シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
(1754年2月13日 - 1838年5月17日)



フランスの、フランス革命期・第一帝政期の政治家、外交官、伯爵。
聖職者として1789年、三部会に出席。
翌90年に憲法制定国民議会議長、そののち、ナポレオンの侍従長を歴任。
さらにナポレオンが没落すると今度はルイ18世の外相としてウィーン会議に出席し、フランス革命前の状態への王政復古を主張。
このようにして政権交代の激しい激動の時期にもかかわらず、フランス革命~7月王政期まで政治の中心にい続けた人物だが、そのゆえか、「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」などと酷評されることもあった。
けれども彼は総合すると敏腕政治家、外交家としての評価が高い。
美食家としても知られ、メートル法の普及に貢献した。


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宮廷料理人 アントナン・カレーム

ルイ14世の食事はどのようにして始まったのでしょう。

食事とはいってもヴェルサイユのことですから、さぞかし儀式的だったに違いありません。
ここでは正餐を例にとってみてみたいと思います。

ヴェルサイユ宮殿での、国王と王族の食事

国王の正餐は、通常は寝室でとります。
寝室という名前ではあっても、それは決してプライベートな空間ではなく、国王の寝室には真ん中のあたりに柵が設けられてあることからもわかるように、どう見ても多くの人々が訪れることを想定した造りになっています。

そこでまず、一人の衛兵が「国王のお肉ですぞ」と叫ぶのを合図に、料理がやってきます。
そして国王の食卓の近くで、国王に良く見えるような場所にテーブルがもうけられます。
そこに塩、薬味、パン、食器、ナイフ、フォーク、スプーン、ナプキン、つまようじなどが置かれて、怪しい物が混入されていないかどうかのチェックが行なわれます。
その検査のやり方は、家令大膳職の二人がパン切れを指でつまみ、検査物件にパンをこすりつけたあとにそのパン切れを食べる、というもの。
ワインと水は杯盤係が毒見をし、食べ物についても、給仕役の貴族が同じやり方でチェックをしますが、これらはどうも厳密なものではなく、形式的なものだったようです。
最初は意味があってやっていたものが習慣化し、その結果、形だけが重視されるようになったのかもしれません。

宮殿内の長いルートを王のいる場所に向かって料理が行進をし、そしてこのような儀式の後、やっと料理はルイ14世の口元までやってくるのですが、そんな料理はさぞかし冷めていたことでしょう。
国王というのは何をするにしても、大仰で大変なものです。

                       参考:『18世紀パリの明暗』
最近私が強く興味をひかれている人物がいます。
それは、アントナン・カレーム

彼は捨て子から皇帝の料理長に成り上がった人です。

アントナン・カレーム(1784~1833)

「料理界のナポレオン」、「王のコック」、「コックの王」などの異名をもったこの人は、スラムの労働者である両親に捨てられる、というところから人生をスタートし、ある一膳飯屋の料理人に拾われてからは次第にその頭角を現し、ロシア皇帝アレクサンドル1世、英国の摂政皇太子(のちのジョージ4世)、ロスチャイルド家などの間を料理長として渡り歩く、というまれな人生を歩みます。

そして彼の才能を伸ばしたといわれているのが、有名な政治家、タレーラン

この人もまた偉人といっていいような凄みを持った人ですが、彼は政治や外交の仕事で成功するかたわらで食通としても名高かったようで、アントナンはそんなタレーランに召抱えられて多くのことを学び取ります。
そして彼はその主であったタレーランにひけをとらないくらいに、社交界の中で有名人になっていくのです。

このような、常人ではない生涯を送った人には、環境を跳ね返すほどの膨大なエネルギーが溢れていたはず。
一体どのような仕組みでそのようなことが起きるのか、非常に興味があります。
ぜひ探りを入れてみたいところです。