ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)ケアプランの存在意義は。

ケアプランというもの、理想と現実の差が激しい。

作成の手順としてはアセスメントをしてその結果による課題を抽出し、利用者や家族の意向を踏まえ、問題解決に向けた目標を掲げ、どのようなサービスが必要で、何処の事業所に任せるか、そしていつサービスが入るのかという一連の流れである。

 

理想とすればこのプランを実行する事により、利用者の在宅生活を維持する道標を示す事になる。だからプランは利用者が読み返せるような、ラブレターを書くような思いが詰まったものにしなければいけないという研修講師もいる。片や利用者にとってはケアプランの内容より、サービスを実行してくれれば十分。能書きはいらないから、とにかくヘルパーに入って欲しいとか目の前の問題解決の方が重要。

 

2027年の介護保険改正で「生産性向上とICT活用」というポイントがある。それなりに前からケアプランもAIで作成すれば良いという話はあった。私は使ったことが無いが、使った人によるとやはりメリットデメリットはある。おそらくケアマネから見て「こういう事じゃないんだけどな~」という事だと思うが、それまでの情報からAIが判断するとそのような答えになるという事なんだろうと思う。個人的にケアプランというのは必要だと思うが、同時に「あれば良い」というモノに過ぎない。

 

(2)他の介護サービスについて。

各介護サービスについては、介護計画書はAIで作れるものになる。今もそうだが、ケアマネからのケアプランをマスタープランとし、各介護サービス計画を策定する。その内容も利用者にとってはどうでも良いもののような内容のモノは多い。

 

リハビリに関して言えば、LIFとの連携が言われている。何をどれだけ行って、どれだけの効果があるかを可視化できるものと期待があるかもしれないが、これも利用者の本音から考えればズレている事もある。

 

ケアマネの私が各介護サービスに期待するのは、利用者がそのサービスを過ごす時間を穏やかに過ごしてもらえているかである。それはリハビリを一生懸命やるという人もいれば、一人の時間をかみしめるように過ごす人もいるだろう。

 

よく「ぴん・しゃん・ころり」と言われる。要介護になり寝たきりの時間を出来るだけ短くという一つの理想の形だが、それよりも残りの時間をどのように有意義に過ごすか、もしくは穏やかに過ごすかという事の方が大事だ。その為の介護サービスであると私は思っている。

 

(3)むしろ大歓迎な「AIに仕事を奪われる」

よく「AIに仕事を奪われる」という事を言う人もいるが、人不足の状況ならむしろ奪ってくれて大歓迎である。

 

特にケアプランなどは、存在意義を考えても一応の形があれば良いという程度の代物である。ハッキリ言ってケアプランの善し悪しを議論しても、そもそも読まれなかったり活用されないモノであれば、誰がどう作っても構わない。

 

記事に「介護の現場の仕事は考え続ける事、問いかけ続ける仕事」とあるが、これも将来的にはAIでクリアされるだろう。それに意思決定という事もAIに判断を委ね、その通りにする人も増えると思う。要は考える事を人間の側が辞めてしまうという事だ。

 

良い悪いは別にして、それで穏やかな老後を過ごせるならそれでも良いと思う。このAIに関するモノは、その第一歩となりうるか。祖rはそのうち、私もお世話になる事だろう。

 

 

 

(1)困難ケースは嫌いじゃない。

私は来年3月で居宅介護支援事業所を閉める予定なので、最近は新規利用者を受けていない。それでもたまに問い合わせがあるし、中には断られる理由が分からないと言わんばかりの言い方をしてくる人もいる。そういう人に対して「すいませ~ん、今は受け入れ出来ませ~ん」というのも良いものだとイジワルな私は思う。

 

とはいえだが、私は困難ケースと言われるものを受け入れるのは嫌いじゃない。面倒な人をどのように扱うか、場合によっては全てがパーになっても構わないくらいな感覚で行えるからだ。

 

私はケアマネとして思うのは「私が担当する利用者は幸せだ。逆に私ではダメだという人は誰も対応できない」位な気持ちでいる。嫌な言い方をすれば「受けてやってる」位な感覚だ。それを傲慢と言う人もいるだろう。しかし本来プロと言うのはそういうものだろうと思う。

 

そういう態度と言うのはどこに行っても変わらない。時と場合によるが、そういう私を必要と考える人もいる。今回はその事例をあげる。

 

(2)利用者の安易な納得を信じない。

それは私の圏域の地域包括支援センターの話で、私はそこの管理者と折り合いが悪く、利用者を紹介してもらえない時期が続いた。私は包括の研修も地域会議も下らないと思って行かないし、ケアマネ以外の収入ラインがあるから生活には困らない。だから圏域の包括とはいえ遠慮する必要は一切ない。ある時、書類を提出しにその包括に行ったとき、運悪くその管理者に出くわしてしまった。ちょっとした話になり、「私は包括から紹介してもらわなくても生活できるし、居宅を閉じる予定だから紹介しないでくれ」と堂々と言った。その管理者は苦笑いを浮かべていたが、周りの職員はヒヤヒヤしていた事だろうと思う。

 

そんな包括だが中には仲の良い人もいて、紹介しないで良いと言っているのに「どうして受けてくれないの!?」とそのバリアを突破してくる人もいる。また「どうしても受けてもらいたくて…」とお伺いを立ててくる職員もいる。そういうケースは期間限定になるが受けるようにしている。

 

そして今回、久しぶりにその包括からの紹介を受ける事にした。

77歳の男性で、外出時に転倒し入院。退院後も自宅で転倒を繰り返しているケースだ。その利用者は頑固な男性で、隣県に住む妹がキーパーソン。介護認定は要介護4。包括職員からは「やっと介護サービスを使う気になった」と言って紹介してきた。初回訪問で感じた事は完全に妹に依存しているというよりアゴで使っている。しかし妹も疲労がたまってデイサービスを紹介して欲しいと言って来た。

 

個人的に思ったのは「多分、無理だろうな」という事。

包括職員も「介護サービスを使う気になっている」、妹も「デイサービスに行く事を納得した」というが、要は話をするのが面倒くさくて話を終わらせる手段として相槌を打ったに過ぎない。果たして担当者会議の日に「やっぱり行きたくないという事で・・・」と断って来た。

 

(3)利用者との距離の置き方。

このケース、本人は妹に世話をしてもらいたいという欲求(ディマンド)がある。妹は自分の家族もあり自分も疲労がたまっているから介護サービス導入の必要(ニーズ)がある。このニーズとディマンドの一致というのは思いの外難しい。おそらく包括職員も妹も「いつまでも妹が面倒を見ることは出来ない」という事実を力説したのだと思う。しかしそれは男性にとっては関係ない事で、ついでに面倒を見る人がいなければ自分には方法論は無い。なるようにしかならないという事だと思う。

 

それはこの男性が我儘という事では無い。この男性の生き様なのだ。

なので説得してどうなるものでもない。おそらくこの男性の結末は当初より状態が良くなってきているからしばらくは大丈夫だろうが、何かのきっかけで立ち行かなくなり、施設に入るだろうと予想する。

 

それが良いかどうかの問題では無くこの方の運命だ。我々は介護サービスを紹介出来るが、この方にとって他人の言う事を聞くという事は勇気がいる事だろうと思う。従って本人が諦めるまで放っておくしかない。それを良しとするかはケアマネによるかもしれないが、放っておいて何とかなるのであれば介護サービスは必要ない。この私の距離の置き方と言うのがこの紹介した包括職員の評価のようだが、どんなケースでも利用者との距離は考える必要があるのだろうと思う。

 

(1)施設は収容所?

介護、と言うより高齢者福祉がサービスになる前から高齢者から介護職員への暴言・暴力はあった。しかしそれが表に出なかったのは、一つは利用者が「お世話になっている」という意識が強い人が多かった事が一つ。そして施設も「住まい」と言いながらも。収容所のような管理をしていたという事が挙げられるだろう。

 

私も養護老人ホームで働いていたが、何か問題があれば福祉事務所を呼び出して注意してもらった。そして「この施設にいさせてください」という謝罪をさせた上で手打ち、という事が多かったと思う。

 

だから問題が起これば「退所勧告」という切り札を施設は持っていた。そして措置制度という行政が関わっていたからこそ出来た事でもあったと思う。それは裏を返せば「職員パラダイス」と言われる時もあった。職員にとって気に入らない利用者は注意し、場合によっては退所させる。それだけ職員は守られていたし、それが施設経営上必要な管理でもあった。

 

(2)「介護職員の質」という魔法の言葉。

それが介護保険という「措置から契約へ」と各施設が高齢者を取り合う状況になった時、このような収容管理体制では高齢者の支持を得られないという経営上の都合もあったと思う。

 

また利用者も以前のように「お世話になっている」というより「利用している」権利意識が強くなってきた時代でもあった。思えば「利用者」から「お客様」という意識に変えていかなければならないと研修で力説している人もいた。私は「お客様意識」という事は職員との関係が五分と五分とでは無いと思っていたので、場合によっては無法地帯になる可能性も考えていた。

 

話は飛躍しすぎるのを重々承知の上で話すが、仮に刑務所が収容者の人権や生きがいなどの主張を受け入れ、職員がそれに従うとなったら、それは管理では無く無法地帯になると思う。それに近いものを感じていた。

 

そして研修では利用者が介護職員に暴言・暴力をふるっても、それは介護職員の対応が悪い、やり方次第では暴言・暴力は起こらなっかったという話を延々と聞かされ、それは「介護職員の質」という言葉に置き換えられた。

 

(3)曖昧にされてきた高齢者の暴言や暴力。

個人的にはこのような考えは必要だったと思う。と言うのも措置制度での介護職員の態度はすこぶる悪かったのは事実だからだ。何でも「~させていただきます」と遜る必要はないが、何でもかんでも管理すれば良いってものでは無いというのは感じていたからだ。

 

介護保険が始まって四半世紀経った。ケアマネとして他社の介護職員と接すると、間違いなく良い人が多い。前向きに在宅生活を考え、問題提起も的確で、その解決までは至らなくても現状できるだけの努力はされている。そういう意味では介護がサービスになったという事は一定の成果はあると思っている。

 

しかし同時に高齢者の暴言や暴力を何処まで受け止めなければいけないかという事は曖昧にされてきた。今回の事例は「たかがこんな事で」と思う人もいるとは思うが、今までやられっ放しだった常識に一石を投じる事であったと思う。

 

やはり介護職員は守らなければならない。