ブラウン神父シリーズの第4短編集。ストーリーテリングの妙。今やスタンダードとなったトリックの数々。[???]
J・ブラウン神父:神に仕える蝙蝠傘がトレードマークの小男
ヘルキュール・フランボウ:巨大な身の丈と不敵な腕力の持ち主, 驚くべき軽業師, 天才の閃きも持ち合わせる, 犯罪界の大立者として知られた人物
グランディソン・チェイス:アメリカ人観光客
「ブラウン神父の秘密」 :ブラウン神父が自身の探偵法の秘密を語り始める。
「大法律家の鏡」 :鏡が砕け、人が殺され、容疑を掛けられた詩人は弁明もロクにしない。
「顎ひげの二つある男」 :マークされていた大泥棒は射殺されたが盗まれた宝石は見つからず、彼の変装道具の付け髭が二つあった。
「飛び魚の歌」 :怪人物が路上に現れ、室内にあった黄金の金魚が消え去る。
「俳優とアリバイ」 :重婚が疑われる支配人が自室にて殺害されたとき、劇団員たちは舞台の上にいた。
「ヴォードリーの失踪」 :喉を掻っ切られて殺された貴族には、恐喝されていたという疑いが。
「世の中で一番重い罪」 :伝統に従い遺産は継がせるものの、とても大きな罪を犯したからという理由で息子には会おうとしない城主。
「メルーの赤い月」 :盗難の疑いを掛けられた神秘者はそれを否定しないものの肝心の宝石は見つからず、いつの間にか元の場所にそれが出現している。
「マーン城の喪主」 :最愛の弟を殺してしまってから、人が変わったようになり、隠遁生活を送る当主。
「フランボウの秘密」 :ブラウン神父に続き、フランボウもまた自身の秘密を明かす。
※以下の反転表示部はネタバレ注意。
まるで直感的に事件の真相を言い当てるようなブラウン神父が、自身の探偵法の論理を実例によって語る、という体裁でまとめられた短編集。各短編についてはさすがにそろそろまったくの新しいアイデアは尽きてきた感があるが、そこは作者の独特のユーモアとアレンジ力、そしてブラウン神父の語り口の魅力によってまだまだ頑張っている。実際のところ、事件やその真相よりもブラウン神父の説教のほうが面白かったりもするんだw (このシリーズのそんな説教臭さが嫌いな人もいるんだろうけどw)
何はともあれ、前作では姿を見せなくなっていたフランボウの余生(w)が見られるのは嬉しい限り。
「ブラウン神父の秘密」
探偵稼業を引退し、スペインで身を固め、今ではデュロックという本名を名乗り、城を構えての隠居生活を送っていたフランボウのもとに恩人のブラウン神父が訪れる。
ちょうどそのとき、フランボウの城の隣に住み着いていたグランディソン・チェイス氏というアメリカ人観光客もやって来て、話はブラウン神父の探偵法の秘密へと移った。
ブラウン神父の秘密というのは単純なものだった。つまり彼は事件に遭遇すると、犯人の立場に自身を置くのだ。どういった精神状態なのか、どのような計画を立てるか、自身が犯人の内にあると感じられるほどに、犯人の心を掴もうとするのである。それは彼にとっては宗教修行の一環でもあった。
そしてブラウン神父は、その具体的な例を語り始めた――
ブラウン神父の推理というのは手掛かりの積み重ねによってではなく、まるで直感的にその真相を掴んでしまうように描かれているが、その推理のプロセスを神父自身が解説する。
本作は推理譚ではなく、この作品集のプロローグ。
「科学というものは、その本来の姿で捉えるなら、どうしてなかなか立派なものだ」
「大法律家の鏡」
ジェームズ・バグショー:警部
ウィルフレッド・アンダーヒル:バグショーの友人
ハンフリー・グィン卿:判事
グリーン:召使
ブラー:葉巻商, 金持ち, グィン卿宅の隣家の住人
オズリック・オーム:詩人
マイクル・フラッド:新聞記者
マシュー・ブレーク卿:オーム被告の弁護人
アーサー・トラヴァース卿:検察側の弁護人
判事のハンフリー・グィン卿の屋敷の裏庭から銃声が響き、付近を歩いていたジェームズ・バグショー警部は塀を乗り越えた。すると庭にはイルミネーションが灯っていた。それはグィン卿の趣味で、仕事部屋も兼ねた離れにスイッチがある。
しかし重要なのは泉水の脇に倒れた死体だった。その頭部は黒いわずかな巻き毛を残して禿げ上がり、黒い夜会服に身を包んだ長身のグィン卿のこめかみには弾丸の跡が付いていた。
バグショー以外で庭にいたのは、真っ赤なチョッキを着た当屋敷の召使グリーン、赤毛の新聞記者のマイクル・フラッド、輝かしい黄色の髪を持った詩人のオズリック・オーム。
グリーンは主人が法律家の晩餐会に出かけたのをいいことに木戸から出掛けたが、帰って来たらそれが閉じていたので、塀を乗り越え庭に入ったという。フラッドはノックしても返事がなく、塀を乗り越えるグリーンを見かけたので、同じように自分も塀を乗り越え庭に入った。オームは木戸から庭に入り、工事中でその先には行き場のない、裏庭を見渡せるような構造物の上にいたのだが、なぜ建物に入ることもなくそんな場所に居続けたのか、その理由も含めて、彼の証言はどうも要領を得ない。
玄関の中は荒れていた。鉢植えが横倒しになり、植木鉢や姿見が砕けている。バグショーは、何らかの理由で早めの帰宅をしたグィン卿と犯人とがここで格闘になり、逃げ出したグィン卿が庭で撃たれたと推測した。書斎には拳銃があったが、なぜかそれをグィン卿は持ち出さなかった。
オームは殺人事件の被告となった。検察側の弁護人はアーサー・トラヴァース卿。彼は被害者の友人であるが、決して個人的感情に流されるような人物ではない。その彼が普段以上に舌鋒鋭くなるのは、被告の有罪に強い確信を抱いているからであろう。
動機の面では検察側にも弱いところがあるのだが、とにかく被告は自身の裁判に非協力的で、弁護側が有力な証言を引き出すこともできず、被告側は劣勢に立たされていた。
バグショーは裁判の行方についてブラウン神父に尋ねた。すると神父は、「トラヴァース卿が鬘を外すとすっかり禿げ上がり、まるで別人ですな」と、頓珍漢なことを言い出した。
「もし英国のことをまったく知らない人に、馬の毛で作った被り物を頭に載せて、人の生死に関わる重大なことを論じる者がいると言ったら、なんと酔狂な話だと思うでしょう。それをおかしいと思うのは、その人が英国のことを何も知らないからです。それと同じように、詩人のことを知らない人は、詩人の当たり前の行動をおかしいと思う。オームが数時間ただ庭をぶらついていようが、工事中の建造物の上に最高の展望台を見出そうが、それは詩人にとっては説明するまでもない当たり前のことなのです。彼に尋ねるべき質問は、そのとき彼がどのような詩を作っていたのかということですよ」
「犯人がどんな風体の人物だったのかは知っています。薄暗いランプの光を浴びて玄関から入り、ホールにグィン卿の姿を見つけ、彼は発砲した。ところがそれはグィン卿ではなく、自身の姿が映った姿見だった。つまり犯人は、とっさにグィン卿と見間違うような、長身痩躯で夜会服に身を包み、ほとんど禿げ上がった頭を持つ人物なのです。それは真っ赤なチョッキを着たグリーンでもなく、赤毛のフラッドでもなく、輝かしい黄色の髪のオームでもありません」
数日後、アーサー・トラヴァース卿は再び前回と同じ人物に銃口を向け、そして死んだ。
鏡に映る自分の人影を他人の姿と勘違いするというのは、短篇集「ブラウン神父の知恵」に収録の「通路の人影」を思い起こさせる。
「探偵小説と称せられる高尚な科学小説の読者がご覧になったらさぞかし愕然となるところだろうが、滔々と論じているのは本職の探偵のほうで、アマチュアのほうは聞き手に回っているばかりか、話し手にいくらか敬意さえ払っている始末だった」
「顎ひげの二つある男」
クレーク教授:高名な犯罪学者
マイケル・ムーンシャイン:大泥棒
サイモン・バンクス
バンクス夫人:サイモンの妻, 素晴らしい宝石の所有者
オパール:その娘
ジョン:オパールの弟
フィリップ:ジョンの弟
ダニエル・デヴァイン:フィリップの友人
レオポルド・プルマン卿:ブナ屋敷の主人
プルマン夫人:レオポルドの妻, 素晴らしい宝石の所有者
バーナード:ブナ屋敷の秘書
スミス爺さん:養蜂園の主人
カーヴァー:スミス爺さんの養蜂園に逗留
マイケル・ムーンシャインという大泥棒が長い刑期を終えて出所した。そんな彼が隠れ住んでいると噂される土地で、プルマン夫人の宝石が盗まれた。
当然ながら、その犯人として最も怪しいのはムーンシャインである。そして実際、事件現場に残された指紋や足跡は彼のものだった。
ムーンシャインがこの土地に潜んでいるという情報には既に探偵カーヴァーが目を付けていた。カーヴァーは養蜂園の主人スミスこそがそのムーンシャインであると睨んでおり、そこに逗留していた。そしてスミスの留守に家を調べてみると、案の定、ムーンシャインの仕事道具の付け髭を見つけた。
ところで、この土地で素晴らしい宝石の持っているのはプルマン夫人だけではなかった。次の標的としてサイモン夫人の宝石が狙われるのは充分考えられることである。
サイモン家の娘、心霊現象に傾倒しているオパールが叫び声を上げた。窓を指し、幽霊だと言った。そこには付け髭の人物の顔があった。すぐにその顔が消えた。オパールの弟、ジョンが戸口に姿を現し、「ネックレスがない!」と叫ぶや否や、すぐに彼は表へと飛び出した。そして銃声が二つ。
ようやくジョンに追いついた者たちが見たのは、その顔に付け髭を貼り付け、地面に倒れたスミス爺さん――ムーンシャインとして知られた人物――の死体だった。スミスが発砲したので、やむを得ず反撃したジョンの弾丸が命中したのだ。
盗まれた宝石は見つからなかった。
ブラウン神父はスミスがムーンシャインであること、そして今回の事件の犯人でないことを知っていた。しかしブラウン神父にとってはそれが明らかでも、ブラウン神父ではない者にとっては、スミスが犯人ではないと納得するためにには別の理由が必要だった。
たとえばそれは付け髭が二つあったこと。付け髭は一つあれば充分で、もう一つは別の人物が用意したものだった。
スミスが窓に自分の顔を押し付けたのもやや不自然な行動だった。ある意味ではオパールが幽霊を見たというのは正しかった。それは生きているスミスではなく、別の誰かが窓に押し付けたスミスの死体だった。犯人の手元にスミスの死体があるからこそ、彼の指紋や足跡を残すこともできた。
となると、最初の宝石盗難事件の際には既にスミスは死んでいたことになる。既に死んでいた人間が、次の標的の家の庭で銃撃戦など行えるはずもない。
ふと気づけば、ジョンが姿を消していた。
奇妙な動機の一例として語られた事件だが、その点については成功してるとは言いがたい。死体を小道具として使うために殺したとなっているが、突き詰めれば宝石を得るためなんじゃないかという気もするし…。
スミスの家にあった、宝石の所有者リストは何だったんだろう? 昔スミスが書いたものと考えるのは無理があるし、ジョンが偽装のために置いたというのもあっさりとは納得できない。隙あらば家捜ししようと目を光らせていたカーヴァーもいたんだし、彼が住み着く以前にやったとなると、リストがかなりの長期間に渡ってスミスの家の中にあったことになってしまう。それはジョンにとってはリスクが高く、まずあり得ない。となると、やはりどうにかスミスとカーヴァーの隙を突いて、ジョンが置いたと考えるのが妥当…?
「人殺しをしてくれていたらまだしも人間らしいのに、とさえ思われた」
「飛び魚の歌」
ペリグリン・スマート:黄金製の金魚の持ち主
フランシス・ボイル:スマートの秘書
ハリス:スマートの従者
ジェームソン:スマートの事務主任
ロビンソン夫人:スマートの家政婦
バードック博士:生物学者
イムラック・スミス:銀行家, 素人音楽家
イヴォン・ド・ララ伯爵:東洋学者, 旅行家
ハリー・ハートップ:金持ち
ヴァーニー:退役陸軍中佐
ハーマー:よそ者
ピンナー警部
ペリグリン・スマートの家じゅうを埋め尽くさんばかりのコレクションの中でも、黄金製の金魚は特別なものだった。彼はそれを誰彼構わず自慢することに熱心だったのだが、そんなことをしていれば、いずれその中に悪心を抱く者が一人や二人くらいは混じってしまうのは自然の道理であり、彼の使用人たちはそれを無用心と思っていた。しかし彼自身はそれについてあまり気にする様子もなく、せっかく家に備え付けられている玄関の閂すら使っていないという有様。
だがこれについては、彼にも彼なりの意見があった。古い家の古い閂なんてものが、泥棒に対してどれほどの効果があるものか、というわけである。かと言って彼がまったく無用心だったというわけではなく、就寝前には常に金魚を寝室の奥にしまい込み、そして枕元には拳銃を用意するのが彼の習慣だった。
あるとき、スマートは銀行家スミスとともに出かけることになり、大事な金魚の番を秘書ボイルと事務主任ジェームソンに任せた。そこでボイルとジェームソンは主人の寝室に泊まり込むことになった。
その深夜、まだ若いので眠りが深く、なかなか目覚めないボイルが何やら歌声に気づいたときには、ジェームソンは既にバルコニーに出ており、そして往来にいると思しき誰かに鋭い言葉を投げかけた。
それからジェームソンはボイルのほうに振り向き、「表に怪しい誰かがうろついている。とにかく玄関に閂を掛けて来ます」と言い捨てると、階段を駆け下りて行った。ボイルの耳にはすぐに階下で閂がガタガタと鳴るのが聞こえた。そこでようやくボイルはバルコニーに出て、表の道路に目をやった。
そこにいたのは風景にそぐわぬ、異国風の装束を身にまとった、まるでアラビアンナイトの登場人物のような風体の怪人物。ターバンのように頭に巻かれたスカーフは、覆面のようにも見えた。怪人物は琴のような楽器の上にうつむいたまま、細く鋭い音を奏でていた。そしてボイルが声を掛けようとしたとき、その相手はまた一節を歌った。
ついにボイルが怒鳴り声を上げると、怪人物は「わしは金の魚の王じゃ。金の魚はわしのもとに戻るのじゃ。戻って来い!」と叫び、楽器を掻き鳴らした。するとそれに応えるように、家の中に音が木霊し、しかもそれは金魚のしまってある寝室の奥のほうから響いて来るようだった。
ボイルはそちらのほうに振り向いた。木霊は電鈴のような音色に変わり、器の砕けるような微かな音で終わった。そしてようやくジェームソンが、年齢を感じさせるように喘ぎつつ階段を上って来た。
ジェームソンが寝室の奥に辿り着いたときには、既に金魚の入った器は砕け、その中身は消え去っており、ボイルが呆然と立ち尽くしていた。
やって来たブラウン神父は閂を掛けてみた。大した音は出ず、そのそばにいたボイルはそれにまったく気づかなかった。その程度の音を2階にいたボイルが聞き取ることなどあり得ない。
盗難事件の夜、ボイルが聞いたのは閂を掛ける音ではなく、心配性の家政婦ロビンソン夫人が掛けてしまった閂を急いで外す音だった。階段を下りたジェームソンが、家の外に出るためである。彼は変装して道路に出て、ジェームソンではない、怪しげな風体の窃盗犯に成り済ましていた。
ボイルが目覚めてからの大騒動は、とっくに金魚が盗まれていた後の小芝居だった。
路上の怪人物が演奏してから金魚の器が壊れたような音が発生し、ジェームソンが階段を上って来るまでの経緯が不明。
楽器を掻き鳴らしたときには怪人物(=ジェームソン)は家の外にいる。そしてその音が家の中に木霊し、ボイルは怪人物から目を離す。つまりここでジェームソンは急いで家の中に引き返す。ジェームソンが寝室に到着する前にボイルは器が割れる音を聞き、そして器が割れていることに気づく。
家の中に木霊が響き渡るほどの演奏なんて、近所の人が起き出して来ないのだろうかという疑問も浮かぶ(別の記述からは隣家はさほど離れてはいないように思える)が、そんなことはともかく器が割れる音についてはまったくの謎。器が実際に割れた音なのか、それとも既に器は割れており、その音に似た音を出したのか、そのどちらかが考えられるが、いずれにしてもジェームソンはまだ寝室に戻っていないはず(直前まで路上にいるところをボイルに目撃されている)なのだから、遠隔操作か時限装置などの何らかの機械トリックを用いたのだろうか。(まさか共鳴音がたまたま似た音だった…?)
ディクスン・カー作品の名探偵のフェル博士とH・M卿は、それぞれチェスタトンとチャーチルを念頭に置いて生み出されたと言われるが、かつて江戸川乱歩は、本作に登場するイヴォン・ド・ララ伯爵が彼らのモデルなのではと書いている。(彼がオリジナルの提唱者なのかどうか、僕は知らない)
「男というものは、ことに呑気な男というものは、何とかしたほうがいいと言いつつ暮らしていても、幾日も何もしないでいるものです。しかしそれが女性の耳に入ってしまえば、女性というものは、出し抜けに物事を実行するものでして」
「俳優とアリバイ」
マンドン・マンドヴィル:劇場支配人
マンドヴィル夫人:本格派の女優
マローニ嬢:イタリア人を両親に持つ女優
ノーマン・ナイト:マンドヴィル一座の一枚看板
ラーフ・ランドール:老け役専門の俳優
オーブリー・ヴァーノン:二枚目俳優
アシュトン・ジャーヴィス:その役を後輩に譲り渡した敵役専門の俳優
サンズ:マンドヴィル夫人の小間使い或いは衣裳方
サム爺さん:門衛
ミリアム・マーデン令夫人:舞台稽古の目撃者
テレサ・タルボット:同, 老嬢
マンドヴィル一座の公演「醜聞学校」を控え、ヒロイン役の女優マローニ嬢が機嫌を損ねて部屋に閉じ篭ってしまった。そこで彼女を説得してもらおうと、ブラウン神父が飛び出された。
ブラウン神父はしばらくこのまま様子を見たほうがいいと助言。座員もそれを受け容れ、ひとまず彼女抜きで稽古を始めた。その最中に、自室に残った支配人マンドヴィルが殺されてしまった。
マンドヴィルにはれっきとした妻がいるのだが、彼には別の女との浮気の噂があった。座員の中には、彼が自室内で女と口論しているような声を聞いたものもおり、しかも女は「私はあなたの妻です」とまで言っていた。マンドヴィルにあった陰は、彼が重婚者で、相手の女に恐喝されていることだったのだろうか。
夫に対して、マンドヴィル夫人の評判はとても良い。彼女はかつてはちょっとした名声を得ていた女優なのだが、夫のせいでそのキャリアを台無しにされたと囁かれている。しかし不平を言っても仕方ないという、決して愚痴をこぼさぬ彼女の態度は立派なもので、他の座員の同情を誘っていた。
マンドヴィル夫人は、美しいヒロイン役はマローニに譲り、自分は年配の奥様という控えめな役で遠慮したと言う。それはいかにも謙虚そうだが、「醜聞学校」という芝居の中で最も派手な役は、その年配の奥様ティーズル夫人なのであり、美しいヒロイン役マリヤというのはほんの端役。だからこそ、第一級の役を与えられると言われていたマローニは怒った。
マンドヴィル夫人の言動は一切がこの通りで、いかにも謙虚であるように見せかけて、いつもしっかりと望みのものを得ていた。私は愚痴はこぼさないと言って涙を誘いつつ、自分は虐げられているのだとしっかりアピールする。それによって座員たちは、横暴な夫とそれに黙って耐える健気な妻という構図を描いていたが、実際には夫は妻の希望を最大限尊重し続けてきた。マンドヴィルの悪評の出処は、すべてマンドヴィル夫人だった。マンドヴィルが重婚者だというのも誤解で、自室で口論していた相手は彼の唯一の妻、マンドヴィル夫人だった。
マンドヴィル夫人が舞台稽古中に夫を殺すことができたのは、出し物が「醜聞学校」だったから。この芝居にはティーズル夫人がしばらく観客席から姿を隠している場面がある。その機会を使って彼女は舞台を抜け出し、夫の部屋へ行くことができた。
「醜聞学校(The School For Scandal)」という芝居が作品の鍵になっている。とは言え、当時の英国の状況は知らないが、現代日本でこの芝居の筋を知っている者など相当少ないと思われるので、「舞台からしばらく姿を消すタイミングを利用して…」なんて明かされても、ほとんどの読者は ( ゚д゚ )ポカーン だろう。
まあ、おそらく本作で主眼を置くべきはそのトリックではなく、マンドヴィル夫人が巧妙に夫の悪評を広めたり、それをブラウン神父が見抜くところ。
「ある女がどのような人物なのかを知りたいなら、本人を見てはいけません。上手に本性を隠しているかもしれない。周りの男たちを見てもいけません。男たちはその女に甘すぎるかもしれない。見るべきは、その女の身近にいる別の女。ことに目下の女です。そういう立場の人こそが、女の素顔を映す鏡だから」
「ヴォードリーの失踪」
アーサー・ヴォードリー卿:大地主
ヴァーノン・ヴォードリー:遠方に住む甥
シビル・ライ:アーサー卿が引き取った娘
エヴァン・スミス:秘書
ジョン・ドールモン:シビルの婚約者
アボット博士:アーサー卿の客人
ウィックス:タバコ屋の店主
アーサー・ヴォードリー卿が孤児のシビル・ライという娘を引き取ったとき、周囲の者は訝しんだが、ある出来事がきっかけでその理由が判明した。なんとアーサー卿がシビルに求婚したのだ。
ところでアーサー卿に関しては、まだ彼が若く血気盛んな頃の話だが、彼を侮辱したエジプトの官吏に暴行を働き、警察沙汰になったという事件があった。アーサー卿にとっては幸いなことに、それ以上に大したことにはならなかった。しかしまだ物事に感じやすい盛りのシビルにとっては、それは充分に恐ろしい話で、彼女は勇気を振り絞り、アーサー卿の求婚を断った。
しかしその答えを聞いたアーサー卿の態度は立派なものだった。礼儀正しくそれを受け容れ、その後二度とこの話を持ち出さず、シビルへの接し方も、それまでと同じように優しいままだった。
さて、そのシビル嬢を巡って密かに争う二人の男がいた。一人はエヴァン・スミス。アーサー卿の秘書である。そしてもう一人はジョン・ドールモン。こちらは川の中州で隠者のような暮らしをしていた謎の男で、そういう神秘めいたところがますます魅力を添えていた。このドールモン、どのような手管を用いたのか、いつしかアーサー卿をも篭絡し、あれよあれよとシビルの婚約者の座に納まっていた。つまりすでに勝負は決したようなものだが、それでもスミスは彼女を諦めきれなかった。
ある日、アーサー卿が姿を消した。それについて、スミスにはある推測があった。アーサー卿は、ドールモンを怖れてこの地を離れたのではないかと。
というのも、実はアーサー卿とドールモンが旧知の間柄であると、スミスは偶然知ってしまったからである。かつてのアーサー卿は血気盛んな若者だった。脛に傷も少なくなかろう。それを知るドールモンが、今になって再びアーサー卿に近づいたのではないだろうか?
そう考えると、いろいろと辻褄が合う。旧知の間柄であることを秘密にしていることも、ドールモンからシビルへの求愛を邪魔するどころか勧めるような態度だったことも。アーサー卿はドールモンに恐喝されていたのではないか? アーサー卿はそれに耐えかね、ついに逃げ出し、身を隠したのではないか?
しかしスミスの推理はあっさりと否定された。川岸にアーサー卿の死体が流れ着いたのだ。その喉は深く掻っ切られていたが、それとは対照的に、顔には笑顔が張り付いていた。
こういう田舎のタバコ屋というのはたいていは特定の副業を持っているもので、それはここでも同様だった。ウィックスという名の店主の副業は床屋だった。床屋に髭を剃らせるときは、いかに頑強な男でも抵抗する間もなく、容易にその喉を掻っ切られてしまうものである。
しかしウィックスは殺人犯ではなかった。アーサー卿の髭剃りの最中にタバコを購入する客が来たので、ちょっと表に出た。ところが用を終えて戻ってみると、アーサー卿が死んでいた。ウィックスの犯罪は、この状況では自らの無実の証を立てるのも面倒と考え、死体を川に流し、室内に残る血痕を洗い落としたことだけである。
殺人犯はタバコを購入した客だった。店の奥に無防備な姿を晒しているアーサー卿に気づき、店主の目を盗み、一瞬で彼を殺害し、何食わぬ顔でその場を立ち去ったドールモンだった。
ドールモンがアーサー卿を恐喝していたというのはスミスの勘違いで、実際にはアーサー卿がドールモンを恐喝していた。
ドールモンは昔、衝動的に人を殺してしまったことがあり、それを知るアーサー卿は彼を脅し、シビルと結婚するように命じた。目的もわからぬままのドールモンだったが、シビルは素晴らしい娘ということもあり、おとなしくそれに従った。
しかしドールモンはついにアーサー卿の計画を知ってしまう。結婚式にてアーサー卿がドールモンの罪を告発し、花婿のまま逮捕させるつもりなのだ。
それはアーサー卿の求愛を撥ねつけたシビルへの復讐。彼女は彼の過去の些細な罪を理由に彼を拒絶した。もしそんな女が、愛し、結婚した相手が殺人犯であると知ったら、どれほどのショックを受けるだろう。幸福の絶頂から一瞬で奈落の底へ。それを想像しただけで、アーサー卿の顔には笑顔が浮かぶのだった。
店の主人の目を盗んで素早く殺人を犯したというのは無理があると思う。殺人と恐喝という二つのアイデアはくっつけずに、無難に二つの物語に分けて使ったほうが良かったのでは。
恐喝犯の動機は少々ユニーク…というか、いかにもお伽話めいたもの。
「現代の政治の半ばは金持ちが庶民を恐喝するということから成り立ってます。それをナンセンスだというあなたの考えは二つのナンセンスな幻想を踏まえていますな。一つは金持ちはそれ以上金を欲しがらないという幻想。もう一つは、恐喝はいつも金目当てだという幻想」
「世の中で一番重い罪」
エリザベス(ベティー)・フェイン:ブラウン神父の姪
グランビー:ブラウン神父の知人でもある弁護士
ジョン・マスグレーヴ卿:古城に住む当主
ジェームズ・マスグレーヴ大尉:卿の息子
マダム・グルノフ:黄色いたてがみを生やした大女
マスグレーヴ大尉は、父であるマスグレーヴ卿の遺産を担保に借金を申し込んだ。しかしそれを受けた側としては、果たしてマスグレーヴ卿が息子に遺産を渡すかどうか、その確証を求めるのは当然だった。大尉はそれをきちんと理解し、彼の父に直接会って、その意志を確かめてくれと申し出た。そこでグランビー弁護士とブラウン神父がマスグレーヴ卿の居城へと向かった。
マスグレーヴ卿の住む古城は、その見かけの古さ通りにいろいろとガタも来ており、城に出入りするための跳ね橋の調子も悪かった。途中までしか橋は降りてこなかったので、グランビーは堀を軽やかに跳び越えた。それに続いたブラウン神父は軽やかというわけには行かず、泥水に飛び込む羽目になったが、すばやく引っ張り上げてくれたグランビーのおかげで、深みには嵌らずに済んだ。
とにかく城内に入った彼らはマスグレーヴ卿の老僕に出迎えられた。ほかの召使の姿は見当たらない。用向きを告げると、彼らはすぐに案内されたが、当主が来るまでかなり待たされた。
グランビーの問いに対し、当主は簡潔に答えた。父がそうしたように、自分もまた息子に全財産を譲ると。いかなることがあろうともその決定は変わらないと断言した。ひょっとしたら大尉が今後世継ぎとして相応しからぬ所業を働くこともあるかもしれないが、長い歴史を持つ家系には時折そんな者も現れるもので、それでも続くのが伝統ある家系なのだと言う。
事実、マスグレーヴ家の歴代当主の中にはそんな者も紛れ込んでいるが、当家はそんなことでは揺るぎもしない伝統を持っているのだと、指し示した先には、マスグレーヴ家の歴代当主の肖像画が並んでいた。その面影はどれも似通っており、現在に至るまでの長い血筋の繋がりを感じさせた。
そしてさらに当主は付け加えた。実はすでに大尉は「世の中で最も重い罪」を犯したのだと。それがどんなものなのかは話さなかったが、それによって、存命中は決して息子とは会わないと決めたのだという。
ともかくそれほどまでに重い罪を犯した息子であっても遺産を譲るというのだから、今後何があろうが大尉が遺産を受け取れぬということはあるまい。それなら彼に大金を貸しても大丈夫であろうと、グランビーは安心した。
グランビーとブラウン神父が城に到着したとき、長く待たされたのも当然で、そのとき当主は城外に出かけていた。彼が城に帰ってきたとき、跳ね橋は不調で使えなかった。そこで彼はグランビーと同じように、軽やかに堀を跳び越えた。いくら頑強とはいえ、マスグレーヴ卿は相当の高齢でで、堀に落ちたブラウン神父ほどにも跳ぶことはできるはずがない。つまり堀を跳び越えた人物はマスグレーヴ卿ではなく、彼に変装した大尉だった。
マスグレーヴ卿は不品行な息子である大尉をすでに見限っており、財産を遺す気など微塵もなかった。それを知る大尉は父を殺害し、彼に成り済ましていた。その目的は、大尉の今後の財務状況についてグランビーを安心させ、大金を引き出すためである。
ブラウン神父は城の中の対の甲冑の一方がないことから不審を抱いた。本物のマスグレーヴ卿の死体は甲冑の中に隠された後、城の堀の中に沈められていた。腐敗がすっかり進んでしまえば、甲冑を着た死体が古城の堀の中から見つかっても、誰も怪しむ者はいない。
その過去やフルネーム、家族関係などの詳細がほとんど不明なブラウン神父に、エリザベス(ベティー)・フェインという姪がいることが判明する貴重なエピソード。内容的にはこの登場人物がブラウン神父の姪である必然性もなく、なぜ作者が唐突にこの娘を登場させたのか、謎。二人の会話には、普段のブラウン神父とはやや違う雰囲気(翻訳の仕方のせいもあるかもw)があって興味深い。
今回も作者お得意の、ある人物を別人に偽装するパターン。毎度のことながら、ブラウン神父の眼力は鋭いのか、それとも意外と鈍いのか、判断がつきかねるw
「人気があり、頭も良く、社交界の花形なんですが、しょっちゅう外国へ行っていますし、新聞記者だったこともあるんです」 「それは犯罪じゃありません。少なくとも、常にそうであるとは限りません」
「メルーの赤い月」
マウンティーグル卿
マウンティーグル夫人
ジェームズ・ハードカースル:前途有望な政治家
トミー・ハンター:迷信の化けの皮を剥ぐことに熱心な青年
“山岳尊師”:神秘者
フローゾ:骨相学者
マウンティーグル家には<メルーの赤い月>と呼ばれる(少なくとも金銭的な価値は)素晴らしいルビーがある。そのルビーを中庭にて皆で見ていたのだが、“山岳尊師”が瞑想を始めると、そちらの様子に目が移った。どうやら彼は円を描いて移動しつつ、時折立ち止まっては瞑想していた。
そのとき、そこに骨相学者のフローゾが現れ、頭蓋の形がどうのこうのと講釈を始めた。気の短いトミー・ハンターはそれにはすっかりうんざりしていたので、彼を殴りつけようとさえした。するとジェームズ・ハードカースルがそれを引き留めるといった具合で、ちょっとした騒動になってしまった。皆の視線はすっかり中庭からは離れていた。
突然、トミーが走りだした。そして怒鳴った。「捕まえたぞ!」
そちらに目を向けた者が見たのは、柱の陰から茶色の手が伸び、ルビーを掻っ攫う場面だった。近づいてみると、トミーが片手で茶色の肌の“山岳尊師”の襟首を掴み、彼を取り押さえていた。
しかし先生をいくら身体検査してもルビーは見つからなかった。
いったいどこにルビーを隠したのかと詰め寄る者たちに対し、先生は怒るどころか面白がっているようで、「あなたがたの最新の科学ですらも、時間と空間の法則についての知識は、我々の最古の宗教に千年は遅れているのだ」と笑みを浮かべながら語った。
そしてルビーは出現した。先ほど置き忘れた場所にいつの間にか戻ってきていたのだった。
トミーの片手はなぜか茶色く塗られていた。そう言えば“山岳尊師”を捕まえた際、もう一方の手だけで彼を取り押さえていた。
トミーはルビーを盗み、それを“山岳尊師”の仕業に見せかけるつもりだった。しかしそれをブラウン神父に見破られ、説得され、ルビーを返したのである。
しかしなぜ“山岳尊師”は窃盗犯の汚名に対し、弁明するどころか、いかにも自分の仕業であるかのように振舞ったのか?
それは彼にとってはルビーの金銭的価値はおろか世俗の評価などは何の意味もなく、自分が窃盗犯として見られることもどうでもいいことであり、そんなことよりも自分の神秘の力を示すことのほうがよほど重要だったからである。
とっさに奇跡を自分の手柄にしてしまうというのは、別の短編「ブラウン神父の復活」の趣向の裏返しとも言える。
作中、「私には茶色(ブラウン)と名のつくものをえこ贔屓するという偏見があるのかもしれません」と、ブラウン神父にしては珍しく軽い冗談を口にしている。
「理性は神様からの賜り物です。人々が非合理な話をしているときには何か問題がある」
「マーン城の喪主」
ジェームズ・メア:マーン侯爵
モーリス・メア:ジェームズの弟, 故人
ウートラム将軍夫妻:インド帰りの英国軍人とその妻
ヒューゴー・ロメイン:舞台俳優
ジョン・コックスパー卿:新聞社の社長
マロー:はにかみ屋の大男
ヴァイオラ・グレーソン:ジェームズの元婚約者
ジェームズ・メアは弟のモーリスをとても愛していた。しかし兄の婚約に嫉妬したモーリスが様々な妨害活動を開始し、それがついに兄弟の決闘という事態を引き起こしてしまった。決闘にはウートラム将軍と、当時はまだ下積みだった俳優のヒューゴー・ロメインが立ち会った。
勝負は一瞬で決着した。銃の腕はジェームズのほうが上で、モーリスが仕掛けた決闘は最初から無謀なものだった。モーリスが倒れた直後、ジェームズは医者を呼んでくれと叫ぶと、銃を投げ捨て、微動だにしない弟のもとへ走りだした。それを横目に見つつ、将軍は医者を呼ぶために近くの村へと急いだ。
モーリスによって予め手配されていた医者は、素晴らしい早さで決闘の現場に到着したが、それでも銃弾を胸に受けた男の命を救うには遅かった。医者の素早さは後片付けに役立てるしかなかった。医者の後を追った将軍がようやく到着したときには、すでに死体は仮埋葬され、殺人犯となってしまったジェームズは説き伏せられて港に向かっており、後に外国へと脱出したことが確かめられた。
以来、ジェームズは長期に渡って外国暮らしを続け、人々の記憶が薄れた頃に帰国し、自動的にマーン侯爵を継いだ。
しかし最愛の弟を殺してしまったという、ジェームズの傷は決して癒えなかった。帰国し、マーン侯となってからも彼は塞ぎこんでいた。カソリックにのめり込み、修道院を建てるために大金をつぎ込むのみならず、まるで自らも修道僧になったかのごとく、頭巾のような覆面を顔の前に垂らしていることもあり、隠者のように暮らしている。修道僧たちの言いなりになっているというのが、もっぱらの噂だった。
一度、旧知の間柄であるウートラム夫人が彼を訪ねたことがある。例の覆面を被り、顔を伏せるようにして庭の小道を歩いていた彼を待つようにして夫人は立っていた。ところが彼は夫人がそこにいるとわかっていながら、彼女に声を掛けさえもせずに素通りした。信仰にのめり込んだ彼にとっては、古い友人などはもはや何の意味も持たないとでも言いたげな態度だった。
それでもジェームズの旧友たちは、一縷の望みを持っていた。決闘の原因にもなった、彼のかつての婚約者であるヴァイオラ・グレーソンならばあるいは彼の心を溶かしてくれるのではないかと。
しかしなぜかブラウン神父はそれを思い留まらせようとした。
ブラウン神父は、彼をそっとしておくべきと言う。マーン侯は決して修道僧に騙されているわけではなく、まったく彼自身の意志でああいう暮らしをしているのだと。
そう告げる神父をマーン侯の旧友たちは責めた。「塞ぎ込んだまま荒れ城で一生を送るのを見過ごせというのか!」 「25年以上も前の決闘の咎を赦さずに座敷牢に放り込んでおくのがキリスト教の慈悲なんだ」 「本当のキリスト教というのは、すべてを知りながらもすべてを赦すものでしょう」
結局、神父には彼らを止められなかった。そしてグレーソン嬢はついにマーン侯と対面した。次の瞬間、彼女は叫んだ。「モーリス! この人はジェームズじゃない。彼の弟のモーリスです」
決闘の際、モーリスは撃たれる前に自ら倒れて、死んだふりをしていた。それから銃を捨て、駆け寄った兄を至近距離から射殺した。埋葬された死者はモーリスではなく、ジェームズだった。以来、モーリスはジェームズに成り済まして生きてきた。しかし兄を殺したことを彼は深く悔いていた。それが彼にこのような隠遁生活を送らせていたのだった。
真相を聞き終えたジェームズの友人たちは怒りを爆発させた。それでは話が違う、決してモーリスを赦せないと言う。ほんの少し前までは、ブラウン神父には慈悲が足りない、本当のキリスト教の慈悲とはもっと大きなものでしょうと責めていた者たちが、赦せることには限度があると、口々にモーリスの処罰を求めるのだった。
それに対してブラウン神父は冷ややかに言った。
「いかにも人間の慈悲には限度がある。そしてそこにこそ、人間の慈悲とキリスト教の慈悲の本当の違いがあるのです。今日のあなたがたは、わたしを無慈悲と言い、すべての罪人を赦さねばならぬと説いた。しかし、あなたがたが罪を赦すのは、それが赦しが必要なほどの大きな罪ではない場合だけなのだ」
「あなたがたは、あのような陋劣な行いをするほどに賎しくはなれぬと断言するでしょう。しかしもしあなたがたがそんな行いをしてしまったとしたら、何年も経ち、裕福に安全に老後の生活を送ることも簡単にできるのに、良心や司祭に促され、己の罪を告白しようとしますか? あなたがたには彼のような陋劣な行いはできないかもしれない。しかし陋劣な罪を、彼のように告白することができますか?」
一行はブラウン神父を後に残し、黙々と部屋を出て行った。
当初はブラウン神父に対し、マーン侯にもっと慈悲を与えるべきと責め、自分たちのほうがよほど慈悲深いと任じていた者たちが、真相を知るや否や掌を返し、マーン侯を決して赦さないと、あまつさえリンチに掛けろとまで言い立てる始末。そういう結果になるとわかっていたブラウン神父は冷めた口調で彼らを諭す。
物語終盤でのブラウン神父の説教は、「罪なき者から彼女に石を投げよ」というキリスト教の故事にちなんだものだろう。この場面は事件の真相以上に印象的。
「あなたがたが人の咎を赦すのは、その咎が犯罪ではなく習俗に過ぎぬとお考えになるときだけなのだ。あなたがたが人を赦すのは、赦すほどのことが何もないからなのだ」
「フランボウの秘密」
ブラウン神父の話を聞き終えたグランディソン・チェイスは、その探偵法についてはある程度は納得したようだった。しかしそれは魔術ではないにしても、魔術以上に不健全であるとさえ感じていた。
「そんなふうに犯罪者に成りきってばかりいると、犯罪に対して寛大過ぎるようになってしまうのではないですか?」と問うチェイスに対し、「むしろ逆で、人はそれを実行する前に悔いるようになる」と説くブラウン神父。
チェイスは微笑みを浮かべて言った。「さぞやブラウン神父なら犯罪者に同情を示し、その人物を諭すでしょうが、実際のところ、そんなことで改心する者などいないでしょう。実際に盗っ人や殺人者を扱う際には、まるで違った扱いが必要なのです」
それまで話を黙って聞いていた、この家の主であるデュロックがおもむろに口を開いた。「この部屋には犯罪者がいます。それはわたしです。わたしは今でも世界中の警察に追われる身のフランボウです」
それを聞いたチェイスは言葉を失った。
デュロックは続けて言った。「わたしはもちろんあなたの言う、実際に盗っ人や殺人者を扱う者たちや、彼らがどのような言葉を持っているのかを知っています。彼らはわたしに、お前はどうしてそこまで下劣になれたのかと、想像もつかぬほどの堕落だと、高尚迂遠な言葉で説諭しました。わたしにはそれは滑稽以外の何ものでもありませんでした。ただ、ブラウン神父だけが、わたしがなぜ盗みを働くのか、その理由を知っているとおっしゃいました。それ以来、わたしは盗みをやめました。わたしを警察に引き渡そうとするなら、それはあなたのご随意です」
デュロックが話を語り終え、一瞬の静寂の後、チェイスは答えた。「たとえお付き合いはまだ短くても、我々は友人ではないですか。あなたが進んで昔話を少しばかり聞かせてくれたからといって、あなたを密告するかもしれないとお疑いになったのは残念です。わたしが卑劣な密告者となって賞金目当てにお尋ね者を絞首台に登らせ…そんな下劣な人間になれるものでしょうか?」
「わたしなら、なれるかどうかやってみます」と、ブラウン神父は答えた。
この作品集のエピローグ。ブラウン神父の話を聞き終えてなお、そのやり方の実際の効果を疑う聞き手のチェイスに対し、それまで沈黙を保っていた元泥棒のフランボウが、自らこそがその実例であると告げ、逮捕されるのを覚悟の上で、ブラウン神父の名誉を守ろうとする。
これは「マーン城の喪主」での、「黙っていれば裕福で安穏に暮らすこともできるのに、あえてその罪を告白するということができますか?」というブラウン神父の説教にも通じる。
「あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うからでしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは自分もそれをやりかねないと思うからなのです」
J・ブラウン神父:神に仕える蝙蝠傘がトレードマークの小男
ヘルキュール・フランボウ:巨大な身の丈と不敵な腕力の持ち主, 驚くべき軽業師, 天才の閃きも持ち合わせる, 犯罪界の大立者として知られた人物
グランディソン・チェイス:アメリカ人観光客
「ブラウン神父の秘密」 :ブラウン神父が自身の探偵法の秘密を語り始める。
「大法律家の鏡」 :鏡が砕け、人が殺され、容疑を掛けられた詩人は弁明もロクにしない。
「顎ひげの二つある男」 :マークされていた大泥棒は射殺されたが盗まれた宝石は見つからず、彼の変装道具の付け髭が二つあった。
「飛び魚の歌」 :怪人物が路上に現れ、室内にあった黄金の金魚が消え去る。
「俳優とアリバイ」 :重婚が疑われる支配人が自室にて殺害されたとき、劇団員たちは舞台の上にいた。
「ヴォードリーの失踪」 :喉を掻っ切られて殺された貴族には、恐喝されていたという疑いが。
「世の中で一番重い罪」 :伝統に従い遺産は継がせるものの、とても大きな罪を犯したからという理由で息子には会おうとしない城主。
「メルーの赤い月」 :盗難の疑いを掛けられた神秘者はそれを否定しないものの肝心の宝石は見つからず、いつの間にか元の場所にそれが出現している。
「マーン城の喪主」 :最愛の弟を殺してしまってから、人が変わったようになり、隠遁生活を送る当主。
「フランボウの秘密」 :ブラウン神父に続き、フランボウもまた自身の秘密を明かす。
※以下の反転表示部はネタバレ注意。
まるで直感的に事件の真相を言い当てるようなブラウン神父が、自身の探偵法の論理を実例によって語る、という体裁でまとめられた短編集。各短編についてはさすがにそろそろまったくの新しいアイデアは尽きてきた感があるが、そこは作者の独特のユーモアとアレンジ力、そしてブラウン神父の語り口の魅力によってまだまだ頑張っている。実際のところ、事件やその真相よりもブラウン神父の説教のほうが面白かったりもするんだw (このシリーズのそんな説教臭さが嫌いな人もいるんだろうけどw)
何はともあれ、前作では姿を見せなくなっていたフランボウの余生(w)が見られるのは嬉しい限り。
「ブラウン神父の秘密」
探偵稼業を引退し、スペインで身を固め、今ではデュロックという本名を名乗り、城を構えての隠居生活を送っていたフランボウのもとに恩人のブラウン神父が訪れる。
ちょうどそのとき、フランボウの城の隣に住み着いていたグランディソン・チェイス氏というアメリカ人観光客もやって来て、話はブラウン神父の探偵法の秘密へと移った。
ブラウン神父の秘密というのは単純なものだった。つまり彼は事件に遭遇すると、犯人の立場に自身を置くのだ。どういった精神状態なのか、どのような計画を立てるか、自身が犯人の内にあると感じられるほどに、犯人の心を掴もうとするのである。それは彼にとっては宗教修行の一環でもあった。
そしてブラウン神父は、その具体的な例を語り始めた――
ブラウン神父の推理というのは手掛かりの積み重ねによってではなく、まるで直感的にその真相を掴んでしまうように描かれているが、その推理のプロセスを神父自身が解説する。
本作は推理譚ではなく、この作品集のプロローグ。
「科学というものは、その本来の姿で捉えるなら、どうしてなかなか立派なものだ」
「大法律家の鏡」
ジェームズ・バグショー:警部
ウィルフレッド・アンダーヒル:バグショーの友人
ハンフリー・グィン卿:判事
グリーン:召使
ブラー:葉巻商, 金持ち, グィン卿宅の隣家の住人
オズリック・オーム:詩人
マイクル・フラッド:新聞記者
マシュー・ブレーク卿:オーム被告の弁護人
アーサー・トラヴァース卿:検察側の弁護人
判事のハンフリー・グィン卿の屋敷の裏庭から銃声が響き、付近を歩いていたジェームズ・バグショー警部は塀を乗り越えた。すると庭にはイルミネーションが灯っていた。それはグィン卿の趣味で、仕事部屋も兼ねた離れにスイッチがある。
しかし重要なのは泉水の脇に倒れた死体だった。その頭部は黒いわずかな巻き毛を残して禿げ上がり、黒い夜会服に身を包んだ長身のグィン卿のこめかみには弾丸の跡が付いていた。
バグショー以外で庭にいたのは、真っ赤なチョッキを着た当屋敷の召使グリーン、赤毛の新聞記者のマイクル・フラッド、輝かしい黄色の髪を持った詩人のオズリック・オーム。
グリーンは主人が法律家の晩餐会に出かけたのをいいことに木戸から出掛けたが、帰って来たらそれが閉じていたので、塀を乗り越え庭に入ったという。フラッドはノックしても返事がなく、塀を乗り越えるグリーンを見かけたので、同じように自分も塀を乗り越え庭に入った。オームは木戸から庭に入り、工事中でその先には行き場のない、裏庭を見渡せるような構造物の上にいたのだが、なぜ建物に入ることもなくそんな場所に居続けたのか、その理由も含めて、彼の証言はどうも要領を得ない。
玄関の中は荒れていた。鉢植えが横倒しになり、植木鉢や姿見が砕けている。バグショーは、何らかの理由で早めの帰宅をしたグィン卿と犯人とがここで格闘になり、逃げ出したグィン卿が庭で撃たれたと推測した。書斎には拳銃があったが、なぜかそれをグィン卿は持ち出さなかった。
オームは殺人事件の被告となった。検察側の弁護人はアーサー・トラヴァース卿。彼は被害者の友人であるが、決して個人的感情に流されるような人物ではない。その彼が普段以上に舌鋒鋭くなるのは、被告の有罪に強い確信を抱いているからであろう。
動機の面では検察側にも弱いところがあるのだが、とにかく被告は自身の裁判に非協力的で、弁護側が有力な証言を引き出すこともできず、被告側は劣勢に立たされていた。
バグショーは裁判の行方についてブラウン神父に尋ねた。すると神父は、「トラヴァース卿が鬘を外すとすっかり禿げ上がり、まるで別人ですな」と、頓珍漢なことを言い出した。
「もし英国のことをまったく知らない人に、馬の毛で作った被り物を頭に載せて、人の生死に関わる重大なことを論じる者がいると言ったら、なんと酔狂な話だと思うでしょう。それをおかしいと思うのは、その人が英国のことを何も知らないからです。それと同じように、詩人のことを知らない人は、詩人の当たり前の行動をおかしいと思う。オームが数時間ただ庭をぶらついていようが、工事中の建造物の上に最高の展望台を見出そうが、それは詩人にとっては説明するまでもない当たり前のことなのです。彼に尋ねるべき質問は、そのとき彼がどのような詩を作っていたのかということですよ」
「犯人がどんな風体の人物だったのかは知っています。薄暗いランプの光を浴びて玄関から入り、ホールにグィン卿の姿を見つけ、彼は発砲した。ところがそれはグィン卿ではなく、自身の姿が映った姿見だった。つまり犯人は、とっさにグィン卿と見間違うような、長身痩躯で夜会服に身を包み、ほとんど禿げ上がった頭を持つ人物なのです。それは真っ赤なチョッキを着たグリーンでもなく、赤毛のフラッドでもなく、輝かしい黄色の髪のオームでもありません」
数日後、アーサー・トラヴァース卿は再び前回と同じ人物に銃口を向け、そして死んだ。
鏡に映る自分の人影を他人の姿と勘違いするというのは、短篇集「ブラウン神父の知恵」に収録の「通路の人影」を思い起こさせる。
「探偵小説と称せられる高尚な科学小説の読者がご覧になったらさぞかし愕然となるところだろうが、滔々と論じているのは本職の探偵のほうで、アマチュアのほうは聞き手に回っているばかりか、話し手にいくらか敬意さえ払っている始末だった」
「顎ひげの二つある男」
クレーク教授:高名な犯罪学者
マイケル・ムーンシャイン:大泥棒
サイモン・バンクス
バンクス夫人:サイモンの妻, 素晴らしい宝石の所有者
オパール:その娘
ジョン:オパールの弟
フィリップ:ジョンの弟
ダニエル・デヴァイン:フィリップの友人
レオポルド・プルマン卿:ブナ屋敷の主人
プルマン夫人:レオポルドの妻, 素晴らしい宝石の所有者
バーナード:ブナ屋敷の秘書
スミス爺さん:養蜂園の主人
カーヴァー:スミス爺さんの養蜂園に逗留
マイケル・ムーンシャインという大泥棒が長い刑期を終えて出所した。そんな彼が隠れ住んでいると噂される土地で、プルマン夫人の宝石が盗まれた。
当然ながら、その犯人として最も怪しいのはムーンシャインである。そして実際、事件現場に残された指紋や足跡は彼のものだった。
ムーンシャインがこの土地に潜んでいるという情報には既に探偵カーヴァーが目を付けていた。カーヴァーは養蜂園の主人スミスこそがそのムーンシャインであると睨んでおり、そこに逗留していた。そしてスミスの留守に家を調べてみると、案の定、ムーンシャインの仕事道具の付け髭を見つけた。
ところで、この土地で素晴らしい宝石の持っているのはプルマン夫人だけではなかった。次の標的としてサイモン夫人の宝石が狙われるのは充分考えられることである。
サイモン家の娘、心霊現象に傾倒しているオパールが叫び声を上げた。窓を指し、幽霊だと言った。そこには付け髭の人物の顔があった。すぐにその顔が消えた。オパールの弟、ジョンが戸口に姿を現し、「ネックレスがない!」と叫ぶや否や、すぐに彼は表へと飛び出した。そして銃声が二つ。
ようやくジョンに追いついた者たちが見たのは、その顔に付け髭を貼り付け、地面に倒れたスミス爺さん――ムーンシャインとして知られた人物――の死体だった。スミスが発砲したので、やむを得ず反撃したジョンの弾丸が命中したのだ。
盗まれた宝石は見つからなかった。
ブラウン神父はスミスがムーンシャインであること、そして今回の事件の犯人でないことを知っていた。しかしブラウン神父にとってはそれが明らかでも、ブラウン神父ではない者にとっては、スミスが犯人ではないと納得するためにには別の理由が必要だった。
たとえばそれは付け髭が二つあったこと。付け髭は一つあれば充分で、もう一つは別の人物が用意したものだった。
スミスが窓に自分の顔を押し付けたのもやや不自然な行動だった。ある意味ではオパールが幽霊を見たというのは正しかった。それは生きているスミスではなく、別の誰かが窓に押し付けたスミスの死体だった。犯人の手元にスミスの死体があるからこそ、彼の指紋や足跡を残すこともできた。
となると、最初の宝石盗難事件の際には既にスミスは死んでいたことになる。既に死んでいた人間が、次の標的の家の庭で銃撃戦など行えるはずもない。
ふと気づけば、ジョンが姿を消していた。
奇妙な動機の一例として語られた事件だが、その点については成功してるとは言いがたい。死体を小道具として使うために殺したとなっているが、突き詰めれば宝石を得るためなんじゃないかという気もするし…。
スミスの家にあった、宝石の所有者リストは何だったんだろう? 昔スミスが書いたものと考えるのは無理があるし、ジョンが偽装のために置いたというのもあっさりとは納得できない。隙あらば家捜ししようと目を光らせていたカーヴァーもいたんだし、彼が住み着く以前にやったとなると、リストがかなりの長期間に渡ってスミスの家の中にあったことになってしまう。それはジョンにとってはリスクが高く、まずあり得ない。となると、やはりどうにかスミスとカーヴァーの隙を突いて、ジョンが置いたと考えるのが妥当…?
「人殺しをしてくれていたらまだしも人間らしいのに、とさえ思われた」
「飛び魚の歌」
ペリグリン・スマート:黄金製の金魚の持ち主
フランシス・ボイル:スマートの秘書
ハリス:スマートの従者
ジェームソン:スマートの事務主任
ロビンソン夫人:スマートの家政婦
バードック博士:生物学者
イムラック・スミス:銀行家, 素人音楽家
イヴォン・ド・ララ伯爵:東洋学者, 旅行家
ハリー・ハートップ:金持ち
ヴァーニー:退役陸軍中佐
ハーマー:よそ者
ピンナー警部
ペリグリン・スマートの家じゅうを埋め尽くさんばかりのコレクションの中でも、黄金製の金魚は特別なものだった。彼はそれを誰彼構わず自慢することに熱心だったのだが、そんなことをしていれば、いずれその中に悪心を抱く者が一人や二人くらいは混じってしまうのは自然の道理であり、彼の使用人たちはそれを無用心と思っていた。しかし彼自身はそれについてあまり気にする様子もなく、せっかく家に備え付けられている玄関の閂すら使っていないという有様。
だがこれについては、彼にも彼なりの意見があった。古い家の古い閂なんてものが、泥棒に対してどれほどの効果があるものか、というわけである。かと言って彼がまったく無用心だったというわけではなく、就寝前には常に金魚を寝室の奥にしまい込み、そして枕元には拳銃を用意するのが彼の習慣だった。
あるとき、スマートは銀行家スミスとともに出かけることになり、大事な金魚の番を秘書ボイルと事務主任ジェームソンに任せた。そこでボイルとジェームソンは主人の寝室に泊まり込むことになった。
その深夜、まだ若いので眠りが深く、なかなか目覚めないボイルが何やら歌声に気づいたときには、ジェームソンは既にバルコニーに出ており、そして往来にいると思しき誰かに鋭い言葉を投げかけた。
それからジェームソンはボイルのほうに振り向き、「表に怪しい誰かがうろついている。とにかく玄関に閂を掛けて来ます」と言い捨てると、階段を駆け下りて行った。ボイルの耳にはすぐに階下で閂がガタガタと鳴るのが聞こえた。そこでようやくボイルはバルコニーに出て、表の道路に目をやった。
そこにいたのは風景にそぐわぬ、異国風の装束を身にまとった、まるでアラビアンナイトの登場人物のような風体の怪人物。ターバンのように頭に巻かれたスカーフは、覆面のようにも見えた。怪人物は琴のような楽器の上にうつむいたまま、細く鋭い音を奏でていた。そしてボイルが声を掛けようとしたとき、その相手はまた一節を歌った。
ついにボイルが怒鳴り声を上げると、怪人物は「わしは金の魚の王じゃ。金の魚はわしのもとに戻るのじゃ。戻って来い!」と叫び、楽器を掻き鳴らした。するとそれに応えるように、家の中に音が木霊し、しかもそれは金魚のしまってある寝室の奥のほうから響いて来るようだった。
ボイルはそちらのほうに振り向いた。木霊は電鈴のような音色に変わり、器の砕けるような微かな音で終わった。そしてようやくジェームソンが、年齢を感じさせるように喘ぎつつ階段を上って来た。
ジェームソンが寝室の奥に辿り着いたときには、既に金魚の入った器は砕け、その中身は消え去っており、ボイルが呆然と立ち尽くしていた。
やって来たブラウン神父は閂を掛けてみた。大した音は出ず、そのそばにいたボイルはそれにまったく気づかなかった。その程度の音を2階にいたボイルが聞き取ることなどあり得ない。
盗難事件の夜、ボイルが聞いたのは閂を掛ける音ではなく、心配性の家政婦ロビンソン夫人が掛けてしまった閂を急いで外す音だった。階段を下りたジェームソンが、家の外に出るためである。彼は変装して道路に出て、ジェームソンではない、怪しげな風体の窃盗犯に成り済ましていた。
ボイルが目覚めてからの大騒動は、とっくに金魚が盗まれていた後の小芝居だった。
路上の怪人物が演奏してから金魚の器が壊れたような音が発生し、ジェームソンが階段を上って来るまでの経緯が不明。
楽器を掻き鳴らしたときには怪人物(=ジェームソン)は家の外にいる。そしてその音が家の中に木霊し、ボイルは怪人物から目を離す。つまりここでジェームソンは急いで家の中に引き返す。ジェームソンが寝室に到着する前にボイルは器が割れる音を聞き、そして器が割れていることに気づく。
家の中に木霊が響き渡るほどの演奏なんて、近所の人が起き出して来ないのだろうかという疑問も浮かぶ(別の記述からは隣家はさほど離れてはいないように思える)が、そんなことはともかく器が割れる音についてはまったくの謎。器が実際に割れた音なのか、それとも既に器は割れており、その音に似た音を出したのか、そのどちらかが考えられるが、いずれにしてもジェームソンはまだ寝室に戻っていないはず(直前まで路上にいるところをボイルに目撃されている)なのだから、遠隔操作か時限装置などの何らかの機械トリックを用いたのだろうか。(まさか共鳴音がたまたま似た音だった…?)
ディクスン・カー作品の名探偵のフェル博士とH・M卿は、それぞれチェスタトンとチャーチルを念頭に置いて生み出されたと言われるが、かつて江戸川乱歩は、本作に登場するイヴォン・ド・ララ伯爵が彼らのモデルなのではと書いている。(彼がオリジナルの提唱者なのかどうか、僕は知らない)
「男というものは、ことに呑気な男というものは、何とかしたほうがいいと言いつつ暮らしていても、幾日も何もしないでいるものです。しかしそれが女性の耳に入ってしまえば、女性というものは、出し抜けに物事を実行するものでして」
「俳優とアリバイ」
マンドン・マンドヴィル:劇場支配人
マンドヴィル夫人:本格派の女優
マローニ嬢:イタリア人を両親に持つ女優
ノーマン・ナイト:マンドヴィル一座の一枚看板
ラーフ・ランドール:老け役専門の俳優
オーブリー・ヴァーノン:二枚目俳優
アシュトン・ジャーヴィス:その役を後輩に譲り渡した敵役専門の俳優
サンズ:マンドヴィル夫人の小間使い或いは衣裳方
サム爺さん:門衛
ミリアム・マーデン令夫人:舞台稽古の目撃者
テレサ・タルボット:同, 老嬢
マンドヴィル一座の公演「醜聞学校」を控え、ヒロイン役の女優マローニ嬢が機嫌を損ねて部屋に閉じ篭ってしまった。そこで彼女を説得してもらおうと、ブラウン神父が飛び出された。
ブラウン神父はしばらくこのまま様子を見たほうがいいと助言。座員もそれを受け容れ、ひとまず彼女抜きで稽古を始めた。その最中に、自室に残った支配人マンドヴィルが殺されてしまった。
マンドヴィルにはれっきとした妻がいるのだが、彼には別の女との浮気の噂があった。座員の中には、彼が自室内で女と口論しているような声を聞いたものもおり、しかも女は「私はあなたの妻です」とまで言っていた。マンドヴィルにあった陰は、彼が重婚者で、相手の女に恐喝されていることだったのだろうか。
夫に対して、マンドヴィル夫人の評判はとても良い。彼女はかつてはちょっとした名声を得ていた女優なのだが、夫のせいでそのキャリアを台無しにされたと囁かれている。しかし不平を言っても仕方ないという、決して愚痴をこぼさぬ彼女の態度は立派なもので、他の座員の同情を誘っていた。
マンドヴィル夫人は、美しいヒロイン役はマローニに譲り、自分は年配の奥様という控えめな役で遠慮したと言う。それはいかにも謙虚そうだが、「醜聞学校」という芝居の中で最も派手な役は、その年配の奥様ティーズル夫人なのであり、美しいヒロイン役マリヤというのはほんの端役。だからこそ、第一級の役を与えられると言われていたマローニは怒った。
マンドヴィル夫人の言動は一切がこの通りで、いかにも謙虚であるように見せかけて、いつもしっかりと望みのものを得ていた。私は愚痴はこぼさないと言って涙を誘いつつ、自分は虐げられているのだとしっかりアピールする。それによって座員たちは、横暴な夫とそれに黙って耐える健気な妻という構図を描いていたが、実際には夫は妻の希望を最大限尊重し続けてきた。マンドヴィルの悪評の出処は、すべてマンドヴィル夫人だった。マンドヴィルが重婚者だというのも誤解で、自室で口論していた相手は彼の唯一の妻、マンドヴィル夫人だった。
マンドヴィル夫人が舞台稽古中に夫を殺すことができたのは、出し物が「醜聞学校」だったから。この芝居にはティーズル夫人がしばらく観客席から姿を隠している場面がある。その機会を使って彼女は舞台を抜け出し、夫の部屋へ行くことができた。
「醜聞学校(The School For Scandal)」という芝居が作品の鍵になっている。とは言え、当時の英国の状況は知らないが、現代日本でこの芝居の筋を知っている者など相当少ないと思われるので、「舞台からしばらく姿を消すタイミングを利用して…」なんて明かされても、ほとんどの読者は ( ゚д゚ )ポカーン だろう。
まあ、おそらく本作で主眼を置くべきはそのトリックではなく、マンドヴィル夫人が巧妙に夫の悪評を広めたり、それをブラウン神父が見抜くところ。
「ある女がどのような人物なのかを知りたいなら、本人を見てはいけません。上手に本性を隠しているかもしれない。周りの男たちを見てもいけません。男たちはその女に甘すぎるかもしれない。見るべきは、その女の身近にいる別の女。ことに目下の女です。そういう立場の人こそが、女の素顔を映す鏡だから」
「ヴォードリーの失踪」
アーサー・ヴォードリー卿:大地主
ヴァーノン・ヴォードリー:遠方に住む甥
シビル・ライ:アーサー卿が引き取った娘
エヴァン・スミス:秘書
ジョン・ドールモン:シビルの婚約者
アボット博士:アーサー卿の客人
ウィックス:タバコ屋の店主
アーサー・ヴォードリー卿が孤児のシビル・ライという娘を引き取ったとき、周囲の者は訝しんだが、ある出来事がきっかけでその理由が判明した。なんとアーサー卿がシビルに求婚したのだ。
ところでアーサー卿に関しては、まだ彼が若く血気盛んな頃の話だが、彼を侮辱したエジプトの官吏に暴行を働き、警察沙汰になったという事件があった。アーサー卿にとっては幸いなことに、それ以上に大したことにはならなかった。しかしまだ物事に感じやすい盛りのシビルにとっては、それは充分に恐ろしい話で、彼女は勇気を振り絞り、アーサー卿の求婚を断った。
しかしその答えを聞いたアーサー卿の態度は立派なものだった。礼儀正しくそれを受け容れ、その後二度とこの話を持ち出さず、シビルへの接し方も、それまでと同じように優しいままだった。
さて、そのシビル嬢を巡って密かに争う二人の男がいた。一人はエヴァン・スミス。アーサー卿の秘書である。そしてもう一人はジョン・ドールモン。こちらは川の中州で隠者のような暮らしをしていた謎の男で、そういう神秘めいたところがますます魅力を添えていた。このドールモン、どのような手管を用いたのか、いつしかアーサー卿をも篭絡し、あれよあれよとシビルの婚約者の座に納まっていた。つまりすでに勝負は決したようなものだが、それでもスミスは彼女を諦めきれなかった。
ある日、アーサー卿が姿を消した。それについて、スミスにはある推測があった。アーサー卿は、ドールモンを怖れてこの地を離れたのではないかと。
というのも、実はアーサー卿とドールモンが旧知の間柄であると、スミスは偶然知ってしまったからである。かつてのアーサー卿は血気盛んな若者だった。脛に傷も少なくなかろう。それを知るドールモンが、今になって再びアーサー卿に近づいたのではないだろうか?
そう考えると、いろいろと辻褄が合う。旧知の間柄であることを秘密にしていることも、ドールモンからシビルへの求愛を邪魔するどころか勧めるような態度だったことも。アーサー卿はドールモンに恐喝されていたのではないか? アーサー卿はそれに耐えかね、ついに逃げ出し、身を隠したのではないか?
しかしスミスの推理はあっさりと否定された。川岸にアーサー卿の死体が流れ着いたのだ。その喉は深く掻っ切られていたが、それとは対照的に、顔には笑顔が張り付いていた。
こういう田舎のタバコ屋というのはたいていは特定の副業を持っているもので、それはここでも同様だった。ウィックスという名の店主の副業は床屋だった。床屋に髭を剃らせるときは、いかに頑強な男でも抵抗する間もなく、容易にその喉を掻っ切られてしまうものである。
しかしウィックスは殺人犯ではなかった。アーサー卿の髭剃りの最中にタバコを購入する客が来たので、ちょっと表に出た。ところが用を終えて戻ってみると、アーサー卿が死んでいた。ウィックスの犯罪は、この状況では自らの無実の証を立てるのも面倒と考え、死体を川に流し、室内に残る血痕を洗い落としたことだけである。
殺人犯はタバコを購入した客だった。店の奥に無防備な姿を晒しているアーサー卿に気づき、店主の目を盗み、一瞬で彼を殺害し、何食わぬ顔でその場を立ち去ったドールモンだった。
ドールモンがアーサー卿を恐喝していたというのはスミスの勘違いで、実際にはアーサー卿がドールモンを恐喝していた。
ドールモンは昔、衝動的に人を殺してしまったことがあり、それを知るアーサー卿は彼を脅し、シビルと結婚するように命じた。目的もわからぬままのドールモンだったが、シビルは素晴らしい娘ということもあり、おとなしくそれに従った。
しかしドールモンはついにアーサー卿の計画を知ってしまう。結婚式にてアーサー卿がドールモンの罪を告発し、花婿のまま逮捕させるつもりなのだ。
それはアーサー卿の求愛を撥ねつけたシビルへの復讐。彼女は彼の過去の些細な罪を理由に彼を拒絶した。もしそんな女が、愛し、結婚した相手が殺人犯であると知ったら、どれほどのショックを受けるだろう。幸福の絶頂から一瞬で奈落の底へ。それを想像しただけで、アーサー卿の顔には笑顔が浮かぶのだった。
店の主人の目を盗んで素早く殺人を犯したというのは無理があると思う。殺人と恐喝という二つのアイデアはくっつけずに、無難に二つの物語に分けて使ったほうが良かったのでは。
恐喝犯の動機は少々ユニーク…というか、いかにもお伽話めいたもの。
「現代の政治の半ばは金持ちが庶民を恐喝するということから成り立ってます。それをナンセンスだというあなたの考えは二つのナンセンスな幻想を踏まえていますな。一つは金持ちはそれ以上金を欲しがらないという幻想。もう一つは、恐喝はいつも金目当てだという幻想」
「世の中で一番重い罪」
エリザベス(ベティー)・フェイン:ブラウン神父の姪
グランビー:ブラウン神父の知人でもある弁護士
ジョン・マスグレーヴ卿:古城に住む当主
ジェームズ・マスグレーヴ大尉:卿の息子
マダム・グルノフ:黄色いたてがみを生やした大女
マスグレーヴ大尉は、父であるマスグレーヴ卿の遺産を担保に借金を申し込んだ。しかしそれを受けた側としては、果たしてマスグレーヴ卿が息子に遺産を渡すかどうか、その確証を求めるのは当然だった。大尉はそれをきちんと理解し、彼の父に直接会って、その意志を確かめてくれと申し出た。そこでグランビー弁護士とブラウン神父がマスグレーヴ卿の居城へと向かった。
マスグレーヴ卿の住む古城は、その見かけの古さ通りにいろいろとガタも来ており、城に出入りするための跳ね橋の調子も悪かった。途中までしか橋は降りてこなかったので、グランビーは堀を軽やかに跳び越えた。それに続いたブラウン神父は軽やかというわけには行かず、泥水に飛び込む羽目になったが、すばやく引っ張り上げてくれたグランビーのおかげで、深みには嵌らずに済んだ。
とにかく城内に入った彼らはマスグレーヴ卿の老僕に出迎えられた。ほかの召使の姿は見当たらない。用向きを告げると、彼らはすぐに案内されたが、当主が来るまでかなり待たされた。
グランビーの問いに対し、当主は簡潔に答えた。父がそうしたように、自分もまた息子に全財産を譲ると。いかなることがあろうともその決定は変わらないと断言した。ひょっとしたら大尉が今後世継ぎとして相応しからぬ所業を働くこともあるかもしれないが、長い歴史を持つ家系には時折そんな者も現れるもので、それでも続くのが伝統ある家系なのだと言う。
事実、マスグレーヴ家の歴代当主の中にはそんな者も紛れ込んでいるが、当家はそんなことでは揺るぎもしない伝統を持っているのだと、指し示した先には、マスグレーヴ家の歴代当主の肖像画が並んでいた。その面影はどれも似通っており、現在に至るまでの長い血筋の繋がりを感じさせた。
そしてさらに当主は付け加えた。実はすでに大尉は「世の中で最も重い罪」を犯したのだと。それがどんなものなのかは話さなかったが、それによって、存命中は決して息子とは会わないと決めたのだという。
ともかくそれほどまでに重い罪を犯した息子であっても遺産を譲るというのだから、今後何があろうが大尉が遺産を受け取れぬということはあるまい。それなら彼に大金を貸しても大丈夫であろうと、グランビーは安心した。
グランビーとブラウン神父が城に到着したとき、長く待たされたのも当然で、そのとき当主は城外に出かけていた。彼が城に帰ってきたとき、跳ね橋は不調で使えなかった。そこで彼はグランビーと同じように、軽やかに堀を跳び越えた。いくら頑強とはいえ、マスグレーヴ卿は相当の高齢でで、堀に落ちたブラウン神父ほどにも跳ぶことはできるはずがない。つまり堀を跳び越えた人物はマスグレーヴ卿ではなく、彼に変装した大尉だった。
マスグレーヴ卿は不品行な息子である大尉をすでに見限っており、財産を遺す気など微塵もなかった。それを知る大尉は父を殺害し、彼に成り済ましていた。その目的は、大尉の今後の財務状況についてグランビーを安心させ、大金を引き出すためである。
ブラウン神父は城の中の対の甲冑の一方がないことから不審を抱いた。本物のマスグレーヴ卿の死体は甲冑の中に隠された後、城の堀の中に沈められていた。腐敗がすっかり進んでしまえば、甲冑を着た死体が古城の堀の中から見つかっても、誰も怪しむ者はいない。
その過去やフルネーム、家族関係などの詳細がほとんど不明なブラウン神父に、エリザベス(ベティー)・フェインという姪がいることが判明する貴重なエピソード。内容的にはこの登場人物がブラウン神父の姪である必然性もなく、なぜ作者が唐突にこの娘を登場させたのか、謎。二人の会話には、普段のブラウン神父とはやや違う雰囲気(翻訳の仕方のせいもあるかもw)があって興味深い。
今回も作者お得意の、ある人物を別人に偽装するパターン。毎度のことながら、ブラウン神父の眼力は鋭いのか、それとも意外と鈍いのか、判断がつきかねるw
「人気があり、頭も良く、社交界の花形なんですが、しょっちゅう外国へ行っていますし、新聞記者だったこともあるんです」 「それは犯罪じゃありません。少なくとも、常にそうであるとは限りません」
「メルーの赤い月」
マウンティーグル卿
マウンティーグル夫人
ジェームズ・ハードカースル:前途有望な政治家
トミー・ハンター:迷信の化けの皮を剥ぐことに熱心な青年
“山岳尊師”:神秘者
フローゾ:骨相学者
マウンティーグル家には<メルーの赤い月>と呼ばれる(少なくとも金銭的な価値は)素晴らしいルビーがある。そのルビーを中庭にて皆で見ていたのだが、“山岳尊師”が瞑想を始めると、そちらの様子に目が移った。どうやら彼は円を描いて移動しつつ、時折立ち止まっては瞑想していた。
そのとき、そこに骨相学者のフローゾが現れ、頭蓋の形がどうのこうのと講釈を始めた。気の短いトミー・ハンターはそれにはすっかりうんざりしていたので、彼を殴りつけようとさえした。するとジェームズ・ハードカースルがそれを引き留めるといった具合で、ちょっとした騒動になってしまった。皆の視線はすっかり中庭からは離れていた。
突然、トミーが走りだした。そして怒鳴った。「捕まえたぞ!」
そちらに目を向けた者が見たのは、柱の陰から茶色の手が伸び、ルビーを掻っ攫う場面だった。近づいてみると、トミーが片手で茶色の肌の“山岳尊師”の襟首を掴み、彼を取り押さえていた。
しかし先生をいくら身体検査してもルビーは見つからなかった。
いったいどこにルビーを隠したのかと詰め寄る者たちに対し、先生は怒るどころか面白がっているようで、「あなたがたの最新の科学ですらも、時間と空間の法則についての知識は、我々の最古の宗教に千年は遅れているのだ」と笑みを浮かべながら語った。
そしてルビーは出現した。先ほど置き忘れた場所にいつの間にか戻ってきていたのだった。
トミーの片手はなぜか茶色く塗られていた。そう言えば“山岳尊師”を捕まえた際、もう一方の手だけで彼を取り押さえていた。
トミーはルビーを盗み、それを“山岳尊師”の仕業に見せかけるつもりだった。しかしそれをブラウン神父に見破られ、説得され、ルビーを返したのである。
しかしなぜ“山岳尊師”は窃盗犯の汚名に対し、弁明するどころか、いかにも自分の仕業であるかのように振舞ったのか?
それは彼にとってはルビーの金銭的価値はおろか世俗の評価などは何の意味もなく、自分が窃盗犯として見られることもどうでもいいことであり、そんなことよりも自分の神秘の力を示すことのほうがよほど重要だったからである。
とっさに奇跡を自分の手柄にしてしまうというのは、別の短編「ブラウン神父の復活」の趣向の裏返しとも言える。
作中、「私には茶色(ブラウン)と名のつくものをえこ贔屓するという偏見があるのかもしれません」と、ブラウン神父にしては珍しく軽い冗談を口にしている。
「理性は神様からの賜り物です。人々が非合理な話をしているときには何か問題がある」
「マーン城の喪主」
ジェームズ・メア:マーン侯爵
モーリス・メア:ジェームズの弟, 故人
ウートラム将軍夫妻:インド帰りの英国軍人とその妻
ヒューゴー・ロメイン:舞台俳優
ジョン・コックスパー卿:新聞社の社長
マロー:はにかみ屋の大男
ヴァイオラ・グレーソン:ジェームズの元婚約者
ジェームズ・メアは弟のモーリスをとても愛していた。しかし兄の婚約に嫉妬したモーリスが様々な妨害活動を開始し、それがついに兄弟の決闘という事態を引き起こしてしまった。決闘にはウートラム将軍と、当時はまだ下積みだった俳優のヒューゴー・ロメインが立ち会った。
勝負は一瞬で決着した。銃の腕はジェームズのほうが上で、モーリスが仕掛けた決闘は最初から無謀なものだった。モーリスが倒れた直後、ジェームズは医者を呼んでくれと叫ぶと、銃を投げ捨て、微動だにしない弟のもとへ走りだした。それを横目に見つつ、将軍は医者を呼ぶために近くの村へと急いだ。
モーリスによって予め手配されていた医者は、素晴らしい早さで決闘の現場に到着したが、それでも銃弾を胸に受けた男の命を救うには遅かった。医者の素早さは後片付けに役立てるしかなかった。医者の後を追った将軍がようやく到着したときには、すでに死体は仮埋葬され、殺人犯となってしまったジェームズは説き伏せられて港に向かっており、後に外国へと脱出したことが確かめられた。
以来、ジェームズは長期に渡って外国暮らしを続け、人々の記憶が薄れた頃に帰国し、自動的にマーン侯爵を継いだ。
しかし最愛の弟を殺してしまったという、ジェームズの傷は決して癒えなかった。帰国し、マーン侯となってからも彼は塞ぎこんでいた。カソリックにのめり込み、修道院を建てるために大金をつぎ込むのみならず、まるで自らも修道僧になったかのごとく、頭巾のような覆面を顔の前に垂らしていることもあり、隠者のように暮らしている。修道僧たちの言いなりになっているというのが、もっぱらの噂だった。
一度、旧知の間柄であるウートラム夫人が彼を訪ねたことがある。例の覆面を被り、顔を伏せるようにして庭の小道を歩いていた彼を待つようにして夫人は立っていた。ところが彼は夫人がそこにいるとわかっていながら、彼女に声を掛けさえもせずに素通りした。信仰にのめり込んだ彼にとっては、古い友人などはもはや何の意味も持たないとでも言いたげな態度だった。
それでもジェームズの旧友たちは、一縷の望みを持っていた。決闘の原因にもなった、彼のかつての婚約者であるヴァイオラ・グレーソンならばあるいは彼の心を溶かしてくれるのではないかと。
しかしなぜかブラウン神父はそれを思い留まらせようとした。
ブラウン神父は、彼をそっとしておくべきと言う。マーン侯は決して修道僧に騙されているわけではなく、まったく彼自身の意志でああいう暮らしをしているのだと。
そう告げる神父をマーン侯の旧友たちは責めた。「塞ぎ込んだまま荒れ城で一生を送るのを見過ごせというのか!」 「25年以上も前の決闘の咎を赦さずに座敷牢に放り込んでおくのがキリスト教の慈悲なんだ」 「本当のキリスト教というのは、すべてを知りながらもすべてを赦すものでしょう」
結局、神父には彼らを止められなかった。そしてグレーソン嬢はついにマーン侯と対面した。次の瞬間、彼女は叫んだ。「モーリス! この人はジェームズじゃない。彼の弟のモーリスです」
決闘の際、モーリスは撃たれる前に自ら倒れて、死んだふりをしていた。それから銃を捨て、駆け寄った兄を至近距離から射殺した。埋葬された死者はモーリスではなく、ジェームズだった。以来、モーリスはジェームズに成り済まして生きてきた。しかし兄を殺したことを彼は深く悔いていた。それが彼にこのような隠遁生活を送らせていたのだった。
真相を聞き終えたジェームズの友人たちは怒りを爆発させた。それでは話が違う、決してモーリスを赦せないと言う。ほんの少し前までは、ブラウン神父には慈悲が足りない、本当のキリスト教の慈悲とはもっと大きなものでしょうと責めていた者たちが、赦せることには限度があると、口々にモーリスの処罰を求めるのだった。
それに対してブラウン神父は冷ややかに言った。
「いかにも人間の慈悲には限度がある。そしてそこにこそ、人間の慈悲とキリスト教の慈悲の本当の違いがあるのです。今日のあなたがたは、わたしを無慈悲と言い、すべての罪人を赦さねばならぬと説いた。しかし、あなたがたが罪を赦すのは、それが赦しが必要なほどの大きな罪ではない場合だけなのだ」
「あなたがたは、あのような陋劣な行いをするほどに賎しくはなれぬと断言するでしょう。しかしもしあなたがたがそんな行いをしてしまったとしたら、何年も経ち、裕福に安全に老後の生活を送ることも簡単にできるのに、良心や司祭に促され、己の罪を告白しようとしますか? あなたがたには彼のような陋劣な行いはできないかもしれない。しかし陋劣な罪を、彼のように告白することができますか?」
一行はブラウン神父を後に残し、黙々と部屋を出て行った。
当初はブラウン神父に対し、マーン侯にもっと慈悲を与えるべきと責め、自分たちのほうがよほど慈悲深いと任じていた者たちが、真相を知るや否や掌を返し、マーン侯を決して赦さないと、あまつさえリンチに掛けろとまで言い立てる始末。そういう結果になるとわかっていたブラウン神父は冷めた口調で彼らを諭す。
物語終盤でのブラウン神父の説教は、「罪なき者から彼女に石を投げよ」というキリスト教の故事にちなんだものだろう。この場面は事件の真相以上に印象的。
「あなたがたが人の咎を赦すのは、その咎が犯罪ではなく習俗に過ぎぬとお考えになるときだけなのだ。あなたがたが人を赦すのは、赦すほどのことが何もないからなのだ」
「フランボウの秘密」
ブラウン神父の話を聞き終えたグランディソン・チェイスは、その探偵法についてはある程度は納得したようだった。しかしそれは魔術ではないにしても、魔術以上に不健全であるとさえ感じていた。
「そんなふうに犯罪者に成りきってばかりいると、犯罪に対して寛大過ぎるようになってしまうのではないですか?」と問うチェイスに対し、「むしろ逆で、人はそれを実行する前に悔いるようになる」と説くブラウン神父。
チェイスは微笑みを浮かべて言った。「さぞやブラウン神父なら犯罪者に同情を示し、その人物を諭すでしょうが、実際のところ、そんなことで改心する者などいないでしょう。実際に盗っ人や殺人者を扱う際には、まるで違った扱いが必要なのです」
それまで話を黙って聞いていた、この家の主であるデュロックがおもむろに口を開いた。「この部屋には犯罪者がいます。それはわたしです。わたしは今でも世界中の警察に追われる身のフランボウです」
それを聞いたチェイスは言葉を失った。
デュロックは続けて言った。「わたしはもちろんあなたの言う、実際に盗っ人や殺人者を扱う者たちや、彼らがどのような言葉を持っているのかを知っています。彼らはわたしに、お前はどうしてそこまで下劣になれたのかと、想像もつかぬほどの堕落だと、高尚迂遠な言葉で説諭しました。わたしにはそれは滑稽以外の何ものでもありませんでした。ただ、ブラウン神父だけが、わたしがなぜ盗みを働くのか、その理由を知っているとおっしゃいました。それ以来、わたしは盗みをやめました。わたしを警察に引き渡そうとするなら、それはあなたのご随意です」
デュロックが話を語り終え、一瞬の静寂の後、チェイスは答えた。「たとえお付き合いはまだ短くても、我々は友人ではないですか。あなたが進んで昔話を少しばかり聞かせてくれたからといって、あなたを密告するかもしれないとお疑いになったのは残念です。わたしが卑劣な密告者となって賞金目当てにお尋ね者を絞首台に登らせ…そんな下劣な人間になれるものでしょうか?」
「わたしなら、なれるかどうかやってみます」と、ブラウン神父は答えた。
この作品集のエピローグ。ブラウン神父の話を聞き終えてなお、そのやり方の実際の効果を疑う聞き手のチェイスに対し、それまで沈黙を保っていた元泥棒のフランボウが、自らこそがその実例であると告げ、逮捕されるのを覚悟の上で、ブラウン神父の名誉を守ろうとする。
これは「マーン城の喪主」での、「黙っていれば裕福で安穏に暮らすこともできるのに、あえてその罪を告白するということができますか?」というブラウン神父の説教にも通じる。
「あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うからでしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは自分もそれをやりかねないと思うからなのです」