読者から提示された謎に作者が解答を着ける。作中に短編を集めた変則的な長編。[?]
<高取ミステリーサークル>
大達寿郎:中学の国語教師
御堂一成
卯崎栄:高取大学美術部二年生, 中学教師
日比野カナ:鷹取大学文学部に在学中
林摩耶:高校2年生
伊島ちどり:中学生
中井守夫:<光文社>の編集者
謎を読者が提示し、それを作者・辻真先が解き明かすという趣向への読者投稿は集まったものの、作者はちっとも解答を思いつかなかった。そこでその担当編集者は作者を見限り、推理小説のアマチュアサークルのメンバーにその執筆を依頼した。
出来次第では彼らの名で本になると聞かされ、<高取ミステリーサークル>の面々はその話に乗った。
※以下反転表示のネタバレ注意。
読者への挑戦状ならぬ、読者からの挑戦状。読者が(無責任な)謎を提起して、そこに作者が解決を着けるという趣向。本作では読者からの9編の謎に作者が解答を与えている。前例がない、というわけではないとのことだが、その試みは面白い。しかしその出来は今ひとつ。
本作は作者・辻真先がどうしても解答を思いつかず、困った担当編集者が、小さな町の推理小説同好会のアマチュアたちにその執筆を依頼し、それを引き受けた彼らが書き上げた9編の小説が語られる…という設定。各編の合間には、執筆者自身について語られる。つまりこれは短編集でもあり、その執筆者たちを登場人物とする一編の長編という形にもなっている。
しかしこれらの短編、これがどれも物足りない。推理小説というよりも、もっと一般的なショートショートのような話ばかりなのはいいとしても、その内容はまるでつまんない謎掛け。「設問に対して一応の解答は付けました」というだけのレベル。こういうのはとにかくオチが肝心だが、ほとんどどれも拍子抜けか、途中でネタが割れる。サプライズはまったくない。
短編の内容の欠点については作者自身にも自覚があるようで、作中で登場人物が批判し合うという形でいくつか触れており、お題として提示された謎からやや外れている話すらある。出来不出来以前に、「読者からの挑戦状」というテーマ自体の意味が薄れてしまっているのが痛い。
内容の薄さを、数量でごまかしている感じ。長編のメインプロットの大枠も、オチに至るまですぐにだいたい察しが付いた。
[求む! 辻真先への挑戦状]
本作の趣旨。読者から提示された、まだ答えのない謎に、作者が解答を着ける。
[鷹はいつ飛ぶか]
作者の筆が進まないため、その担当編集者がアマチュア作家に執筆を依頼。
[「赤いトランク」――第一の挑戦状に答える]
① 殺した人間を積んだトランクを開けると、そこには見たこともない別の死体があったのはなぜ?
丘野高哉:俳優
嶺塚:道具係
綾美:自殺した新人女優
俳優の丘野高哉は心臓にやや問題を抱えており、次に発作を起こしたら命に関わると医師に告げられている。そのため、元来怒りっぽい質の彼もさすがになるべく怒りを爆発させることは自重するようになったのだが、そんな彼の努力に挑戦するかのようにミスを繰り返すのが、最近入団したばかりの道具係の嶺塚だった。嶺塚は先ほどもトランクに男の人形を入れるはずなのに、誤って女の人形を入れるという失敗をしでかしたばかりだ。
死にたくなければ怒りを抑えねばならぬ丘野の苦悩は続くばかりである。
丘野のそばには先ほどの女の人形。彼はその人形の顔に妙な既視感を覚えていた。唐突に、その声が聞こえた。「死体は女でよかったのよ。あなたが殺したのは男じゃなくて、女の私でしょ」
その声に驚いた丘野は既視感の正体に気づいた。女の人形の顔が、かつて癇癪を起こした彼の激しい悪態によって死に追いやられた女優、綾美の顔に似ていたのだ。
人形はさらに彼を責める。「あなたは私を殺した」
心臓発作を起こした丘野を冷めた目で見つめている人物がいた。
死んだ綾美の恋人は嶺塚という名の腹話術師だった。
[御堂の場合]
御堂一成には楽天家な面があり、自分がモテるとはまったく思っていないのに、女にしょっちゅう惚れ込んでは告白し、いつもフラれていた。摩耶にも告白したことがあるが、当然のようにあっさりと玉砕している。
しかし惚れっぽいがそれは一過性のもので、その翌日にはもうケロッとしているといった具合だった。
[「彼女の冒険」――第二の挑戦状に答える]
② 若い娘はなぜ通勤電車の中で、背広ネクタイ姿で死んでいたのか?
伊集院絵奈:謎の女
並木勝:一流半の会社の冴えない部長
平々凡々な人生を送っていた中年男が、ちょっとしたきっかけから初対面の女の家に上がり込むことになり、男女の関係を持ってしまった。その最中、彼はふと彼女の部屋の姿見を覆う布を外そうとした。すると突然、「それに触らないで!」と彼女は怒り出し、それまで盛り上がっていたのが嘘のように二人の関係は冷めてしまった。
男は肩を落とし、女の家を立ち去った。
その翌日、再び元の平凡な人生に戻った男――並木勝――が満員電車に揺られていると、一人の若者がもたれかかってきた。その様子がどうもおかしい。帽子の下の顔を見て驚いた。昨夜の女――伊集院絵奈――だった。スーツとネクタイ姿の彼女はすでに死んでいた。
絵奈は男に騙された結果、男とは距離を置くようになっていた。しかしそれがふと寂しくなることもあった。
ある日、彼女の購入した商品の中に、どういうわけか男物のスーツが入っていた。当然取り替えてこようと、それを手にして立ち上がった瞬間、ふと姿見に映った自分が男に見えた。思わずその服に袖を通した。鏡の中には彼女を決して裏切らない男がいた。
それ以来、鏡の中の男は彼女の恋人となった。普段は姿見を布で覆い、会いたいときにはそれを外した。だがそれもしょせんは代用品にすぎないことを次第に痛感するようになった。温かい肌が欲しかった。そこで後腐れのない男を求めた。
いつも見かける冴えない男を選んだ。
並木との関係は、絵奈はますます虚しくさせただけだった。ふと、彼女は鏡を見た。その中には絵奈が映っていた。それを見ている自分はもはや絵奈ではなく、いつも鏡の中にいた、彼女の恋人だった。浮気した絵奈に、彼は怒りをぶつけた。鏡は砕け散った。彼は絵奈を殺してしまった。
彼は自分も死のうと思った。そのための薬があった。どうせ死ぬなら、彼の愛する絵奈を犯した男――並木勝――に復讐しようとも思った。
[摩耶の場合]
林摩耶は自分の肢体に自信を持っており、相応にモテていた。しかし顔はさほどでもないので30代にもなればもう男からの誘いは期待できないと、自分についてドライに踏んでいた。
そんな摩耶が恋したのがサークルのリーダーの大達だった。しかし大達は彼女よりも、ちどりに惹かれていることは見え見えだった。確かにちどりが凄い美少女なのは摩耶とて認めざるを得ないが、彼女はまだ中学生だ。そんな彼女に負けるのが悔しくて仕方ない。彼女に対しては、摩耶は激しい嫉妬の炎を常に密かに抱いていた。
[「赤い糸ひとすじ」――第三の挑戦状に答える]
③ 私の隣で寝ていた夫が翌朝死んでいた。身に着けているのはいつものパジャマではなく、女性の浴衣、それも左前であった。なぜ?
夫
妻
夫と妻が同じ部屋で眠り、お互いに別の夢を見ていた。
夫の心は江戸時代へと羽ばたいて、自らは大店の番頭となって、若い内儀との不義密通を楽しんでいた。しかし旦那の声が聞こえると、慌てて内儀の浴衣を羽織り、相手に一言、愛を告げて一目散に逃げ出した。
妻は白雪姫の世界の女王となり、最も美しいのは誰かと、鏡に向かって問いかけていた。しかしこの世界の鏡は賢明だったので、無難に「それは女王様です」と答えた。
それを聞いた女王は機嫌も良くなり、次に自分の愛する男の姿を見たいと言いだした。すぐに鏡はその姿を映した。
鏡に映ったのは女物の浴衣を羽織り、別の女に愛を囁く男。それを見て怒り狂った女王は、こんな男が自分の愛する男とは何事と、その男を殺せと命じた。すぐにその命令は実行された。
翌朝、目覚めた妻は自分の隣に寝ていた夫が死んでいることに気づいた。
鏡の中で死んだ夫は、現世では反転した姿、浴衣を左前に着た姿で死んでいた。
[カナの場合]
日比野カナは過疎の町で生まれ育った。家の期待を背負って東京の大学を受験したものの、田舎では優秀だった彼女の学力は、都会では歯が立たなかった。かろうじて合格したのが、東京とは名ばかりの、一応その中には入っているというだけの小さな町の新設大学だったのだ。
昔から引っ込み思案で、自分についてまったく自信のなかったカナではあったが、田舎では優しい娘で通っていた。しかしそんな彼女をいつしか貧しい学生暮らしがすり減らしてしまったのか、彼女自身がショックを受ける出来事があった。
パンを購入し、それを抱えて帰ろうとしたカナの目の前で、見知らぬ老婆が交通事故に遭いそうになった。カナはすぐに駆け寄ろうとし、手に持った紙袋が落ちた。その瞬間、カナの足が止まった。老婆よりも、落ちた紙袋の中身が気になってしまったのだ。倒れた老婆を別の通行人が介抱していた。どうやら老婆は助かったようだ。
安堵する反面、カナは自分の行動が哀しかった。もう自分は昔のような優しさすら失ってしまった。何の取り柄もなくなってしまった。心を刃が突き刺した。
[「ものいわぬナイフ」――第四の挑戦状に答える]
④ 旅から帰宅した私のスーツケースから血染めのナイフが現れた。留守中、自宅近くで起こった事件の凶器に似ている。逮捕されている犯人に心当たりはない私は?
増田萱子:海外旅行から帰ったばかりの女
宮川けい:萱子の隣人
江田:やくざ者
海外旅行から帰ったばかりの増田萱子は重いスーツケースをマンションの部屋の前の脇に置いたまま、とりあえず部屋の暖房をつけ、冷蔵庫を開けた。旅行に出るので空っぽにしていたことを思い出した。とにかく何か食べるものが欲しいと、そのまますぐに近くのコンビニへと出かけた。
コンビニで誰かの話し声が聞こえた。どうやら彼女の旅行中に、近所で刺殺事件があったようだ。買い物を済ませた彼女は帰宅した。
やっと部屋に運び込んだスーツケースを開けた萱子は、その中に見知らぬものを見つけた。血痕のあるナイフだった。
萱子の隣人・宮川けいは、刺殺犯の恋人だった。刺殺犯は、けいのものと勘違いして、そこに証拠品のナイフを入れてしまったのだ。知ったからには生かしておけないと、詰め寄るけいに対し、萱子は妙に冷静で、あっさり相手を取り押さえた。
萱子の職業は警察官だった。
[御堂の場合 2]
摩耶にフラれたばかりの御堂は、街で泥酔した見知らぬ女と知り合った。その女を介抱すると、彼女はホテルへ一緒に行こうと言う。女はかなりの美人だった。抵抗することもできず、御堂はその希望を叶えた。
ところがホテルの部屋に入った彼女は、散々自身の彼氏について愚痴り、部屋の中でまた派手に吐き散らして絨毯を汚した。挙句の果てに、彼女は彼を拒絶した。
曰く――こんな汚い自分に迫る男はもっと汚い。
女を介抱し、ホテル代を支払った御堂は肩を落とした。泣いている彼女よりも、もっと泣きたい気分だった。
[「サウナは笑う」――第五の挑戦状に答える]
⑤ サウナ室の中から発見されたのは、なんと凍死体であった。どうしてそんなことが起こったのか?
片平大陸:<サンタの家>のオーナー
片平美雪:その娘
管理人
雪山にある片平家の別荘は通称<サンタの家>と呼ばれていた。その<サンタの家>に休暇明けで戻った管理人は驚いた。主人の片平大陸が屋内のサウナ室に裸でいるのはごく普通のことなのだが、その彼が死んでいたからだ。しかもなぜか室内も死体も氷のように冷えきっていた。
「父を殺すしかない」
片平大陸の娘、美雪はそう決意していた。しかしそれで自分が逮捕されては元も子もない。そこで計画を練った。まず彼を薄氷の張った冷たい沼に落とす。心臓の弱った老人はすぐに死ぬ。そして引き揚げた死体をサウナ室に運び込み、時間を置いてから部屋を暖める。これで死亡推定時刻をごまかせるだろう。
そして実際にその計画は順調に進行していった。
「ハンカチがない!」
首尾よく大陸を殺害し、その死体をサウナ室に座らせた美雪は気づいた。彼の所持品の中に、死の直前に使っていたハンカチが見当たらないのだ。万が一、それが沼やその周辺で発見されたら警察の疑惑を招き、徹底した捜査になりかねない。
美雪は彼を突き落とした沼へと引き返した。ハンカチはあった。薄氷の上に張り付いていた。手を伸ばしそれを取ろうとしたとき、彼女の体勢が崩れた。
冷えきった沼は、心臓が弱った老人のみならず、まだ若い美女も容易に死の世界へと連れ去った。
[卯崎の場合]
卯崎栄の女っぽい振る舞いは表面上のもので、彼の中身はまったくの男である。大達には魅力を感じているのは事実だが、それはあくまでも男から男に対する憧れである。
自分がモテることに気づいた卯崎は多くの女と関係を持ったが、それでも彼は慎重だった。狭い町で悪い噂が立ったら、決して裕福ではない彼の生活に支障をきたすからだ。サークル内で彼がマークしたのは摩耶だった。もちろん彼女が大達に惚れているのは知っているが、それはそれだった。そして首尾よく関係を持ったが、それは一度限りで、お互いに何事もなかったかのように振舞っている。関係を続けてしまったら、彼女の人生を背負わねばならないと卯崎は感じたからだった。
[「わが愛しのモア」――第六の挑戦状に答える]
⑥ 久しぶりの休日。夫婦でドライブに出かけることになる。アパートの一室を出たところで、妻が「忘れ物をした」と言い残し部屋に戻る。自分も財布を忘れていることに気づいた夫がすぐに後を追うと、部屋の中に妻の姿はなく、代わりにモア(駝鳥を大きくしたような鳥ですでに絶滅)が立っていた。一瞬にして妻は変身してしまったのか?
鳥海多郎:<三ツ江観光>の総務課に在籍
穂積知里:添乗員
<三ツ江観光>の総務課に在籍する社員で、何をするにもワンテンポ遅いのに、足だけはやたらと速い鳥海多郎は、「モア」というあだ名で呼ばれていた。
彼は女に縁がなかったが、社員旅行中に巻き込まれたバスジャック事件が彼の優れた脚力によって解決され、それをきっかけにバスの新人添乗員・穂積知里との交際が始まり、晴れて結婚まで辿り着いた。
バスジャック事件の際、鳥海によって助けられた同僚たちは彼に感謝しており、知里との交際を後押ししたのも彼らである。そして鳥海夫妻が新婚旅行に向かうことになったので、家の中を綺麗にしてあげたいと言いだした。鳥海たちはその好意を素直に受け入れ、旅行へと出発した。
ところが車で出発した直後、知里が忘れものに気づいた。彼女は家へと走って行った。するとその後ろ姿を見送った鳥海も忘れものに気づいた。彼も家へと引き返した。
玄関を開け、家の中に入った鳥海の視界には、愛する妻ではなく、部屋の真ん中に堂々と立つモアの姿が飛び込んできた。
鳥海の同僚たちは、旅行から帰った彼へのサプライズのプレゼントとして、作り物のモアを準備中だった。
[摩耶の場合 2]
ちどりへの嫉妬は抑えようがなかった。摩耶は彼女を殺したいとさえ思った。しかし警察に捕まっては意味がない。大達が摩耶を愛することはないし、ちどりは永遠に彼の心の中に美しく残り続けるだろう。
そこで摩耶は蓋然性の殺人に挑むことにした。可能性は低いが、ちどりが死ぬかもしれないという、小さな計画を繰り返すのである。その一つとして、彼女の自転車のブレーキを壊れやすくした。お目当ての長い下り坂でブレーキが壊れれば、産廃の汚泥に突っ込んで死ぬかもしれない。そこに突っ込んで死ねば、その死体はさぞや醜いものになるだろう。大達とて、その記憶の中に彼女を美しいまま留めておくのは難しいだろう。
その作戦は失敗だった。ちどりから自転車を借りた御堂がちょっとした擦り傷を作っただけに終わった。いずれまた別の機会はいくらでもある――摩耶は諦めなかった。
[「晴れのち所により赤ん坊が降るでしょう」――第七の挑戦状に答える]
⑦ 村の役場に一通の手紙が届いた。村に赤ん坊が降ることを予告したものだった。指定された村の公園の噴水で、村人たちがクッションや網を構えて待っていると、指定された正午のサイレンが鳴ると同時に空中に赤ん坊が出現し、降ってきた。無事に受け止めた村人たちの顔に安堵と困惑の表情が広がっていった…。
吉兵衛:言い伝えの中に登場する村人
美代:同
与那心教の本部長
鎌田:村の会計役
あき婆さん
村長
助役
その村にはこんな故事があるという。村人が裏山の奥の祠に願掛けしたところ、神様はそれに応え、祠の中から赤子を授けてくれたのだ。
ところが当の村人たちはそんな故事をすっかり忘れてしまったらしい。与那心教の本部長と名乗る人物が村にやって来て、その話をしても誰も反応を示さない。しかし場合によってはその祠のそばに道場を建てるとなれば話は別である。マイナス材料もあるにせよ、ずっと右肩下がりな村にとってはプラスのほうが大きい。村長はすばやく算盤を弾いた。
本部長はその祠が言い伝え通りのものなのか調べたいと言う。どう調べるのかと助役が尋ねてみれば、実際に願掛けして、その結果を待てばいいと、本部長は真顔で言った。
それからしばらくして、願掛けの結果を確かめる日がやって来た。祠が本物ならば赤子が現れるはずである。本部長とその連れの多くの坊主たち、村人たち、皆が広場に集まった。
本部長はいかにも宗教的な重々しい音楽を流し、村人たちの前で熱弁を振るった。その説教は見事なもので、涙を流す村人さえいた。眠気を噛み殺すのが精一杯の村長はむしろ数少ない例外だった。
そして正午、サイレンの音とともに様子は急変。池の中央の鶴の嘴から水が吹き出した。坊主が駆け寄り、そこにクッションを差し出した。坊主は叫んだ。「紛れもなく、空からややこが降ってきた」
クッションの中には赤子が眠っていた。奇跡を目撃した村人たちはどよめいた。実を言えば村長は空から赤子が降ってきた瞬間など見ていないのだが、村人たちの多くは実際にそれを見たようだ。
「嘘こくでねえ!」
あき婆さんは怒声を上げた。赤子は空から降ってきたところなど見てない、見たのは坊さんが懐に入れていたことだけと言い張った。そんなあき婆さんを説得しようと、本部長は後ろから声を掛けるが、彼女は振り向きもしない。そんな様子を見ていた助役は、本部長に助け舟を出した。
「あき婆さんはとても耳が遠いので、正面から口の動きが見えるように話しかけないと通じませんよ」
それを聞いた本部長の表情を見た瞬間、村長は真相に気づいた。集団催眠――若い頃に読んだエッセイを思い出した。
本部長の目的は教団内で生まれた赤子の事情を隠したまま、その子の養い手を探すことだった。
[卯崎の場合 2]
卯崎はかつて関係を持った人妻に偶然見かけた。相手もこちらを見た。しかし彼女は背中を向け、去って行った。卯崎はその女に未練があった。すぐに追いかけたが、見失ってしまった。
[「曼荼羅図」――第八の挑戦状に答える]
⑧ 妻の周期的な秘密行動に不信を募らせていた夫が決心した。妻が隠しておいた印刷物(宗教画?)でドアを封印し、それを破ってでも妻が出かけて行くか確かめようというのである。その結果は?
永沢貴之:某商事会社の部長
弘美:貴之の妻
桜井伸吾:道陸教の幹部
壬生万里子:探偵事務所の所長
永沢貴之は妻・弘美の行動に疑いを抱いていた。探偵を雇い、その行動を調べてみると、案の定、彼の留守中に彼女は桜井伸吾という男と会っていた。
浮気のほかに、貴之の中にはもう一つの疑いがあった。それは彼女の持ち物の中に大きな絵が描かれた紙を見つけたときから始まった。絡み合う男女らしき姿が中央に描かれたそれは、どうも宗教画のようであった。妻は宗教にハマっているのではないか? 実際、桜井伸吾という男は道陸教の幹部なのだ。
妻と直接対決の覚悟を固めた貴之に対し、探偵事務所の所長・壬生万里子はあるアイデアを提案した。
貴之は家から出かける際、妻への罠を仕掛けた。あの宗教画を玄関に広げて貼り付け、その反応を確認するのである。もし道陸教への信仰が深いなら、外出するにもそれをあっさりと踏みつけたりはできないはず。少なくとも躊躇を示すだろう。逆にそんな宗教への信仰心などないなら、不審に思いつつも平気でその上を歩くだろう。
結果は…弘美は平気でその上を歩いた。
貴之は注意深くそれを見てないので気づかなかったが、宗教画の中央に描かれていた一方は弘美なのだという。学生時代にモデルのアルバイトをした際に描かれたものだが、それを貴之に知られたくなかっただけなのだ。弘美は桜井伸吾の妻と同窓で、それで桜井夫妻と付き合いがあるだけだった。貴之は安堵した。
弘美は安心して浮気を続けた。笑いながら弘美は言った。
「あの絵の女のモデルが私だと気づかないあの人が、男のモデルがあなただなんて、想像もできるはずもないわ。女の浮気相手が男とは限らないのに」
弘美の隣で壬生万里子も笑っていた。
一旦妻への疑いが晴れた貴之は、もう妻を疑わなかった。
[大達の場合]
大達は危険を嫌い、なるべく安全な道、そこそこの堅い人生を送りたいと思っていた。将来の計画も堅実なものだ。ギャンブルなどするつもりはなかった。
そんな彼も一度だけ大きな計画外の行動を取ってしまった。サークルのメンバーと海へ出かけたとき、雰囲気に流されてカナを抱いてしまった。
その夜の出来事については彼女は沈黙したままだった。もし彼女が「子供ができた」と言ってきたらどうしようと、大達は思っていた。何事も計画通りに進めることを好む彼だが、未だにその計画が立たなかった。
[「ちどりの場合」――第九の挑戦状に答える]
⑨ 「犯人」(すでに発表済の辻真先の長編小説)の姉妹編として、推理小説における“絵解き”の問題と絡ませ、同時に「読者以外皆犯人」ということで“絵解き”が「免罪符」ならぬ「免罪本」となる工夫を!
八つの短編を批評し終えたサークルのメンバーたちは、突然の強い睡魔に襲われた。その中に一人だけ、ちどりだけは平然としたままだった。
ちどりはメンバーたちのそれぞれの罪状を告げた。そして彼女は部屋に火を点けるつもりだ。彼女自身はそのままここに留まるつもりはない。大量殺人に放火、もちろん、警察に逮捕される。そうなったら彼女はこう証言する。
「今なら未成年の私は少女Aで済むから」
「私は優等生なんですよ」
「こんな私が優等生ってことがおかしいんです。教育がおかしいんです。文部省がおかしいんです。日本という国がおかしいんです」
するとマスコミが騒ぎ立て、彼女の父は間違いなく自殺する。彼を自殺に追い込んだのは誰? その答えは決まってる。マスコミ、それに乗っかった世論、日本人の皆様だ。でももしこの小説を読む者がいたら、その読者だけは世論に与しない。「読者以外皆犯人」の出来上がり。
[鷹はいつ眠るか]
喋り終えたちどりは喉が渇いたので、湯沸し室でお茶を淹れ、それを飲んだ。すると急に眠気が襲ってきた。
――なぜ…私の湯呑みには睡眠薬は入れてないのに…みんなの湯呑みに薬を入れた後、薬瓶は湯沸し室に置きっ放しだった…誰かが私の湯呑みにも薬を入れた…でも誰が――
「あ、もしもし。中井さん? 僕です。彼らの原稿ですか? 今ひとつでした。別のグループを当たりましょう」
相手にそう告げた後、電話ボックスから出てきたのは、中井と名乗り、高取ミステリーサークルに原稿を依頼した男である。彼はいくつか嘘をついていた。その一つは、彼の名は中井ではなく、辻真先ということである。ネタが思いつかずに困った彼は、使えそうなアイデアがあったらそれをパクるつもりで執筆を依頼し、盗聴器を仕掛け、彼らを見張っていたのだった。本になってしまえば、彼らが盗作だと騒いでもなんとでもなる。
<高取ミステリーサークル>
大達寿郎:中学の国語教師
御堂一成
卯崎栄:高取大学美術部二年生, 中学教師
日比野カナ:鷹取大学文学部に在学中
林摩耶:高校2年生
伊島ちどり:中学生
中井守夫:<光文社>の編集者
謎を読者が提示し、それを作者・辻真先が解き明かすという趣向への読者投稿は集まったものの、作者はちっとも解答を思いつかなかった。そこでその担当編集者は作者を見限り、推理小説のアマチュアサークルのメンバーにその執筆を依頼した。
出来次第では彼らの名で本になると聞かされ、<高取ミステリーサークル>の面々はその話に乗った。
※以下反転表示のネタバレ注意。
読者への挑戦状ならぬ、読者からの挑戦状。読者が(無責任な)謎を提起して、そこに作者が解決を着けるという趣向。本作では読者からの9編の謎に作者が解答を与えている。前例がない、というわけではないとのことだが、その試みは面白い。しかしその出来は今ひとつ。
本作は作者・辻真先がどうしても解答を思いつかず、困った担当編集者が、小さな町の推理小説同好会のアマチュアたちにその執筆を依頼し、それを引き受けた彼らが書き上げた9編の小説が語られる…という設定。各編の合間には、執筆者自身について語られる。つまりこれは短編集でもあり、その執筆者たちを登場人物とする一編の長編という形にもなっている。
しかしこれらの短編、これがどれも物足りない。推理小説というよりも、もっと一般的なショートショートのような話ばかりなのはいいとしても、その内容はまるでつまんない謎掛け。「設問に対して一応の解答は付けました」というだけのレベル。こういうのはとにかくオチが肝心だが、ほとんどどれも拍子抜けか、途中でネタが割れる。サプライズはまったくない。
短編の内容の欠点については作者自身にも自覚があるようで、作中で登場人物が批判し合うという形でいくつか触れており、お題として提示された謎からやや外れている話すらある。出来不出来以前に、「読者からの挑戦状」というテーマ自体の意味が薄れてしまっているのが痛い。
内容の薄さを、数量でごまかしている感じ。長編のメインプロットの大枠も、オチに至るまですぐにだいたい察しが付いた。
[求む! 辻真先への挑戦状]
本作の趣旨。読者から提示された、まだ答えのない謎に、作者が解答を着ける。
[鷹はいつ飛ぶか]
作者の筆が進まないため、その担当編集者がアマチュア作家に執筆を依頼。
[「赤いトランク」――第一の挑戦状に答える]
① 殺した人間を積んだトランクを開けると、そこには見たこともない別の死体があったのはなぜ?
丘野高哉:俳優
嶺塚:道具係
綾美:自殺した新人女優
俳優の丘野高哉は心臓にやや問題を抱えており、次に発作を起こしたら命に関わると医師に告げられている。そのため、元来怒りっぽい質の彼もさすがになるべく怒りを爆発させることは自重するようになったのだが、そんな彼の努力に挑戦するかのようにミスを繰り返すのが、最近入団したばかりの道具係の嶺塚だった。嶺塚は先ほどもトランクに男の人形を入れるはずなのに、誤って女の人形を入れるという失敗をしでかしたばかりだ。
死にたくなければ怒りを抑えねばならぬ丘野の苦悩は続くばかりである。
丘野のそばには先ほどの女の人形。彼はその人形の顔に妙な既視感を覚えていた。唐突に、その声が聞こえた。「死体は女でよかったのよ。あなたが殺したのは男じゃなくて、女の私でしょ」
その声に驚いた丘野は既視感の正体に気づいた。女の人形の顔が、かつて癇癪を起こした彼の激しい悪態によって死に追いやられた女優、綾美の顔に似ていたのだ。
人形はさらに彼を責める。「あなたは私を殺した」
心臓発作を起こした丘野を冷めた目で見つめている人物がいた。
死んだ綾美の恋人は嶺塚という名の腹話術師だった。
[御堂の場合]
御堂一成には楽天家な面があり、自分がモテるとはまったく思っていないのに、女にしょっちゅう惚れ込んでは告白し、いつもフラれていた。摩耶にも告白したことがあるが、当然のようにあっさりと玉砕している。
しかし惚れっぽいがそれは一過性のもので、その翌日にはもうケロッとしているといった具合だった。
[「彼女の冒険」――第二の挑戦状に答える]
② 若い娘はなぜ通勤電車の中で、背広ネクタイ姿で死んでいたのか?
伊集院絵奈:謎の女
並木勝:一流半の会社の冴えない部長
平々凡々な人生を送っていた中年男が、ちょっとしたきっかけから初対面の女の家に上がり込むことになり、男女の関係を持ってしまった。その最中、彼はふと彼女の部屋の姿見を覆う布を外そうとした。すると突然、「それに触らないで!」と彼女は怒り出し、それまで盛り上がっていたのが嘘のように二人の関係は冷めてしまった。
男は肩を落とし、女の家を立ち去った。
その翌日、再び元の平凡な人生に戻った男――並木勝――が満員電車に揺られていると、一人の若者がもたれかかってきた。その様子がどうもおかしい。帽子の下の顔を見て驚いた。昨夜の女――伊集院絵奈――だった。スーツとネクタイ姿の彼女はすでに死んでいた。
絵奈は男に騙された結果、男とは距離を置くようになっていた。しかしそれがふと寂しくなることもあった。
ある日、彼女の購入した商品の中に、どういうわけか男物のスーツが入っていた。当然取り替えてこようと、それを手にして立ち上がった瞬間、ふと姿見に映った自分が男に見えた。思わずその服に袖を通した。鏡の中には彼女を決して裏切らない男がいた。
それ以来、鏡の中の男は彼女の恋人となった。普段は姿見を布で覆い、会いたいときにはそれを外した。だがそれもしょせんは代用品にすぎないことを次第に痛感するようになった。温かい肌が欲しかった。そこで後腐れのない男を求めた。
いつも見かける冴えない男を選んだ。
並木との関係は、絵奈はますます虚しくさせただけだった。ふと、彼女は鏡を見た。その中には絵奈が映っていた。それを見ている自分はもはや絵奈ではなく、いつも鏡の中にいた、彼女の恋人だった。浮気した絵奈に、彼は怒りをぶつけた。鏡は砕け散った。彼は絵奈を殺してしまった。
彼は自分も死のうと思った。そのための薬があった。どうせ死ぬなら、彼の愛する絵奈を犯した男――並木勝――に復讐しようとも思った。
[摩耶の場合]
林摩耶は自分の肢体に自信を持っており、相応にモテていた。しかし顔はさほどでもないので30代にもなればもう男からの誘いは期待できないと、自分についてドライに踏んでいた。
そんな摩耶が恋したのがサークルのリーダーの大達だった。しかし大達は彼女よりも、ちどりに惹かれていることは見え見えだった。確かにちどりが凄い美少女なのは摩耶とて認めざるを得ないが、彼女はまだ中学生だ。そんな彼女に負けるのが悔しくて仕方ない。彼女に対しては、摩耶は激しい嫉妬の炎を常に密かに抱いていた。
[「赤い糸ひとすじ」――第三の挑戦状に答える]
③ 私の隣で寝ていた夫が翌朝死んでいた。身に着けているのはいつものパジャマではなく、女性の浴衣、それも左前であった。なぜ?
夫
妻
夫と妻が同じ部屋で眠り、お互いに別の夢を見ていた。
夫の心は江戸時代へと羽ばたいて、自らは大店の番頭となって、若い内儀との不義密通を楽しんでいた。しかし旦那の声が聞こえると、慌てて内儀の浴衣を羽織り、相手に一言、愛を告げて一目散に逃げ出した。
妻は白雪姫の世界の女王となり、最も美しいのは誰かと、鏡に向かって問いかけていた。しかしこの世界の鏡は賢明だったので、無難に「それは女王様です」と答えた。
それを聞いた女王は機嫌も良くなり、次に自分の愛する男の姿を見たいと言いだした。すぐに鏡はその姿を映した。
鏡に映ったのは女物の浴衣を羽織り、別の女に愛を囁く男。それを見て怒り狂った女王は、こんな男が自分の愛する男とは何事と、その男を殺せと命じた。すぐにその命令は実行された。
翌朝、目覚めた妻は自分の隣に寝ていた夫が死んでいることに気づいた。
鏡の中で死んだ夫は、現世では反転した姿、浴衣を左前に着た姿で死んでいた。
[カナの場合]
日比野カナは過疎の町で生まれ育った。家の期待を背負って東京の大学を受験したものの、田舎では優秀だった彼女の学力は、都会では歯が立たなかった。かろうじて合格したのが、東京とは名ばかりの、一応その中には入っているというだけの小さな町の新設大学だったのだ。
昔から引っ込み思案で、自分についてまったく自信のなかったカナではあったが、田舎では優しい娘で通っていた。しかしそんな彼女をいつしか貧しい学生暮らしがすり減らしてしまったのか、彼女自身がショックを受ける出来事があった。
パンを購入し、それを抱えて帰ろうとしたカナの目の前で、見知らぬ老婆が交通事故に遭いそうになった。カナはすぐに駆け寄ろうとし、手に持った紙袋が落ちた。その瞬間、カナの足が止まった。老婆よりも、落ちた紙袋の中身が気になってしまったのだ。倒れた老婆を別の通行人が介抱していた。どうやら老婆は助かったようだ。
安堵する反面、カナは自分の行動が哀しかった。もう自分は昔のような優しさすら失ってしまった。何の取り柄もなくなってしまった。心を刃が突き刺した。
[「ものいわぬナイフ」――第四の挑戦状に答える]
④ 旅から帰宅した私のスーツケースから血染めのナイフが現れた。留守中、自宅近くで起こった事件の凶器に似ている。逮捕されている犯人に心当たりはない私は?
増田萱子:海外旅行から帰ったばかりの女
宮川けい:萱子の隣人
江田:やくざ者
海外旅行から帰ったばかりの増田萱子は重いスーツケースをマンションの部屋の前の脇に置いたまま、とりあえず部屋の暖房をつけ、冷蔵庫を開けた。旅行に出るので空っぽにしていたことを思い出した。とにかく何か食べるものが欲しいと、そのまますぐに近くのコンビニへと出かけた。
コンビニで誰かの話し声が聞こえた。どうやら彼女の旅行中に、近所で刺殺事件があったようだ。買い物を済ませた彼女は帰宅した。
やっと部屋に運び込んだスーツケースを開けた萱子は、その中に見知らぬものを見つけた。血痕のあるナイフだった。
萱子の隣人・宮川けいは、刺殺犯の恋人だった。刺殺犯は、けいのものと勘違いして、そこに証拠品のナイフを入れてしまったのだ。知ったからには生かしておけないと、詰め寄るけいに対し、萱子は妙に冷静で、あっさり相手を取り押さえた。
萱子の職業は警察官だった。
[御堂の場合 2]
摩耶にフラれたばかりの御堂は、街で泥酔した見知らぬ女と知り合った。その女を介抱すると、彼女はホテルへ一緒に行こうと言う。女はかなりの美人だった。抵抗することもできず、御堂はその希望を叶えた。
ところがホテルの部屋に入った彼女は、散々自身の彼氏について愚痴り、部屋の中でまた派手に吐き散らして絨毯を汚した。挙句の果てに、彼女は彼を拒絶した。
曰く――こんな汚い自分に迫る男はもっと汚い。
女を介抱し、ホテル代を支払った御堂は肩を落とした。泣いている彼女よりも、もっと泣きたい気分だった。
[「サウナは笑う」――第五の挑戦状に答える]
⑤ サウナ室の中から発見されたのは、なんと凍死体であった。どうしてそんなことが起こったのか?
片平大陸:<サンタの家>のオーナー
片平美雪:その娘
管理人
雪山にある片平家の別荘は通称<サンタの家>と呼ばれていた。その<サンタの家>に休暇明けで戻った管理人は驚いた。主人の片平大陸が屋内のサウナ室に裸でいるのはごく普通のことなのだが、その彼が死んでいたからだ。しかもなぜか室内も死体も氷のように冷えきっていた。
「父を殺すしかない」
片平大陸の娘、美雪はそう決意していた。しかしそれで自分が逮捕されては元も子もない。そこで計画を練った。まず彼を薄氷の張った冷たい沼に落とす。心臓の弱った老人はすぐに死ぬ。そして引き揚げた死体をサウナ室に運び込み、時間を置いてから部屋を暖める。これで死亡推定時刻をごまかせるだろう。
そして実際にその計画は順調に進行していった。
「ハンカチがない!」
首尾よく大陸を殺害し、その死体をサウナ室に座らせた美雪は気づいた。彼の所持品の中に、死の直前に使っていたハンカチが見当たらないのだ。万が一、それが沼やその周辺で発見されたら警察の疑惑を招き、徹底した捜査になりかねない。
美雪は彼を突き落とした沼へと引き返した。ハンカチはあった。薄氷の上に張り付いていた。手を伸ばしそれを取ろうとしたとき、彼女の体勢が崩れた。
冷えきった沼は、心臓が弱った老人のみならず、まだ若い美女も容易に死の世界へと連れ去った。
[卯崎の場合]
卯崎栄の女っぽい振る舞いは表面上のもので、彼の中身はまったくの男である。大達には魅力を感じているのは事実だが、それはあくまでも男から男に対する憧れである。
自分がモテることに気づいた卯崎は多くの女と関係を持ったが、それでも彼は慎重だった。狭い町で悪い噂が立ったら、決して裕福ではない彼の生活に支障をきたすからだ。サークル内で彼がマークしたのは摩耶だった。もちろん彼女が大達に惚れているのは知っているが、それはそれだった。そして首尾よく関係を持ったが、それは一度限りで、お互いに何事もなかったかのように振舞っている。関係を続けてしまったら、彼女の人生を背負わねばならないと卯崎は感じたからだった。
[「わが愛しのモア」――第六の挑戦状に答える]
⑥ 久しぶりの休日。夫婦でドライブに出かけることになる。アパートの一室を出たところで、妻が「忘れ物をした」と言い残し部屋に戻る。自分も財布を忘れていることに気づいた夫がすぐに後を追うと、部屋の中に妻の姿はなく、代わりにモア(駝鳥を大きくしたような鳥ですでに絶滅)が立っていた。一瞬にして妻は変身してしまったのか?
鳥海多郎:<三ツ江観光>の総務課に在籍
穂積知里:添乗員
<三ツ江観光>の総務課に在籍する社員で、何をするにもワンテンポ遅いのに、足だけはやたらと速い鳥海多郎は、「モア」というあだ名で呼ばれていた。
彼は女に縁がなかったが、社員旅行中に巻き込まれたバスジャック事件が彼の優れた脚力によって解決され、それをきっかけにバスの新人添乗員・穂積知里との交際が始まり、晴れて結婚まで辿り着いた。
バスジャック事件の際、鳥海によって助けられた同僚たちは彼に感謝しており、知里との交際を後押ししたのも彼らである。そして鳥海夫妻が新婚旅行に向かうことになったので、家の中を綺麗にしてあげたいと言いだした。鳥海たちはその好意を素直に受け入れ、旅行へと出発した。
ところが車で出発した直後、知里が忘れものに気づいた。彼女は家へと走って行った。するとその後ろ姿を見送った鳥海も忘れものに気づいた。彼も家へと引き返した。
玄関を開け、家の中に入った鳥海の視界には、愛する妻ではなく、部屋の真ん中に堂々と立つモアの姿が飛び込んできた。
鳥海の同僚たちは、旅行から帰った彼へのサプライズのプレゼントとして、作り物のモアを準備中だった。
[摩耶の場合 2]
ちどりへの嫉妬は抑えようがなかった。摩耶は彼女を殺したいとさえ思った。しかし警察に捕まっては意味がない。大達が摩耶を愛することはないし、ちどりは永遠に彼の心の中に美しく残り続けるだろう。
そこで摩耶は蓋然性の殺人に挑むことにした。可能性は低いが、ちどりが死ぬかもしれないという、小さな計画を繰り返すのである。その一つとして、彼女の自転車のブレーキを壊れやすくした。お目当ての長い下り坂でブレーキが壊れれば、産廃の汚泥に突っ込んで死ぬかもしれない。そこに突っ込んで死ねば、その死体はさぞや醜いものになるだろう。大達とて、その記憶の中に彼女を美しいまま留めておくのは難しいだろう。
その作戦は失敗だった。ちどりから自転車を借りた御堂がちょっとした擦り傷を作っただけに終わった。いずれまた別の機会はいくらでもある――摩耶は諦めなかった。
[「晴れのち所により赤ん坊が降るでしょう」――第七の挑戦状に答える]
⑦ 村の役場に一通の手紙が届いた。村に赤ん坊が降ることを予告したものだった。指定された村の公園の噴水で、村人たちがクッションや網を構えて待っていると、指定された正午のサイレンが鳴ると同時に空中に赤ん坊が出現し、降ってきた。無事に受け止めた村人たちの顔に安堵と困惑の表情が広がっていった…。
吉兵衛:言い伝えの中に登場する村人
美代:同
与那心教の本部長
鎌田:村の会計役
あき婆さん
村長
助役
その村にはこんな故事があるという。村人が裏山の奥の祠に願掛けしたところ、神様はそれに応え、祠の中から赤子を授けてくれたのだ。
ところが当の村人たちはそんな故事をすっかり忘れてしまったらしい。与那心教の本部長と名乗る人物が村にやって来て、その話をしても誰も反応を示さない。しかし場合によってはその祠のそばに道場を建てるとなれば話は別である。マイナス材料もあるにせよ、ずっと右肩下がりな村にとってはプラスのほうが大きい。村長はすばやく算盤を弾いた。
本部長はその祠が言い伝え通りのものなのか調べたいと言う。どう調べるのかと助役が尋ねてみれば、実際に願掛けして、その結果を待てばいいと、本部長は真顔で言った。
それからしばらくして、願掛けの結果を確かめる日がやって来た。祠が本物ならば赤子が現れるはずである。本部長とその連れの多くの坊主たち、村人たち、皆が広場に集まった。
本部長はいかにも宗教的な重々しい音楽を流し、村人たちの前で熱弁を振るった。その説教は見事なもので、涙を流す村人さえいた。眠気を噛み殺すのが精一杯の村長はむしろ数少ない例外だった。
そして正午、サイレンの音とともに様子は急変。池の中央の鶴の嘴から水が吹き出した。坊主が駆け寄り、そこにクッションを差し出した。坊主は叫んだ。「紛れもなく、空からややこが降ってきた」
クッションの中には赤子が眠っていた。奇跡を目撃した村人たちはどよめいた。実を言えば村長は空から赤子が降ってきた瞬間など見ていないのだが、村人たちの多くは実際にそれを見たようだ。
「嘘こくでねえ!」
あき婆さんは怒声を上げた。赤子は空から降ってきたところなど見てない、見たのは坊さんが懐に入れていたことだけと言い張った。そんなあき婆さんを説得しようと、本部長は後ろから声を掛けるが、彼女は振り向きもしない。そんな様子を見ていた助役は、本部長に助け舟を出した。
「あき婆さんはとても耳が遠いので、正面から口の動きが見えるように話しかけないと通じませんよ」
それを聞いた本部長の表情を見た瞬間、村長は真相に気づいた。集団催眠――若い頃に読んだエッセイを思い出した。
本部長の目的は教団内で生まれた赤子の事情を隠したまま、その子の養い手を探すことだった。
[卯崎の場合 2]
卯崎はかつて関係を持った人妻に偶然見かけた。相手もこちらを見た。しかし彼女は背中を向け、去って行った。卯崎はその女に未練があった。すぐに追いかけたが、見失ってしまった。
[「曼荼羅図」――第八の挑戦状に答える]
⑧ 妻の周期的な秘密行動に不信を募らせていた夫が決心した。妻が隠しておいた印刷物(宗教画?)でドアを封印し、それを破ってでも妻が出かけて行くか確かめようというのである。その結果は?
永沢貴之:某商事会社の部長
弘美:貴之の妻
桜井伸吾:道陸教の幹部
壬生万里子:探偵事務所の所長
永沢貴之は妻・弘美の行動に疑いを抱いていた。探偵を雇い、その行動を調べてみると、案の定、彼の留守中に彼女は桜井伸吾という男と会っていた。
浮気のほかに、貴之の中にはもう一つの疑いがあった。それは彼女の持ち物の中に大きな絵が描かれた紙を見つけたときから始まった。絡み合う男女らしき姿が中央に描かれたそれは、どうも宗教画のようであった。妻は宗教にハマっているのではないか? 実際、桜井伸吾という男は道陸教の幹部なのだ。
妻と直接対決の覚悟を固めた貴之に対し、探偵事務所の所長・壬生万里子はあるアイデアを提案した。
貴之は家から出かける際、妻への罠を仕掛けた。あの宗教画を玄関に広げて貼り付け、その反応を確認するのである。もし道陸教への信仰が深いなら、外出するにもそれをあっさりと踏みつけたりはできないはず。少なくとも躊躇を示すだろう。逆にそんな宗教への信仰心などないなら、不審に思いつつも平気でその上を歩くだろう。
結果は…弘美は平気でその上を歩いた。
貴之は注意深くそれを見てないので気づかなかったが、宗教画の中央に描かれていた一方は弘美なのだという。学生時代にモデルのアルバイトをした際に描かれたものだが、それを貴之に知られたくなかっただけなのだ。弘美は桜井伸吾の妻と同窓で、それで桜井夫妻と付き合いがあるだけだった。貴之は安堵した。
弘美は安心して浮気を続けた。笑いながら弘美は言った。
「あの絵の女のモデルが私だと気づかないあの人が、男のモデルがあなただなんて、想像もできるはずもないわ。女の浮気相手が男とは限らないのに」
弘美の隣で壬生万里子も笑っていた。
一旦妻への疑いが晴れた貴之は、もう妻を疑わなかった。
[大達の場合]
大達は危険を嫌い、なるべく安全な道、そこそこの堅い人生を送りたいと思っていた。将来の計画も堅実なものだ。ギャンブルなどするつもりはなかった。
そんな彼も一度だけ大きな計画外の行動を取ってしまった。サークルのメンバーと海へ出かけたとき、雰囲気に流されてカナを抱いてしまった。
その夜の出来事については彼女は沈黙したままだった。もし彼女が「子供ができた」と言ってきたらどうしようと、大達は思っていた。何事も計画通りに進めることを好む彼だが、未だにその計画が立たなかった。
[「ちどりの場合」――第九の挑戦状に答える]
⑨ 「犯人」(すでに発表済の辻真先の長編小説)の姉妹編として、推理小説における“絵解き”の問題と絡ませ、同時に「読者以外皆犯人」ということで“絵解き”が「免罪符」ならぬ「免罪本」となる工夫を!
八つの短編を批評し終えたサークルのメンバーたちは、突然の強い睡魔に襲われた。その中に一人だけ、ちどりだけは平然としたままだった。
ちどりはメンバーたちのそれぞれの罪状を告げた。そして彼女は部屋に火を点けるつもりだ。彼女自身はそのままここに留まるつもりはない。大量殺人に放火、もちろん、警察に逮捕される。そうなったら彼女はこう証言する。
「今なら未成年の私は少女Aで済むから」
「私は優等生なんですよ」
「こんな私が優等生ってことがおかしいんです。教育がおかしいんです。文部省がおかしいんです。日本という国がおかしいんです」
するとマスコミが騒ぎ立て、彼女の父は間違いなく自殺する。彼を自殺に追い込んだのは誰? その答えは決まってる。マスコミ、それに乗っかった世論、日本人の皆様だ。でももしこの小説を読む者がいたら、その読者だけは世論に与しない。「読者以外皆犯人」の出来上がり。
[鷹はいつ眠るか]
喋り終えたちどりは喉が渇いたので、湯沸し室でお茶を淹れ、それを飲んだ。すると急に眠気が襲ってきた。
――なぜ…私の湯呑みには睡眠薬は入れてないのに…みんなの湯呑みに薬を入れた後、薬瓶は湯沸し室に置きっ放しだった…誰かが私の湯呑みにも薬を入れた…でも誰が――
「あ、もしもし。中井さん? 僕です。彼らの原稿ですか? 今ひとつでした。別のグループを当たりましょう」
相手にそう告げた後、電話ボックスから出てきたのは、中井と名乗り、高取ミステリーサークルに原稿を依頼した男である。彼はいくつか嘘をついていた。その一つは、彼の名は中井ではなく、辻真先ということである。ネタが思いつかずに困った彼は、使えそうなアイデアがあったらそれをパクるつもりで執筆を依頼し、盗聴器を仕掛け、彼らを見張っていたのだった。本になってしまえば、彼らが盗作だと騒いでもなんとでもなる。