ギディオン・フェル博士シリーズの長編第4作。安楽椅子探偵。ドタバタ騒ぎ。船上の事件。正体不明の凶悪犯が乗船している。政治的に重要なフィルムが強奪される。エメラルドの象のペンダントが紛失し、戻される。女が殺されたらしいが、その死体は発見されず、行方不明の人物なし。女の正体は不明。[???]

ヘクター・ホィッスラー:クイーン・ヴィクトリア号船長
ヘンリー(ハンク)・モーガン:船客, 作家
カーティス(カート)・ウォーレン:同, 外交官
トマッセン・ヴァルヴィック:同, 元船長
フォータンブラ(ジュール伯父):同, 操り人形師
ペギー・グレン:同, その姪
オリヴァ・ハリスン・カイル博士:同, 著名な脳の専門医
スタートン卿:同, エメラルドの象の持ち主
チャールズ・ウッドコック:同, 殺虫剤のセールスマン
レスリー・ペリゴール:同, フォータンブラの操り人形について論文を書いている美学者
シンシア・ペリゴール夫人:同, レスリーの妻
“バーモンジーの恐怖”:同, ボクサー
サディウス・G・ウォーパス:ウォーレンの伯父, 政治家
アブドゥル:フォータンブラの相棒
ボールドウィン:二等航海士
スパークス:無線通信士
ベニト・フュリオソ・カンポゾッチ:操り人形の公演の関係者
ギデオン・フェル博士:探偵



船旅の最中に作家ヘンリー・モーガンは奇妙な事件に巻き込まれる。国際関係に危険なスキャンダルを巻き起こしかねないフィルムが強奪され、見知らぬ女が負傷しているのが見つかる。ところが寝かせておいたその女はいつの間にか姿を消し、そこには凶行の跡と、盲目の理髪師が描かれた剃刀が残される。

それと同時にエメラルドの象のペンダントが紛失事件も発生。ところがエメラルドはいつの間にか持ち主のもとに戻っている。しかしまたそのエメラルドが…。


モーガンから話を聞き終えたフェル博士は、その犯人の名を告げる。


※以下反転表示部のネタバレ注意。



カーの作品中でも最もファース味の濃いものとして有名だが、それと同時に駄作としても有名?w フェル博士が安楽椅子探偵として事件の謎を解き明かすが、それには題材が相応しくないと思うw ドタバタ劇の合間に手がかりが紛れ込んでいるのだが、事件の説明者がそんなことまで細かく説明できるとはとても信じられない。

フェル博士は16のヒントを提示し、読者の推理を手助けしているが、こんなドタバタ劇を根気よく読みつつ推理に集中する読者はさほど多くはないのでは? 楽観的で阿呆な登場人物たちが思慮の浅い行動を繰り返し、失敗を穴埋めするためにまたトラブルを引き起こす様を眺め続けるのにも限度がある。これをユーモアとして楽しむには、読者は推理を放棄するか、あるいは真相を読み終え、もう頭を悩ませる必要もなくなってからの、安心してのんびりと読める再読じゃないと無理じゃないだろうか。

16のヒント(鍵・手がかり)もいまいち。あまりにも曖昧すぎて、各々のヒントから、それぞれが指し示すものをすべて当てるのはまず無理。この名を挙げるのもなんだが、これがもし(当時の)エラリー・クイーンなら、もっと具体的な、読者の挑戦心をくすぐるようなものを提示して、もうちょっと上手く処理したと思う。


登場人物の中に一人くらいならまた別なのかもしれないが、これほどまでにおバカさんばかりが揃ってると、どいつもこいつもうんざりするような人物としか思えない。特に、他人の船室に盗品を投げ入れる女とか、相手も確かめずにいきなり気絶させるほどの一撃を食らわす男なんて最悪。船室の人物がそれを届け出て万事解決なわけないだろ。間違いなく強盗の容疑者になる。気絶させるほどの一撃を不意に食らわせば、ヘタすりゃまったく無実の人間が即死だよ。考えてみると、ホイッスラー船長は特に悪いこともしてないのに散々な目に遭ってるなぁ。


僕はブラック・ユーモアも好きだけど、これはなんか違うんだよなぁ。


あと、これは僕の勝手な思い込みだが、“盲目の理髪師”なる謎の殺人鬼が次々と人を殺していく話を期待してしまったところ、実際には最後まで殺人があったのかどうかすら曖昧なまま進行していく展開に肩透かし。



[Ⅰ 1 奇妙な船荷] <クイーン・ヴィクトリア号>に客たちが乗船する。その中には秘書を連れた大金持ちのスタートン子爵もいる。彼は大きなペンダントのようなエメラルドの象の持ち主で、大物政治家サディウス・G・ウォーパスの知人でもある。そのウォーパスの甥カーティス・ウォーレンもこの船に乗り合わせている。
[2 ウォーパス伯父の無分別] ウォーパスが内輪のパーティーで一席ぶった際、ウォーレンはそれを撮影した。表に出るとまずい内容だったので処分したつもりだったそのフィルムが、ウォーレンの荷物に紛れ込んでいた。船に届いた電報によりそれを知ったウォーレンはすぐにそれを処分しようと自室に戻ったが、そこで襲撃を受け、フィルムの一部を奪われた。襲撃者は誰なのか不明。
[3 フィルムどろぼうへの罠] フィルムが荷物にウォーレンの紛れ込んでいるという電報が届いた際、無電室には無電技師やホイッスラー船長、殺虫剤のセールスマンのチャールズ・ウッドコック、著名な脳の専門医のオリヴァ・ハリスン・カイル博士、そしてウォーレンの見知らぬ女がいた。ウォーレンと、彼から襲撃の一件を聞かされた、ヘンリー・モーガン、トマッセン・ヴァルヴィック、ペギー・グレンのチームは、泥棒に罠を仕掛ける。ウォーレンは病室で寝込んでいるということにして、残りのフィルムも欲しいであろう泥棒おびき寄せる。チームは隣室で待機する。
[4 頭の問題] 正体不明の凶悪犯が、偽名を用いて乗船していることが判明。その人物は用心もしていた有名な宝石鑑定家を簡単に襲撃している。スタートン卿のエメラルドの象が狙われている。泥棒を待ち伏せするウォーレンたち。ついに人の気配。呻き声が聞こえた。「ウォーレン…」
[5 エメラルドの象登場] 鼻と口から血を滴らせ、部屋の外に倒れていたのは、ウォーレンが無電室で見かけた女。後頭部に打撃を受けた様子。ウォーレンたちは彼女を部屋の中に運び込み、ベッドに寝かせた。再び人の気配を感じて部屋を出るが、相手に気づかれたのか、気配は離れて行く。その人物に追い着いたウォーレンは、相手を確かめることもなくノックアウトした。その人物はホィッスラー船長。保管するためにスタートン卿から預かってきたエメラルドの象を持っていた。
[6 消えた死体] どうやら船長はウォーレンが負傷したと聞いて様子を見に来ただけらしい。ウォーレンたちは間違いに気づき、どうしたらいいものかと慌てる。そして船長が意識を取り戻した。返しそびれてしまったエメラルドの象の扱いに困ったペギーは、手近な船室の窓の中にそれを放り込む。明日になればその部屋の人物が気づいて届けるだろうと楽観する。先ほど倒れていた女が消え失せる。血痕も残っていない。
[7 どっちの船室に?] エメラルドの象を放り込んだ船室がどこなのか、ペギーははっきり覚えていない。
[8 毛布の下の血] ペギーがエメラルドの象を放り込んだ部屋の候補を、カイル博士のC46号室とペリゴール夫妻のC51号室とに絞る。女が消えた部屋のベッドのシーツをはがすと、隠されていた血痕が見つかる。それはかなり大きな染み。寝ている女を再び誰かが襲撃した可能性。血の付いたかみそりも見つかる。それはかなり凝った作りで、本来は七つで一組のもの。意匠として、そこには盲目の理髪師が描かれている。それにちなみ、謎の泥棒、そしてあるいは殺人者を“盲目の理髪師”と呼称する。
[9 疑惑ます朝] 翌朝。昨夜の騒ぎが、多くのおかしな噂を生み出している。カイル博士もペリゴール夫妻も含め、自室にエメラルドがあったと申し出る者は現れない。
[10 登場人物] 無電室にいた女の正体は不明だが、彼女は大量の書類を抱えていた。騒動の夜、カイル博士の部屋は一度も開かなかったと、通称“バーモンジーの恐怖”というボクサーが証言する。
[11 盲目の理髪師を見た男] ウッドコックは盲目の理髪師がウォーレンのフィルムを奪うのを目撃していた。それはウッドコックが知らぬ人物だが、顔は見たのでもう一度会えばわかるという。ウッドコックは、フィルム奪還に協力する代わりに、ウォーレンの伯父のウォーパスの名を使って、商品の宣伝に協力してもらいたいと、取引を持ちかける。
[12 カーティス・ウォーレンの軽挙] ウォーレンがいじっていたウッドコックの商品が暴走し、そこに現れた船長が被害を受ける。あまり良くないウォーレンの心証はますます悪くなる。ちょうどそこに、船内で行方不明になっている者なしという報告が入り、女が殺されたと主張していたウォーレンは船倉に閉じ込められる。
[幕間狂言――フェル博士の所見] 船でのいきさつをモーガンから聞かされたフェル博士は、殺人はあったと断言する。事件を解き明かすための八つの鍵を披露する。「①暗示 ②機会 ③友愛的信頼 ④見えざるもの ⑤七本の剃刀 ⑥七通の電文 ⑦消去 ⑧省略文」
[Ⅱ 13 ふたつの首ふり人形] スタートンの部屋には、目にルビーをはめ込んだ首振り人形が置かれている。エメラルド盗難について船長をひとしきり絞り上げた後、スタートンはポケットからエメラルドを取り出す。いつの間にか部屋に戻っていたという。
[14 こんなことがあろうか?] ペギー、伯父のフォータンブラがこっそり酒を飲もうとしているところを見つけて咎める。フォータンブラは酒癖が悪いらしく、ペギーによって飲酒を禁止されている。
[15 いかにしてペリゴール夫人シャンペンを注文し、エメラルドがふたたび現われたか] 操り人形の公演を前にして、フォータンブラが飲酒し、眠り込んでいるのが見つかる。船倉に閉じ込められていたはずのウォーレンが現れる。
[16 C四六号船室の危険] ウォーレンは策を弄して船倉を脱出し、カイル博士の部屋に忍び込み、その中からエメラルドを見つけて取り戻してきた。その際、ウッドコックを殴りつけ、縛り上げてきた。ウォーレンは閉じ込められていたので知らなかったが、エメラルドはすでにスタートン卿の手に戻っていたはず。それがなぜカイル博士の部屋にあったのか、謎。フォータンブラの相棒のアブドゥル、喧嘩によって声が出なくなってしまう。公演は絶望的。モーガンとヴァルヴィック、ともかくエメラルドをカイル博士の部屋に戻すことにする。部屋に入ってみると、窓の下にはトランクがあり、エメラルドはその後ろに落ちた可能性が高い。もしそうなら、そこのエメラルドの存在にカイル博士が気づかなくてもおかしくない。モーガンたちがエメラルドを戻そうとする場面を目撃した船長は、この二人が泥棒と確信する。
[17 バーモンジーの恐怖あとを引き受ける] バーモンジーの恐怖が船長たちをノックアウトし、モーガンたちはその場をとりあえず逃れる。フォータンブラもアブドゥルも使いものにならないので、モーガンたちが彼らに成り済まして、操り人形の公演を行う羽目になる。
[18 金時計と失踪] 酔いつぶれていたフォータンブラと、そしてエメラルドやら何やら、雑多な小物がいつの間にか消え失せていた。
[19 ジュール伯父の無分別] ウッドコックは食堂などを散々見て回ったが、フィルムを盗んだ男は見つからなかった。以前にフォータンブラは酔っ払って、駐車中の車の鍵を片っ端から抜き取っては塀の向こうへ投げ入れたこともある。フォータンブラ、エメラルドを海に投げ入れる。エメラルドが海に落ちたと大騒ぎになるが、スタートン卿の手には当のエメラルドがある。
[20 解明] モーガンから話を聞いたフェル博士、追加の八つの鍵を述べる。「⑨間違った部屋 ⑩明かり ⑪個人の趣味に関して ⑫回避された弁明 ⑬直接 ⑭わかっている替え玉 ⑮誤解 ⑯決定的」
[21 殺人犯] モーガンの話を聞き終えたフェル博士、犯人の名を明かす。警官がその人物を連行してくる。フェル博士、推理を披露する。「別人に変装するのは滅多に人と会わない者でなければ難しいが、乗船客の中に誰とも友人付き合いをしない人物がいる。その人物はウォーパスと繋がりがある。用心していた宝石鑑定家が簡単に襲われたのは、その犯人が彼の知人だとすれば容易に説明できる。ベッドに寝ていた女を殺した人物がその痕跡を隠したのは、当人は死者と直接結びつきがあり、彼女の不在を隠し通せる自信があるから。証拠品の剃刀は値の張る珍品で、そんな物を持つ人物は限られる。両手に抱えるほどの電報となると、単なる個人の用件よりも事務仕事が相応しい。となると、その女の正体は…」
[22 ネモ退場] 犯人は再びミスを犯す。
ブラウン神父シリーズの第4短編集。ストーリーテリングの妙。今やスタンダードとなったトリックの数々。[???]

J・ブラウン神父:神に仕える蝙蝠傘がトレードマークの小男
ヘルキュール・フランボウ:巨大な身の丈と不敵な腕力の持ち主, 驚くべき軽業師, 天才の閃きも持ち合わせる, 犯罪界の大立者として知られた人物
グランディソン・チェイス:アメリカ人観光客

「ブラウン神父の秘密」 :ブラウン神父が自身の探偵法の秘密を語り始める。
「大法律家の鏡」 :鏡が砕け、人が殺され、容疑を掛けられた詩人は弁明もロクにしない。
「顎ひげの二つある男」 :マークされていた大泥棒は射殺されたが盗まれた宝石は見つからず、彼の変装道具の付け髭が二つあった。
「飛び魚の歌」 :怪人物が路上に現れ、室内にあった黄金の金魚が消え去る。
「俳優とアリバイ」 :重婚が疑われる支配人が自室にて殺害されたとき、劇団員たちは舞台の上にいた。
「ヴォードリーの失踪」 :喉を掻っ切られて殺された貴族には、恐喝されていたという疑いが。
「世の中で一番重い罪」 :伝統に従い遺産は継がせるものの、とても大きな罪を犯したからという理由で息子には会おうとしない城主。
「メルーの赤い月」 :盗難の疑いを掛けられた神秘者はそれを否定しないものの肝心の宝石は見つからず、いつの間にか元の場所にそれが出現している。
「マーン城の喪主」 :最愛の弟を殺してしまってから、人が変わったようになり、隠遁生活を送る当主。
「フランボウの秘密」 :ブラウン神父に続き、フランボウもまた自身の秘密を明かす。

※以下の反転表示部はネタバレ注意。




まるで直感的に事件の真相を言い当てるようなブラウン神父が、自身の探偵法の論理を実例によって語る、という体裁でまとめられた短編集。各短編についてはさすがにそろそろまったくの新しいアイデアは尽きてきた感があるが、そこは作者の独特のユーモアとアレンジ力、そしてブラウン神父の語り口の魅力によってまだまだ頑張っている。実際のところ、事件やその真相よりもブラウン神父の説教のほうが面白かったりもするんだw (このシリーズのそんな説教臭さが嫌いな人もいるんだろうけどw)

何はともあれ、前作では姿を見せなくなっていたフランボウの余生(w)が見られるのは嬉しい限り。





「ブラウン神父の秘密」



探偵稼業を引退し、スペインで身を固め、今ではデュロックという本名を名乗り、城を構えての隠居生活を送っていたフランボウのもとに恩人のブラウン神父が訪れる。

ちょうどそのとき、フランボウの城の隣に住み着いていたグランディソン・チェイス氏というアメリカ人観光客もやって来て、話はブラウン神父の探偵法の秘密へと移った。



ブラウン神父の秘密というのは単純なものだった。つまり彼は事件に遭遇すると、犯人の立場に自身を置くのだ。どういった精神状態なのか、どのような計画を立てるか、自身が犯人の内にあると感じられるほどに、犯人の心を掴もうとするのである。それは彼にとっては宗教修行の一環でもあった。

そしてブラウン神父は、その具体的な例を語り始めた――



ブラウン神父の推理というのは手掛かりの積み重ねによってではなく、まるで直感的にその真相を掴んでしまうように描かれているが、その推理のプロセスを神父自身が解説する。

本作は推理譚ではなく、この作品集のプロローグ。


「科学というものは、その本来の姿で捉えるなら、どうしてなかなか立派なものだ」




「大法律家の鏡」
ジェームズ・バグショー:警部
ウィルフレッド・アンダーヒル:バグショーの友人
ハンフリー・グィン卿:判事
グリーン:召使
ブラー:葉巻商, 金持ち, グィン卿宅の隣家の住人
オズリック・オーム:詩人
マイクル・フラッド:新聞記者
マシュー・ブレーク卿:オーム被告の弁護人
アーサー・トラヴァース卿:検察側の弁護人



判事のハンフリー・グィン卿の屋敷の裏庭から銃声が響き、付近を歩いていたジェームズ・バグショー警部は塀を乗り越えた。すると庭にはイルミネーションが灯っていた。それはグィン卿の趣味で、仕事部屋も兼ねた離れにスイッチがある。

しかし重要なのは泉水の脇に倒れた死体だった。その頭部は黒いわずかな巻き毛を残して禿げ上がり、黒い夜会服に身を包んだ長身のグィン卿のこめかみには弾丸の跡が付いていた。

バグショー以外で庭にいたのは、真っ赤なチョッキを着た当屋敷の召使グリーン、赤毛の新聞記者のマイクル・フラッド、輝かしい黄色の髪を持った詩人のオズリック・オーム。

グリーンは主人が法律家の晩餐会に出かけたのをいいことに木戸から出掛けたが、帰って来たらそれが閉じていたので、塀を乗り越え庭に入ったという。フラッドはノックしても返事がなく、塀を乗り越えるグリーンを見かけたので、同じように自分も塀を乗り越え庭に入った。オームは木戸から庭に入り、工事中でその先には行き場のない、裏庭を見渡せるような構造物の上にいたのだが、なぜ建物に入ることもなくそんな場所に居続けたのか、その理由も含めて、彼の証言はどうも要領を得ない。

玄関の中は荒れていた。鉢植えが横倒しになり、植木鉢や姿見が砕けている。バグショーは、何らかの理由で早めの帰宅をしたグィン卿と犯人とがここで格闘になり、逃げ出したグィン卿が庭で撃たれたと推測した。書斎には拳銃があったが、なぜかそれをグィン卿は持ち出さなかった。


オームは殺人事件の被告となった。検察側の弁護人はアーサー・トラヴァース卿。彼は被害者の友人であるが、決して個人的感情に流されるような人物ではない。その彼が普段以上に舌鋒鋭くなるのは、被告の有罪に強い確信を抱いているからであろう。

動機の面では検察側にも弱いところがあるのだが、とにかく被告は自身の裁判に非協力的で、弁護側が有力な証言を引き出すこともできず、被告側は劣勢に立たされていた。



バグショーは裁判の行方についてブラウン神父に尋ねた。すると神父は、「トラヴァース卿が鬘を外すとすっかり禿げ上がり、まるで別人ですな」と、頓珍漢なことを言い出した。

「もし英国のことをまったく知らない人に、馬の毛で作った被り物を頭に載せて、人の生死に関わる重大なことを論じる者がいると言ったら、なんと酔狂な話だと思うでしょう。それをおかしいと思うのは、その人が英国のことを何も知らないからです。それと同じように、詩人のことを知らない人は、詩人の当たり前の行動をおかしいと思う。オームが数時間ただ庭をぶらついていようが、工事中の建造物の上に最高の展望台を見出そうが、それは詩人にとっては説明するまでもない当たり前のことなのです。彼に尋ねるべき質問は、そのとき彼がどのような詩を作っていたのかということですよ」

「犯人がどんな風体の人物だったのかは知っています。薄暗いランプの光を浴びて玄関から入り、ホールにグィン卿の姿を見つけ、彼は発砲した。ところがそれはグィン卿ではなく、自身の姿が映った姿見だった。つまり犯人は、とっさにグィン卿と見間違うような、長身痩躯で夜会服に身を包み、ほとんど禿げ上がった頭を持つ人物なのです。それは真っ赤なチョッキを着たグリーンでもなく、赤毛のフラッドでもなく、輝かしい黄色の髪のオームでもありません」


数日後、アーサー・トラヴァース卿は再び前回と同じ人物に銃口を向け、そして死んだ。



鏡に映る自分の人影を他人の姿と勘違いするというのは、短篇集「ブラウン神父の知恵」に収録の「通路の人影」を思い起こさせる。


「探偵小説と称せられる高尚な科学小説の読者がご覧になったらさぞかし愕然となるところだろうが、滔々と論じているのは本職の探偵のほうで、アマチュアのほうは聞き手に回っているばかりか、話し手にいくらか敬意さえ払っている始末だった」




「顎ひげの二つある男」
クレーク教授:高名な犯罪学者
マイケル・ムーンシャイン:大泥棒
サイモン・バンクス
バンクス夫人:サイモンの妻, 素晴らしい宝石の所有者
オパール:その娘
ジョン:オパールの弟
フィリップ:ジョンの弟
ダニエル・デヴァイン:フィリップの友人
レオポルド・プルマン卿:ブナ屋敷の主人
プルマン夫人:レオポルドの妻, 素晴らしい宝石の所有者
バーナード:ブナ屋敷の秘書
スミス爺さん:養蜂園の主人
カーヴァー:スミス爺さんの養蜂園に逗留



マイケル・ムーンシャインという大泥棒が長い刑期を終えて出所した。そんな彼が隠れ住んでいると噂される土地で、プルマン夫人の宝石が盗まれた。


当然ながら、その犯人として最も怪しいのはムーンシャインである。そして実際、事件現場に残された指紋や足跡は彼のものだった。

ムーンシャインがこの土地に潜んでいるという情報には既に探偵カーヴァーが目を付けていた。カーヴァーは養蜂園の主人スミスこそがそのムーンシャインであると睨んでおり、そこに逗留していた。そしてスミスの留守に家を調べてみると、案の定、ムーンシャインの仕事道具の付け髭を見つけた。


ところで、この土地で素晴らしい宝石の持っているのはプルマン夫人だけではなかった。次の標的としてサイモン夫人の宝石が狙われるのは充分考えられることである。

サイモン家の娘、心霊現象に傾倒しているオパールが叫び声を上げた。窓を指し、幽霊だと言った。そこには付け髭の人物の顔があった。すぐにその顔が消えた。オパールの弟、ジョンが戸口に姿を現し、「ネックレスがない!」と叫ぶや否や、すぐに彼は表へと飛び出した。そして銃声が二つ。

ようやくジョンに追いついた者たちが見たのは、その顔に付け髭を貼り付け、地面に倒れたスミス爺さん――ムーンシャインとして知られた人物――の死体だった。スミスが発砲したので、やむを得ず反撃したジョンの弾丸が命中したのだ。

盗まれた宝石は見つからなかった。



ブラウン神父はスミスがムーンシャインであること、そして今回の事件の犯人でないことを知っていた。しかしブラウン神父にとってはそれが明らかでも、ブラウン神父ではない者にとっては、スミスが犯人ではないと納得するためにには別の理由が必要だった。

たとえばそれは付け髭が二つあったこと。付け髭は一つあれば充分で、もう一つは別の人物が用意したものだった。

スミスが窓に自分の顔を押し付けたのもやや不自然な行動だった。ある意味ではオパールが幽霊を見たというのは正しかった。それは生きているスミスではなく、別の誰かが窓に押し付けたスミスの死体だった。犯人の手元にスミスの死体があるからこそ、彼の指紋や足跡を残すこともできた。

となると、最初の宝石盗難事件の際には既にスミスは死んでいたことになる。既に死んでいた人間が、次の標的の家の庭で銃撃戦など行えるはずもない。

ふと気づけば、ジョンが姿を消していた。



奇妙な動機の一例として語られた事件だが、その点については成功してるとは言いがたい。死体を小道具として使うために殺したとなっているが、突き詰めれば宝石を得るためなんじゃないかという気もするし…。

スミスの家にあった、宝石の所有者リストは何だったんだろう? 昔スミスが書いたものと考えるのは無理があるし、ジョンが偽装のために置いたというのもあっさりとは納得できない。隙あらば家捜ししようと目を光らせていたカーヴァーもいたんだし、彼が住み着く以前にやったとなると、リストがかなりの長期間に渡ってスミスの家の中にあったことになってしまう。それはジョンにとってはリスクが高く、まずあり得ない。となると、やはりどうにかスミスとカーヴァーの隙を突いて、ジョンが置いたと考えるのが妥当…?


「人殺しをしてくれていたらまだしも人間らしいのに、とさえ思われた」




「飛び魚の歌」
ペリグリン・スマート:黄金製の金魚の持ち主
フランシス・ボイル:スマートの秘書
ハリス:スマートの従者
ジェームソン:スマートの事務主任
ロビンソン夫人:スマートの家政婦
バードック博士:生物学者
イムラック・スミス:銀行家, 素人音楽家
イヴォン・ド・ララ伯爵:東洋学者, 旅行家
ハリー・ハートップ:金持ち
ヴァーニー:退役陸軍中佐
ハーマー:よそ者
ピンナー警部



ペリグリン・スマートの家じゅうを埋め尽くさんばかりのコレクションの中でも、黄金製の金魚は特別なものだった。彼はそれを誰彼構わず自慢することに熱心だったのだが、そんなことをしていれば、いずれその中に悪心を抱く者が一人や二人くらいは混じってしまうのは自然の道理であり、彼の使用人たちはそれを無用心と思っていた。しかし彼自身はそれについてあまり気にする様子もなく、せっかく家に備え付けられている玄関の閂すら使っていないという有様。

だがこれについては、彼にも彼なりの意見があった。古い家の古い閂なんてものが、泥棒に対してどれほどの効果があるものか、というわけである。かと言って彼がまったく無用心だったというわけではなく、就寝前には常に金魚を寝室の奥にしまい込み、そして枕元には拳銃を用意するのが彼の習慣だった。


あるとき、スマートは銀行家スミスとともに出かけることになり、大事な金魚の番を秘書ボイルと事務主任ジェームソンに任せた。そこでボイルとジェームソンは主人の寝室に泊まり込むことになった。


その深夜、まだ若いので眠りが深く、なかなか目覚めないボイルが何やら歌声に気づいたときには、ジェームソンは既にバルコニーに出ており、そして往来にいると思しき誰かに鋭い言葉を投げかけた。

それからジェームソンはボイルのほうに振り向き、「表に怪しい誰かがうろついている。とにかく玄関に閂を掛けて来ます」と言い捨てると、階段を駆け下りて行った。ボイルの耳にはすぐに階下で閂がガタガタと鳴るのが聞こえた。そこでようやくボイルはバルコニーに出て、表の道路に目をやった。

そこにいたのは風景にそぐわぬ、異国風の装束を身にまとった、まるでアラビアンナイトの登場人物のような風体の怪人物。ターバンのように頭に巻かれたスカーフは、覆面のようにも見えた。怪人物は琴のような楽器の上にうつむいたまま、細く鋭い音を奏でていた。そしてボイルが声を掛けようとしたとき、その相手はまた一節を歌った。

ついにボイルが怒鳴り声を上げると、怪人物は「わしは金の魚の王じゃ。金の魚はわしのもとに戻るのじゃ。戻って来い!」と叫び、楽器を掻き鳴らした。するとそれに応えるように、家の中に音が木霊し、しかもそれは金魚のしまってある寝室の奥のほうから響いて来るようだった。

ボイルはそちらのほうに振り向いた。木霊は電鈴のような音色に変わり、器の砕けるような微かな音で終わった。そしてようやくジェームソンが、年齢を感じさせるように喘ぎつつ階段を上って来た。

ジェームソンが寝室の奥に辿り着いたときには、既に金魚の入った器は砕け、その中身は消え去っており、ボイルが呆然と立ち尽くしていた。



やって来たブラウン神父は閂を掛けてみた。大した音は出ず、そのそばにいたボイルはそれにまったく気づかなかった。その程度の音を2階にいたボイルが聞き取ることなどあり得ない。

盗難事件の夜、ボイルが聞いたのは閂を掛ける音ではなく、心配性の家政婦ロビンソン夫人が掛けてしまった閂を急いで外す音だった。階段を下りたジェームソンが、家の外に出るためである。彼は変装して道路に出て、ジェームソンではない、怪しげな風体の窃盗犯に成り済ましていた。

ボイルが目覚めてからの大騒動は、とっくに金魚が盗まれていた後の小芝居だった。



路上の怪人物が演奏してから金魚の器が壊れたような音が発生し、ジェームソンが階段を上って来るまでの経緯が不明。

楽器を掻き鳴らしたときには怪人物(=ジェームソン)は家の外にいる。そしてその音が家の中に木霊し、ボイルは怪人物から目を離す。つまりここでジェームソンは急いで家の中に引き返す。ジェームソンが寝室に到着する前にボイルは器が割れる音を聞き、そして器が割れていることに気づく。

家の中に木霊が響き渡るほどの演奏なんて、近所の人が起き出して来ないのだろうかという疑問も浮かぶ(別の記述からは隣家はさほど離れてはいないように思える)が、そんなことはともかく器が割れる音についてはまったくの謎。器が実際に割れた音なのか、それとも既に器は割れており、その音に似た音を出したのか、そのどちらかが考えられるが、いずれにしてもジェームソンはまだ寝室に戻っていないはず(直前まで路上にいるところをボイルに目撃されている)なのだから、遠隔操作か時限装置などの何らかの機械トリックを用いたのだろうか。(まさか共鳴音がたまたま似た音だった…?)


ディクスン・カー作品の名探偵のフェル博士とH・M卿は、それぞれチェスタトンとチャーチルを念頭に置いて生み出されたと言われるが、かつて江戸川乱歩は、本作に登場するイヴォン・ド・ララ伯爵が彼らのモデルなのではと書いている。(彼がオリジナルの提唱者なのかどうか、僕は知らない)


「男というものは、ことに呑気な男というものは、何とかしたほうがいいと言いつつ暮らしていても、幾日も何もしないでいるものです。しかしそれが女性の耳に入ってしまえば、女性というものは、出し抜けに物事を実行するものでして」




「俳優とアリバイ」
マンドン・マンドヴィル:劇場支配人
マンドヴィル夫人:本格派の女優
マローニ嬢:イタリア人を両親に持つ女優
ノーマン・ナイト:マンドヴィル一座の一枚看板
ラーフ・ランドール:老け役専門の俳優
オーブリー・ヴァーノン:二枚目俳優
アシュトン・ジャーヴィス:その役を後輩に譲り渡した敵役専門の俳優
サンズ:マンドヴィル夫人の小間使い或いは衣裳方
サム爺さん:門衛
ミリアム・マーデン令夫人:舞台稽古の目撃者
テレサ・タルボット:同, 老嬢



マンドヴィル一座の公演「醜聞学校」を控え、ヒロイン役の女優マローニ嬢が機嫌を損ねて部屋に閉じ篭ってしまった。そこで彼女を説得してもらおうと、ブラウン神父が飛び出された。

ブラウン神父はしばらくこのまま様子を見たほうがいいと助言。座員もそれを受け容れ、ひとまず彼女抜きで稽古を始めた。その最中に、自室に残った支配人マンドヴィルが殺されてしまった。

マンドヴィルにはれっきとした妻がいるのだが、彼には別の女との浮気の噂があった。座員の中には、彼が自室内で女と口論しているような声を聞いたものもおり、しかも女は「私はあなたの妻です」とまで言っていた。マンドヴィルにあった陰は、彼が重婚者で、相手の女に恐喝されていることだったのだろうか。

夫に対して、マンドヴィル夫人の評判はとても良い。彼女はかつてはちょっとした名声を得ていた女優なのだが、夫のせいでそのキャリアを台無しにされたと囁かれている。しかし不平を言っても仕方ないという、決して愚痴をこぼさぬ彼女の態度は立派なもので、他の座員の同情を誘っていた。



マンドヴィル夫人は、美しいヒロイン役はマローニに譲り、自分は年配の奥様という控えめな役で遠慮したと言う。それはいかにも謙虚そうだが、「醜聞学校」という芝居の中で最も派手な役は、その年配の奥様ティーズル夫人なのであり、美しいヒロイン役マリヤというのはほんの端役。だからこそ、第一級の役を与えられると言われていたマローニは怒った。

マンドヴィル夫人の言動は一切がこの通りで、いかにも謙虚であるように見せかけて、いつもしっかりと望みのものを得ていた。私は愚痴はこぼさないと言って涙を誘いつつ、自分は虐げられているのだとしっかりアピールする。それによって座員たちは、横暴な夫とそれに黙って耐える健気な妻という構図を描いていたが、実際には夫は妻の希望を最大限尊重し続けてきた。マンドヴィルの悪評の出処は、すべてマンドヴィル夫人だった。マンドヴィルが重婚者だというのも誤解で、自室で口論していた相手は彼の唯一の妻、マンドヴィル夫人だった。

マンドヴィル夫人が舞台稽古中に夫を殺すことができたのは、出し物が「醜聞学校」だったから。この芝居にはティーズル夫人がしばらく観客席から姿を隠している場面がある。その機会を使って彼女は舞台を抜け出し、夫の部屋へ行くことができた。



「醜聞学校(The School For Scandal)」という芝居が作品の鍵になっている。とは言え、当時の英国の状況は知らないが、現代日本でこの芝居の筋を知っている者など相当少ないと思われるので、「舞台からしばらく姿を消すタイミングを利用して…」なんて明かされても、ほとんどの読者は ( ゚д゚ )ポカーン だろう。

まあ、おそらく本作で主眼を置くべきはそのトリックではなく、マンドヴィル夫人が巧妙に夫の悪評を広めたり、それをブラウン神父が見抜くところ。


「ある女がどのような人物なのかを知りたいなら、本人を見てはいけません。上手に本性を隠しているかもしれない。周りの男たちを見てもいけません。男たちはその女に甘すぎるかもしれない。見るべきは、その女の身近にいる別の女。ことに目下の女です。そういう立場の人こそが、女の素顔を映す鏡だから」




「ヴォードリーの失踪」
アーサー・ヴォードリー卿:大地主
ヴァーノン・ヴォードリー:遠方に住む甥
シビル・ライ:アーサー卿が引き取った娘
エヴァン・スミス:秘書
ジョン・ドールモン:シビルの婚約者
アボット博士:アーサー卿の客人
ウィックス:タバコ屋の店主



アーサー・ヴォードリー卿が孤児のシビル・ライという娘を引き取ったとき、周囲の者は訝しんだが、ある出来事がきっかけでその理由が判明した。なんとアーサー卿がシビルに求婚したのだ。

ところでアーサー卿に関しては、まだ彼が若く血気盛んな頃の話だが、彼を侮辱したエジプトの官吏に暴行を働き、警察沙汰になったという事件があった。アーサー卿にとっては幸いなことに、それ以上に大したことにはならなかった。しかしまだ物事に感じやすい盛りのシビルにとっては、それは充分に恐ろしい話で、彼女は勇気を振り絞り、アーサー卿の求婚を断った。

しかしその答えを聞いたアーサー卿の態度は立派なものだった。礼儀正しくそれを受け容れ、その後二度とこの話を持ち出さず、シビルへの接し方も、それまでと同じように優しいままだった。


さて、そのシビル嬢を巡って密かに争う二人の男がいた。一人はエヴァン・スミス。アーサー卿の秘書である。そしてもう一人はジョン・ドールモン。こちらは川の中州で隠者のような暮らしをしていた謎の男で、そういう神秘めいたところがますます魅力を添えていた。このドールモン、どのような手管を用いたのか、いつしかアーサー卿をも篭絡し、あれよあれよとシビルの婚約者の座に納まっていた。つまりすでに勝負は決したようなものだが、それでもスミスは彼女を諦めきれなかった。


ある日、アーサー卿が姿を消した。それについて、スミスにはある推測があった。アーサー卿は、ドールモンを怖れてこの地を離れたのではないかと。

というのも、実はアーサー卿とドールモンが旧知の間柄であると、スミスは偶然知ってしまったからである。かつてのアーサー卿は血気盛んな若者だった。脛に傷も少なくなかろう。それを知るドールモンが、今になって再びアーサー卿に近づいたのではないだろうか?

そう考えると、いろいろと辻褄が合う。旧知の間柄であることを秘密にしていることも、ドールモンからシビルへの求愛を邪魔するどころか勧めるような態度だったことも。アーサー卿はドールモンに恐喝されていたのではないか? アーサー卿はそれに耐えかね、ついに逃げ出し、身を隠したのではないか?


しかしスミスの推理はあっさりと否定された。川岸にアーサー卿の死体が流れ着いたのだ。その喉は深く掻っ切られていたが、それとは対照的に、顔には笑顔が張り付いていた。



こういう田舎のタバコ屋というのはたいていは特定の副業を持っているもので、それはここでも同様だった。ウィックスという名の店主の副業は床屋だった。床屋に髭を剃らせるときは、いかに頑強な男でも抵抗する間もなく、容易にその喉を掻っ切られてしまうものである。

しかしウィックスは殺人犯ではなかった。アーサー卿の髭剃りの最中にタバコを購入する客が来たので、ちょっと表に出た。ところが用を終えて戻ってみると、アーサー卿が死んでいた。ウィックスの犯罪は、この状況では自らの無実の証を立てるのも面倒と考え、死体を川に流し、室内に残る血痕を洗い落としたことだけである。


殺人犯はタバコを購入した客だった。店の奥に無防備な姿を晒しているアーサー卿に気づき、店主の目を盗み、一瞬で彼を殺害し、何食わぬ顔でその場を立ち去ったドールモンだった。


ドールモンがアーサー卿を恐喝していたというのはスミスの勘違いで、実際にはアーサー卿がドールモンを恐喝していた。

ドールモンは昔、衝動的に人を殺してしまったことがあり、それを知るアーサー卿は彼を脅し、シビルと結婚するように命じた。目的もわからぬままのドールモンだったが、シビルは素晴らしい娘ということもあり、おとなしくそれに従った。

しかしドールモンはついにアーサー卿の計画を知ってしまう。結婚式にてアーサー卿がドールモンの罪を告発し、花婿のまま逮捕させるつもりなのだ。

それはアーサー卿の求愛を撥ねつけたシビルへの復讐。彼女は彼の過去の些細な罪を理由に彼を拒絶した。もしそんな女が、愛し、結婚した相手が殺人犯であると知ったら、どれほどのショックを受けるだろう。幸福の絶頂から一瞬で奈落の底へ。それを想像しただけで、アーサー卿の顔には笑顔が浮かぶのだった。



店の主人の目を盗んで素早く殺人を犯したというのは無理があると思う。殺人と恐喝という二つのアイデアはくっつけずに、無難に二つの物語に分けて使ったほうが良かったのでは。

恐喝犯の動機は少々ユニーク…というか、いかにもお伽話めいたもの。


「現代の政治の半ばは金持ちが庶民を恐喝するということから成り立ってます。それをナンセンスだというあなたの考えは二つのナンセンスな幻想を踏まえていますな。一つは金持ちはそれ以上金を欲しがらないという幻想。もう一つは、恐喝はいつも金目当てだという幻想」




「世の中で一番重い罪」
エリザベス(ベティー)・フェイン:ブラウン神父の姪
グランビー:ブラウン神父の知人でもある弁護士
ジョン・マスグレーヴ卿:古城に住む当主
ジェームズ・マスグレーヴ大尉:卿の息子
マダム・グルノフ:黄色いたてがみを生やした大女



マスグレーヴ大尉は、父であるマスグレーヴ卿の遺産を担保に借金を申し込んだ。しかしそれを受けた側としては、果たしてマスグレーヴ卿が息子に遺産を渡すかどうか、その確証を求めるのは当然だった。大尉はそれをきちんと理解し、彼の父に直接会って、その意志を確かめてくれと申し出た。そこでグランビー弁護士とブラウン神父がマスグレーヴ卿の居城へと向かった。

マスグレーヴ卿の住む古城は、その見かけの古さ通りにいろいろとガタも来ており、城に出入りするための跳ね橋の調子も悪かった。途中までしか橋は降りてこなかったので、グランビーは堀を軽やかに跳び越えた。それに続いたブラウン神父は軽やかというわけには行かず、泥水に飛び込む羽目になったが、すばやく引っ張り上げてくれたグランビーのおかげで、深みには嵌らずに済んだ。


とにかく城内に入った彼らはマスグレーヴ卿の老僕に出迎えられた。ほかの召使の姿は見当たらない。用向きを告げると、彼らはすぐに案内されたが、当主が来るまでかなり待たされた。

グランビーの問いに対し、当主は簡潔に答えた。父がそうしたように、自分もまた息子に全財産を譲ると。いかなることがあろうともその決定は変わらないと断言した。ひょっとしたら大尉が今後世継ぎとして相応しからぬ所業を働くこともあるかもしれないが、長い歴史を持つ家系には時折そんな者も現れるもので、それでも続くのが伝統ある家系なのだと言う。

事実、マスグレーヴ家の歴代当主の中にはそんな者も紛れ込んでいるが、当家はそんなことでは揺るぎもしない伝統を持っているのだと、指し示した先には、マスグレーヴ家の歴代当主の肖像画が並んでいた。その面影はどれも似通っており、現在に至るまでの長い血筋の繋がりを感じさせた。

そしてさらに当主は付け加えた。実はすでに大尉は「世の中で最も重い罪」を犯したのだと。それがどんなものなのかは話さなかったが、それによって、存命中は決して息子とは会わないと決めたのだという。

ともかくそれほどまでに重い罪を犯した息子であっても遺産を譲るというのだから、今後何があろうが大尉が遺産を受け取れぬということはあるまい。それなら彼に大金を貸しても大丈夫であろうと、グランビーは安心した。



グランビーとブラウン神父が城に到着したとき、長く待たされたのも当然で、そのとき当主は城外に出かけていた。彼が城に帰ってきたとき、跳ね橋は不調で使えなかった。そこで彼はグランビーと同じように、軽やかに堀を跳び越えた。いくら頑強とはいえ、マスグレーヴ卿は相当の高齢でで、堀に落ちたブラウン神父ほどにも跳ぶことはできるはずがない。つまり堀を跳び越えた人物はマスグレーヴ卿ではなく、彼に変装した大尉だった。

マスグレーヴ卿は不品行な息子である大尉をすでに見限っており、財産を遺す気など微塵もなかった。それを知る大尉は父を殺害し、彼に成り済ましていた。その目的は、大尉の今後の財務状況についてグランビーを安心させ、大金を引き出すためである。


ブラウン神父は城の中の対の甲冑の一方がないことから不審を抱いた。本物のマスグレーヴ卿の死体は甲冑の中に隠された後、城の堀の中に沈められていた。腐敗がすっかり進んでしまえば、甲冑を着た死体が古城の堀の中から見つかっても、誰も怪しむ者はいない。



その過去やフルネーム、家族関係などの詳細がほとんど不明なブラウン神父に、エリザベス(ベティー)・フェインという姪がいることが判明する貴重なエピソード。内容的にはこの登場人物がブラウン神父の姪である必然性もなく、なぜ作者が唐突にこの娘を登場させたのか、謎。二人の会話には、普段のブラウン神父とはやや違う雰囲気(翻訳の仕方のせいもあるかもw)があって興味深い。

今回も作者お得意の、ある人物を別人に偽装するパターン。毎度のことながら、ブラウン神父の眼力は鋭いのか、それとも意外と鈍いのか、判断がつきかねるw


「人気があり、頭も良く、社交界の花形なんですが、しょっちゅう外国へ行っていますし、新聞記者だったこともあるんです」 「それは犯罪じゃありません。少なくとも、常にそうであるとは限りません」




「メルーの赤い月」
マウンティーグル卿
マウンティーグル夫人
ジェームズ・ハードカースル:前途有望な政治家
トミー・ハンター:迷信の化けの皮を剥ぐことに熱心な青年
“山岳尊師”:神秘者
フローゾ:骨相学者



マウンティーグル家には<メルーの赤い月>と呼ばれる(少なくとも金銭的な価値は)素晴らしいルビーがある。そのルビーを中庭にて皆で見ていたのだが、“山岳尊師”が瞑想を始めると、そちらの様子に目が移った。どうやら彼は円を描いて移動しつつ、時折立ち止まっては瞑想していた。

そのとき、そこに骨相学者のフローゾが現れ、頭蓋の形がどうのこうのと講釈を始めた。気の短いトミー・ハンターはそれにはすっかりうんざりしていたので、彼を殴りつけようとさえした。するとジェームズ・ハードカースルがそれを引き留めるといった具合で、ちょっとした騒動になってしまった。皆の視線はすっかり中庭からは離れていた。

突然、トミーが走りだした。そして怒鳴った。「捕まえたぞ!」

そちらに目を向けた者が見たのは、柱の陰から茶色の手が伸び、ルビーを掻っ攫う場面だった。近づいてみると、トミーが片手で茶色の肌の“山岳尊師”の襟首を掴み、彼を取り押さえていた。

しかし先生をいくら身体検査してもルビーは見つからなかった。


いったいどこにルビーを隠したのかと詰め寄る者たちに対し、先生は怒るどころか面白がっているようで、「あなたがたの最新の科学ですらも、時間と空間の法則についての知識は、我々の最古の宗教に千年は遅れているのだ」と笑みを浮かべながら語った。

そしてルビーは出現した。先ほど置き忘れた場所にいつの間にか戻ってきていたのだった。



トミーの片手はなぜか茶色く塗られていた。そう言えば“山岳尊師”を捕まえた際、もう一方の手だけで彼を取り押さえていた。

トミーはルビーを盗み、それを“山岳尊師”の仕業に見せかけるつもりだった。しかしそれをブラウン神父に見破られ、説得され、ルビーを返したのである。


しかしなぜ“山岳尊師”は窃盗犯の汚名に対し、弁明するどころか、いかにも自分の仕業であるかのように振舞ったのか?

それは彼にとってはルビーの金銭的価値はおろか世俗の評価などは何の意味もなく、自分が窃盗犯として見られることもどうでもいいことであり、そんなことよりも自分の神秘の力を示すことのほうがよほど重要だったからである。



とっさに奇跡を自分の手柄にしてしまうというのは、別の短編「ブラウン神父の復活」の趣向の裏返しとも言える。

作中、「私には茶色(ブラウン)と名のつくものをえこ贔屓するという偏見があるのかもしれません」と、ブラウン神父にしては珍しく軽い冗談を口にしている。


「理性は神様からの賜り物です。人々が非合理な話をしているときには何か問題がある」




「マーン城の喪主」
ジェームズ・メア:マーン侯爵
モーリス・メア:ジェームズの弟, 故人
ウートラム将軍夫妻:インド帰りの英国軍人とその妻
ヒューゴー・ロメイン:舞台俳優
ジョン・コックスパー卿:新聞社の社長
マロー:はにかみ屋の大男
ヴァイオラ・グレーソン:ジェームズの元婚約者



ジェームズ・メアは弟のモーリスをとても愛していた。しかし兄の婚約に嫉妬したモーリスが様々な妨害活動を開始し、それがついに兄弟の決闘という事態を引き起こしてしまった。決闘にはウートラム将軍と、当時はまだ下積みだった俳優のヒューゴー・ロメインが立ち会った。

勝負は一瞬で決着した。銃の腕はジェームズのほうが上で、モーリスが仕掛けた決闘は最初から無謀なものだった。モーリスが倒れた直後、ジェームズは医者を呼んでくれと叫ぶと、銃を投げ捨て、微動だにしない弟のもとへ走りだした。それを横目に見つつ、将軍は医者を呼ぶために近くの村へと急いだ。

モーリスによって予め手配されていた医者は、素晴らしい早さで決闘の現場に到着したが、それでも銃弾を胸に受けた男の命を救うには遅かった。医者の素早さは後片付けに役立てるしかなかった。医者の後を追った将軍がようやく到着したときには、すでに死体は仮埋葬され、殺人犯となってしまったジェームズは説き伏せられて港に向かっており、後に外国へと脱出したことが確かめられた。

以来、ジェームズは長期に渡って外国暮らしを続け、人々の記憶が薄れた頃に帰国し、自動的にマーン侯爵を継いだ。


しかし最愛の弟を殺してしまったという、ジェームズの傷は決して癒えなかった。帰国し、マーン侯となってからも彼は塞ぎこんでいた。カソリックにのめり込み、修道院を建てるために大金をつぎ込むのみならず、まるで自らも修道僧になったかのごとく、頭巾のような覆面を顔の前に垂らしていることもあり、隠者のように暮らしている。修道僧たちの言いなりになっているというのが、もっぱらの噂だった。

一度、旧知の間柄であるウートラム夫人が彼を訪ねたことがある。例の覆面を被り、顔を伏せるようにして庭の小道を歩いていた彼を待つようにして夫人は立っていた。ところが彼は夫人がそこにいるとわかっていながら、彼女に声を掛けさえもせずに素通りした。信仰にのめり込んだ彼にとっては、古い友人などはもはや何の意味も持たないとでも言いたげな態度だった。

それでもジェームズの旧友たちは、一縷の望みを持っていた。決闘の原因にもなった、彼のかつての婚約者であるヴァイオラ・グレーソンならばあるいは彼の心を溶かしてくれるのではないかと。

しかしなぜかブラウン神父はそれを思い留まらせようとした。



ブラウン神父は、彼をそっとしておくべきと言う。マーン侯は決して修道僧に騙されているわけではなく、まったく彼自身の意志でああいう暮らしをしているのだと。

そう告げる神父をマーン侯の旧友たちは責めた。「塞ぎ込んだまま荒れ城で一生を送るのを見過ごせというのか!」 「25年以上も前の決闘の咎を赦さずに座敷牢に放り込んでおくのがキリスト教の慈悲なんだ」 「本当のキリスト教というのは、すべてを知りながらもすべてを赦すものでしょう」

結局、神父には彼らを止められなかった。そしてグレーソン嬢はついにマーン侯と対面した。次の瞬間、彼女は叫んだ。「モーリス! この人はジェームズじゃない。彼の弟のモーリスです」


決闘の際、モーリスは撃たれる前に自ら倒れて、死んだふりをしていた。それから銃を捨て、駆け寄った兄を至近距離から射殺した。埋葬された死者はモーリスではなく、ジェームズだった。以来、モーリスはジェームズに成り済まして生きてきた。しかし兄を殺したことを彼は深く悔いていた。それが彼にこのような隠遁生活を送らせていたのだった。


真相を聞き終えたジェームズの友人たちは怒りを爆発させた。それでは話が違う、決してモーリスを赦せないと言う。ほんの少し前までは、ブラウン神父には慈悲が足りない、本当のキリスト教の慈悲とはもっと大きなものでしょうと責めていた者たちが、赦せることには限度があると、口々にモーリスの処罰を求めるのだった。

それに対してブラウン神父は冷ややかに言った。

「いかにも人間の慈悲には限度がある。そしてそこにこそ、人間の慈悲とキリスト教の慈悲の本当の違いがあるのです。今日のあなたがたは、わたしを無慈悲と言い、すべての罪人を赦さねばならぬと説いた。しかし、あなたがたが罪を赦すのは、それが赦しが必要なほどの大きな罪ではない場合だけなのだ」

「あなたがたは、あのような陋劣な行いをするほどに賎しくはなれぬと断言するでしょう。しかしもしあなたがたがそんな行いをしてしまったとしたら、何年も経ち、裕福に安全に老後の生活を送ることも簡単にできるのに、良心や司祭に促され、己の罪を告白しようとしますか? あなたがたには彼のような陋劣な行いはできないかもしれない。しかし陋劣な罪を、彼のように告白することができますか?」

一行はブラウン神父を後に残し、黙々と部屋を出て行った。



当初はブラウン神父に対し、マーン侯にもっと慈悲を与えるべきと責め、自分たちのほうがよほど慈悲深いと任じていた者たちが、真相を知るや否や掌を返し、マーン侯を決して赦さないと、あまつさえリンチに掛けろとまで言い立てる始末。そういう結果になるとわかっていたブラウン神父は冷めた口調で彼らを諭す。

物語終盤でのブラウン神父の説教は、「罪なき者から彼女に石を投げよ」というキリスト教の故事にちなんだものだろう。この場面は事件の真相以上に印象的。


「あなたがたが人の咎を赦すのは、その咎が犯罪ではなく習俗に過ぎぬとお考えになるときだけなのだ。あなたがたが人を赦すのは、赦すほどのことが何もないからなのだ」




「フランボウの秘密」



ブラウン神父の話を聞き終えたグランディソン・チェイスは、その探偵法についてはある程度は納得したようだった。しかしそれは魔術ではないにしても、魔術以上に不健全であるとさえ感じていた。

「そんなふうに犯罪者に成りきってばかりいると、犯罪に対して寛大過ぎるようになってしまうのではないですか?」と問うチェイスに対し、「むしろ逆で、人はそれを実行する前に悔いるようになる」と説くブラウン神父。

チェイスは微笑みを浮かべて言った。「さぞやブラウン神父なら犯罪者に同情を示し、その人物を諭すでしょうが、実際のところ、そんなことで改心する者などいないでしょう。実際に盗っ人や殺人者を扱う際には、まるで違った扱いが必要なのです」



それまで話を黙って聞いていた、この家の主であるデュロックがおもむろに口を開いた。「この部屋には犯罪者がいます。それはわたしです。わたしは今でも世界中の警察に追われる身のフランボウです」

それを聞いたチェイスは言葉を失った。

デュロックは続けて言った。「わたしはもちろんあなたの言う、実際に盗っ人や殺人者を扱う者たちや、彼らがどのような言葉を持っているのかを知っています。彼らはわたしに、お前はどうしてそこまで下劣になれたのかと、想像もつかぬほどの堕落だと、高尚迂遠な言葉で説諭しました。わたしにはそれは滑稽以外の何ものでもありませんでした。ただ、ブラウン神父だけが、わたしがなぜ盗みを働くのか、その理由を知っているとおっしゃいました。それ以来、わたしは盗みをやめました。わたしを警察に引き渡そうとするなら、それはあなたのご随意です」

デュロックが話を語り終え、一瞬の静寂の後、チェイスは答えた。「たとえお付き合いはまだ短くても、我々は友人ではないですか。あなたが進んで昔話を少しばかり聞かせてくれたからといって、あなたを密告するかもしれないとお疑いになったのは残念です。わたしが卑劣な密告者となって賞金目当てにお尋ね者を絞首台に登らせ…そんな下劣な人間になれるものでしょうか?」

「わたしなら、なれるかどうかやってみます」と、ブラウン神父は答えた。



この作品集のエピローグ。ブラウン神父の話を聞き終えてなお、そのやり方の実際の効果を疑う聞き手のチェイスに対し、それまで沈黙を保っていた元泥棒のフランボウが、自らこそがその実例であると告げ、逮捕されるのを覚悟の上で、ブラウン神父の名誉を守ろうとする。

これは「マーン城の喪主」での、「黙っていれば裕福で安穏に暮らすこともできるのに、あえてその罪を告白するということができますか?」というブラウン神父の説教にも通じる。


「あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うからでしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは自分もそれをやりかねないと思うからなのです」
読者から提示された謎に作者が解答を着ける。作中に短編を集めた変則的な長編。[?]

<高取ミステリーサークル>
大達寿郎:中学の国語教師
御堂一成
卯崎栄:高取大学美術部二年生, 中学教師
日比野カナ:鷹取大学文学部に在学中
林摩耶:高校2年生
伊島ちどり:中学生

中井守夫:<光文社>の編集者



謎を読者が提示し、それを作者・辻真先が解き明かすという趣向への読者投稿は集まったものの、作者はちっとも解答を思いつかなかった。そこでその担当編集者は作者を見限り、推理小説のアマチュアサークルのメンバーにその執筆を依頼した。

出来次第では彼らの名で本になると聞かされ、<高取ミステリーサークル>の面々はその話に乗った。


※以下反転表示のネタバレ注意。



読者への挑戦状ならぬ、読者からの挑戦状。読者が(無責任な)謎を提起して、そこに作者が解決を着けるという趣向。本作では読者からの9編の謎に作者が解答を与えている。前例がない、というわけではないとのことだが、その試みは面白い。しかしその出来は今ひとつ。


本作は作者・辻真先がどうしても解答を思いつかず、困った担当編集者が、小さな町の推理小説同好会のアマチュアたちにその執筆を依頼し、それを引き受けた彼らが書き上げた9編の小説が語られる…という設定。各編の合間には、執筆者自身について語られる。つまりこれは短編集でもあり、その執筆者たちを登場人物とする一編の長編という形にもなっている。

しかしこれらの短編、これがどれも物足りない。推理小説というよりも、もっと一般的なショートショートのような話ばかりなのはいいとしても、その内容はまるでつまんない謎掛け。「設問に対して一応の解答は付けました」というだけのレベル。こういうのはとにかくオチが肝心だが、ほとんどどれも拍子抜けか、途中でネタが割れる。サプライズはまったくない。

短編の内容の欠点については作者自身にも自覚があるようで、作中で登場人物が批判し合うという形でいくつか触れており、お題として提示された謎からやや外れている話すらある。出来不出来以前に、「読者からの挑戦状」というテーマ自体の意味が薄れてしまっているのが痛い。


内容の薄さを、数量でごまかしている感じ。長編のメインプロットの大枠も、オチに至るまですぐにだいたい察しが付いた。




[求む! 辻真先への挑戦状]
本作の趣旨。読者から提示された、まだ答えのない謎に、作者が解答を着ける。




[鷹はいつ飛ぶか]
作者の筆が進まないため、その担当編集者がアマチュア作家に執筆を依頼。




[「赤いトランク」――第一の挑戦状に答える]
① 殺した人間を積んだトランクを開けると、そこには見たこともない別の死体があったのはなぜ?

丘野高哉:俳優
嶺塚:道具係
綾美:自殺した新人女優



俳優の丘野高哉は心臓にやや問題を抱えており、次に発作を起こしたら命に関わると医師に告げられている。そのため、元来怒りっぽい質の彼もさすがになるべく怒りを爆発させることは自重するようになったのだが、そんな彼の努力に挑戦するかのようにミスを繰り返すのが、最近入団したばかりの道具係の嶺塚だった。嶺塚は先ほどもトランクに男の人形を入れるはずなのに、誤って女の人形を入れるという失敗をしでかしたばかりだ。

死にたくなければ怒りを抑えねばならぬ丘野の苦悩は続くばかりである。



丘野のそばには先ほどの女の人形。彼はその人形の顔に妙な既視感を覚えていた。唐突に、その声が聞こえた。「死体は女でよかったのよ。あなたが殺したのは男じゃなくて、女の私でしょ」

その声に驚いた丘野は既視感の正体に気づいた。女の人形の顔が、かつて癇癪を起こした彼の激しい悪態によって死に追いやられた女優、綾美の顔に似ていたのだ。

人形はさらに彼を責める。「あなたは私を殺した」

心臓発作を起こした丘野を冷めた目で見つめている人物がいた。

死んだ綾美の恋人は嶺塚という名の腹話術師だった。




[御堂の場合]
御堂一成には楽天家な面があり、自分がモテるとはまったく思っていないのに、女にしょっちゅう惚れ込んでは告白し、いつもフラれていた。摩耶にも告白したことがあるが、当然のようにあっさりと玉砕している。

しかし惚れっぽいがそれは一過性のもので、その翌日にはもうケロッとしているといった具合だった。




[「彼女の冒険」――第二の挑戦状に答える]
② 若い娘はなぜ通勤電車の中で、背広ネクタイ姿で死んでいたのか?

伊集院絵奈:謎の女
並木勝:一流半の会社の冴えない部長



平々凡々な人生を送っていた中年男が、ちょっとしたきっかけから初対面の女の家に上がり込むことになり、男女の関係を持ってしまった。その最中、彼はふと彼女の部屋の姿見を覆う布を外そうとした。すると突然、「それに触らないで!」と彼女は怒り出し、それまで盛り上がっていたのが嘘のように二人の関係は冷めてしまった。

男は肩を落とし、女の家を立ち去った。


その翌日、再び元の平凡な人生に戻った男――並木勝――が満員電車に揺られていると、一人の若者がもたれかかってきた。その様子がどうもおかしい。帽子の下の顔を見て驚いた。昨夜の女――伊集院絵奈――だった。スーツとネクタイ姿の彼女はすでに死んでいた。



絵奈は男に騙された結果、男とは距離を置くようになっていた。しかしそれがふと寂しくなることもあった。

ある日、彼女の購入した商品の中に、どういうわけか男物のスーツが入っていた。当然取り替えてこようと、それを手にして立ち上がった瞬間、ふと姿見に映った自分が男に見えた。思わずその服に袖を通した。鏡の中には彼女を決して裏切らない男がいた。

それ以来、鏡の中の男は彼女の恋人となった。普段は姿見を布で覆い、会いたいときにはそれを外した。だがそれもしょせんは代用品にすぎないことを次第に痛感するようになった。温かい肌が欲しかった。そこで後腐れのない男を求めた。

いつも見かける冴えない男を選んだ。


並木との関係は、絵奈はますます虚しくさせただけだった。ふと、彼女は鏡を見た。その中には絵奈が映っていた。それを見ている自分はもはや絵奈ではなく、いつも鏡の中にいた、彼女の恋人だった。浮気した絵奈に、彼は怒りをぶつけた。鏡は砕け散った。彼は絵奈を殺してしまった。

彼は自分も死のうと思った。そのための薬があった。どうせ死ぬなら、彼の愛する絵奈を犯した男――並木勝――に復讐しようとも思った。




[摩耶の場合]
林摩耶は自分の肢体に自信を持っており、相応にモテていた。しかし顔はさほどでもないので30代にもなればもう男からの誘いは期待できないと、自分についてドライに踏んでいた。

そんな摩耶が恋したのがサークルのリーダーの大達だった。しかし大達は彼女よりも、ちどりに惹かれていることは見え見えだった。確かにちどりが凄い美少女なのは摩耶とて認めざるを得ないが、彼女はまだ中学生だ。そんな彼女に負けるのが悔しくて仕方ない。彼女に対しては、摩耶は激しい嫉妬の炎を常に密かに抱いていた。




[「赤い糸ひとすじ」――第三の挑戦状に答える]
③ 私の隣で寝ていた夫が翌朝死んでいた。身に着けているのはいつものパジャマではなく、女性の浴衣、それも左前であった。なぜ?






夫と妻が同じ部屋で眠り、お互いに別の夢を見ていた。


夫の心は江戸時代へと羽ばたいて、自らは大店の番頭となって、若い内儀との不義密通を楽しんでいた。しかし旦那の声が聞こえると、慌てて内儀の浴衣を羽織り、相手に一言、愛を告げて一目散に逃げ出した。


妻は白雪姫の世界の女王となり、最も美しいのは誰かと、鏡に向かって問いかけていた。しかしこの世界の鏡は賢明だったので、無難に「それは女王様です」と答えた。

それを聞いた女王は機嫌も良くなり、次に自分の愛する男の姿を見たいと言いだした。すぐに鏡はその姿を映した。



鏡に映ったのは女物の浴衣を羽織り、別の女に愛を囁く男。それを見て怒り狂った女王は、こんな男が自分の愛する男とは何事と、その男を殺せと命じた。すぐにその命令は実行された。


翌朝、目覚めた妻は自分の隣に寝ていた夫が死んでいることに気づいた。

鏡の中で死んだ夫は、現世では反転した姿、浴衣を左前に着た姿で死んでいた。




[カナの場合]
日比野カナは過疎の町で生まれ育った。家の期待を背負って東京の大学を受験したものの、田舎では優秀だった彼女の学力は、都会では歯が立たなかった。かろうじて合格したのが、東京とは名ばかりの、一応その中には入っているというだけの小さな町の新設大学だったのだ。

昔から引っ込み思案で、自分についてまったく自信のなかったカナではあったが、田舎では優しい娘で通っていた。しかしそんな彼女をいつしか貧しい学生暮らしがすり減らしてしまったのか、彼女自身がショックを受ける出来事があった。


パンを購入し、それを抱えて帰ろうとしたカナの目の前で、見知らぬ老婆が交通事故に遭いそうになった。カナはすぐに駆け寄ろうとし、手に持った紙袋が落ちた。その瞬間、カナの足が止まった。老婆よりも、落ちた紙袋の中身が気になってしまったのだ。倒れた老婆を別の通行人が介抱していた。どうやら老婆は助かったようだ。

安堵する反面、カナは自分の行動が哀しかった。もう自分は昔のような優しさすら失ってしまった。何の取り柄もなくなってしまった。心を刃が突き刺した。




[「ものいわぬナイフ」――第四の挑戦状に答える]
④ 旅から帰宅した私のスーツケースから血染めのナイフが現れた。留守中、自宅近くで起こった事件の凶器に似ている。逮捕されている犯人に心当たりはない私は?

増田萱子:海外旅行から帰ったばかりの女
宮川けい:萱子の隣人
江田:やくざ者



海外旅行から帰ったばかりの増田萱子は重いスーツケースをマンションの部屋の前の脇に置いたまま、とりあえず部屋の暖房をつけ、冷蔵庫を開けた。旅行に出るので空っぽにしていたことを思い出した。とにかく何か食べるものが欲しいと、そのまますぐに近くのコンビニへと出かけた。

コンビニで誰かの話し声が聞こえた。どうやら彼女の旅行中に、近所で刺殺事件があったようだ。買い物を済ませた彼女は帰宅した。

やっと部屋に運び込んだスーツケースを開けた萱子は、その中に見知らぬものを見つけた。血痕のあるナイフだった。



萱子の隣人・宮川けいは、刺殺犯の恋人だった。刺殺犯は、けいのものと勘違いして、そこに証拠品のナイフを入れてしまったのだ。知ったからには生かしておけないと、詰め寄るけいに対し、萱子は妙に冷静で、あっさり相手を取り押さえた。

萱子の職業は警察官だった。




[御堂の場合 2]
摩耶にフラれたばかりの御堂は、街で泥酔した見知らぬ女と知り合った。その女を介抱すると、彼女はホテルへ一緒に行こうと言う。女はかなりの美人だった。抵抗することもできず、御堂はその希望を叶えた。

ところがホテルの部屋に入った彼女は、散々自身の彼氏について愚痴り、部屋の中でまた派手に吐き散らして絨毯を汚した。挙句の果てに、彼女は彼を拒絶した。

曰く――こんな汚い自分に迫る男はもっと汚い。

女を介抱し、ホテル代を支払った御堂は肩を落とした。泣いている彼女よりも、もっと泣きたい気分だった。




[「サウナは笑う」――第五の挑戦状に答える]
⑤ サウナ室の中から発見されたのは、なんと凍死体であった。どうしてそんなことが起こったのか?

片平大陸:<サンタの家>のオーナー
片平美雪:その娘
管理人



雪山にある片平家の別荘は通称<サンタの家>と呼ばれていた。その<サンタの家>に休暇明けで戻った管理人は驚いた。主人の片平大陸が屋内のサウナ室に裸でいるのはごく普通のことなのだが、その彼が死んでいたからだ。しかもなぜか室内も死体も氷のように冷えきっていた。


「父を殺すしかない」

片平大陸の娘、美雪はそう決意していた。しかしそれで自分が逮捕されては元も子もない。そこで計画を練った。まず彼を薄氷の張った冷たい沼に落とす。心臓の弱った老人はすぐに死ぬ。そして引き揚げた死体をサウナ室に運び込み、時間を置いてから部屋を暖める。これで死亡推定時刻をごまかせるだろう。

そして実際にその計画は順調に進行していった。



「ハンカチがない!」

首尾よく大陸を殺害し、その死体をサウナ室に座らせた美雪は気づいた。彼の所持品の中に、死の直前に使っていたハンカチが見当たらないのだ。万が一、それが沼やその周辺で発見されたら警察の疑惑を招き、徹底した捜査になりかねない。

美雪は彼を突き落とした沼へと引き返した。ハンカチはあった。薄氷の上に張り付いていた。手を伸ばしそれを取ろうとしたとき、彼女の体勢が崩れた。

冷えきった沼は、心臓が弱った老人のみならず、まだ若い美女も容易に死の世界へと連れ去った。




[卯崎の場合]
卯崎栄の女っぽい振る舞いは表面上のもので、彼の中身はまったくの男である。大達には魅力を感じているのは事実だが、それはあくまでも男から男に対する憧れである。

自分がモテることに気づいた卯崎は多くの女と関係を持ったが、それでも彼は慎重だった。狭い町で悪い噂が立ったら、決して裕福ではない彼の生活に支障をきたすからだ。サークル内で彼がマークしたのは摩耶だった。もちろん彼女が大達に惚れているのは知っているが、それはそれだった。そして首尾よく関係を持ったが、それは一度限りで、お互いに何事もなかったかのように振舞っている。関係を続けてしまったら、彼女の人生を背負わねばならないと卯崎は感じたからだった。




[「わが愛しのモア」――第六の挑戦状に答える]
⑥ 久しぶりの休日。夫婦でドライブに出かけることになる。アパートの一室を出たところで、妻が「忘れ物をした」と言い残し部屋に戻る。自分も財布を忘れていることに気づいた夫がすぐに後を追うと、部屋の中に妻の姿はなく、代わりにモア(駝鳥を大きくしたような鳥ですでに絶滅)が立っていた。一瞬にして妻は変身してしまったのか?

鳥海多郎:<三ツ江観光>の総務課に在籍
穂積知里:添乗員



<三ツ江観光>の総務課に在籍する社員で、何をするにもワンテンポ遅いのに、足だけはやたらと速い鳥海多郎は、「モア」というあだ名で呼ばれていた。

彼は女に縁がなかったが、社員旅行中に巻き込まれたバスジャック事件が彼の優れた脚力によって解決され、それをきっかけにバスの新人添乗員・穂積知里との交際が始まり、晴れて結婚まで辿り着いた。


バスジャック事件の際、鳥海によって助けられた同僚たちは彼に感謝しており、知里との交際を後押ししたのも彼らである。そして鳥海夫妻が新婚旅行に向かうことになったので、家の中を綺麗にしてあげたいと言いだした。鳥海たちはその好意を素直に受け入れ、旅行へと出発した。

ところが車で出発した直後、知里が忘れものに気づいた。彼女は家へと走って行った。するとその後ろ姿を見送った鳥海も忘れものに気づいた。彼も家へと引き返した。


玄関を開け、家の中に入った鳥海の視界には、愛する妻ではなく、部屋の真ん中に堂々と立つモアの姿が飛び込んできた。



鳥海の同僚たちは、旅行から帰った彼へのサプライズのプレゼントとして、作り物のモアを準備中だった。



[摩耶の場合 2]
ちどりへの嫉妬は抑えようがなかった。摩耶は彼女を殺したいとさえ思った。しかし警察に捕まっては意味がない。大達が摩耶を愛することはないし、ちどりは永遠に彼の心の中に美しく残り続けるだろう。

そこで摩耶は蓋然性の殺人に挑むことにした。可能性は低いが、ちどりが死ぬかもしれないという、小さな計画を繰り返すのである。その一つとして、彼女の自転車のブレーキを壊れやすくした。お目当ての長い下り坂でブレーキが壊れれば、産廃の汚泥に突っ込んで死ぬかもしれない。そこに突っ込んで死ねば、その死体はさぞや醜いものになるだろう。大達とて、その記憶の中に彼女を美しいまま留めておくのは難しいだろう。

その作戦は失敗だった。ちどりから自転車を借りた御堂がちょっとした擦り傷を作っただけに終わった。いずれまた別の機会はいくらでもある――摩耶は諦めなかった。




[「晴れのち所により赤ん坊が降るでしょう」――第七の挑戦状に答える]
⑦ 村の役場に一通の手紙が届いた。村に赤ん坊が降ることを予告したものだった。指定された村の公園の噴水で、村人たちがクッションや網を構えて待っていると、指定された正午のサイレンが鳴ると同時に空中に赤ん坊が出現し、降ってきた。無事に受け止めた村人たちの顔に安堵と困惑の表情が広がっていった…。

吉兵衛:言い伝えの中に登場する村人
美代:同
与那心教の本部長
鎌田:村の会計役
あき婆さん
村長
助役



その村にはこんな故事があるという。村人が裏山の奥の祠に願掛けしたところ、神様はそれに応え、祠の中から赤子を授けてくれたのだ。


ところが当の村人たちはそんな故事をすっかり忘れてしまったらしい。与那心教の本部長と名乗る人物が村にやって来て、その話をしても誰も反応を示さない。しかし場合によってはその祠のそばに道場を建てるとなれば話は別である。マイナス材料もあるにせよ、ずっと右肩下がりな村にとってはプラスのほうが大きい。村長はすばやく算盤を弾いた。

本部長はその祠が言い伝え通りのものなのか調べたいと言う。どう調べるのかと助役が尋ねてみれば、実際に願掛けして、その結果を待てばいいと、本部長は真顔で言った。


それからしばらくして、願掛けの結果を確かめる日がやって来た。祠が本物ならば赤子が現れるはずである。本部長とその連れの多くの坊主たち、村人たち、皆が広場に集まった。

本部長はいかにも宗教的な重々しい音楽を流し、村人たちの前で熱弁を振るった。その説教は見事なもので、涙を流す村人さえいた。眠気を噛み殺すのが精一杯の村長はむしろ数少ない例外だった。

そして正午、サイレンの音とともに様子は急変。池の中央の鶴の嘴から水が吹き出した。坊主が駆け寄り、そこにクッションを差し出した。坊主は叫んだ。「紛れもなく、空からややこが降ってきた」

クッションの中には赤子が眠っていた。奇跡を目撃した村人たちはどよめいた。実を言えば村長は空から赤子が降ってきた瞬間など見ていないのだが、村人たちの多くは実際にそれを見たようだ。



「嘘こくでねえ!」

あき婆さんは怒声を上げた。赤子は空から降ってきたところなど見てない、見たのは坊さんが懐に入れていたことだけと言い張った。そんなあき婆さんを説得しようと、本部長は後ろから声を掛けるが、彼女は振り向きもしない。そんな様子を見ていた助役は、本部長に助け舟を出した。

「あき婆さんはとても耳が遠いので、正面から口の動きが見えるように話しかけないと通じませんよ」

それを聞いた本部長の表情を見た瞬間、村長は真相に気づいた。集団催眠――若い頃に読んだエッセイを思い出した。


本部長の目的は教団内で生まれた赤子の事情を隠したまま、その子の養い手を探すことだった。




[卯崎の場合 2]
卯崎はかつて関係を持った人妻に偶然見かけた。相手もこちらを見た。しかし彼女は背中を向け、去って行った。卯崎はその女に未練があった。すぐに追いかけたが、見失ってしまった。




[「曼荼羅図」――第八の挑戦状に答える]
⑧ 妻の周期的な秘密行動に不信を募らせていた夫が決心した。妻が隠しておいた印刷物(宗教画?)でドアを封印し、それを破ってでも妻が出かけて行くか確かめようというのである。その結果は?

永沢貴之:某商事会社の部長
弘美:貴之の妻
桜井伸吾:道陸教の幹部
壬生万里子:探偵事務所の所長



永沢貴之は妻・弘美の行動に疑いを抱いていた。探偵を雇い、その行動を調べてみると、案の定、彼の留守中に彼女は桜井伸吾という男と会っていた。

浮気のほかに、貴之の中にはもう一つの疑いがあった。それは彼女の持ち物の中に大きな絵が描かれた紙を見つけたときから始まった。絡み合う男女らしき姿が中央に描かれたそれは、どうも宗教画のようであった。妻は宗教にハマっているのではないか? 実際、桜井伸吾という男は道陸教の幹部なのだ。

妻と直接対決の覚悟を固めた貴之に対し、探偵事務所の所長・壬生万里子はあるアイデアを提案した。


貴之は家から出かける際、妻への罠を仕掛けた。あの宗教画を玄関に広げて貼り付け、その反応を確認するのである。もし道陸教への信仰が深いなら、外出するにもそれをあっさりと踏みつけたりはできないはず。少なくとも躊躇を示すだろう。逆にそんな宗教への信仰心などないなら、不審に思いつつも平気でその上を歩くだろう。

結果は…弘美は平気でその上を歩いた。



貴之は注意深くそれを見てないので気づかなかったが、宗教画の中央に描かれていた一方は弘美なのだという。学生時代にモデルのアルバイトをした際に描かれたものだが、それを貴之に知られたくなかっただけなのだ。弘美は桜井伸吾の妻と同窓で、それで桜井夫妻と付き合いがあるだけだった。貴之は安堵した。


弘美は安心して浮気を続けた。笑いながら弘美は言った。

「あの絵の女のモデルが私だと気づかないあの人が、男のモデルがあなただなんて、想像もできるはずもないわ。女の浮気相手が男とは限らないのに」

弘美の隣で壬生万里子も笑っていた。


一旦妻への疑いが晴れた貴之は、もう妻を疑わなかった。




[大達の場合]
大達は危険を嫌い、なるべく安全な道、そこそこの堅い人生を送りたいと思っていた。将来の計画も堅実なものだ。ギャンブルなどするつもりはなかった。

そんな彼も一度だけ大きな計画外の行動を取ってしまった。サークルのメンバーと海へ出かけたとき、雰囲気に流されてカナを抱いてしまった。

その夜の出来事については彼女は沈黙したままだった。もし彼女が「子供ができた」と言ってきたらどうしようと、大達は思っていた。何事も計画通りに進めることを好む彼だが、未だにその計画が立たなかった。




[「ちどりの場合」――第九の挑戦状に答える]
⑨ 「犯人」(すでに発表済の辻真先の長編小説)の姉妹編として、推理小説における“絵解き”の問題と絡ませ、同時に「読者以外皆犯人」ということで“絵解き”が「免罪符」ならぬ「免罪本」となる工夫を!



八つの短編を批評し終えたサークルのメンバーたちは、突然の強い睡魔に襲われた。その中に一人だけ、ちどりだけは平然としたままだった。



ちどりはメンバーたちのそれぞれの罪状を告げた。そして彼女は部屋に火を点けるつもりだ。彼女自身はそのままここに留まるつもりはない。大量殺人に放火、もちろん、警察に逮捕される。そうなったら彼女はこう証言する。

「今なら未成年の私は少女Aで済むから」
「私は優等生なんですよ」
「こんな私が優等生ってことがおかしいんです。教育がおかしいんです。文部省がおかしいんです。日本という国がおかしいんです」

するとマスコミが騒ぎ立て、彼女の父は間違いなく自殺する。彼を自殺に追い込んだのは誰? その答えは決まってる。マスコミ、それに乗っかった世論、日本人の皆様だ。でももしこの小説を読む者がいたら、その読者だけは世論に与しない。「読者以外皆犯人」の出来上がり。




[鷹はいつ眠るか]
喋り終えたちどりは喉が渇いたので、湯沸し室でお茶を淹れ、それを飲んだ。すると急に眠気が襲ってきた。

――なぜ…私の湯呑みには睡眠薬は入れてないのに…みんなの湯呑みに薬を入れた後、薬瓶は湯沸し室に置きっ放しだった…誰かが私の湯呑みにも薬を入れた…でも誰が――



「あ、もしもし。中井さん? 僕です。彼らの原稿ですか? 今ひとつでした。別のグループを当たりましょう」

相手にそう告げた後、電話ボックスから出てきたのは、中井と名乗り、高取ミステリーサークルに原稿を依頼した男である。彼はいくつか嘘をついていた。その一つは、彼の名は中井ではなく、辻真先ということである。ネタが思いつかずに困った彼は、使えそうなアイデアがあったらそれをパクるつもりで執筆を依頼し、盗聴器を仕掛け、彼らを見張っていたのだった。本になってしまえば、彼らが盗作だと騒いでもなんとでもなる。