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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)人生はつまらない?

先日、施設に入所が決まっている利用者と話している時「俺の人生を振り返ってみれば、つまらない人生だったなと思う」と話していた。

 

こういう話をすると大体の人が「つまらない」「達成感が無い」と答える人が殆どで、良くて「まあまあ」、「素晴らしい人生だった」と話す人は殆どあった事が無い。

 

かくいう私が自分の人生を振り返った時に「大したことの無い人生だった」と思う。しかし周りから見れば、大学に行った、起業して会社を20年以上続けた、他の収入があって生活も安定している、趣味がある、などの現実を見れば「勝ち組」であり私の振り返りなど贅沢なものに聞こえるだろうと思う。

 

(2)評価するのはリアルタイム

今、穏やかな気持ちでブログを書くことが出来るのは、今が落ち着いているからだと思う。

 

感情と言うのはその場その場で変わる。

 

何か良いことがあれば人生全て良かったと思う。嫌な事もこの良かった事に出会うための経験だと前向きに思う。しかし嫌なことが思ったとき、今までの苦労は何だったのかと思ったり、どうせ自分はこんなものだと卑下したり、ロクな事を考えない。

 

それを長い目で見ることが出来れば良いのだろうが、嫌なことがあった時にはそれは難しい。

 

だから年がら年中良い事で埋め尽くしたいと思うかもしれないが、そうも上手く行かないのが人生だ。

 

だから趣味と言うのは「良い事を経験する」可能性が極めて高いものだ。ただ人と競うものは嫌な事も経験するから、程よくやれば良いと思う。

 

(3)自分を振り返れば

私が自分の人生を振り返るのであれば、やはり嫌な事の方が圧倒的に多い。おそらく90%は嫌な事だっただろう。しかし10%の良かった事があり、それが今だから充実していると言える。

 

この穏やかさがずっと続けばよいと思うが、この先の人生もハードルが待ち構えている。各時代においてハードルは違う。そしてそれを乗り越えていかなければならない。

 

ケアマネの仕事をしたという経験は、これから先の老いていく人生において必要な知識として生かしていけるだろう。そう思えば無駄な人生では無かったと振り返ることが出来るかもしれない。いつの日かそんな振り返りをしたいものだ。

 

 

 

(1)訪問介護の窃盗事件

私の自治体でも大手ヘルパーステーションの窃盗事件がテレビのニュースで取り上げられた事があった。表に出ないものを含めると相当件数に上ると思われる。

 

なぜ利用者は訴えないのか。

一つは「お世話になっているから」という気持ち。最近では特にヘルパー不足が言われており、「このヘルパーに断られたら、この家に来れるヘルパーはいない」という状況は多い。実際に私もそのように言う事もある。

 

二つ目は「証拠が無い」という事。

キチンと家計簿をつけている人ならいざ知らず、お金の保管についてはザックリしている人は意外と多い。そこでお金が無くなっても「気のせい」とか「どこかで使ったんじゃないの?」と言われると盗まれたことにも気付かない。

 

つまりは自分で盗んでも利用者のせいにする事は出来る。逆に利用者は盗んでもいないのに「ヘルパーが盗んだ」と言って関係が破綻する事もある。やはり利用者本人にもお金の管理はしっかりと行ってもらいたいというのが本音だ。

 

(2)教育で何とかなる話ではない

では何故ヘルパーが盗むのか?という事だが、思い当たるのは二つ。

 

一つは完全な「出来心」

盗んでもバレないだろうという気持ち。そりゃお金をむき出しに置いてあれば手を出したくなるのは本能みたいなものだ。

 

そしてもう一つは「貧しいから」

介護の仕事と言うのは他の業種に比べて給料が安い。訪問介護はみんな一応の資格は持っているが、人の本質までは変わらない。つまり貧しければ盗むというのは、そうしないと生きていけないという本能なのだろう。

 

勿論、そういう人ばかりでは無く、殆どのヘルパーは真面目に働いているが、こうした物心ともに貧しい人が一定数いるのは事実であろう。こうした人がいるから、多くの真面目に働いているヘルパーにも疑いの目がかけられるというのはしょうがない事だ。

 

つまり安く雇える人と言うのはこういう事を念頭に置かなければならない。教育で何とかなる話ではないという事が分かるだろうと思う。

 

(3)清貧とは

こういう話を聞くたび「清貧」という言葉を思い出す。意味は「お金がなくても、心まで穢れることのないように、清く正しく生きる。」という事である。

 

しかし貧乏な生活をしたことがある人なら分かるはず。特に現代のように物があふれ、周りが贅沢をしている様子を見ると、いくら「清く・美しく」と言ってもそれは綺麗事に聞こえてしまうという事を。

 

特に福祉の仕事と言うのはこうした綺麗事であったり、奉仕精神を求められることが多い。

 

まあ、国民の約6割が貧しいと答えているアンケートもあるようなので、つまりは国民のすべてとは言わないが多くの人が貧しさを実感しているという事だろう。

 

そもそもであるが「豊かさが何か」を分かっている人自体がいないというのもあるだろうと思う。それは物質的な豊かさ、レジャーの楽しさとではなく、例えば歩いていて感じる風の心地よさとか、日常の静けさから感じる穏やかさとか、「生きている」実感そのものを指す。

 

もしかしたらこういう問題は日本人が失った「心」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

(1)良い老人ホームはどこですか?

ケアマネをしていて、そろそろ老人ホーム入所を考え始める頃、「どこが良い老人ホームですか?」と聞かれる事は本当に多い。そういう時は「人それぞれ」と答えるしかない。

 

確かに評判の良い所、悪い所はある。しかしそれを言ったところで「住めば都」とも言うし、そこの職員は全力で頑張っている。どこの施設でも「自分は評判の悪い所に勤めているのだから、適当に仕事をしても良い」とはならない。

 

ついでに言うと「何処が良いか選べる」状態であれば幸せだと思う。要介護度が思い、世話をする人がいない、費用をかけられないなどの条件が出てくれば出て来るほど選択肢は狭まる。当然、「入りたい施設」ではなく「入れてもらえる施設」にならざるを得ないのだ。

 

(2)入所を決意する。

最近、要介護度がそこまで高くなくても在宅で面倒を見ることが出来ないから施設に入れたいという話が数件あった。

 

要介護度と在宅生活の継続可能は関係ない。むしろ身体はまだ動いて好き勝手に振舞ってという方が家族の負担が大きい。逆に体力や元気も無くなり、寝たままの方が介護の手間が軽いという意見も現場では多い。

 

そんな中で施設の話と言うのは家族から出る事の方が多い。つまり高齢者本人が積極的に施設に入りたいというのは少数だ。

今回、私が直面したケースもこのような事例。自分では家にいたいが、家事や通院などは家族に依存していた。奥様への暴言や暴力もあり、私は数年前から施設入所を勧めていた。そんな時に通院に付き添った息子から「これからは通院は介護サービスを使って自分でやってくれ」と言われ、施設入所を決めたというものだ。

 

その人は家族、とりわけ子供は自分の言いなりになって、何でもやってくれると思っていた。しかし現実的に面倒を見れないという事を突き付けられた時、やっと決意したというものだ。

 

その時に話した顔はやはり寂しそうだった。

自分の思うようにならない現実、自分が建てた家を出なければならないという事から来る寂しさだろうと思う。

 

その後は見学をして、あっという間に施設を決めたようだ。

 

(3)その人にあった施設を

施設と言うのは終身型もあればそうでないところもある。住宅型と呼ばれるものある。

 

そういう多様な選択肢の中で、施設に何を求めるか、自分に合う施設や将来どのような未来を描いているかという事で施設は決めていく方が良い。

 

しかし要介護度の問題だけで在宅では生活できないというのであれば、特に多くの選択肢が必要ではないかもしれない。それはケアマネの力量と言うか、やり方で対応可能だろうと思う。

 

あと有料老人ホームが視野に入っているのであれば、紹介センターは使うべきだと思う。

 

とにもかくにも情報量。たくさんの選択肢で悩む事も、施設に入った後は良い思い出になれば良いと思う。