(3.3⑤ 永正七年の岩付城主渋江氏[前](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
⑤ー2 永正七年の岩付城主渋江氏を太田氏築城説はどう説明するか
では、永正二年の「長享の乱」終結と太田六郎右衛門尉の誅殺が岩付城に及ぼした影響を検討し、その上で岩付城太田氏築城説にとって最大の課題とも言える「永正七年の岩付城主渋江氏」の説明に挑みたい。
・「長享の乱」終結と太田六郎右衛門尉の死
永正二年(1510年)に、扇谷上杉氏の敗北という形で終結した「長享の乱」と、それとほぼ同時に起きた太田六郎右衛門尉の誅殺。この二つの事件は、岩付城に何をもたらしたであろうか。
筆者は、敗者である扇谷上杉氏から、勝者である古河公方への岩付地域の割譲が行われたと考える。そして、岩付城に在城していたであろう太田氏勢力は城を去り、渋江氏が古河公方の権威によって正式に岩付城主に就任したと考える。
なぜそう考えられるのか。
ここで本稿の想定に基づく、ここまでの経緯を振り返りたい。
・長禄元年(1457年)に、岩付城は太田道真によって扇谷上杉氏方の対古河公方の前線基地として築城される。
・文明九年(1477年)頃~明応三年(1494年)、城主太田氏の不在期間が続き、城代渋江氏が実質的な城主となる。
・明応三年(1494年)に、古河公方が扇谷上杉氏への敵対を表明。岩付城の城代渋江氏は、古河公方方に寝返る。転向の見返りとして、古河公方は渋江氏に岩付城と同地域領有を安堵。
・同年十一月に、扇谷上杉氏方の伊勢宗惴が岩付城を奪還すべく遠征したが、古河公方重臣の簗田氏によって撃退される。
・明応六年(1457年)までに、太田六郎右衛門尉が岩付城を奪還し、再度同城を対古河公方の前線基地とする。
・同年夏、太田六郎右衛門尉は、太田道真が築いた扇谷上杉氏領国の前線の城を得たことを、(i)扇谷上杉氏への忠勤の証しとして、(ii)道真によって認められた自身の太田氏惣領としての正統性訴求のため、鎌倉五山の高僧 玉隠英璵に『自耕斎詩軸并序』を作成させる。
・永正二年(1510年)、「長享の乱」は古河公方・山内上杉氏連合の勝利で終結する。その前後に太田六郎右衛門尉は、扇谷上杉氏に誅殺される。
要約すれば、
・太田氏が築いた扇谷上杉氏方の城であった岩付城が、城代渋江氏の判断により古河公方方の城となり、これが太田六郎右衛門尉によって再度扇谷上杉氏方に戻されていた、
・しかし抗争は扇谷上杉氏の敗北で終わり、また岩付城に特別な意義を見出だしていた太田六郎右衛門尉も同時期に誅殺された、
という経緯となる。
以上の経緯は、岩付城が太田道真によって築城されたとの想定に基づき、これまで本稿が構築してきた仮説である。しかし仮説ではあるものの、一次史料に基づいて研究者らが記述する当時の政治情勢を矛盾なく説明できることは、これまで見てきた通りである。
そしてこの仮説としての経緯を是とするならば、以下の展開も十分に想定できるであろう。
それは、「長享の乱」の勝者となった古河公方が、
・乱の過程で自身が発給した渋江氏に対する岩付城・岩付地域の安堵が扇谷上杉氏によって覆された状況であることを問題視し、
・更には扇谷上杉氏に対して同城・同地域を渋江氏に引き渡すよう求めた、
という展開である。
この展開が想定できることは、太田道真による岩付城築城という想定と、一次史料が示す「永正七年の岩付城主渋江氏」が、論理的に矛盾をきたすことなく両立することを意味する。
黒田基樹氏が1994年に提起し、以降、岩付城太田氏築城説にとって最大の課題の一つとなっていた「永正七年の岩付城主渋江氏」(黒田氏指摘(ア)ー3、評価軸Bー②)は、ここに克服されたことになる。
もちろん、一次史料と矛盾をきたさず、当時の情勢に対して整合的な説明を成し得る仮説を提起できたからと言って、その仮説が真であることの証明とはならない。
しかし、これまでの太田氏築城説は「永正七年の岩付城主渋江氏」に対して一切説明ができない状況であった。太田氏による岩付城築城想定と「永正七年の岩付城主渋江氏」を矛盾させずに両立させた本稿の仮説は、それを提起できたこと自体に意義があるものと、筆者は考える。
願わくば、この仮説が自然で蓋然性の高いものであることが望ましいわけであるが、この点については、読者諸兄の評価を仰ぎたい。
・『自耕斎詩軸并序』はどうなったか
岩付城の本丸御殿に飾られていたであろう掛け軸『自耕斎詩軸并序』は、どうなったであろうか。
扇谷上杉氏の前線基地としての“太田氏の岩付城”の再興を詠った『自耕斎詩軸并序』が、古河公方方の岩付城主渋江氏のもとで存在意義を見いだせるはずがない。間違いなく、排除されたはずである。
破棄されたのか、太田六郎右衛門尉の後継者に引き渡されたのかはわからないが、筆者は破棄された可能性が高いと考える。
渋江氏にとって大切に扱うべき品でなかったこともあるが、それ以上に扇谷上杉朝良に誅殺された太田六郎右衛門尉が書かせた作品であったことも、この詩軸が継承されなかった理由となっているように筆者には思える。
太田六郎右衛門尉の後継者達にとって、『自耕斎詩軸并序』は、主君に憎まれて殺された前代当主を象徴する存在であった。扇谷上杉氏に仕え続ける以上、『自耕斎詩軸并序』を彼らが一族の宝のようにして受け継ぐことは、難しかったのではないだろうか。
仮に渋江氏が、『自耕斎詩軸并序』を岩付城を去る太田氏の誰かに引き渡そうとしても、その人物は、扇谷上杉氏の手前それを受けとることができなかったのではないだろうか。
『自耕斎詩軸并序』は、明応六年(1497年)から永正二年(1510年)のわずか十三年で歴史の表舞台から消し去られた。玉隠英璵が、後世『文明明應年間関東禅林詩文等抄録』と名付けられたに詩文集にひっそりと書き残した以外は。そして太田氏には、岩付城の領有が一族惣領の証であるとの記憶だけが受け継がれたのではないだろうか。
筆者はそう考えるのである。
なお、玉隠英璵が『玉隠和尚語録』に『自耕斎詩軸并序』そのものを納めず、最後の詩の部分のみを掲載した(註1)ことは、1.2節「黒田氏説の振り返り①」(リンク)で紹介したとおりであるが、これも玉隠の政治的な判断であったと考えることもできるかもしれない。
太田六郎右衛門尉が、扇谷上杉氏の前線基地としての“太田氏の岩付城”の再興を詠った(と本稿が考える)『自耕斎詩軸并序』は、
・依頼主の太田六郎右衛門尉を誅した扇谷上杉朝良にとっても、
・扇谷上杉氏と戦った屈服させた山内上杉氏や古河公方にとっても、
あまり好まれない作品であった。
玉隠としても、後世広く読まれることを意識してまとめた『玉隠和尚語録』には、収録しにくい作品だったのではないだろうか。
・付論:『自耕斎詩軸并序』の失伝を他説は説明できるか
『自耕斎詩軸并序』は、岩付城築城者の候補者である成田氏、太田氏、渋江氏のいずれの一族においても、継承されていない。
鎌倉五山の頂点に位置する高僧 玉隠英璵がものした詩軸は、価値の高いものである。それが継承されず失伝した理由について、可能であれば説明できることが望ましい。
太田氏築城説については、説明できることが上に示されたが、成田氏築城説や、渋江氏築城説はどうであろうか。
渋江氏築城説については、この後で述べる大永年間から享禄年間において太田氏と渋江氏が岩付城を巡る激しい抗争を展開したことから、『自耕斎詩軸并序』の失伝を説明できるであろう。
渋江氏が岩付城築城者であり、『自耕斎詩軸并序』を大切に継承していたとしても、太田氏に岩付城を攻略され、渋江氏当主が討死する事態が発生する以上、その渦中で『自耕斎詩軸并序』が焼失したり、太田氏によって破棄された可能性は想定できる。
一方、成田氏築城説は、こうした説明が難しいのではないだろうか。
成田氏築城説は、足利政氏方武将である「成田正等」から渋江氏に岩付城が平和裏に譲渡されたことを想定する(黒田氏指摘(ウ)ー2)。しかし、この想定下では、『自耕斎詩軸并序』が、成田氏自身によって意図的に破棄あるいは隠蔽されることも、敵によって破棄されることも考えにくい。
2.4節「後世編纂史料の痕跡」(リンク)で述べた通り、成田氏築城説には、当主二代にわたる岩付城在城の記憶を一切記録に残さなかったことになるという不自然さが伴う。この不自然さには、成田氏がなぜ『自耕斎詩軸并序』を失伝したのかを説明しにくいという点も加わることになろう。
・岩付城主渋江氏の時代
古河公方の権威によって岩付城と岩付地域の主とされた渋江氏は、その後全盛期を迎えたことであろう。
享徳の乱中盤以降の城主太田氏・城代渋江氏の時代から、渋江氏は太田氏の権勢を背景にして岩付地域での支配の拡大・深化を図っていた。
そうした扇谷上杉氏方時代の蓄積を引き継いだ状態で、今やその太田氏も、主家である扇谷上杉氏も排除されたのである。渋江氏の荒川以西での勢力拡大を阻むものはなくなり、崎西郡南部全体にその統治を広げたことであろう。
その形勢は、黒田基樹氏が指摘したとおり“騎西城を中心に崎西郡西部の忍城と崎西郡南部の岩付城を両翼とする”という古河公方の荒川以西への勢力展開(黒田氏指摘(ウ)ー2) を支えるものとなったと、筆者は考える。
享徳の乱期には荒川以西に被官をもたなかった古河公方にとって、ここにおいて渋江氏は、成田下総守と並ぶ頼りになる存在となっていたのではないだろうか。
永正七年(1510年)の権現山合戦において、援軍を要請された古河公方が、「成田下総守」と並んで「渋江孫太郎」を派遣したのは、渋江氏が古河公方にとっての荒川以西有数の有力被官となっていたことを示していると言えよう。
※
以上で、「永正七年の岩付城主渋江氏」の説明を終える。
多くの想定を重ねる議論となったが、岩付城太田氏築城説と「永正七年の岩付城主渋江氏」が矛盾なく共存できることは示せたのではないだろうか。
筆者はここで、3.3②節「享徳の乱の推移と岩付城[後編]」(リンク)における読者諸兄への問いかけを再掲したい。
「岩付城築城者の議論は、渋江氏築城説を除けば、そこで想定する築城者は岩付地域の外部勢力である。
最有力仮説である成田氏築城説も、古くから存在し本稿で再提起している太田氏築城説も、
・岩付地域に古豪渋江氏が存在しながら、外部勢力(成田氏あるいは太田氏)が岩付城を築城し、
・後に在地古豪の渋江氏が岩付城主となった、
という顛末が必ずしも伴うことになり、その整合的説明が課題となるのだ。
築城者と後の城主渋江氏の関係を直接的に示す史料が存在しない以上、両者の関係と岩付城主が変わった経緯については、なるべく蓋然性の高い仮説を提起するしかない。
どうか読者諸兄には、築城者と後の城主渋江氏の関係を説明するために、“立証し得ず蓋然性を高める議論しかなせない仮説”が登場したことを以て、『太田氏築城説そのものに蓋然性なし』と早合点しないよう、ご注意いただきたい。築城者と後の城主渋江氏の関係を説明するために、立証し得ず蓋然性を高める議論しかなせない仮説が登場することは、こと太田氏築城説と渋江氏築城説においては、共通の与件なのである。
そして、
・本稿が提起する『城代渋江氏の台頭』仮説と、
・黒田氏の『足利政氏方武将間での岩付城譲渡』仮説、
のどちらが、蓋然性において優れているかを、ぜひご検討いただきたいのである。」
本稿の『城代渋江氏の台頭』仮説による「永正七年の岩付城主渋江氏」の説明は、本節にてその全貌を述べたことになる。
それの蓋然性が十分なものであるかについては、読者諸兄の評価に委ねたい。
(註1)
『自耕斎詩軸并序』の最後段に載せられた漢詩「粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私」は、玉隠英璵の作品集として旧知の史料である『玉隠和尚語録』にも掲載されている。(東京大学史料編纂所データベースが一般公開する『玉隠和尚語録』の写本画像にて確認できる。https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2016/272/1001?m=all&n=20)

(岩槻・浄安寺の参道と山門)