ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)他人がコントロールできるものでは無い

私は自分の姉が嫌いである。1日でも早くいなくなって欲しいと思う位である。そういう話をすると「そんな事…」と絶句する人や「唯一の家族なんだから」と言ってくる人、否定はしなくても首を振る人など反応は様々だ。

 

「親が嫌い」という人も少なくない。思春期で親に反抗していた頃ならさもありなんだが、いい年をしてもその思いが消えないという事もある。自分が親になって、初めて親の苦労が分かったという事もあろうが、結果としてそうならなかったという事もあろう。

 

つまり人の生き方、感じ方は人それぞれで、他人がコントロールできるものでは無い。この人はこう考えているんだから、それでいいじゃないかという受容の原則は身近なものでもある。

 

(2)考えに正解も不正解も無い

今まで多くの利用者を見て来たが、本当に色々な人がいるもんだと思う。

 

とある利用者は、息子が自分の世話をしないことに腹を立てた。何でも息子には娘がおり、その娘が大学進学するから、自分が稼がなくちゃいけないと介護を拒否されたという。それ自体はさもありなんと思うが、この利用者は、女の子には大学の進学を諦めさせて、自分の世話をさせるべきだと言ったという。

 

確かに昔の考えでは「女に学問はいらない」という人もいただろう。そして自分の世話を優先すべきという考えもあるだろう。

 

だからその利用者の考えも息子の考えも否定するつもりはない。大切なのはそういった事が起こった後の現実問題で、結局どうするのか、を考えるきっかけにするべきなのだ。

 

考えというのはどちらが正解でどちらが不正解ということは無い。正論でも感情的に嫌だという事も十分ありうるのだ。

 

(3)人生のどこかでふと気づくもの

外交の場で「同意しないことに同意する」という言葉があるそうだ。これは外交の知恵とも言えることだと思う。だから対人関係においても「(納得できないけど)あなたの考えは分かった」という事から始まるので良い。

 

私は良く「年寄りの気持ちを分かってくれる」と言われるが、何てことは無い。ただ否定しないだけだ。ついでに反社会的な話でなければ否定するつもりもない。というのもその人が私に影響するわけでも無いからだ。

 

おそらくこういう事を客観的というのだろう。こういうことは人生のどこかでふと気づくものかもしれない。

 

 

 

 

(1)人間は感情の動物

もう今は少なくなったが、私が社会人になり、介護の現場で出た頃は戦争を経験した人が少なくなかった。兵隊として戦地に行った人、夫を見送って先立たれた人、そして当時は子供で空襲で怖い思いをした人など、大変な時代を生き抜いてきた人が多かった。

 

今でも戦争の悲惨さというのは筆舌しがたいものがあるが、戦争を知らない私たち世代はあくまでも歴史の1ページとしてしか見ることが出来ないという事もあると思う。

 

人間は感情の動物であるという話は前回のブログでも書いたが、我々介護職員はそれはそれとして理解し、対応していかなくてはならないと思う。

 

(2)我が社の例

人それぞれ、辛い思いをしたからこそ、その苦労が報われる事を望む。そして相手を自分の意のままにしたいという人もいるだろう。その為にいかに自分が恵まれていないか、という悲しさを訴える。

 

我が社でもそういう人にあった事がある。

内容は割愛するが、一言で言えばヘルパーに対するセクハラだった。そのヘルパーの対応も悪かったと言えば悪かったのだろうが、起きてしまった事はしょうがない。

 

結果として警察が介入し、その利用者は多額の慰謝料を払う羽目になった。

 

つまり個人が生きてきた過去の悲しみを、今の介護サービスに持ち込み、介護職員がその悲しみを癒すことは出来ないし、する必要が無いという事だ。

 

(3)感情に流されるな

介護職員と利用者の関係というのは、言うなればそれまでの関係である。どんなに利用者に尽くしても、家族のように接しても「お世話になったケアマネに遺産を」という話は聞いた事が無い。

 

逆にそういう関係にならない方が良い。それこそが適度な距離感だと思う。

 

感情論も同じ。適度な距離感が必要だ。

 

人はだれしも辛い事がある。それをどのように表現し、受け取る側がどう受け取るか、というのは人それぞれだ。ドラマに感情移入する人もいれば、何とも思わない人もいる。しかしいずれにしても、そういう感情の動きを客観的に見ることが介護職員には求められる。

 

介護職員の方が感情に流されてはいけないのだ。

 

(1)

「人間は感情の動物である」とはシェイクスピアの言葉であるが、本当に感情というのは理屈を上回るものである。例え我がままと言われようと好き・嫌い、やりたい・やりたくない、という感情は行動の1丁目1番地である。好きな事はお金を払ってでもやりたいが、嫌な事はお金をもらってでもやりたくないというのは当たり前だろう。

 

「若いうちの苦労は買ってでもやれ」という言葉があるが、やりたくない事、嫌いな事をやらされるのは辛い。

 

先日とあるサッカー選手が「練習の質と量」について語ったインタビューを聞いた。その選手は「ものすごい練習量をこなしたことの無い選手が練習の質を語るな」という事を言っていた。つまりとにかく練習量をこなし、それを乗り越えた上での質を求めるもので、最初から効率良い(と言われている)ものをやっても意味は無いというものだ。

 

つまり「辛い事」は乗り越えなければならないという事だが、それは好きな事、やらなければならない事だからこそ乗り越え慣れるとも言える。ここで挙げる福祉の感情とは違うものかもしれないが、本質はそれであるという事は挙げておく。

 

(2)意図的な感情表出の原則

さて介護サービスにおいて、何が厄介かと言えば単純に「利用者の感情」に左右される事である。要するに「気に入るか、入られないか」により出来る事も出来なくなったりする。

 

だからまずケアマネが乗り越えるべき壁は利用者との信頼関係をどのように築くかという事になる。それは気に入られるかと置き換えても構わないかもしれない。

 

そうすればそもそも計画を作る段階でやりたくない事を入れる事は無い。仮に機能訓練が必要という人がいるとすれば、その人の考えによってデイサービスが良いのか、訪問リハビリが良いのかという選択肢になる。更に言えばうまくいかなかった時に、トライアンドエラーは付き物で、それを恐れないという事だろう。

 

そこで「何が嫌なのか」という利用者の感情は大事である。先に挙げたスポーツ選手の云々であれば、嫌な事も将来の糧ということも出来るが、高齢者の残り少ない人生で、苦労させる必要がどこまであるのか、という事は周りの感情としても考える必要があると思う。

 

つまり本人が「運動したくない」と言っているのに、無理やりやらせるというのは得策ではないという事。そこでどのようなメリット、デメリットがあるのか、例えば動けなくなれば寝たきりになるよという事をいう事もある。そうなりたくないから渋々運動するという人もいるだろう。

 

だから「大変だから運動したくない」という感情VS「寝たきりになりたくない」という感情の戦いである。こういうことは多いのではないだろうか。

 

(3)何でも話せるケアマネは

ケアマネとして、利用者から信頼され、何でも話してもらえるというのは資質として重要だと思う。しかし何でも話せるからと言って、「何でもしてあげる」という事では無い。

 

「1・2・7の法則」というものがある。

10人あなたの周りに人がいれば、7人はあなたに対して無関心、1、2人はあなたの味方、しかし残りの1、2人は何をやってもあなたの敵になるというものだ。

 

だから担当している8割の人とうまく関係が築けていれば、あなたはこの仕事に関して合格と評価して良いという事だと思う。

 

相手の感情をコントロールする事は難しい。これを100%うまくいかせるという事は、介護が全て機械化される時代まで待たなければならないだろう。