(3.3⑤ 永正七年の岩付城主渋江氏[後](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
3.3⑥ 永正の乱と岩付城
これまで議論において、まだ太田氏築城説が説明を成し得なかった当時の政治情勢として、評価軸Bー③が残されている。
・評価軸Bー③
永正年間後期に成田氏が岩付地域の慈恩寺支配に関与していた形跡が見られることを整合的に説明できるか。(黒田氏指摘(イ)ー5より)しかしこれは、前節までの検討により、すでに太田氏築城説の立場からの矛盾のない説明が可能な状況となっている。
本節では、まずこのことを確認する。
これに加え以降の「永正の乱」の流れにおいて、本稿のここまでの議論が矛盾をきたさないことを確認していきたい。
特に、「永正の乱」の最終段階に行われた古河公方足利政氏の岩付移城という政治的イベントは、岩付城の位置付けを議論する上で避けて通れないものである。
太田氏築城説の立場を取った時に、矛盾が生じないことを確かめつつ、可能であれば現定説の成田氏築城よりも当時の情勢に対して整合度の高い説明ができないかを検討したい。
⑥ー1 慈恩寺と成田下総守、そして渋江氏
永正年間後期に成田氏が岩付地域の慈恩寺支配に関与していた形跡が見られることは、足利政氏が息子高基の弟基頼に宛てた書状における「慈恩寺之事、高基方へ以下下総守一筆遣候、返礼大概宜候」から伺える(註1)。黒田氏はこれを、成田氏築城説の傍証として採用した(黒田氏指摘(イ)ー5)。
しかし、成田氏が慈恩寺支配に影響力を及ぼしたことは、本稿が想定する岩付城太田氏築城説と矛盾しない。
「永正七年の岩付城主渋江氏」が、太田氏築城説と矛盾せず、むしろ、太田氏築城説としても永正二年(1505年)以降は古河公方方の渋江氏が岩付城主となっていたことを想定できることは、前節にて示した通りである。
本稿はすでに2.2③節「慈恩寺と成田」(リンク)の青木氏説(渋江氏築城説)の検証において、永正年間後期に渋江氏が岩付城主であったとしても、 岩付地域の大寺慈恩寺に対して地域外の領主である成田下総守が影響力を発揮したことが十分に想定し得る事態であることを論じている。
詳しくは同節を参照いただきたいが、この議論を要約すれば、
・渋江氏は以前から荒川対岸の慈恩寺とは利害が衝突していた、
・永正年間の古河公方足利政氏書状に出てくる慈恩寺支配を巡る何らかの騒動も、渋江氏と慈恩寺の潜在的な対立によるものと想定することが可能である、
・この時、渋江氏は古河公方の配下であり、古河公方は同じく配下の成田下総守を使役し、ことの調停に当たらせた(岩付領主の渋江氏自身は対立の当事者であるため調停者にはなれない)、
・成田下総守が自領外の寺院支配に関与した事例は他にも見られる、
となる。
青木氏説(渋江氏築城説)の検証に用いたこの議論は、そのまま本稿が想定する、永正二年以降の岩付城主渋江氏にも適用されるものである。
筆者は、評価軸Bー③についても、太田氏築城説はすでに説明が成し得たと認識する。
⑥ー2 「永正の乱」の推移と岩付城
・山内上杉顕定の死と永正の乱第三次抗争
古河公方足利政氏とその子高基の権力抗争であった「永正の乱」は、
・永正三年(1506年)の第一次抗争、
・永正五年(1508年)の第二次抗争、
・永正七年(1508年)からの第三次抗争
に分けられる。
その内、第一次抗争と第二次抗争が、当時まだ存命だった山内上杉顕定の調停により、大乱化することなく、沈静化されたことは既に見てきた通りである。
しかし、実力者である山内上杉顕定は、永正七年(1510年)に遠征先の越後で討死する。顕定の討死のほぼ同時期に始まった第三次抗争では、もはや古河公方父子を黙らせる実力者は、関東に残されていなかった。
それどころか、顕定の急死を受けて山内上杉氏内でも後継者争いが発生する。顕定の二人の養子、顕実と憲房が、山内上杉氏当主の座を争って抗争を開始したのである。
この抗争は、古河公方父子の争いと絡み合い、永正九年(1512年)から本格化した。
対立構図は、
・古河公方足利政氏と山内上杉顕実が組み、
・政氏の子高基と山内上杉憲房が組む、
というものであった。
しかし、抗争の勝敗は早々に決まる。
永正九年(1512年)中には、山内上杉顕実が籠る鉢形城は、山内上杉憲房によって攻略されてしまう。山内上杉氏内の後継者争いは、山内上杉憲房の勝利に終わったのである。
山内上杉顕実が頼れなくなったことで、足利政氏も不利となり、古河城を維持することが困難になった。永正九年(1512年)六月には、足利政氏は、古河城を出て、支持者であった下野国小山氏を頼った。古河城には、同年七月に足利高基が入り、古河公方となった。
・扇谷上杉氏と渋江氏の政治的位置
この時、扇谷上杉朝良は、足利政氏と山内上杉顕実側に味方する立場にいた。山内上杉顕実の鉢形城喪失は、扇谷上杉朝良にとっては自陣営の敗北を意味しており、これを朝良が状況を嘆いた書状が残されている。
興味深いのは、永正八年(1511年)八月時点で、足利高基陣営の関宿城に「岩付衆」が参陣していることである(註1)。岩付城の渋江氏は、扇谷上杉朝良とは逆に、足利高基に味方していたのである。
永正の乱の第三次抗争において、渋江氏と扇谷上杉氏は、少なくとも永正八年(1511年)時点では異なる陣営に属し、敵対する関係にあった。
・足利政氏、岩付城へ
小山に移座した足利政氏は、小山氏、岩城氏、佐竹氏、扇谷上杉氏等を支援勢力として、足利高基ー山内上杉顕定陣営との抗争を続けるが、次第に劣勢に追い込まれていく。
永正十一年(1514年)の宇都宮竹林合戦での敗北、そして二年後の永正十三年(1516年)の那須縄釣合戦での敗北により、足利政氏最大の支援者であった小山氏も、遂に足利高基派に回る。
もはや小山氏のもとにも居られなくなった足利政氏であったが、助けの手を差し出す者があった。永正の乱において、常に足利政氏派であった扇谷上杉朝良である。
『円福寺日記』に「政氏退去小山、十二月二十五日被立於円福寺、上杉治部少輔持定入試建芳為先駆、同廿七日移座于武州岩月」とあるように、朝良は、自ら「先駆」して足利政氏を岩付城に招き入れたのだ。これが、永正十三年(1516年)の足利政氏の岩付移城である。
かつて足利政氏の岩付移座は、政氏がその余生を過ごすための措置と理解されていたこともあったが、現在は高基陣営との抗争を継続するための自陣営再構築の手立てであったと理解されている(註2)。
それまで小山氏や岩城氏、佐竹氏等の北関東の有力領主を頼っていた足利政氏は、南関東の扇谷上杉氏を頼るとともに、それまで仲違いしていた息子 足利義明と和解し、共同して高基陣営に対抗するようになっている。
政氏はその後、岩付を拠点として高基陣営であった南の下河辺荘を攻撃しており、勢力を南関東に伸ばそうとしていたことは明らかである。永正十五年に、足利義明が真理谷武田氏に請われて上総国に入部しているのも、政氏ー義明陣営が、古河を押さえた高基陣営に対抗するために、南方の有力領主と結ぼうとした結果であろう。
岩付地域は、扇谷上杉氏領国の東端に位置している。
しかし、北の高柳(久喜市)に義明がおり、南に上総国の真理谷武田氏の領国があったことを考えれば、黒田基樹氏らが指摘する(註3)とおり、岩付地域は、新たな政氏ー義明陣営の中心地だったと考えることができるであろう。
⑥ー3 岩付城の足利政氏と渋江氏の関係
視点を岩付城に向ける。
足利政氏は、扇谷上杉朝良を最大の支援者として朝良の支配下にあった岩付城に入り自陣営の再構築を行ったわけであるが、その際、岩付城主であった渋江氏との関係はどのようなものであったのだろうか。
足利政氏の岩付移城時の渋江氏に関する史料は存在しないため、両者の関係は前後の状況より推測するしかない。
黒田基樹氏は、両者の関係性を「渋江氏にしてみれば、主人政氏を自身の居城に迎えた格好になる。渋江氏はその後、隣接する勢力であり、主人政氏にとって最大の支持者でもあった、扇谷上杉氏との関係を深めていったとみられる」(註4)と述べている。
黒田氏が、渋江氏は足利政氏方の武将であり(黒田氏指摘(ウ)ー1A)、政氏陣営内の差配として、岩付城が築城者成田氏から渋江氏に譲渡された(え黒田氏指摘(ウ)ー2)と想定していることは前述の通りである。黒田氏は、この想定を前提とし、渋江氏は政氏陣営に属していたため、政氏の岩付移城に賛成であり、推進側であった可能性を論じている。むしろ、上掲の記述は、むしろ渋江氏が政氏の岩付移城を主導し、それを扇谷上杉朝良に飲ませているかのような印象すら受ける。
しかし、上で紹介した通り、永正八年(1511年)時点で「岩付衆」が足利高基派であったことは、その後の新出史料で明らかになっている。渋江氏を一貫して足利政氏方武将と想定する黒田氏の記述はその前提が覆されたことになり、見直しが必要であろう。
筆者は、
・永正八年(1511年)の足利高基派の岩付衆(おそらく渋江氏)と、
・永正十三年(1516年)の扇谷上杉朝良の「先駆」による足利政氏の岩付移城、
という一次史料から確認される二つの条件に整合する解釈として「足利政氏方の扇谷上杉朝良が、高基派の岩付の渋江氏を制圧し、自領に組み入れ、そこに足利政氏を招いた」という考え方を提起したい。
ここに本稿が想定する「永正二年(1505年)の岩付城・同地域の扇谷上杉氏から古河公方への割譲」を加味すれば、扇谷上杉氏は「長享の乱」で失った岩付地域を古河公方の内部抗争である「永正の乱」に乗じて奪還した、と考えることもできるのではないだろうか。
さて、この足利政氏の岩付移城時代、渋江氏はどこにいたか。
八年後の大永四年(1524年)に渋江氏が岩付城主として確認される(『年代記配合抄』より)ことを踏まえれば、渋江氏は岩付地域に残り、同地域支配に関わっていたことが想定されるであろう。
永正二年(1505年)から数年は、古河公方であった足利政氏に仕えた渋江氏である。永正八年(1511年)時点で足利高基側に付いていた時代の当主を隠居させる等すれば、足利政氏の岩付統治を補佐することも可能であったはずである。
また、足利政氏をトップに置き、渋江氏に補佐される岩付統治の形は、扇谷上杉氏にとってもメリットがあったと考えられる。
この時点では、扇谷上杉朝良が岩付を制圧して以降のその再支配を嫌った渋江氏の反発や、扇谷上杉氏が敵対した足利高基側からの岩付城再奪還という自体も想定されたであろう。
北からの攻撃には高柳(久喜市)の足利義明が防波堤となるが、東からの荒川を渡河しての攻撃に対しては、岩付地域自身が前線となってこれを防がねばならないのだ。
また扇谷上杉朝良は、足利政氏側に付いて「永正の乱」を戦いつつ、同時に南から領国を侵食する伊勢宗惴との抗争に多くの兵力を投入せざるを得ない状況にあった。「相模国守護」を名乗る扇谷上杉氏にとってまさに本国と言うべき相模国は、まさに永正十三年(1516年)に、その全土が伊勢宗惴によって経略された年であった。
扇谷上杉朝良としては、さらに武蔵国を伺う伊勢宗惴の北進を、何としても押し返さねばならない状況にあったのだ。
そうした中、扇谷上杉氏派の足利政氏を岩付城 に入れ、政氏に逆らえない在地古豪の渋江氏にそれを補佐させるという岩付統治は、朝良にとって、自軍をあまり使わずに領国東端の前線を固める手段となる。
伊勢宗惴との抗争に兵力を割きつつ、永正の乱も戦わねばならない扇谷上杉朝良にとって、岩付の防衛を政氏に託す統治の形は、利益のあるものだったのではないだろうか。
ではこの時、岩付城の足利政氏と太田氏の関係はいかなるものであったか。これについては、[後編]にて議論したい。
(註1)
埼玉県教育委員会(2014年)『埼玉県史料叢書12 中世新出重要史料二』53号
「永正八年と推定される八月、下総関宿城(千葉県野田市)に在城していた高基のもとに、『岩付衆』が参陣していることである(五三号)。この当時、岩付城は古河公方奉公衆渋江氏の本拠となっていたと推測されるが、これはこの時期における岩付城の動向を伝える貴重な史料となる。」(同書p.5)
(註2)
黒田基樹(1994年)「戦国期扇谷上杉氏の政治動向ー朝良・朝興を中心として」(『シリーズ・中世関東武士の研究 扇谷上杉氏』収録)
(註3)
註2に同じ。
(註4)
黒田基樹(2013年)「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)
