ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)夢を追いかける

どんな年齢になっても夢を持ち続け、追いかけ続けることは素晴らしい事だと思う。私の場合は「個人商店のオヤジになる」という夢を叶えることが出来たし、働き方についても理想と言える働き方出来ている。

 

私の場合、ケアマネージャーという年齢に関係なく、知識や技術よりも人生経験が問われるような仕事だから事足りていると言える。加えて独立して一人で出来る環境であったり、こうした仕事に巡り合えたのは運が良かったと思う。

 

しかし医者となると世間からの目も厳しくなる。

 

もし自分であれば、都会の病院に勤務してというよりは過疎地域でまったりと仕事をすることを目指すという事を考えるだろうと思う。

 

(2)超常現象に近い私の会社

この方の挑戦に対しては賛否両論があるという。

個人の夢に対して応援するという声がある一方、「高齢新人に診られたくない」「人間関係に難あり?」「これだけ時間がかかるというのは適性が無いのでは?」などの批判の声も目立つ。

 

まあ、どちらも正論である。

 

そこで自分に置き換えて考えてみれば、よく考えてみれば最初から企業を目指して何かしたという事では無かった。介護の職場に就職しようとしてヘルパー講習を受けて、その流れで起業する事になり、何となく環境が整ったという事だ。

 

私の場合はそんな感じで自分の意思に関わらず、超常現象に近い形で事が進んだ感じがある。そして起業して22年になった。こういうのを奇跡というのだと思うけど、物事が進むというのはこういう事なんだろうなと思う時は沢山ある。

 

(3)良いことも出来なければ悪いことも出来ない

振り返ってみれば、雇われでいた方がずっと楽だったと思う時がある。しかし雇われの立場の仕事と今の立場での仕事の熱量は明らかに今の方が上だと思う。比べるのも失礼だけど、私にはこうした働き方の方があっていたのだろう。

 

つまり起業すること自体は誰でも出来るし、それが向いているかいないかの違いでしかない。仕事のノウハウはそんなに突拍子の無い事では無い。

 

しかし私が出来たことはすべて自己満足の世界である。

 

私の場合はそれで済んだという事だ。それだけ人に迷惑をかけてもいないと思うし、人の存在なんて小さいものだからだ。

 

だから人ひとりの夢がどうとか言っても、さほど影響はない。良いことも出来ないかもしれないが、悪いことも出来ない。その程度で良いんじゃないかと思う。だから人に対してあれこれ言っても意味は無い。運なんてそんなものだから。

 

 

(1)将来はどうなっているのか

自分の人生を振り返るほど老け込んだとは思いたくないが、あえて振り返れば嫌な事が9割、良かった事が1割と言ったところではないかと思う。

 

大嫌いな勉強、煩わしい人間関係。どれも私は苦手で好きではない。だから子供の頃に友達を遊ぶという事もそんなに楽しかった思い出は無い。更に今でも何かの集まりがある時は気を使うから気が重い。

 

そう考えると、今は楽しく学ぶ方法を知っている人が発信したり、SNSでのつながりだけで良いという時代だ。おそらく私と同じように、勉強が嫌いで、人間関係を作るのも苦手という人が多く、それを打開するような取り組みの成果なのだろうと思う。

 

だからその当時に苦しんだ私からすれば今の時代は天国のように思うのだが、それはそれで良い事ばかりではない。今は今で苦労もあるだろうし、将来は今の人が見ている苦労を解決するものが出来ているのだろう。そんな将来はどんな時代になっているのだろうか。

 

(2)苦労の時期は辛い

「若い時の苦労は買ってでも行え」という言葉がある。その言葉に従ったわけでは無いが、色々な面倒なことを押し付けられたと分かった上で行ってきた。この言葉はベテランが若い人に面倒なことを押し付ける時の為に使われる方便ではないかとすら思ったこともある。

 

もし結果が出ていたなら、そのベテランは「あいつは俺が育てた。」と吹聴して回っただろう。あいにく結果が出たことの方が少ないから「あいつもここまでのヤツだ」とか「期待外れだ」となっただろうと思う。それは関係が切れた後に全くやり取りが無くなったことからも伺える。

 

その事についてあれこれ言うつもりはない。というのも自分に害がある人間はいなくなって貰った方が良いからだ。

 

そう考えると、ある程度の年齢になると人としての器が大きくなるというか、嫌な人の対処の方法が分かったり、それこそ自分が気を使わない、自分の居場所を作る術を覚えるようになる。つまり処世術を活用できるようになるのだ。

 

だからそこに至るまでは苦労の連続だ。

ハッキリ言えば、その期間は辛い。

 

(3)見方を変えるには比べる事も必要

文中に「困難があるから成長できる」とか、「あまり風が吹きつけない木が安定して丈夫に育つことはない。 木は揺らされるからこそ強くなり、しっかりと根を張るようになる。 風のさえぎられた谷で育った木はもろい。 ――セネカ『摂理について』(第4章16)」という文章がある。しかしこれは潜り抜けてきたからこその言葉であり、リアルに苦しんでいる人には到底響かない言葉だろうと思う。

 

そこで必要な視点というのは「比較」なのかなと思う。

 

例えば外国に行くと、日本とは違う視点を持つ。日本の常識が通じないことは沢山ある。そういう所に行けば生きることが精いっぱいで、勉強などは二の次という現状がある。

 

そういう世界を見た時に今まで自分が描いていた不満や苦労というものを見る角度も変わってくるはずだ。

 

それを感謝しろという事では無い。

 

しかしこれからの生き方に大なり小なりの影響はあるはずだと思う。

 

「小さい子には旅をさせよ」という言葉があるが、そうした視野の拡大が生き地獄でも生き抜く術を得られる鍛錬なのかもしれない。

 

(1)ケアマネは無くならない。

ケアマネージャーという仕事、日本に介護サービスという仕事がある限りなくならないと思う。それは利用者のマスタープランでもあるケアプラン作成という点からも必要な職種だからだ。

 

利用者とすれば実際に世話になっているヘルパーや看護師などの方がリアルに世話になっているから、ケアマネは別にいてもいなくても良い存在かもしれない。

 

それでも毎月モニタリングで伺って、必要なサービスを調整していれば、やはり一目置かれる存在になるのがケアマネだと思う。

 

このように基本的には利用者から必要とされる存在であるのがケアマネである。しかしこの「必要とされる」という事を悪用する連中がいるから困ったものだが、悪用する価値があるという事で存在を認められているとも言える。

 

(2)シャドーワークを押し付ける先はケアマネ。

行政にとっては完全な便利屋だろう。

いわゆる「シャドーワーク」の問題は、ハッキリ言って行政の働きかけが問題だ。

 

古い話からすれば、介護予防が始まって訪問介護やデイサービスの利用制限が始まった時に、ロクに説明もせずにケアマネが利用者に説明するようになった時もそう。マイナンバーを手続き出来ない高齢者に対して「ケアマネに相談するように」としたのも行政の側である。

 

地域包括支援センターも同じ。

私の例で言えば、選挙の期日前投票の付き添い、引っ越し業者の手配、ネズミ駆除業者の手なども行った。これらは「利用者への支援」という名目で、利用者が出来るわけがないのを分かっていながら言ってくる。

 

自分たちにとっておいしいと思えばこのようにシャドーワークを押し付ける先がケアマネなのだ。

 

(3)ケアマネ場便利屋としての生き方しか生き残れないかも。

という事で、こんな便利な職種は無くさないというのが原則となるだろう。後はケアマネ側の愚痴をちょっと聞いてやる、という姿勢だ。

 

ハッキリ言って、ケアプランの内容云々などはどうでも良い。その内、AIが発達すればパッと出て来る程度のモノだ。

 

問題は便利屋となって安価で動く人であるケアマネの代替が生まれるかという事。それが無い限り、便利屋としてのケアマネは無くならないし、場合によってはケアマネが生き残る道なのかもしれない。