(1)二つの震災を振り返る
私が社会人になってから今までを振り返ってみると、阪神淡路大震災から新潟中越地震、東日本大震災、能登半島地震など、様々な地域で災害が起こった。その大部分を介護・福祉業界で働いていたのだが、阪神淡路大震災と小地谷地震の時を語ってみたい。
阪神淡路大震災は平成7年(1995年)1月に発生した。私はちょうどその8月に養護老人ホームの生活指導員に転職した時だが、その施設でも一人職員を派遣していた。
本人の希望か施設の意向か詳細は分からないが、大学の時にボランティアをしていた私にすれば、そういう活動はさもありなんと思っていた。
対して新潟中越地震は平成16年(2004年)10月に発生した。この年は私が起業した年で、訪問介護事業者連絡会に入った年でもあった。そこで自治体からヘルパー派遣の要請があったが、協力する事業所は皆無だった。
事業所によってはオムツを送るところもあったが、本当に必要なのは人材だったと思う。この頃から千羽鶴はゴミにしかならないと言われ始めた頃だった。
この違いは介護保険になり、ヘルパー不足が言われ始めた時でもあるし、ボランティアを派遣した老人ホームは社会福祉法人であるのに対し、営利企業が自腹を切ってまでボランティアに参加はしないという事が当たり前になったきっかけでもあっただろうと思う。
(2)災害時には
「人助け」というのは聞こえは良いが、全くの素人が気持ちだけで行っても足手まといになるだけだ。
ましてや被災者の人は気が立っている。明日をも知れぬ我が身を案じるだけで精一杯なのだ。更に言えば日本人の背勝レベルは高い。ウオシュレットが無いと要持たせないという人がいたら、こういう被災地では用を足すだけでもストレスになる。つまり生活レベルが上がった分、それが落ちた時のダメージは相当大きい。また避難所や仮設住宅などは、今まで住んでいた所に比べれば劣悪だ。そこで被災者が思う事は、早く今までに近い生活をさせろという事になるだろうと思う。
それにそこに要介護者がいたら、早くどこかに連れていけというのが本音だろう。
こういう非常時は自分が生き残る事が最優先だ。弱い奴は踏み台になるしかない。ましてや助けようなんて思うほど余裕は無い。
そういう所にのこのこ行って「何かお困りごとはありませんか?」なんて言おうものなら「ふざけんな!」と怒られるのが関の山だ。
要介護者も健常者も非常時には早く助けて欲しいのだ。
(3)BCPとは言うけれど
よく介護の仕事をしているのだから、災害時には率先して要介護者の支援をするのかと言われるが、残念ながらケアマネであろうがヘルパーであろうが被災した時は一般人と同じ被災者になる。そうすると、マスは自分の身を守ることが第一で、その次に家族。仕事はその次という事になる。
それに介護を計画するのであれば、ヘルパーや看護師がどのくらいいて、必要な支援を提供できるかが必要になる。どんなに「ヘルパーが必要です」といっても動けるヘルパーがいなくては話にならない。
そこで「共助」とか言ってボランティアで、なんて生ぬるいことを言う人もいるが、それこそ人を馬鹿にした話で、誰が好き好んでそんな非常地域でタダ働きするのか、という事である。
従って、計画や制度を作るのは結構だが、そんなに人は甘くないという事は念頭に置くべきだと思う。介護事業所にBCP計画策定の義務を課せられているし、研修でシュミレーションなども行うようだが、おそらく全く機能しないだろう。
とにかく「生き抜く」事が第一で、それ以外は成り行きに任せるしかない。
災害支援ケアマネなんて言うが、今までの災害でどれだけの協力が得られたのかという実績はどれだけか発表して欲しい。職責だのという悠長な事は言っていられないはずだ。
