3.3⑤ 永正七年の岩付城主渋江氏

本節では、黒田基樹氏が太田氏築城説批判において提起した“永正七年の岩付城主渋江氏”に対して、太田氏築城説からの通史的説明を行う。

具体的には、2章「先行三説の蓋然性評価」リンク)にて整理した評価軸Bー②が対象となる。

評価軸Bー②
永正七年(1510年)時点で渋江氏が岩付城主となっていたことを整合的に説明できるか。(黒田氏指摘(ア)ー3より)

議論の構成は前節までと同様とし、最初に議論の対象期間の政治情勢を整理し、次に太田氏築城説の立場からの説明を試みる。
当時の政治情勢については、これまでと同様、則竹雄一氏の『古河公方と伊勢宗惴』や山田邦明氏の『享徳の乱と太田道灌』、黒田基樹氏の著作群を参照する。

⑤ー1 長享の乱の終結から永正七年の岩付城主渋江氏まで

・立川原合戦と扇谷上杉氏の屈服

明応八年(1499年)の和睦が破られ、両上杉氏の衝突が再開したのは、永正元年(1504年)であった。

文亀三年(1503年)時点で、扇谷上杉氏の本拠地である河越城近くの上戸(川越市)に陣を張っていた山内上杉顕定が、永正元年(1504年)八月に、河越城攻撃を開始したのである。

扇谷上杉朝良は同盟相手である伊勢宗惴を救援を求め、宗惴はこれに応えて、主君にあたる今川氏親を伴って武蔵国入りする。

なお、この時点での伊勢宗惴は、依然として扇谷上杉氏の同盟相手であり、伊豆国一国に加えて、相模国西郡の小田原城を制する存在であった。
伊勢宗惴の小田原城攻略は、以前は扇谷上杉氏から切り取ったとの理解がなされていたが、現在では、明応五年(1496年)に山内上杉氏方が扇谷上杉氏から奪った小田原城を、扇谷上杉氏方の伊勢宗惴が奪還した、と見る向きが主流のようである。

伊勢宗惴と今川氏親の加勢を得た扇谷上杉朝良は、立川原(立川市)で山内上杉顕定を迎え撃ち、激戦の末、勝利を納めたのだった。永正元年(1504年)九月の立川原合戦である。

立川原合戦の敗北で大きな打撃を受けた山内上杉顕定であったが、伊勢宗惴と今川氏親の帰国を見計らって、越後から援軍を呼び寄せると、永正元年(1504年)十二月以降、扇谷上杉氏領国への反撃を行った。

山内上杉顕定のこの反撃は奏効した。

扇谷上杉氏の椚田要害(八王子市)、実田要害(平塚市)が相次いで陥落し、扇谷上杉朝良はこれら要害を失った上で、本拠地河越城を山内上杉顕定自身によって攻めらる形となったのだ。伊勢宗惴ら“外国勢力”の助けの無い扇谷上杉氏は、越後勢と組んだ山内上杉氏の大規模攻撃にもはや耐えることはできなかったと言える。

永正二年(1505年)四月、扇谷上杉朝良は、遂に山内上杉顕定に降服を申し出る。
扇谷上杉氏と山内上杉氏の抗争は、過去に二度の和睦があり、その都度停戦期間を迎えたが、この永正二年の降服は、それらとは質の異なるものであった。扇谷上杉氏は、山内上杉氏に対して屈服し、古河公方と山内上杉氏を上位者として戴くことを認めることになった。また、扇谷上杉氏の当主朝良は隠居し、河越城を出て江戸城に入ったのである。

長享二年(1488年)に始まった「長享の乱」は、十七年間の長き抗争期間を経て、永正二年(1505年)に終結したのだった。

・太田六郎右衛門尉の誅殺

本稿が「岩付左衛門丞顕泰」に比定する太田六郎右衛門尉は、この永正二年(1505年)四月の扇谷上杉氏の降服の前後に誅殺されたようである。

その根拠は、『年代記配合抄』の永正二年の条における「於武中野陣ニ太田六郎右衛門被誅、備中守立遺跡」との記述である。

「武蔵国中野の陣において太田六郎右衛門は誅された。備中守が立ち遺跡を継いだ」と解釈されるであろうこの一節の内容は、一次史料からは確認が取れない。しかし、『年代記配合抄』が後世の編纂資料でありながら、他の記述において一次史料との整合性が高い(註1)ことから、この記述についても反証となる史料が存在しない以上是とする見解が史学界の主流であるようである。筆者もこれに従いたい。

太田六郎右衛門尉の誅殺の背景については、二通りの解釈が存在する。

・太田六郎右衛門尉誅殺の背景論

一つは、山内上杉氏に降服することを決めた扇谷上杉朝良と、それに反対したと考えられる太田六郎右衛門尉が対立し、その結果として太田六郎右衛門尉が誅されたという解釈である。

そもそも「長享の乱」は、太田道灌の謀殺に端を発し、太田氏が扇谷上杉氏派と山内上杉氏派の二派に別れて戦った抗争である。そのためその終結には、どちらの太田氏が正統の座を取るか、という議論が待ち受けることになる。

扇谷上杉氏が山内上杉氏に屈すれば、扇谷上杉氏側で戦った太田六郎右衛門尉は、山内上杉氏方の太田資康の後継者(資康自身は明応七年(1498年)に既に死亡)の下位に位置付けられる可能性がある。これを嫌った太田六郎右衛門尉が抗戦継続を主張し、もはや降服あるのみと考えた朝良にとって邪魔になった、という筋書きになるであろうか。
この解釈を紹介しているのは、山田邦明氏の『享徳の乱と太田道灌』と『北区史 資料編 古代中世1』である。

もう一つの解釈は、かつての扇谷上杉定正による太田道灌の謀殺と同じ構図が繰り返された、というものである。

太田六郎右衛門尉は、道灌が謀殺された文明十八年(1486年)にその後継となったと考えられるため、永正二年(1505年)時点で実に二十年近く重臣として扇谷上杉氏を支えていたことになる。また、朝良が扇谷上杉氏の当主となった明応三年(1494年)から数えれば、永正二年(1505年)は十一年目である。

先代定正から当主となるには頼りないと評された朝良(『上杉定正状』より)であったが、この十一年間よく戦い、格上の山内上杉氏に飲み込まれることなく抗戦を続けてきていた。その陰には、定正の代から扇谷上杉氏を支えてきた“ベテラン”の太田六郎右衛門尉の存在があったと考えられるが、一方で十一年間の奮闘の中で朝良も当主としての力量に自信を深めていたことであろう。

この若き当主とベテラン重臣の構図は、定正と道灌と同じものである。山内上杉氏との抗争が厳しい状況を迎えた中で、朝良と太田六郎右衛門尉の意見が対立する局面があり、朝良はかつて定正が道灌を謀殺したように、太田六郎右衛門尉を誅することになった。2つ目の解釈は、こうした顛末を想定することになる。

この解釈を取るのは、則竹雄一氏の『古河公方と伊勢宗惴』である。則竹氏は、扇谷上杉朝良が太田六郎右衛門尉を誅殺により、扇谷上杉陣営が動揺・混乱したことが山内上杉氏に有利に働き、朝良の降服に繋がったと見る。

どちらの解釈にも蓋然性があり、それぞれ十分に成立し得るものであるが、筆者は、両解釈は排他的ではなく、実際には両者が絡み合う状況があったのではないかと想像する。
山内上杉氏との抗争が敗北に終わる見込みが出てきた永正元年(1504年)末から翌二年(1505年)にかけて、扇谷上杉朝良と太田六郎右衛門尉との間で意見の相違が生じたことは間違いないであろう。

その衝突において、
・扇谷上杉朝良が、力のある重臣としての太田六郎右衛門尉を以前から脅威視していたであろうこと、
・太田六郎右衛門尉が、山内上杉氏に降服すれば、同氏方に付いた太田資康の後継者の下位に位置付けられることを嫌がったであろうこと、
・そして朝良には、太田六郎右衛門尉の論理が太田氏の私闘論に見え、それを嫌忌したであろうこと、
等が絡み合い、太田六郎右衛門尉の誅殺という事件に発展したのではないだろうか。

いずれにせよ、扇谷上杉氏は敗北し、太田六郎右衛門尉は誅殺された。
このことは、「扇谷上杉氏の前線基地として太田六郎右衛門尉が奪還し、太田氏家督を象徴する城とした」と本稿が想定する岩付城にも、大きな影響を与えたはずである。

これについては、次の⑤ー2において論じたい。

・太田資康の後継者、扇谷上杉被官に復帰

岩付城太田氏築城説を考える上では、もう一つの太田氏である太田資康系統の江戸太田氏についても概観しておきたい。
以下、「長享の乱」終結以降の太田資康の後継者の動向について整理する。

永正二年(1505年)の扇谷上杉氏の降服の後、山内上杉氏方となっていた太田資康の後継者は、再び扇谷上杉氏の被官となり、江戸城に入ったようである。

これは、
・太田資康の後継者と思われる「太田大和守」が、永正七年(1510年)の山内上杉顕定書状(註2)において、扇谷上杉氏被官として現れること、
・「大和守」が江戸太田氏の太田資高の受領名(註3)と同じであること、
等から推測される。

また、山内上杉顕定書状やその後の山内上杉憲房書状からは「太田大和守」が扇谷上杉氏と山内上杉氏の取次役を担っていることが伺える。この点も、「太田大和守」が最近まで山内上杉氏方として働いていた太田資康の後継者とする見方と整合するであろう。

筆者も、太田大和守を江戸太田氏の太田資高とするこの見方に賛成であるため、以降、両者を同一人物として取り扱うことにする。

一方、扇谷上杉氏被官には、他に「備中守」を名乗った「太田永厳」が存在していることも確認されており、この人物が『年代記配合抄』において太田六郎右衛門尉の遺跡を継いだ「備中守」であろうと論じられている(註4)。

太田氏惣領の受領名は「備中守」である。すなわち「大和守」を名乗った太田資高は、扇谷上杉氏の被官として復帰した際には、太田氏の傍流と位置付けられたことになる。

「長享の乱」は、山内上杉氏が扇谷上杉氏を制する形で終結したが、山内上杉氏側で戦い、勝者側に立った太田資康の系統が、太田氏惣領とされなかった点は興味深い。

太田資康は太田道灌の実子であったが、家督については『太田資武状』に見える道灌の養嗣子が継いだものとの認識が、山内上杉氏内部においても存在していたのではないだろうか。

・付論:太田資高の政治的位置

岩付城太田氏築城説の議論とはやや関わりが薄いが、ここで太田資高の扇谷上杉氏被官への復帰について述べたこの機会に、資高の政治的位置についての筆者の見解を紹介したい。

太田資高が扇谷上杉氏被官として復帰したことについては、黒田基樹氏が「資高は赦免を受けたのか、以降は扇谷家の宿老の一人となり、朝良の本拠である江戸城で城代を務めるまでになる」(註5)と述べている。
太田資康とその後継者資高は、十七年間にわたる「長享の乱」において、常に山内上杉氏方となり、扇谷上杉氏と戦う立場にあった。従って、永正七年(1510年)時点で太田資高が扇谷上杉氏被官となっているからには、扇谷上杉氏による「赦免」があったのであろう、と推測しての記述である。これは、黒田氏のみの見解ではなくわが、他の研究者も同様の議論を展開している。

しかし筆者は、こうした記述は、必ずしも当時の情勢に整合しないのではないかと考える。

「長享の乱」は、永正二年(1505年)に扇谷上杉氏の山内上杉氏に対する屈服という形で終結し、扇谷上杉朝良は引責に近い形で隠居し、それまでの本拠地である河越城を出て江戸城に入った。
太田資高は、それ以降永正七年(1510年)までの間に扇谷上杉氏被官として復帰しており、これが後の江戸太田氏に繋がったことを考えると、当初から江戸城に入った可能性は十分に想定される。

ここで注目したいのは、引責した扇谷上杉氏の先代当主が隠居先とした城に、勝者である山内上杉氏方となっていた太田資高が入ったという構図である。
この構図は、「赦免を受け」「朝良の本拠である江戸城で城代を務めるまでになる」と表現されるべきものだろうか。

筆者はむしろ、
・勝者である山内上杉氏方で働いた太田資高には、褒美の形で道灌所縁の江戸城が与えられ、
・敗者となった扇谷上杉朝良はその隠居先を江戸城とされ、太田資高の監視下に入った、
という状況も、想定すべきではないかと考える。

永正七年(1510年)の権現山合戦への救援依頼では、扇谷上杉朝良本人ではなく、太田資高(大和守)が山内上杉氏に書状を送っており、両上杉氏の仲介役を果たしたことは既に述べた通りである。

こうした太田資高の活躍も、資高に扇谷上杉氏に対する監視・指導の役割が課せられていたとするならば、より理解しやすいものとなる。

また、太田資高は、大永年間の北条氏綱による扇谷上杉氏被官の切り崩しの中で、最も早い段階で扇谷上杉氏を見限った。また、同時期に扇谷上杉氏を裏切った太田資頼や毛呂氏と異なり、その後も扇谷上杉氏に帰参することはなかったこ。

こうした太田資高の身の振り方も、当初は勝者である山内上杉氏を背景とした監視・指導役としての強い立場が、その後山内上杉氏が分裂したことにより失われたと考えれば、やはり理解しやすいのではないだろうか。

太田資高にとって名目上は主君でありながら実態は監視の対象であった扇谷上杉朝良は、その後の山内上杉氏の内紛等の情勢変化の中で「両上杉氏の長老格」(山田邦明氏の表現)となっていく。ならば、朝良が徐々に太田資高に対して実質的にも主君となっていったことも想定されるであろう。
山内上杉氏を後ろ楯に、当初は扇谷上杉氏被官の中で特別の地位を有した太田資高が、その立場を失い、一被官の一人に変質していったならば、その立場は苦しいものであったであろう。

太田資高が、いち早く扇谷上杉氏被官の立場を捨てて北条氏に付き、その後帰参の姿勢を一切示さなかったことも、自然な振る舞いとして考えられるのではないだろうか。

むろん、以上は仮説に過ぎない。

しかし、現状における太田資高に関する議論は、太田資高が「長享の乱」の勝者側に位置し、扇谷上杉氏が敗者であったことを十分に考慮していないように筆者には思える。

上記の仮説は、この点に疑問を呈するために投げ掛けたものである。今後、専門家による検討の際に、何らかの考慮がなされることを願いたい。

・永正の乱と山内上杉顕定の死

「長享の乱」の終結により、関東には、古河公方を頂点として関東管領の山内上杉氏がそれを補佐し、扇谷上杉氏が関東上杉氏の棟梁である山内上杉氏に従い、支えるという体制が現出することになった。

享徳の乱が始まった享徳三年(1454年)以来、実に半世紀ぶりの関東の統治秩序の回復であった。

しかし、この秩序は、古河公方足利氏内の権力闘争によって崩れていくことになった。古河公方足利政氏とその子高基(当初は高氏を名乗る)が争った「永正の乱」である。

「永正の乱」は大きく三期に分かれ、その第一期が永正三年(1506年)に始まっている。しかし、永正年間の後期には関東を二分して展開された「永正の乱」であるが、この第一期の時点ではさほど大きな乱には展開しなかった。

永正三年(1506年)十二月に足利高基(この時点では高氏であるが高基で通す)が、古河を抜けて宇都宮氏を頼り、翌永正四年(1507年)には高基が足利政氏方の小山氏を攻撃するとの噂が流れたが、結局は山内上杉氏の仲裁によって合戦は回避されたのである。
また、永正五年(1508年)にも、第二次抗争が勃発する。しかし、詳細は不明ながら、またも山内上杉顕定の調停により、抗争は収まったようである。

関東管領山内上杉氏が、当主顕定の下でまとまり巨大な勢力として君臨していたことが、「永正の乱」をその初期において大乱化することを妨げたと見ることができよう。

しかし、その山内上杉氏も激震に襲われることになる。

山内上杉顕定にとって出身地であり、また「長享の乱」終結においてその武力を頼った先である越後国で、下剋上が起こったのだ。

永正四年(1507年)に、顕定の義理の弟上杉房能が、家臣である守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻め滅ぼされた。長尾為景は、山内上杉顕定には恭順の姿勢を示したが、関東管領として東国全体を管轄する立場にあった顕定は、制裁を加える道を選ぶ。
しかし、永正六年(1509年)に長尾為景討伐のために越後入りした山内上杉顕定であったが、翌永正七年(1510年)六月に、遠征先の越後で討死してしまったのだ。

これは、関東の秩序を揺るがす大事件であった。

「長享の乱」の平定によって山内上杉氏の権勢は増していた。加えてその後、関東の最高権威である古河公方父子が対立する状況が生まれたことで、山内上杉氏は関東で最大の統一勢力となっていたのだ。

その山内上杉氏が、突如その当主を失ったのである。山内上杉氏と敵対する勢力には、またとない好機が訪れたことになる。

この機を生かしたのは、伊勢宗惴であった。

・伊勢宗惴の武蔵国侵攻

以前は扇谷上杉氏の同盟相手であった伊勢宗惴であるが、永正七年(1510年)を境に、扇谷上杉氏を敵とし、その領国を浸食し始めていた。

その後の半世紀に渡って続けられることになる、伊勢宗惴とその子孫(小田原北条氏)と両上杉氏による関東覇権抗争がここに始まったのである。

実は、山内上杉顕定が越後に進軍しまだ存命であった時点で、伊勢宗惴は顕定が留守にした関東で、武蔵国侵攻を開始していた。長尾景春もこれに合わせて挙兵している。しかし、椚田要害(八王子市)を攻略した伊勢宗惴であったが、山内上杉氏の反撃により、動きを止めていた。

そこへ、山内上杉顕定討死すの報が入る。

伊勢宗惴は今度は、居城としていた小田原城から相模国の中部・東部への侵攻を行った。この時、両上杉陣営を揺るがしたのは、扇谷上杉氏の有力被官であった上田蔵人入道の寝返りであった。

上田蔵人入道は、太田道灌の謀殺後に相模国守護代になっていた人物であろう。

上田蔵人入道は、伊勢宗惴側に寝返り、武蔵国の権現山(横浜市)に籠った。
それまでの伊勢宗惴の武蔵国侵攻ルートは、小田原城を起点として北上し、八王子方面に進軍するものが主であった。対して、権現山は鎌倉と江戸の中間地点である。伊勢宗惴陣営が権現山を押さえたことは、同陣営が江戸方面からも武蔵国侵攻を開始したことを意味した。

この権現山の上田蔵人入道を叩くべく、扇谷上杉朝良は、山内上杉氏に援軍を求めた。顕定が討死した状況であったため、その養子であった山内上杉憲房が、朝良の要請に応えて援軍を送っている。

そしてその援軍の中に、「渋江孫太郎」が見えるのである。

・永正七年の権現山合戦と岩付城主渋江氏

2.1節「黒田氏説の振り返り①」リンク)の黒田氏指摘(ア)ー3と重複するが、再度紹介する。

「渋江孫太郎」は、永正七年(1510年)八月三日付の山内上杉憲房書状(前出)において、扇谷上杉朝良のもとに送られた援軍として登場する。
「渋江孫太郎」は、「成田下総守」「藤田虎寿丸」と並んで記されており、その後に「長尾孫太郎為代官矢野安芸入道」「大石源左衛門」「長尾但馬考えています代官成田中務丞」らが続いている。

黒田基樹氏は、
・山内上杉被官の国衆は「長尾孫太郎為代官安芸入道」とそれ以下の「大石源左衛門」「長尾但馬守代官成田中務丞」であり、
・その上に書かれた「成田下総守」「渋江孫太郎」「藤田虎寿丸」は、山内上杉被官外の武蔵国の有力国衆であり、古河公方方である、
と推定する(註6)。

また黒田氏は、『年代記配合抄』の大永二年(1522年)の条に「道可、氏綱ヲ頼岩付ヲ責落、渋井右衛門太輔討死」との記述があることから、大永二年(1522年)時点で渋江氏が岩付城主であったことは間違いなく、ならば永正七年(1510年)の「渋江孫太郎」も岩付城主であったであろう、と結論づけている。

筆者も、この推測に賛同する。

永正七年(1510年)時点で「渋江孫太郎」は、「成田下総守」や「藤田虎寿丸」と同等の所領を有する領主だったはずである。その所領の場所を考えれば、渋江氏が鎌倉時代から盤踞してきた崎西郡渋江郷、すなわち岩付地域以外には考えにくい。そして、渋江氏が岩付地域の領主であったならば、明応三年(1494年)にその存在が確認される(註7)同地域最大の城郭岩付城の主であったと考えるのが妥当である。またこの解釈は、『年代記配合抄』の大永二年の条とも整合する。

「渋江孫太郎」が、岩付城主であった他の何者かの代理人であった可能性は低い。上の山内上杉憲房書状は、領主自らの出陣でなく代理を派遣していふ場合には「代官」と記している。「代官」と書かれていない「渋江孫太郎」は、「成田下総守」同様、領主自身が出陣したものと解釈すべきであろう。

山内上杉氏被官とは別に列挙されているため、「渋江孫太郎」を古河公方方とする解釈も妥当であろう。同時、山内上杉氏は古河公方を上位権力として仰いでおり、山内上杉氏が上位権力としたのは古河公方以外に無い。

また、扇谷上杉朝良が「渋江孫太郎」を自身の権限では動員できず、山内上杉氏に依頼して派遣してもらっていることからは、この時点の朝良が岩付地域と渋江氏を従える立場になかったことも読み取れる。

以上から、永正七年(1510年)時点で、岩付地域の領主であり、岩付城主であったのは渋江氏であり、同氏が古河公方方であったことは、間違いと言えよう。

太田氏築城説は、この「永正七年の岩付城主渋江氏」を説明しなければならない。これは、次の⑤ー2にて行う。

さて、この永正七年の権現山合戦は、援軍を得た扇谷上杉朝良の勝利に終わる。朝良はさらに相模国にも攻め込み、小田原城も攻めている。

伊勢宗惴は、一旦は武蔵国から退却し、扇谷上杉氏は危機を乗り切ったのである。

なお、この権現山合戦において「成田下総守」の活躍は目覚ましいものだったようである。『成田系図』(前出)および『成田記』(前出)には、成田親泰の代の事跡として権現山合戦における活躍が記述されている。


政治情勢の推移の整理は以上とする。
次の⑤ー2では、
・永正二年の「長享の乱」終結と太田六郎右衛門尉の誅殺が岩付城に及ぼした影響を検討し、
・「永正七年の岩付城主渋江氏」の説明に挑みたい。


(註1)
黒田基樹(1993年)「太田永厳とその史料」(『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)

(註2)
『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』史料番号301

(註3) 
あらゆる太田氏系図において、太田資高の受領名は「大和守」とされている。
例えば以下:
・『太田家記』及び付属史料『源姓太田氏』(内閣文庫所蔵版)
・『太田家記』及び付属史料『源姓太田氏』(国立国会図書館所蔵版)
・『寛政重修諸家譜』所収「清和源氏頼光流太田」
・『系図纂要』所収「源朝臣姓太田」

(註4)
黒田基樹(1993年)「太田永厳とその史料」および黒田基樹(2013年)「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(ともに『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)

(註5)
黒田基樹(2009年)『図説 太田道灌』

(註6)
黒田基樹(1994年)「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城との関係を中心にー」(『戦国期東国の大名と国衆』収録

(註7)
前出の明応三年の足利政氏書状


(渋江交差点と岩槻城縄張りの関係)