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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)利用者にとってケアプランとは

綺麗事を言うつもりは無いが、本来ケアプランと言うのは利用者が生きていく上で、何を目的にするかという事を表すものである。研修では細かく「~出来るようになりたい」とか「旅行したい」とか、今出来なくても出来るようになって、諦めかけていたものが出来るようになるという前向きなものであるとされている。

 

しかし利用者全てがそんな前向きになれるわけがない。例えば病気で障害を負ったとする。健常者であれば病気やケガという事になるが、ではケガをした状態で「~出来るようになりたい」といっても、そもそもけがを治したいというのは先に来る。しかしもし固定されるような障害を負ったら、それは人勢絶望の淵に立たされるようなもので、しばらくは明るいことなど考えられないだろうと思う。

 

そう思うと、ケアプランで「利用者・家族の意向」というものがあるけど、それはありきたりなテンプレのようなものになりかねないというのが本音。その文言が利用者に響くかどうかは別にして。

 

つまり利用者にしてみれば支援してもらうサービスが良い所であるかどうかが問題であって、結果としての自分の生活が楽になるとかいういわゆる「長期目標」なんて言うものは二の次である。そう思えば面倒な書類なんかどうでも良いというのが利用者の本音では無いだろうか。

 

(2)苦しい思いはしたくない

私はケアプランを作る時は大体が「在宅生活の継続」か「現状維持」という同じようなものになる。

 

そもそも具体的に「~したい」なんて言う希望は聞いたことが殆ど無い。そんな事より、まず自分の身体が楽になりたいというのが先に立つからだ。

 

では自分の身体が楽になるという事はどうするのか、といえば病院に通って薬を飲んでという事が一番である。

 

それでリハビリをするという事は本人から言われる事は少なく、家族が無理やり生かせるという事の方が多い。それはやはり負担が大きいのだろう。出来れば楽に良くなりたいというのが本音で、出来れば大変な思いはしたくないものだ。

 

これは若い人でも同じだろう。「若いうちは苦労は買ってでもしろ」という言葉もあるが、出来れば苦しい思いはしたくない。

 

そんな感情を考えれば、ケアプランと言うのは利用者にとってはどうでも良いもの、というのはその通りだろうと思う。ケアマネが「サインしろ」というからしているだけで、深く考えたりはしないものだというのは、多くのケアマネも実感していることだと思う。

 

(3)名を取るか、実を取るか

それでもケアマネの立場で言えばどうでも良いものとは言いたくないし、実際に結果として在宅生活が継続出来て、現状維持なされていればそれで目標は達成された事になる。

 

私はそれで良いじゃないかと思う。

 

それは「名を取るか、実を取るか」という事で、利用者にすれば実を取る事が大事だし、ケアマネにすれば名を取る事が大事と言える。

 

投稿記事に「メンタルをやられる」とあるが、おそらくこの方は真面目な方なんだろうと思う。それはケアプランというのが細かく書けば書くほど良いという風潮があるし、ケアプランチェックなどであれこれいじられるから戦々恐々としてしまうのだ。

 

ケアプランなんてざっくり書けばよい。

細かいことを書くのはサービス事業所の個別計画で良い。

 

ケアマネが「これで良いのかな?」と思うような書類作成でも、結果として利用者の為になっているという事であれば、そのプランは大成功という事である。

 

(1)お金の勉強は必要

「FIRE」という言葉がある。Financial Independence, Retire Earlyの頭文字を取ったもので、直訳すると「経済的自立と早期リタイア」となる。

 

いくつかパターンがあるので下記に挙げておく。

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お金を得るのはまず仕事をして給料を得るという事がスタンダードだ。その給料で生活するというのが原則だが、資産形成や運用という事を行って、早い時期に資産を運用することによって給料だけでない収入ラインを作り、働かなくても生活できるレベルまで持って行く人がいる。

 

実際に働くかどうかは置いておいて、お金の勉強というのは早いうちから行っておくべきだろうと思う。

 

(2)社会的な立ち位置は

さてお金があって生活するには困らない状況が作れたとする。おそらく最初は休みを満喫するだろう。いつもは出勤して働いている時間にカフェでも自宅でものんびりコーヒーを飲む時間と言うのは何とも言えない贅沢な時間であり、ゆとりを感じる。いつもは慌ただしく流れる時間もなぜかゆっくりだ。

 

しかし会社を辞めるという事は、社会から離れる事も意味する。仕事と言うのは自分の存在意義を発揮する場でもある。確かに面倒な事も多い。剤業も多ければ、自分の時間も無いと嘆くこともあるだろう。しかしそれだけ時間をかけたものだから、それが無くなると一時的には解放された気分にはなろうが、疎外感も半端ではないという事も多く聞く。

 

つまり記事の内容で、実際に経済的に困らなくてもアルバイトをするというのは、そういう社会との繋がりを持つという意味でも重要なことなのだ。

 

(3)仕事をしなくても生きていける

やはり人は人との関係の中で自分の立ち位置を確認し、社会に必要とされているという実感が必要なのだろう。特に私が行っているケアマネと言う仕事は人に頼られる場面が多い。だからこそその問題解決が仕事のやりがいでもあるし、それが出来た時の達成感は「人の役に立った」という実感と共に、必要とされる存在としての評価につながる。

 

多くの人が仕事と言う場面で人の役に立っているとするならば、仕事を辞めてしまえば、自分の存在意義すら分からなくなることもあると思う。

 

そしてそれを突き詰めると「自分の役割は終わった」と思うだろうし、悲観的に思えば「自分という存在はいなくなっても良い」という所まで行ってしまう可能性すらある。

 

FIREと言うのは何も「仕事を辞めろ」という事では無い。「仕事をしなくても生きていける」という事だ。

 

試算があるという事、そしてそれを運用する事という事は生きていく上での礎であり、全てではない。人生という壮大な時間潰しの中で、自分の存在が人の役に立つという事は「プライスレス」な事なのかもしれない。

 

(1)人生はつまらない?

先日、施設に入所が決まっている利用者と話している時「俺の人生を振り返ってみれば、つまらない人生だったなと思う」と話していた。

 

こういう話をすると大体の人が「つまらない」「達成感が無い」と答える人が殆どで、良くて「まあまあ」、「素晴らしい人生だった」と話す人は殆どあった事が無い。

 

かくいう私が自分の人生を振り返った時に「大したことの無い人生だった」と思う。しかし周りから見れば、大学に行った、起業して会社を20年以上続けた、他の収入があって生活も安定している、趣味がある、などの現実を見れば「勝ち組」であり私の振り返りなど贅沢なものに聞こえるだろうと思う。

 

(2)評価するのはリアルタイム

今、穏やかな気持ちでブログを書くことが出来るのは、今が落ち着いているからだと思う。

 

感情と言うのはその場その場で変わる。

 

何か良いことがあれば人生全て良かったと思う。嫌な事もこの良かった事に出会うための経験だと前向きに思う。しかし嫌なことが思ったとき、今までの苦労は何だったのかと思ったり、どうせ自分はこんなものだと卑下したり、ロクな事を考えない。

 

それを長い目で見ることが出来れば良いのだろうが、嫌なことがあった時にはそれは難しい。

 

だから年がら年中良い事で埋め尽くしたいと思うかもしれないが、そうも上手く行かないのが人生だ。

 

だから趣味と言うのは「良い事を経験する」可能性が極めて高いものだ。ただ人と競うものは嫌な事も経験するから、程よくやれば良いと思う。

 

(3)自分を振り返れば

私が自分の人生を振り返るのであれば、やはり嫌な事の方が圧倒的に多い。おそらく90%は嫌な事だっただろう。しかし10%の良かった事があり、それが今だから充実していると言える。

 

この穏やかさがずっと続けばよいと思うが、この先の人生もハードルが待ち構えている。各時代においてハードルは違う。そしてそれを乗り越えていかなければならない。

 

ケアマネの仕事をしたという経験は、これから先の老いていく人生において必要な知識として生かしていけるだろう。そう思えば無駄な人生では無かったと振り返ることが出来るかもしれない。いつの日かそんな振り返りをしたいものだ。