(3.3⑥ 永正の乱と岩付城[前](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
⑥ー4 岩付城の足利政氏と太田氏の関係
岩付城に足利政氏が移城していた時代、太田氏は何をしていたのか。そして足利政氏とはどのような関係にあったのか。これらの検討に入りたい。
・岩付城主「備中守」
この時代の太田氏について、まとまった形で考察する数少ない論考として挙げられるのは、本稿が黒田(1994年)と呼称する、黒田基樹氏の1994年論文「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城との関係を中心に」であろう。
この論文において黒田氏は、『年代記配合抄』において「太田六郎右衛門」の後継者として登場する「備中守」が、この時期から岩付地域の統治に関わるようになり、岩付城主となったとする仮説を提起している。
この黒田氏の議論は、『年代記配合抄』の「備中守」を『太田潮田系図』の「備中守 仮名源六 早世 武州岩槻城主」と同一人物であるとする考え方(註1)に基づくものである。
黒田氏自身が“良質な史料に基づく議論ではない”と認める推論であるが、筆者は「備中守」が岩付城主となった可能性は十分に想定できると考える。
その理由は以下の四点である。
・足利政氏という外部者と、直前まで政氏の敵高基陣営に属していた派渋江氏による岩付統治は、その実態が扇谷上杉氏にとって目の届かないものとなる。扇谷上杉氏の代官を派遣したいところである形成であった。
・扇谷上杉氏の岩付地域奪還には、足立郡に領地を持つ太田氏も動員された可能性は高く、太田氏当主が岩付城主となるだけの貢献をしてことも想定し得る。
・太田六郎右衛門尉時代にも太田氏が岩付城主となったとの本稿想定を加えるならば、太田氏は岩付統治の経験があり、扇谷上杉氏の代官としての岩付城主に向いている。
・『自耕斎詩軸并序』以降、岩付城主の地位が太田氏惣領の証となったと本稿想定を採用するならば、岩付城主の地位は「備中守」としてもそれを欲したと考えられる。
ただし以上の議論は、本稿が提起する新・岩付城太田氏築城説の立場からも、黒田氏の「岩付城主『備中守』」仮説に一定の蓋然性が認められること、そして同仮説に対して整合的な説明ができることを示したものに過ぎない。
太田氏築城説が、「岩付城主『備中守』」という想定を必要とする訳ではないことには、ご留意いただきたい。
なお筆者は、「備中守」がこの足利政氏の岩付移城期に岩付城主となっていたと想定した際にも、その地位は名目的なものに留まったのではないかと想像する。伊勢宗惴との抗争に忙しいこの時代の扇谷上杉氏が重臣の当主を、宗惴との抗争とは関係ない地に張り付けたことは考えにくい。また、以下で論じる足利政氏と「太田美濃入道」の軋轢も、この理解に整合的であると考える。
岩付城主の地位は、それが「備中守」に対する報奨として与えられたのだとしても、実際に政氏と渋江氏を監視する代官として実際に動いたのは「備中守」の家臣や一族の者であったと考えるべきではないだろうか。
・「太田美濃入道」と足利政氏の軋轢
岩付城在城期の足利政氏と太田氏との関係を考えるもう一つのアプローチは、政氏と「太田美濃入道」との軋轢に関する検討である。
実は、岩付城在城期の政氏は、「太田美濃入道」なる人物に対して所領違乱に関する抗議を行っている。
これを示すのは「喜連川家文書案」所収の霜月廿八日付足利政氏書状(註2)である。この書状において政氏は、「太田美濃入道」に対して小宮山左衛門尉の淵江郷(今日の足立区花畑周辺)に対する違乱について抗議し、停止するよう命じている。
文書の年次は不明であるが、黒田基樹氏は、「先度遂入部之間」とする部分が政氏の岩付移城を示すとし、永正十三年(1516年)から同十五年のものであろうと比定している(註3)。また、ここに登場する「太田美濃入道」については、『岩槻市史』は太田資正の父資頼に比定しており、黒田氏も資頼もしくはその父に比定する。
言うまでもなく、太田資頼は、論者によっては岩付太田氏の事実上の始祖とも見なされる人物である(註4)。
背景は不明であるが、岩付地域に入った足利政氏と、岩付周辺の扇谷上杉氏被官の間で領地をめぐる確執が生じていたことが、この書状から伺える。
「度〃小宮山左衛門尉及違乱」とあるため、小宮山氏の「違乱」行為は、政氏側が指摘しても収まらなかったようである。「太田美濃入道」の制止があったにも関わらず小宮山左衛門尉が違乱を止めなかったのか、あるいは「太田美濃入道」による制止そのものが無かったのかは、判然としない。
ただし以下に示す通り、当時の状況的には、足利政氏の岩付移城を扇谷上杉氏配下の領主達が快く思っていなかった可能性が高い。そのため筆者は、「太田美濃入道」が足利政氏の抗議を受けても小宮山左衛門尉を制止しなかった可能性は低くないと考える。むしろ、「太田美濃入道」が小宮山氏を使役して、足利政氏の所領を違乱させた可能性すら想定できるのではないだろうか。
扇谷上杉氏配下が、政氏の岩付統治を快く思っていなかったことを示唆するのは、永正十五年(1518年)の政氏の岩付退去時の状況である。
政氏は、永正十五年(1518年)に扇谷上杉朝良が没すると、その後間もなく久喜の甘棠院において完全なる隠居生活に入るのであるが、この時の状況がやや不自然なのである。
朝良の後継者である扇谷上杉朝興は、政氏を岩付に留めなかったものの、その後も政氏側であった足利義明に従い、義明が小弓公方となるとその陣営の一翼を為す存在になっている。
すなわち扇谷上杉氏は、大局的には政氏ー義明陣営から離れなかったにも関わらず、政氏の岩付在城については朝良から朝興への代替わりの際にこれを解消していることになるのだ。
加えて、政氏が朝良の死を深く嘆いた書状(註5)からは、政氏が自身の地位が朝良個人に依存していると認識していたことが浮かび上がる。
以上から筆者が想起するのは、
・政氏ー義明陣営に属することは扇谷上杉氏及びその家臣らにとっても総意であったが、
・政氏に、岩付地域を貸与(あるいは割譲)することについては反対者が多かった、
・その反対側の勢力は、推進者である当主の朝良が没すれば、政氏が岩付地域からすぐに退去しなければならない程、大勢を占めものであった、
という状況である。
既に述べた通り、永正八年(1511年)には足利高基派だった岩付地域が、永正十三年(1516年)には扇谷上杉朝良主導の足利政氏の移座の地になっていたことは、この間に扇谷上杉氏ご岩付地域を攻略したことを意味する。
この攻略には当然、扇谷上杉氏の家臣らも動員されたはずである。彼らとしては、奪還した岩付地域に自身らの所領が認められず、まるごと足利政氏に貸与されたのであれば、不満が出てるのが自然である。
上では、太田氏惣領の「備中守」が岩付城主となった可能性を論じた。しかし、淵江郷をめぐる足利政氏と「太田美濃入道」の軋轢を見れば、政氏が岩付地域の主として君臨しようとしたことが伺わえる。「岩付城主『備中守』」が事実であったとしても、それは多分に名目的なものであったと筆者が考えるのは、「岩付城主『備中守』」が政氏の岩付領主化を防いだように見えないためである。
また足利政氏が、淵江郷への違乱問題について、太田氏惣領の「備中守」ではなく、「美濃入道」に抗議している点も興味を引く。
想像を逞しくすれば、太田氏内部においても、
・政氏の岩付統治を良しとする惣領「備中守」の方針に対して、
・傍系「美濃守」が不満を持っていた
という状況を想定することもできるであろう。
太田氏内部の足利政氏の岩付統治への不満、という仮説を仮に是とした場合の議論ではあるが、本稿の太田氏築城説は、太田氏と岩付城・岩付地域の間に古くからさまざまな縁があったとする点で、その不満をより説明しやすいと言えるかもしれない。
・足利政氏の岩付退去
扇谷上杉氏の被官と軋轢を生んだ(と考えられる)足利政氏の岩付移城は、わずか三年で終わる。
永正十五年(1518年)に政氏の岩付移城を推進した扇谷上杉朝良が没すると、その後間もなくして政氏は、久喜の甘堂院に隠居し、その政治生命を終えることになったのである。
ここに、朝良以外の扇谷上杉氏や、その被官らの政氏の岩付統治への不満・反発の大きさを見る筆者の見解は、上に述べた通りである。
以降、政氏陣営に属していた足利義明は、真理谷武田氏の誘いに乗り、小弓(千葉市)に入って「小弓公方」となり、「古河公方」足利高基との抗争に入る。
※
永正の乱期の岩付城を巡る政治情勢と、その際の岩付城と太田氏の関係性に関する確認と論考は、以上である。
本稿の新・太田氏築城説が、この期間の岩付城と太田氏について、矛盾を生じることなく説明を行えることが確認されたと言えよう。
また、足利政氏の岩付移城に対する渋江氏の役割を強調し、扇谷上杉氏の岩付地域への関与を相対化する効果のあった黒田氏の記述(註6)について、反証を示したことは本節検討の成果の一つであろう。
しかし、現在最有力の成田氏築城以上に整合度の高い説明ができたかと問われれば、その答えは否である。この時代の政治情勢下での岩付城や太田氏の動向は、成田氏築城説、渋江氏築城説によっても説明できるものであり、太田氏築城説の説明に大きな優位性が見られるわけではない。
永正年間後期は、岩付城に関する史料も増え、岩付城の言わば“歴史時代”の始まりに当たる。
成田氏築城説、渋江氏築城説、旧来の太田氏築城説のいずれも、これらの史料は基本的には初めから織り込み済であり、そのため、説明において差が出にくいのは当然と言えよう。
3.3節の冒頭(リンク)で述べた通り、本節の目的は、『自耕斎詩軸并序』の「岩付左衛門丞顕泰」を「太田六郎右衛門尉」に比定した上で「小宮氏説が説明をなし得なかった一次史料に基づく岩付城を巡る政治情勢」としての評価軸Bー①~③の説明であったが、これらは既に終えているのだ。
そのため、新・太田氏築城説の岩付城通史に対する整合性を確認する試みは、ここで終えてもよいのかもしれない。
しかし、3.3節冒頭では、「新・太田氏築城説が、各情勢の前後、あるいは相互の関係の全てに対して整合的な説明の体系」であることの証明を行うべく、個別の「政治情勢に対する説明を個別に行うのではなく、時間軸に沿った歴史記述の形で行いたい」と所信表明を行ってもいる。
以降の情勢において新・太田氏築城説では説明できない状況が出てこないことを確認するためにも、筆者は3.3⑦節を設けて、太田資頼による岩付城領有が確実となる時代である次の大永年間や享徳年間について同様の検討を行いたい。
(註1)
黒田基樹(1993年)「太田永厳とその史料」(『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)
(註2)
『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』1109
(註3)
黒田基樹(2013年)「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)
(註4)
『太田家譜』等の岩付太田氏系の家伝は、資頼の父「資家」を岩付太田氏の始祖とする。
対して黒田基樹氏は、岩付太田氏系統の太田氏と岩付城の関わりは史料上、資頼以降からしか確認できないとし、太田資頼を岩付太田氏の始祖と位置付ける(註3資料参照)。
(註5)
追って追記
(註6)
黒田基樹(2013年)「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)の以下の記述である。
