(3.3⑦ 大永・享禄年間の岩付城抗争[中](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
⑦ー3 太田資頼の岩付城への執着を地勢だけで説明できるか
“太田氏家督の証としての岩付城”とそれに執着する傍系「美濃守」の太田資頼というの想定を用いず、純粋に地政学的な必要性から資頼が岩付城に執着したとの説明は可能か。それを試みた結果を以下に示す。
・足立郡統治のための要所岩付城
岩付城は、それ自身は崎西郡に位置しているものの、北西から南東に細長く伸びる足立郡の中央域に近い。仮に太田資頼が、足立郡全域の地域領主を目指していた人物であったと想定すれば、岩付城はそのための本拠として相応しい位置にある。それは、後に岩付太田氏が、崎西郡南部から足立郡全域を覆う「岩付領」を形成し、崎西郡側の岩付城をその本拠としたことからも、明らかであろう。
太田資頼は、足立郡北西部の石戸城に在城しており、またその被官小宮山氏は同郡の南東部の淵江郷付近に領地を有していた。このことは、資頼自身と配下の領地が足立郡内に点在していた可能性を示唆している。享徳の乱期に太田氏が足立郡において政治力を行使したこと(3.3②節「享徳の乱の推移と岩付城[前編]」(リンク))や、後に資頼の子孫が岩付太田氏として足立郡を面的に支配したことを考えれば、資頼自身が足立郡全域の地域領主を目指していたとの想定は、それほど突飛なものではないだろう。
この想定を置けば、資頼は、足立郡支配のための地政学的検討の帰結として、以前より岩付城を狙っていたと考えることが可能となる。
大永四年(1524年)の北条氏綱の侵攻と扇谷上杉氏の後退は、この資頼の狙いを実現する機会となり、その後、渋江氏と岩付城抗争を繰り返したことも、資頼が足立郡支配に適した岩付城に執着したためであったと見ることができる
すなわち、“太田氏家督の証としての岩付城”とそれに対する資頼の執着という設定を置かずとも、当時の資頼の動向を説明できるのである。
・地政学論の弱み
ただし、当時の情勢に対する“説明力”という点では、やや弱さがあると言える。
資頼の岩付城への執着を地政学的な要請の帰結とする上の考え方は、資頼自身の拘りを説明することはできても、裏切り者の資頼が岩付城を領有したまま帰参が許されたことを説明しにくい。裏切ってまでほしい城であればむしろ与えて忠勤を促す、という判断がなければ大永五年(1525年)の資頼の帰参は説明しがたい。しかも、その説明が成り立つには、資頼が岩付城を欲した理由が、筋の通ったものであり、主君や傍輩から理解があったとの状況が伴うことが望ましい。太田氏が岩付城領有することにすいて大義は無いが、は自領統治に都合がよいとの理由では、これを満たすのは難しいであろう。
また、享禄四年(1531年)に資頼が本拠を石戸城から岩付城に移したことの説明としても、やや弱いと。
岩付城は、足立郡支配のための重要拠点ではあるが、北条氏陣営と隣接した地域に位置する城である。当主である資頼自身は、北条氏との抗争地から見れば奥にある石戸城に身を置いたまめ、岩付城には代官を送り込むという手立てもあったはずである。
当主自ら敵と近い城に移ることは、その敵との抗争において当主の意思決定をより早く、より正確なものとする効果がある。しかし、当主自身を危険に晒す策でもある。なぜ資頼は、その危険を犯してでも、岩付城に入ったのか。
資頼の岩付城への執着を地政学的な要請の帰結とする考え方は、資頼による同城の攻略・領有までは説明できるが、自身の岩付城入りまでは説明できないのではないだろうか
※
以上で、岩付城太田氏築城説の立場からの、大永・享禄年間の岩付城抗争の説明を終える。
この期間に太田資頼が示した岩付城への執着は、本稿が想定する“太田氏家督の証としての岩付城”とそれを求めた傍系「美濃守」資頼という設定を置くことで説明しやすくなる。この点には、頷けていただけたのではないだろうか。
むろん、上で論じたように、太田氏築城説の想定を導入せずとも、純粋な地政学的な要請の結果として資頼の動向を説明することは可能である。しかし、総合的な説得力では、太田氏築城説の想定を置いた場合の方が勝っていると筆者は考える。むろん、評価と判断は、読者諸兄に委ねられるものであるが。
しかし、「本稿の岩付城太田氏築城説の想定は、岩付城を巡る通史記述において矛盾を生じさせなかった」という点は、ここに宣言してもよいのではないだろうか。
『自耕斎詩軸并序』の「自耕斎正等」を太田道真に、「岩付左衛門丞顕泰」を太田六郎右衛門尉に比定した本稿の想定は、岩付通史を矛盾なく語り通すことができただけでなく、時にむしろ、黒田氏説(成田氏築城説)や青木氏説(渋江氏築城説)にまさる説得力を発揮し得たのではないだろうか。
『自耕斎詩軸并序』の「自耕斎正等」を太田道真に、「岩付左衛門丞顕泰」を太田六郎右衛門尉に比定した本稿の想定は、岩付通史を矛盾なく語り通すことができただけでなく、時にむしろ、黒田氏説(成田氏築城説)や青木氏説(渋江氏築城説)にまさる説得力を発揮し得たのではないだろうか。
本稿が目指した“学説としての岩付城太田氏築城説の復活”は、そのゴールに大きく近づいたと筆者は考える。
※
次節では、“学説としての岩付城太田氏築城説の復活”に向けた最後の課題に取り組む。その課題とは、太田六郎右衛門尉が本当に「岩付左衛門丞顕泰」を名乗り得たか、という疑問への回答である。
ここで問題とするのは、
・「右衛門尉」であった太田六郎右衛門尉が「左衛門丞」を名乗り得たのか。
・「顕泰」という凡そ太田氏らしくない名を名乗ることがあり得たのか。
の二点である。
