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ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)還暦が見えてきた。

私は現在55歳。この位の年齢になると、60歳以降の人生を考える年なのだろうと思う。会社勤めしている人は、人によっては独立し、ある人は退職までしがみつき、又ある人はリストラにあって途方に暮れる・・・そんな悲喜こもごもが見え始める世代になるのだろうと思う。

 

私の場合は自営業であるから、やる気になればいつまでも仕事を続けることは出来る。しかし今の居宅介護支援事業という介護の仕事は、来年度末までに新たな資格を取らなくてはならず、その手間などを考えればそこまでの意欲も無く、どこかに潜り込んで介護の仕事を続けるか、あるいはまったく引退するかという二択に迫られている。

 

もしかしたら今のままでも続けられるような改正が行われるかもしれない。そうなれば今まで通りという事になるが、仕事のペースはこれまで程度で、ある程度自分の時間を持てるようにしたいと思う。

 

(2)引きこもりの悪い所は

それでも仕事を全く辞めてしまうと時間を持て余してしょうがないだろうと思う。

 

最初の数日は良いだろうし、もしかしたら旅行などに行って骨休みをするかもしれない。しかし気候が良い時なら良いが、そうでない時は家に引きこもるような気もする。

 

個人的にも人に会わず、家に一人でいることは嫌いではない。一日誰とも話さなくたって、何とも思わない。

ただし、人と接する事が減って悪いことと言えば、人のちょっとした言動や行動が気になるという事。逆に言えば、ある程度の人と接する絶対数がいると、細かいところまで構っていられないので言わなくても良い事は言わない。それが絶対数が少なくなると、ちょっとしたことでも気に障る事もあるのだ。

 

なので、そうした自分の心持ちと顔を合わせながらの人生という事になる。そうするとやはり誰かと接していた方が気持ち的にもおおらかになって良いのかもしれない。

 

(3)何をしたいという事も無い

それで実際に仕事を引退して、何もないという状態を考えてみると、特にあれがしたいこれがしたいというものも見当たらない。それはそれでそういう人生なのだと言ってしまえばそれで終わりだが、世の中で起こる大抵の事は生き死にに関わる事でなければどうでも良いことが多いと思う。

 

だから何をしたとか何をしなかったとか考えるかもしれないが、振り返ればどうでも良いことのように思えるだろうと思う。それは振り返ってもしょうがないし、事を起こそうとする勇気も無いから、人生なんてそんなもんだよね、で片づけるのが一番良い。

 

だからおそらく時の流れのままに生きていくことになるだろうと思う。やらなければならないものがあればするが、何もせず時間が過ぎるのを待つだけというならそれでも良い。

 

波間に浮かぶボールが浮いたり沈んだりするように、自然に身を任せて生きていきたいと思う。

 

 

(1)生活支援コーディネーターとは

この記事を読んで真っ先に「?」と思ったのは「生活支援コーデ

ィネーター(SC)」という職種。ハッキリ言って初めて聞いた言葉だ。我が区でもそんな職種があるのかと調べてみたら、今年になって業務委託を受けたらしく、まだ実際には動いていないようだ。

 

そもそも「生活支援コーディネーターとは何ぞや?」という事だが、何をする人なのだろうか?以下の動画を参考にして欲しい。

 

まあ、一つは介護保険における生活援助が無くなるであろうから、その穴埋めを地域資源でやるというもの。

 

それでついでだから、何か高齢者のニーズがあるだろうと。だからそれを地域課題とやらにして、それを出来る団体とマッチングしようと。まあ、そんな感じ。

 

いつも思うが、人が動くというのはそれなりにお金が動くもの。それをボランティアや安価なサービスを活用しようとしているようにしか見えないのだが。

 

(2)「質」を求められないボランティアを活用

確かに定年を迎えて、とか子供が手を離れて、などの理由で時間に余裕が出来て、もしくは暇を持て余して、という事になるとボランティアデモして地域貢献に、と思う人はいないわけでは無い。そしてそういう「サービス」を利用したいと思う人はいないでもないとは思う。

 

というのも今でもボランティアをやっている人はいるし、それなりの役割は果たしている。

 

しかしそもそもであるが、ボランティアというのは生活に余裕がある人が行うものであり、責任を負わすものでは無い。そうなると、生活援助で入るとなれば「今日用事があってボランティアに行けません」などとなると、例えば食事の支度やらも出来なくなく。洗濯物もたまる。掃除も出来なくなる。なんていう事態になる。それにいつまでも休んでいたら、それこそケアプランの目標になりうる「生活な生活環境の保持」という目標は達成できなくなる。

 

それはプランでどうのこうのというより、高齢者本人が納得のいかないサービスで自分好みの生活が出来ないという事にもつながってしまう。

 

そういう不安定なサービスであれば、ケアマネとしてもチームに入れにくいし、「介護サービスの質」を問うのであれば、そういう無責任なものは明らかに「質」が低い。

 

生活支援コーディネーターがどうこう言うより、実際に動く人が信用できるか、どこまで期待できるかという事まで議論する必要が本当はあると思う。

 

(3)「個」を生きる今だからこそ

色々と耳障りの良い話の中で、地域での役割、とか地域で生きる、支えあうみたいな話がある。確かに地域でこんなことが出来るとか地域での役割というのは重要だ。

 

しかし今は「団体」より「個」で生活を成り立たせる時代である。何か必要であれば地域関係なく色々なものを探すし、あえて地域に出なくてもネットで何でもできる時代になってきた。

 

むしろ、人間関係に疲れて別に人の輪に入りたくもないという人もいる位だ。だから何も地域にこだわることは無い。生活コーディネーターというのはむしろこうした情報を駆使して、本当に必要な情報を提供する事こそ価値があると思う。

 

無理やりな人助けは害になるだけ、という事もあるだろうと思う。

 

 

(1)

「老人ホームに入ったら、1月20万円くらいかかるって話を聞いた。」と多くの人から言われる。確かにその位の金額がかかる施設というのはあるだろう。それがボリュームゾーンかと言えば何とも言えないが、「1月20万円」という数字はある意味常識として独り歩きしている。

 

では20万円の費用を払えるのかという問題。

 

単純な話、国民年金のみでは月々10万円ももらえないから、10万円の赤字となる。月々10万円とすると年間120万円。10年生きるとすれば1200万円の貯金が必要になる。

 

よく2000万円貯金しておけ、なんていう話もあったがあながち嘘でもない。しかし、随分高いハードルだと思う。

 

(2)費用の実際は

それですべての施設がその位費用がかかるのかと言えば勿論そんなことは無い。

 

一例をあげると某老人保健施設の場合。

費用の内訳は要介護度・利用者の負担段階・介護保険自己負担・食費・居住費・諸々の諸経費で計算される。ポイントは利用者の負担段階というもので、収入や貯金額に応じて4段階に分かれる。

 

その上で出すと、要介護5で費用負担が一番高い3割の人で約24万円という金額になるようだ。

 

しかし同じ要介護5でも段階が低い人は6万円台となる。そして多くの人は10万円台ということのようだ。

 

つまり介護老人福祉施設、いわゆる特別養護老人ホームや例に挙げた介護老人保健施設での金額はこのようなものになるというのが実際だ。

 

しかし当然だが、こういう所は競争がある。

 

特別養護老人ホームは制度上、要介護3以上であれば申し込みは出来るが、私の区では区内ホームは役所に申し込みをすることになる。そこで緊急性の高いA判定、それ以外のB判定と判定され、当然A判定の人が優先的に入所種る事になる。

 

つまり要介護3になったからと言って申請は出来るものの、余程の緊急性が無いと区内ホームは難しい。

 

さらに、特別養護老人ホームに入っても医療費は別で、という事になれば「1月20万円」という数字が出てきたというのが実態だろうと思う。

 

(3)ランニングコストは年金で賄うしかない

財産、という事になると動産、不動産をフル動員して、という事だが、高齢者にすれば出来れば年金だけで回して、動産、不動産は子供に残してやりたいという気持ちはあると思う。私が受ける相談でも「出来るだけ安い金額で」という話は多い。

 

親の費用が足りないから、その不足分を子供が補うという事もありうるのだが、そこまで余裕はないだろう。

 

制度に欠陥があるとか、みんな今の生活に大変だからとか言うつもりはない。しかし財産処分とも言えるこの支払の実態は、考えさせられてしまうのだ。

 

勿論、施設に入ったおかげで子供も楽になり、親も喜んでいて、という結果になれば、その費用負担も納得のいくものになるだろう。人生の最後に良い施設には入れて、本人も幸せだったと思いますくらいには言って貰える。

 

しかし何かあった場合、施設の過失を問う裁判が多い。そして大体において施設が敗訴し、遺族に多額の賠償金を払う羽目になる。そうなるとお互い不幸だ。

 

介護施設には個人が毎月20万円払う価値があるのか、という問いにもつながるのかもしれない。