同志の皆さまこんにちは!
良いママの仮面をかぶっている女たちのリーダー、ふせけいこです。

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これは個人的に常々思っていることなんですけど、私たちって大人も子どもも本当は自分を丸ごと受け入れて許してもらいたい生き物なんじゃないかな。そこには、ママのお腹の中にいたときの様な、絶対的な安心感がある気がします。

 

 

私は根本師匠お弟子限定リトリートで自分が忌み嫌っていた部分を「受け入れて許してもらう」という経験をしたので、それについてしたためます。

 

 

読者のみなさまは、お子さんに嫉妬したりしますか?私はですねぇ、嫉妬しちゃいます。

 

 

「いーなー、ママもパパとデートしたいなぁ。ヤキモチ焼いちゃうなぁ」

 

 

わりと軽く言葉にできていたので、心の底にマグマの様な熱く煮えたぎる嫉妬の塊が鎮座していることには気づきませんでした。・・・というのは嘘で、そういうことにしておきたかったです。

 

 

だって、私ってばいい大人ですし、二児の母ですから。プライドってもんがあるじゃないですか。娘に嫉妬って、そんな私は恥ずかしいし、なによりも惨めだわ。

 

 

なので私は無意識に、嫉妬の本体は心の二重底の下の部分に注意深く隠して、上の部分に軽くお茶目な感じでダミーを置いておいたんですね。だって手に負えるくらいの嫉妬なら、人間味として感じられるし、ちょっとしたスパイスになりますでしょ。

 

 

それなのに、リトリートに参加する心の準備運動をしていたら、いろんなタイミングが重なったこともあって、私が一番見たくなかったドロドロした嫉妬の本体が姿を現してしまったんですね。「ないことにすんなよ!」ということでしょうね、きっと。

 

 

 

 

リトリートまで1週間を切ったある日の夕方、

 

 

「どうしてあんたたちは、自分のタイミングで無邪気にパパに甘えるのよ!私だって本当は甘えたいのに!!」

 

 

「夫も夫で、なんで私を一番にしてくれないのよ!」

 

 

こんな気持ちが頭の中を占拠して、気分は最悪。特に次女を敵視したくなる衝動に駆られました。

家の中の空気もピリピリしています。



このままでは最愛の娘たちを手にかけてしまうんじゃなかろうかというくらいに気持ちがメチャクチャになったんですね。

 

 

このままじゃマズい!と思って、娘たちに夕飯を食べさせ、お風呂の準備をし、夫に早く帰ってきてもらえるように連絡をして、不安そうな娘たちに「君たちが悪いんじゃないよ。ママのお心が困ってるから、ちょっと落ち着いてきます」と伝えて、私はカフェに避難しました。

 

 

おかげで娘たちの命は守れましたが、その代わりに結婚9年目にして第何十回目かのメンヘラ期がやってきました。

 

 

メンヘラ期というのは、「なんでよ!なんでよ!なんでよ!分かってよ!分かってよ!分かってよ!愛してよ!愛してよ!愛してよ!」という風に、私がこれでもかとニーズを夫にぶつけまくってサンドバックにするシーズンをいいます。恐ろしいですよねー。私が逆の立場だったら、ほんと生きた心地がしないと思いますー。

 

 

結婚当初は毎日がメンヘラ期でしたな(夫よ、マジでごめんね)、心理学を学んで自分を癒していくうちに、ほとんど顔をのぞかせることがなかったんですね。

(お久しぶりのメンヘラと夫へのサンドバック事情おそびその顛末については別記事にしたためますね)

 

 

あー、でもせっかくなので正直に告白してしまうと、私のメンヘラ的な要素が出ない距離まで夫と心理的な距離をとる、という作戦を私は注意深く遂行していたんだと思います。

 

 

このことによって私のメンヘラがきっかけになって夫婦関係がギスギスするということは避けられましたし、家庭には表面的には平和がもたらされます。が、「夫と親密でいたい」「もっと仲良くなりたい!」という私の願いは叶わないまま。だから、「近くにいるのに、なんだか寂しいなぁ」私の心には寂しさがあったんですよねー、実は。

 

 

メンヘラを封じ込めることと引き換えに感じるこの感覚は、もっとずっと昔に覚えがありました。

 

 

それは、私と母と弟妹との三角関係の記憶。

 

 

「どうしてあんたたちは、自分のタイミングで無邪気にお母ちゃんに甘えるのよ!私だって本当は甘えたいのに!!」

 

 

「お母ちゃんもお母ちゃんで、なんで私を一番にしてくれないのよ!」

 

 

私には3歳下に双子の弟・妹、10歳下に末の弟がいます。特に3歳下の双子の弟にはめちゃくちゃ嫉妬していました。こっちはお姉ちゃんとしての役割を一生懸命果たしてやっとのことで愛情をかけられる土俵に立てているのに、弟は等身大で愛されているように私には思えてならなかったからです。

 

 

でも、弟に嫉妬の感情を向けてしまうと母に嫌われると思っていたので、ガルガルとした感情は妹に向けていました。弟への嫉妬は、心の二重底の下の部分に注意深く隠していたんですね。

 

 

なんとなく、似てますでしょ?私と夫と娘たちとの三角関係に。私は夫や娘たちに、母と弟妹を映し出していたんだと思います。

 

 

このまま過去に囚われて、今の家族関係をぶち壊すのはイヤだったので、リトリートでは私はこの点を相談してみたいなぁと思っていたのです。

 

 

 

 

ところが、じゃんけん大会に破れ、今回のリトリートではフォーカスパーソンの座を射止めることはできませんでした。残念だなー、これもプロセスの一部か。

 

 

と思いきや、件の自分が忌み嫌っていた部分を「受け入れて許してもらう」というセッションを経験することができたんですね。

 

 

これ、神社に参拝するがごとく、フォーカスパーソンの前に希望性で列を作って、ひとりずつ自分が隠していたいことを告白します。


自分の秘密を公衆の面前で告白するなんて、こんな恐ろしいことをしてどんないいことがあるかというと、自分が忌み嫌っていた部分を自ら告白して受け入れて許してもらうことで、心が軽くなっていくんですね。

 

 

子どもの頃、真っ白い壁に落書きをしちゃったり、花瓶を割っちゃったり、よそ行きの洋服を汚しちゃったり「怒られる!」と思って証拠隠滅を図ろうとしたことはありませんでしたか?



そして、罪の意識から胸がヒリヒリしたりして気持ちが晴れず、頭の中ではバレたときの悪い想像が際限なく繰り返されて、更に気持ちはどんよりとしていく感じ。

 

 

それでも勇気を振り絞って自分がしたことを告白したとき、

 

 

「あらら、やっちまったんだね。ドンマイ」

 

 

優しい眼差しで笑いかけられたり抱きしめられて、ほっとしたり、あんしんしたり、緊張が解けてふっと肩の力が抜ける感じを想像してみてください。

 

 

そんな感覚をあの場では経験できたんです。

 

 

ひとりまたひとりと告白をしていくなか、私も覚悟が決まったので列に加わります。

 

 

参道を進むがごとく、神妙に歩を進めます。目の前にはフォーカスパーソンのお二人。とても慈愛に満ちた眼差しで私を見つめてくれていました。

 

 

「私は、お母さんなのに娘たちに嫉妬していることを隠していました。夫の一番にして欲しかった」

 

 

自分の気持ちを感じながら、それを言葉にします。途中から胸が詰まって涙が流れてきました。

 

 

すべてを言い終わると「ありがとう」の言葉とともに、お二人は両手を広げて私を迎え入れてハグしてくれました。

 

 

ああ、私は許されているんだな。この気持ちを持ったままでも、ここにいていいんだな。迷子の子どもがママを見つけてほっとして泣き出すように、私は少しの間、肩を震わせてすすり泣いていました。

 

 

こんな風に、自分で受け入れられない部分は、だれか受け入れてくれそうな人に受け入れてもらうという方法もあるんですね。神様とか、神父様とか、仏様とか、カウンセラーとかね。

 

 

そうすると、不思議なことに自分でも自分のその部分を受け入れられるようになってきます。そしてそれが、師匠曰く「自分自身とのパートナーシップを結び直す」「自分自身を愛してあげる」ことに繋がって、現実の夫とか子どもに映し出されていくという寸法です。これが、自分が変われば現実が変わるということ。

 

 

「私は、お姉ちゃんなのに弟に嫉妬していることを隠していました。お母ちゃんの一番にして欲しかった」

 

 

きっと過去の囚われの部分も何かしら受け取り方が変わっていくような予感がしています。

 

 

そしてもうひとつ。自分の隠しておきたいくらい忌み嫌っている部分を受け入れると、それがポジティブなものに変身して花開いていくんですね。

 

 

例えば、私の忌み嫌っていた嫉妬は、情の深さや包容力、エネルギーや情熱が大きいことなどなどの裏返しであります。なかなか悪くないでしょ?

 

 

 

 

参拝を終えた後の様な清々しさを感じながら、私はサンドバックにしてしまった夫に対して、あることを決意していました。

 

 

それについては、また別記事にしたためようと思います。

 

 

それでは今日はこのへんで!最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

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