(3.3⑥ 永正の乱と岩付城[後](岩付城太田氏築城説の再考))
3.3⑦ 大永・享禄年間の岩付城抗争
3.3節では、新・太田氏築城説の立場から「小宮氏説が説明をなし得なかった一次史料に基づく岩付城を巡る政治情勢」の説明に取り組んできた。そして、対象とした評価軸Bー①~③の政治情勢については、3.3⑥節「永正の乱と岩付城」(リンク)までに、その説明を終えることになった。
しかし、「新・太田氏築城説が、各情勢の前後、あるいは相互の関係の全てに対して整合的な説明の体系」であることを証明するには、永正の乱以降の情勢においても、本稿のこれまでの想定が矛盾の生じないことを確認することも必要である。
そこで、本3.3⑦節では、永正の乱以降の情勢についても、新・太田氏築城の立場からの政治情勢説明に取り組みたい。
具体的には、太田資頼による岩付城領有が確実となる大永年間や享禄年間をその対象とする。この時代は、太田資頼と渋江氏が、岩付城を巡って激しい抗争を繰り広げた期間に相当する。この岩付城抗争の情勢や展開が、新・太田氏築城説のこれまでの想定と矛盾しないことを確認していく。
記述の構成としては、これまで同様、まず当時の情勢推移を振り返り、その後、太田氏築城説の立場からの説明を行う。
また、当時の情勢推移については、黒田基樹氏の『扇谷上杉氏と太田道灌』(2004年、岩田書院)の第五章「上杉朝興・朝定と北条氏の抗争」や、氏の1994年論文「戦国期扇谷上杉氏の政治動向ー朝良・朝興を中心として」(『シリーズ・中世関東武士の研究 扇谷上杉氏』収録)
を参照する。この二資料以外を参照した場合のみ、文中に資料名を示すことにする。
⑦ー1 大永・享禄年間の岩付城抗争の推移
・扇谷上杉氏と伊勢宗惴の“停戦”
永正十五年(1518年)に足利政氏が甘堂院に隠居したことで、政氏と高基の古河公方父子による「永正の乱」は終結を見ることとなった。
しかし、政氏方で戦った足利義明は、上総国の真理谷武田氏の招きに応じて小弓(千葉市)に入り、「小弓公方」を名乗る。そして「古河公方」である高基に対抗するもう一人の公方として抗争を続けていくことになる。
義明は、彼を招いた真理谷武田氏の思惑を越えて強い指導力を発揮したらしく、「小弓公方」陣営は真理谷武田氏以外の房総勢を従える大勢力に成長していく。
「小弓公方」に扇谷上杉氏が従ったことは既に述べたが、扇谷上杉氏と抗争を展開していた伊勢宗惴も一時半「小弓公方」陣営に属したと考えられている。
この時、扇谷上杉氏と伊勢宗惴は、ともに「小弓公方」に属したことで一時的ながら味方同士となり、停戦状態に入ったようである。少なくとも、永正十五年(1518年)から大永四年(1524年)までの六年間、両者の抗争は確認されない。
・北条氏 対 扇谷上杉氏抗争の再開
しかし、扇谷上杉氏と伊勢宗惴方の停戦は、大永四年(1524年)に終わりを告げる。伊勢宗惴の後継者である北条氏綱が、扇谷上杉氏領国への侵攻を再開したのである。
北条氏綱は、大永三年(1523年)に、名字を「伊勢」から「北条」に改めている。この改称を黒田基樹氏は、北条氏綱にとって「自身の相模国支配の正当性を主張し、さらには同国守護職を継承する同国の正当な支配者である朝興への思想的対抗策」であったと記述するが、まさに言い得て妙であろう。以降、北条氏の姿勢は変わらず、一貫して扇谷上杉氏の領国侵攻を繰り返し、同氏を滅亡に追い込むことになる。
大永四年(1524年)の北条氏綱の扇谷上杉氏領国への侵攻は、
・正月に江戸城(太田資高)を攻略
・二月に岩付城(渋江氏)を攻略
・三月に蕨城(渋川氏)を攻略
・四月に毛呂城(毛呂氏、山内上杉氏方)を攻略
という大規模なものであった。
これらの成果は、調略を駆使したものであったことでも知られる。江戸城、毛呂要害は、いずれも城代あるいは城主であった太田資高、毛呂氏への調略によって北条氏に服属している。
また岩付城は、城主・城代への調略による攻略ではないが、扇谷上杉氏重臣の太田資頼(黒田氏は石戸城(北本市)を本拠としていたと推定)が北条氏に寝返り、同城を攻めたことで、北条氏方の城となった。
・江戸城の喪失と扇谷上杉氏の退去
この大永四年(1524年)正月の江戸城攻略の際、扇谷上杉氏の当主朝興は、河越で山内上杉氏との講和に当たっていた。また、『石川忠総書留』には、「太田備中入道永厳」が山内上杉氏の陣を訪ね、交渉に当たったことが記されている。
この状況で開始された北条氏綱の武蔵国侵攻と、江戸城の陥落は、扇谷上杉氏陣営を震撼させたようである。
背後を守るはずの江戸城の太田資高が北条氏に寝返ったため、河越城を維持することも難しいと考えたのであろう。河越城を出て、山内上杉氏の藤田陣に退去している。これは、当主が領国と本拠の城を“捨てて”、講和したばかりのかつての敵の陣に逃げ込んだ、という状況である。扇谷上杉氏が晒された危機の大きさが伺われよう。
・付論:河越城の堅牢性と脆弱性
余談となるが、ここで、河越城の堅牢性について筆者の見解を紹介したい。
山内上杉氏との抗争では、その固い守りを『松陰私語』でも称えられた河越城であるが、北からの攻めには強く、南からの攻めには脆い構造であったように筆者には思える。
武蔵野台地の北端に位置した河越城は、北からの攻め対しては、入間川と赤間川を二重の濠とし、さらに武蔵野台地の隆起を天然の切壁とすることができる。さらに入間川の北岸には大規模な湿地帯が広がっていたと考えられ、この湿地帯もまた、河越城の守りとなったことであろう。
北から河越城を攻める敵は、沼地を越え、入間川と赤間川を越え、さらに武蔵野台地の隆起を越えなければ河越城を落とすことが叶わない。これが、山内上杉氏方の僧・松陰が書き残した『松陰私語』で語られた河越城の堅牢性の正体だと筆者は考える。
しかし、南からの攻めに対しては、武蔵台地上に天然の障害がない。川も、大地の隆起も、湿地帯もない武蔵野台地上を、敵は一直線に進み、河越城を攻めることができる。
すなわち、河越城の堅牢性は、
・武蔵野台地内には味方しかおらず、
・敵は武蔵野台地の外から、それも北側から攻めてくる、
という状況下において発揮されるもの、ということになる。武蔵野台地内に拠点を持つ敵からの攻撃に対してはこの堅牢性は消失することになるのである。
北条氏綱による武蔵台地上の江戸城の攻略は、まさに河越城の堅牢性を失わせる一手となったのではないだろうか。
江戸城を失って以降の扇谷上杉氏は、外交による北条氏包囲網の構築により、形勢を立て直した時期があったものの、大局的に北条氏に押され続けていく。
筆者には、それは江戸城と河越城の地勢の必然だったように思える。
・太田資頼の寝返りと岩付城攻め
繰り返しとなるが、岩付城は、北条氏の調略に乗った太田資頼により攻められ、陥落する。
この時の状況を『年代記配合抄』は、「道可、氏綱ヲ頼岩付ヲ責落、渋井右衛門太輔討死」と記している。「道可」は太田資頼の法名であり、「渋井右衛門太輔」は「渋江右衛門大夫」である。
『年代記配合抄』はこれを大永二年(1522年)のこととするが、黒田基樹氏は、
・大永四年(1524年)正月の江戸城陥落以前に、北条氏領国からより遠地の岩付で、北条氏への寝返り返りが生じたとは考えにくいこと、
・『本土寺過去帳』には大永四年(1524年)のこととして、「岩付落城々主討死」とあること、
の二点から、大永四年(1524年)の出来事を誤って伝えたものとする。筆者もこの考え方に従いたい。
太田資頼は、後の岩付城主の太田資顕や太田資正の父である。受領名「美濃守」を名乗っていたことで知られており、足利政氏の岩付移城時代に政氏と軋轢を生じた「太田美濃入道」は、太田資頼であった可能性が高い。
黒田基樹氏は、後に岩付城が渋江氏によって奪還された際に資頼が石戸城(北本市)に退却している(『年代記配合抄』)ことから、資頼の本拠が同城であったと推定している。この推定が正しければ、太田資頼は、居城である石戸城から、約20キロメートル離れた岩付城まで遠征し、同城を攻略したことになる。
北条氏綱の江戸城や毛呂要害の攻略は、城代あるいは城主を調略することでその居城を自陣営に引き込むものであった。それらと比べると、調略によって自陣営に引き込んだ太田資頼に、約20キロメートルの距離を踏破させ、渋江氏の居城を攻めさせた岩付城攻略は、やや異質と言えよう。
なお黒田氏は、資頼系統の太田氏による岩付城領有はこの大永四年(1524年)までしか遡れず、岩付太田氏は大永四年の資頼による岩付城攻略から始まったと主張している。(黒田氏指摘(ア)ー4)
・岩付城陥落と「備中守」
また黒田氏は、「備中守」を名乗ったと考えられる「太田永厳」が、この時岩付城に援軍に入り、太田資頼の攻撃により渋江右衛門大夫ともども討死したとの見解(黒田氏指摘(ア)ー5)を示していた時期がある。
1994年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏」(『戦国期東国の大名と国衆』収録)で示されたこの見解は、2011年の『戦国関東の覇権戦争』でも披露されている。しかし、2013年の「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国集12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)収録)では、岩付太田氏の系譜および動向を論じる上で重要であるにも関わらず、記述されていない。
黒田氏が、「備中守」を名乗った太田永厳が同族の太田資頼の岩付城攻撃の際に討たれたとする根拠は、
・「備中守」が『太田潮田系図』で「早世 武州岩槻城主」とされていること、
・『本土過去帳』に大永四年(1524年)のこととして「岩付落城々主討死」とあること、
・大永四年以降、「備中守」や「太田永厳」の活躍を示す史料がないこと、
である。
これらに整合する説明として黒田氏が提起したのが、岩付城に入った城主「備中守」が同族の太田資頼に討たれたとの仮説である。
しかし、『本土過去帳』の「岩付落城々主討死」は、渋江右衛門大夫の討死と解釈することが可能であり、また『太田潮田系図』の「早世」を討死とする根拠もない。
黒田氏説が正しいと仮定すれば、太田資頼は、傍系の立場にありながら、一族惣領の「備中守」を討ったことになる。非常に大胆で興味深い想定である反面、史料的な裏付けが十分でない。黒田氏自身が2013年以降言及しなくなったこともあり、本稿では、あくまでも一仮説として見ておきたい。
ただし、「備中守」の活躍が史料上大永四年(1524年)以降に見られないこと、そして『太田潮田系図』に「早世」とあることは事実である。
「備中守」が、大永四年(1524年)の北条氏綱の大攻勢に対する防戦の中で討死した可能性は、十分に想定されるであろう。
・扇谷上杉氏の反撃と岩付城争奪戦
本拠河越城を捨てて山内上杉氏陣営に待避した扇谷上杉氏であるが、大永四年(1524年)六月には、反転攻勢に出る。六月に河越城を再興し、江戸地域への侵攻も行っている。また、七月には援軍要請に応じた甲斐の武田信虎が岩付城を攻め、太田資頼を降服させた。資頼は、扇谷上杉氏方への帰参を許され、そのまま岩付城に留まることになる。
この時の資頼の動向について、黒田基樹氏は、「資頼は、氏綱を頼って岩付城を攻略したにもかかわらず、扇谷上杉氏から反攻を受けると、直ぐにそれに帰参してしまったのである」と表現している。(2013年の「総論 岩付太田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国集12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)収録)
また十月には、山内上杉氏の援軍を得て、毛呂要害の奪還にも成功している。
しかし、北条氏綱も手をこまねいてはいなかった。大永五年(1525年)二月には、資頼に討たれた渋江右衛門大夫の一族と見られる渋江三郎を支援して岩付城を攻撃させた。太田資頼は持ちこたえることができず、岩付城を退出し、石戸城に退却している(『年代記配合抄』)。
太田資頼が岩付城を攻めた段階の渋江氏が、扇谷上杉氏の被官であったかの確証は無い。
しかし、
・永正十五年(1518年)時点で、岩付地域が扇谷上杉氏の支配下にあったこと、
・大永四年(1524年)の岩付城の奪還劇の主体が、扇谷上杉氏であったこと、
・大永年間の岩付城抗争に、古河公方足利高基が動いた形跡がないこと、
等を勘案すれば、渋江氏は扇谷上杉氏の被官、あるいはその上位者である小弓公方の被官であった可能性が高いと筆者は考える。
少なくとも、太田資頼が北条氏に寝返って渋江氏の岩付城を攻めたという構図から、渋江氏が北条氏方でなかったことは確かである。この渋江氏が、今度は北条氏綱の助勢を得て、岩付城の奪還を遂行したことは興味深い。
渋江氏としては、扇谷上杉氏を裏切って岩付城を攻略した太田資頼が、その裏切りで得た岩付城主の地位を安堵されたまま扇谷上杉氏への帰参を許されたことに大きな不満があったことであろう。
鎌倉時代から岩付地域を統べた渋江氏にとって、上位権力への忠誠が、あくまでも所領安堵の見返りであることを端的に示す事例と見ることもできよう。
しかし、岩付城は再度北条氏方に奪い返されたものの、全体的な形勢としては、武蔵国南部を巡る抗争は、扇谷上杉氏有利に展開する。
これは、扇谷上杉氏が、小弓公方足利義明やその擁立主体である真理谷武田氏や、甲斐武田氏を味方につけ、“北条氏包囲網”の形成に成功したためであり、この扇谷上杉氏有利の形勢は、大永四年(1524年)後半から天文二年(1533年)まで続くことになる。
太田資頼は、この自陣営有利の形勢に乗り、中享禄四年(1531年)に再度岩付城を攻撃する。そして、渋江氏を排除し、同城を領有することに成功する。
この享禄四年(1531年)の攻防戦以降、渋江氏による奪還は無く、岩付城は資頼系統の太田氏の本拠として、その子孫(資顕(嫡男)、資正(次男)、氏資(資正嫡男))に継承されていくことになる。
すなわち、岩付太田氏の成立である。
・岩付太田氏の成立
岩付地域において、太田氏開基が確実な最古の寺院は、天文元年(1532年)に太田資頼が開基したとされる曹洞宗の洞雲寺(さいたま市岩槻区加倉)である。同寺開基の年である天文元年が、渋江氏との岩付城争奪戦を終え、岩付城領有を確実にした享禄四年(1531年)の翌年であることは、偶然ではないであろう。渋江氏を駆逐し、岩付城を再度得た太田資頼は、天文元年頃に岩付地域の安定支配を確立したのである。
以降の岩付城は、城主である岩付太田氏当主が、上杉氏陣営に属して北条氏と戦うか、あるいは北条氏陣営に服属するか、の判断の転換の度に歴史の表舞台にその名を現すことになる。
それは、代々の岩付太田氏当主が、資頼から本拠として受け継いだ岩付城と岩付領をどう守るかを悩んだ歴史であり、「岩付城主太田資頼」の存在によって十分説明できるものである。
「岩付城主太田資頼」の確立以降の岩付城の歴史には、もはや築城者が誰であったかは大きな影響を与えない。築城者が、成田氏であっても、渋江氏であっても、太田氏であっても、資頼以降の岩付太田氏の動向は説明できるものとなるのである。
岩付城太田氏築城説の整合性検討の題材とすべき政治情勢は、享禄四年(1531年)までのそれで十分であると、筆者は考える。
・太田資頼と渋江氏の岩付城抗争のまとめ
最後に、大永・享禄年間の太田資頼と渋江氏の岩付城抗争をまとめたい。
(ア)大永四年(1524年)二月
北条氏綱の大攻勢(江戸城、蕨城、毛呂要害も同時期に攻略)に乗り、太田資頼は北条氏に寝返り、岩付城を攻撃。岩付城主の渋江右衛門大夫討死。資頼は岩付城を制圧。
(イ)大永四年(1524年)七月
扇谷上杉氏は甲斐の武田信虎に救援を依頼。武田勢は岩付城を攻め、資頼は降伏。資頼は帰参を許され、岩付城主の地位を安堵されたまま太田資頼は許され再び扇谷上杉氏の家臣へ。
(ウ)大永五年(1525年)二月
北条氏綱は、渋江氏の血筋の者(渋江三郎)を立てて岩付城を攻撃。多くの戦死者(三千人余)を出して岩付城は落城。太田資頼は石戸城に後退。
(エ)享禄四年(1531年)九月
太田資頼、岩付城を奪還。以降、資頼は岩付城に在城。資頼以降の太田氏当主も岩付城を本拠とする。(岩付太田氏の成立)
次の⑥ー2では、この大永・享徳年間の岩付城抗争について、岩付城太田氏築城説の立場からの説明を行いたい。
この抗争における太田資頼の動向には、やや奇妙な点があり、それは岩付城太田氏築城説の立場からであれば、合理的に説明が為し得ると筆者は考える。

