⑦ー2 太田氏築城説と大永・享禄年間の岩付城抗争

では、本稿の岩付城太田氏築城説の立場から、大永・享禄年間の岩付城抗争はどのように説明されるであろうか。

まず、太田氏築城説と矛盾する政治情勢は、見出だされなかったと言ってよいであろう。北条氏の調略に乗って扇谷上杉氏を裏切り、岩付城を攻略した太田資頼の判断と行動に、太田氏築城説との矛盾は見出だされない。

むしろ太田資頼の判断と行動は、黒田氏説(成田氏築城説)や青木氏説(渋江氏築城)以上に、本稿の岩付城太田氏築城説に非常に整合的であると筆者は考える。

それは、大永・享禄年間の太田資頼の岩付城への関与には、黒田氏説(成田氏築城説)や青木氏説(渋江氏築城)の立場からは説明しがたい奇妙な点がいくつか見られ、しかもそれらが太田氏築城説の立場から、最も整合的な説明が可能であるためである。

以下、大永・享禄年間の太田資頼の動きの奇妙について整理する。

・資頼の奇妙1:資頼だけが他人の城を攻略

本節前編(リンク)で既に紹介したことであるが、大永四年(1524年)の北条氏綱の大攻勢の際、上杉氏方の多くの領主が氏綱に寝返った。しかし、その寝返り後の動きが資頼だけ異なっている。

江戸城は城代の太田資高が北条氏に寝返り、在城していた江戸城ごと北条氏に服属している。毛呂要害も同様である。城主の毛呂氏が持城ごと北条氏に服属した。
しかし岩付城は、城主渋江氏が北条氏に寝返ったわけではない。岩付城から20キロメートル離れた石戸城の城主太田資頼が北条氏に寝返り、遠征して、岩付城を攻略したのである。

それはあたかも「太田資頼は以前から岩付城の領有を企図していたものの、扇谷上杉氏によってそれを妨げられていた」という状況が、背景にあったかのような動きである。

・資頼の奇妙2:奪った城を領有したままの帰参

大永四年(1524年)前半に北条氏綱に江戸城、岩付城、蕨城、毛呂要害を立て続けに奪われた扇谷上杉氏が、同年後半には江戸城以外の三城を奪還したことは既に紹介した通りである。

この時、太田資頼と毛呂氏は、扇谷上杉氏に帰参することを赦されている。ここで奇妙に思えるのは、太田資頼が、渋江氏から奪った岩付城を領有したままの帰参が赦されている点である。

毛呂氏は、代々の毛呂要害の城主であるため、毛呂氏が毛呂要害の主として上杉氏(正確には山内上杉氏)に帰参したことは不思議ではない。毛呂氏の動向(裏切りと帰参)は、毛呂氏代々の城である毛呂要害や周辺の領地とセットである。城・土地とその主の結び付きが強く、代わりの統治者を送り込むことは現実的ではない。

しかし、太田資頼の状況は異なる。
資頼は、裏切り前は岩付城主ではなく、裏切りによって岩付城主となったのである。岩付城太田氏築城説の立場を取らない場合、資頼と岩付城やその周辺地域との縁は薄く、統治期間は一年にも満たない状況であった。
しかもその背後には、資頼に城を奪われ、当主を殺されて渋江氏の存在がある。代々岩付地域を統治し、この地と結び付いてきた渋江氏は、岩付城主への返り咲きを強く希求していたはずである。

この状況で、太田資頼が岩付城領有したままの状態で帰参を許されたことに、筆者は不自然さを感じる。少なくとも毛呂氏の帰参と同列に論ずることはできない。

ここで明確にしたいのは、太田資頼が扇谷上杉氏の反撃に遭って進退窮まり帰参を申し出た状況自体は不自然ではない、という点である。
太田資頼は扇谷上杉氏配下の有力者であった。統治した所領は広く、また動員できる軍事力も決して小さくなかったはずである(実際、岩付城を攻略している)。仮に資頼を罰して排除すれば、資頼の領地とその軍団の服属先を差配することが必要となる。平時ならばよくとも、北条氏綱との抗争の中で、扇谷上杉氏にその余裕はない。太田資頼が再服従を希求したならば、扇谷上杉氏がそれを許し、資頼の軍事経済力を活用しようと考えるのは、自然なことであったであろう。

しかし、太田資頼が裏切りによって渋江氏から奪った岩付城を領有し、在城したままの状態で帰参が許された点は自然とは言えない。筆者の指摘したいのは、この点である。

筆者は、資頼帰参の最も自然な形は、資頼を石戸城に戻して裏切り以前の所領を安堵し、岩付城には渋江氏を戻す、というものであったと考える。
資頼を許し、その軍事経済力を維持したまま再度仕えさせるにはこれで十分であり、また渋江氏は扇谷上杉氏に恩義を感じ、忠勤を続けたことであろう。

加えて岩付は、北条氏に寝返ったままの江戸地域と南北に隣接する地域である。資頼を岩付城に置き続ければ、再び江戸地域と連携して扇谷上杉氏を裏切る可能性も考えられる。資頼を北条氏方の江戸地域から離し、渋江氏が岩付城に戻ることでその関係を分断したならば、それは有効な裏切り再発阻止策となったはずである。

しかし、実際に行われた施策は違った。
渋江氏は岩付城に戻ることなく、太田資頼が同城を領有したまま帰参することになった。そして、本拠を失った渋江氏は扇谷上杉氏を見限り、敵である北条氏綱側に鞍替えし、その助勢を得て岩付城を攻略するという展開が続いたのである。
総括すれば、扇谷上杉氏は、太田資頼の帰参方式を誤ったことで、結果として更なる裏切りを助長させ、岩付地域を失うことになった、と言えるであろう。

ではなぜ、扇谷上杉氏は、このような結末をもたらす奇妙な判断を行ったのであろうか。

筆者は、太田資頼の帰参に関する扇谷上杉氏の判断を不自然でない形で説明するには、以下のような状況想定が有効であると指摘したい。
その状況とは、
「扇谷上杉氏及びその配下において、そもそも太田資頼には岩付城領有の権利があり、岩付城の領有を認めれば資頼はもはや扇谷上杉氏を裏切ることはないという認識があった」
というものである。

これは、上で提起した「太田資頼が以前から岩付城の領有を企図していたものの、扇谷上杉氏によってそれを妨げられていた」の延長線上にある想定である。そして、岩付城が太田道真によって築かれ、『自耕斎詩軸并序』によって太田氏惣領の城と位置付けられたと考える本稿想定の帰結であるとも言える。

この想定を置けば、扇谷上杉氏が、渋江氏が敵に回るリスクを知りつつそれでもその岩付城帰還の希求を退け、太田資頼に裏切りで得た岩付城を与えたことも説明がつく。

この想定下では、扇谷上杉氏は、それまで何らかの理由で資頼(あるいは太田氏全般)の岩付城領有を許さずにいたものの、遂に有力者太田資頼が北条氏に寝返ってまで岩付城を領有せんとしたことに、衝撃を受けることになる。
仮に、太田氏の強大化を恐れて岩付城と同地域から太田氏を引き離していたのであったならば、この資頼の振る舞いを見て、もはや同城を与えなければ、資頼の恒常的な忠勤は求められないと考えることになる。
そして、その先には、例え渋江氏を敵に回そうとも、重臣太田資頼を再服属させ、扇谷上杉氏に対する忠勤を得る方が重要だとの判断が続くことになるのだ。

・資頼の奇妙3:岩付城の防衛・奪還・在城への資頼のこだわり

太田資頼の三つ目の奇妙は、この人物が、岩付城の防衛・奪還に見せたこだわりの強さである。

主家扇谷上杉氏を裏切ってまでして岩付城を攻略した大永四年(1524年)の資頼は、同年夏に武田信虎に同城を攻められるとあっさりと降服し、扇谷上杉氏に帰参する。既に紹介した通り、黒田基樹氏がこの時の資頼の振る舞いを、「資頼は、氏綱を頼って岩付城を攻略したにもかかわらず、扇谷上杉氏から反攻を受けると、直ぐにそれに帰参してしまったのである」と記述し、やや打算的な人物であったことを示唆する。

しかし資頼は、翌大永五年(1525年)には、武田信虎の前に降服した際とは、全く異なる振る舞いを見せるのである。

大永五年(1525年)二月に、渋江氏が北条氏綱の助勢を得て岩付城を攻めた際、資頼は最終的には岩付城を出て石戸城に退却しているものの、岩付城籠城戦では、実に三千人もの戦死者が発生している。三千人は当時の合戦の戦死者数としては非常に大きいものである。数字そのものに誇張があったとしても、そのように伝えらた大永五年の岩付城攻防戦は、多くの戦死者を出す壮絶なものだったのであろう。守る太田資頼が抗戦しなければ多数の戦死者は出ないはずであり、北条氏綱の助勢を得た渋江氏勢に対して、資頼側が徹底抗戦を展開した可能性は高いと言えるであろう。

また、石戸城に退却した資頼は、それで岩付城領有を諦めようとはしなかった。その六年後の享禄四年(1531年)には再度岩付城を攻め、渋江氏を駆逐して同城城主に返り咲いている。大永四年(1524年)に裏切りによって得た後、たった一年間しか在城しなかった城を、資頼は六年越しで再攻略したのである。それも、石戸城から岩付城までの約20キロメートルの距離を越えて。



筆者はこの大永五年の徹底抗戦と享禄四年の岩付城再攻略に、太田資頼という人物の岩付城に対する強い執着を感じずにはいられない。

黒田基樹氏が示唆した“機会があれば主家を裏切って領地を広げるが、状況が変わればあっさり方針を帰る”という打算的な人物像の資頼であれば、大永五年の渋江氏・北条氏連合の岩付城攻めに対して徹底抗戦を行っただろうか。戦力を磨耗させる前に撤退したのではないだろうか。また、享禄四年の岩付城再攻略とその後の岩付城在城を行ったであろうか。岩付地域を奪えば所領は大きく増える。その魅力はあるが、北条氏方の江戸地域と隣接する危険と引き換えである。資頼自身は石戸城に残り、配下を岩付城に置くなら理解できるが、資頼自身が岩付城に入る必要はあったのか。

大永四年に資頼が北条氏方として岩付城を攻略した際は、隣接する江戸地域は味方であり、岩付城は対北条氏最前線ではなかった。むしろ、敵に回した扇谷上杉氏の本拠河越城に近い石戸城に居続けるより、新たに得た岩付城に移った方が安全だったとすら言える。しかし、享禄四年の状況は異なるのだ。

こうした資頼の岩付城への執着は、どのように説明されるであろうか。
筆者は、「太田資頼は岩付城を領有し、在城することに特別な価値を見い出していた」と想定したい。

この想定を置けば、
・なぜ資頼は大永五年の渋江氏・北条氏連合の攻撃に対して抗戦したのか、
・なぜ資頼はたった一年間在した岩付城を六年越しで再奪還したか、
・なぜ資頼は本拠石戸城から、前線に近い岩付城に移ったか、
をすべて説明できることになる。

そして、 大永四年に扇谷上杉氏が武田信虎を援軍として岩付城を攻めた際に、資頼があっさりと降服した理由も説明できる。この時、資頼は岩付城の領有を許された。もはや扇谷上杉氏に歯向かう理由も、北条氏に従う理由も、無くなったのだ。

・太田氏築城説と太田資頼の野望

ここまで、大永・享禄年間の太田資頼の動向を説明するには、以下の想定を置くことが有効な手立てとなることを論じてきた。

・「太田資頼は以前から岩付城の領有を企図していたものの、扇谷上杉氏によってそれを妨げられていた」
・「扇谷上杉氏及びその配下において、そもそも太田資頼には岩付城領有の権利があり、岩付城の領有を認めれば資頼はもはや扇谷上杉氏を裏切ることはないという認識があった」
・「太田資頼は岩付城を領有し、在城することに特別な価値を見いだしていた」

これらはあくまで仮説である。
しかし、それを置くことで歴史事象を矛盾なく説明できる仮説には、検討の価値がある。では、この仮説としての太田資頼の(周囲からも知られた)岩付城への執着が、どのように生まれたかを説明することはできるであろうか。

筆者は、本稿の岩付城太田氏築城説ならば、それが可能だと考える。

本稿の想定では、岩付城は、
・太田氏の祖・太田道真によって築城された城であり、
・その孫・太田六郎右衛門尉が『自耕斎詩軸并序』を玉隠に書かせ、道真から右衛門尉に継承された太田氏家督の象徴の城をとされ、
・しかしその後は、扇谷上杉氏の勢力減退の中で城代であった渋江氏によって領有されることになった城である。

しかも、主君である扇谷上杉氏は、太田六郎右衛門尉を誅殺したのみならず、永正年間に岩付城を再度支配下に置いた際には同城に足利政氏を招聘し、政氏の体制再編の拠点としている。

太田資頼から見れば、扇谷上杉氏は、太田氏の権勢が強くなることを恐れ、たびたびその当主を誅殺(道灌、六郎右衛門尉)し、その上太田氏が家督の証とした岩付城を太田氏に領有させない主君、ということになる。

もちろん、3.3⑥節「永正の乱と岩付城[後]」リンク)で議論した通り、太田氏惣領の「備中守」が、岩付城主となっていた可能性はある。しかし同じく同節で紹介した淵江郷を巡る足利政氏と太田資頼(もしくはその父)に比定される「太田美濃入道」の軋轢からは、「備中守」が岩付城に在って両者の調停を行った様子は見られない。

むしろ、仮に「備中守」が岩付城主であったとしても、それは多分に名目的であり、実質的には足利政氏と渋江氏による岩付統治が行われたこと、そしてそれに対して「美濃守」太田資頼が反発していたという構図も想定できる状況と言える。

さらに想像を逞しくすれば、足利政氏が太田氏惣領の「備中守」を介さず傍系である「太田美濃入道」に直接抗議している点からは、「太田美濃入道」が惣領「備中守」に必ずしも従順ではなく、且つ「備中守」に匹敵する勢力を有していたことも想定することが可能であろう。

その場合、あくまでも仮説ではあるが、「美濃守」太田資頼という人物を、
(i)扇谷上杉氏に不満があり、
(ii)同氏に従う太田一族惣領「備中守」の方針にも不満があり、
(iii)太田氏家督の証である岩付城を得ることで、所領拡大と同時に太田氏内での主導権の確立を目指していた人物であった、
と設定することもできるであろう。

そして、この人物像設定の太田資頼であれば、上の三つの想定も満たし、大永・享禄年間の岩付城への執着も説明できるのである。

このこと自体が岩付城太田氏築城説の証明となるわけではないが、その蓋然性を高める材料の一つとはなるであろう。

・消えた「備中守」と台頭する「美濃守」

なお、「美濃守」太田資頼が渋江氏との間で岩付城を巡る抗争を展開した大永四年(1524年)から享禄四年(1531年)の七年間において、太田氏惣領の「備中守」の動向を示す史料は残されていない。既に述べたとおり、「備中守」は『石川忠総書留』において大永四年(1524年)の年初に山内上杉氏との和睦交渉を行ったと記されたのを最後に歴史の表舞台から姿を消しているのである。

以降、扇谷上杉氏の重臣として史料上見えるのは、傍系として「美濃守」を名乗った太田資頼とその子孫達のみである。(北条氏方にも目を向ければ、「大和守」を名乗った太田資高とその子孫も存在するが)
 
この歴史の表舞台からの「備中守」の退場と「美濃守」の登場を、どのように考えるべきであろうか。
黒田氏のように、傍系「美濃守」が惣領「備中守」を討ったと考えることも可能である。また、「備中守」が北条氏との抗争で戦死し、以前から力を付けていた「美濃守」がそれを機に事実上の太田氏惣領として振る舞ったと考えることもできるであろう。

本稿では、どちらの可能性も想定し得る、と指摘するに留めたい。
しかし、以降「美濃守」が扇谷上杉氏方太田氏の主流となったこと、そしてその本拠地が岩付城とされたことは、本稿のにおける“太田氏家督の証としての岩付城”との想定と整合的である点は強調したい。資頼が、傍系の立場から太田氏の事実上の惣領となるためには、岩付城領有が必要だったと考えれば、多くの点で得心できるのである。


以上、大永・享禄年間の太田資頼の振る舞いの奇妙さを挙げ、それらが岩付城太田氏築城説の立場からならば説明が可能であることを提示した。

しかし、本稿が想定する“太田氏家督の証としての岩付城”とそれに対する資頼の執着という設定を導入しなければ、資頼の動向を説明できないわけではない。

以下、純粋に地政学的な必要性から資頼が岩付城に執着したとの説明も試みたい。