仕事をしたことで自分は成長できたと思うし、この仕事に悔いはない。だからいつ辞めても良いし、いつかはその日が来るのだけど、もう少し頑張ろうかなとは思う。

 

 

(1)介護保険と保険外の線引きは難しい

介護保険サービスというのが生活に必要な最低限のサービスの提供で、個人の趣向に関わる事を始めとする、その人にとって必要なことは自費サービスと分けられる中、自費を払うのを嫌がり生活の質が下がる事を見ていられない人が無料で手助けをしてしまうということからシャドーワークは発生する。

 

特に在宅ではその線引きが難しい。

例えば通院介助をケアマネが行うというケースもよく見られる。本来、ケアマネが医師と話すのは病状の説明を受けるためで、通院介助をするマンパワーでは無い。原則はヘルパーが通院介助し、ケアマネは一緒に診察室に入って説明を聞き、終わったらケアマネはさっさと帰るという事である。

 

しかしそれでは「?」となる利用者がいてもおかしくない。ケアマネが来るならお金を払ってまでヘルパーを頼まなければ良いじゃないか、と思う。それが隣の家ではそうやっているという本当が嘘か分からない話が出て来るとややこしくなる。

 

ケアマネも事業所から利用者を減らすなと指示されているとなると、少しくらい自分が犠牲になればとタダ働きをやってしまう。1回でもやってしまえばそれをやめるのは難しい。そうしてシャドーワークは完成していくのだ。

 

(2)「タダで何でもやってくれる」ケアマネ

そもそも介護保険サービスというのは、高齢者の生活すべてを網羅した支援が出来るわけでは無いという事を前提とすべきだ。

 

だからシャドーワークはいきなり出てきたような感じだが、介護保険が始まった25年前からすでにあった事で、実地指導ではたかが5分の仏壇掃除でも指摘はされた。

 

このぐらいは頼んでも良いだろうという利用者と、ちょっとくらいならしょうがないとやってしまうヘルパーとの関係は、ルールの許容の範囲で続いていたという事だ。

 

更に言えばだが、ケアマネになって利用者が期日前投票に行きたいから言ってくれと地域包括支援センターから言われたこともあった。

 

特にケアマネは月に1回のモニタリングだけ行けば良いというものでは無いというある意味の「奉仕」を期待されるものだ。そう考えると「タダで何でもやってくれる」ケアマネはシャドーワークの温床になる可能性が高い。

 

(3)軌道修正できないだろう

という事で、介護保険制度が最低限度の生活の維持という範囲を決めている以上、シャドーワークは無くならない。要はどこに押し付けるか、という事だ。

 

地域包括支援センターがハブの役割を担う云々とあるが、実際には自費サービスをやってくれるところがあればそこに依頼することになるが、おそらくそれは一部の地域しか出来ないであろう。

 

となると、相変わらずケアマネにシャドーワークをやらせるという事になる。つまりは変わらない。

 

やはり高齢者になったらどのような支援が必要で、子供との関係やら何やらを勘案し、適切な提案や支援を出来るという事の見直しが必要なのだろう。

 

そうすると、介護保険の基本的な方向は間違っていなかった。ただ方向がずれたので軌道修正するという事だ。しかし修正する方法が無いから変わらないという事なのだろうと思う。