3.3④ 明応六年の『自耕斎詩軸并序』
④ー3 太田氏築城説は『自耕斎詩軸并序』をどう説明するか

ここでは、太田六郎右衛門尉を岩付左衛門丞顕泰であると比定した場合に、明応六年(1497年)の『自耕斎詩軸并序』の作成の狙い等がどう説明されるのかについて、検討を加えていく。

・太田六郎右衛門尉の政治的位置

まず、岩付城を奪還した(と本稿が想定する)太田六郎右衛門尉の明応六年(1497年)時点の政治的位置を考えたい。

3.2節「『岩付左衛門丞顕泰』の比定リンク)で検討した通り、太田六郎右衛門尉は、太田道灌の養嗣子であったと考えられる人物である。

養父道灌が当主だった時代の太田氏は、扇谷上杉氏家宰宰相として主家すら凌ぐ権勢を誇ったが、その養父は十一年前の文明十八年(1486年)に主君によって誅殺されている。明応六年(1497年)の時点でも、道灌の名誉回復はなされていなかったのではないだろうか。扇谷上杉氏を苦しめる山内上杉氏との抗争の原因ともなった道灌は、依然として逆賊の汚名を着せられたままだった可能性が高い。

これまでも述べてきた通り、道灌の謀殺は、太田氏を二分した。
道灌の実子資康は父を謀殺した扇谷上杉定正を許せず、敵である山内上杉氏方となり、扇谷上杉氏と戦う道を選んだ。万里集九によれば、太田資康は自分こそが道灌の家督を継いだ太田源六であると名乗っている。

対して、太田六郎右衛門尉は、養父を殺した扇谷上杉氏にあくまでも忠誠を誓い、その重臣として仕える道を選んだ。「右衛門尉」は、太田氏惣領が最初に名乗る官途名であり、太田六郎右衛門尉が太田氏当主となったことは間違いない。
太田六郎右衛門尉は、太田氏家督の正統性を争う競合のいる当主だったのだ。

幸い、万里集九が太田資康のことを「希扶佐二千石之孤資康」(補佐する者が希な太田道灌のひとり子資康)と記していることから伺えるように、太田氏の大勢は太田六郎右衛門尉とともに扇谷上杉氏方に残ったようである。
しかし、前代当主が逆賊として殺された太田氏の運命は多難である。先述した通り、家宰太田氏が兼職してきた相模国守護代の地位は、重臣上田氏に与えられている。太田六郎右衛門尉の時代の太田氏は、道灌時代の権力権益を削がれた上でなお主家に忠勤し、長享の乱の山内上杉氏との衝突では他のどの被官らよりも必死に戦い、忠誠の証を立てなければならない存在だったのではないだろうか。

時には、一族内で残された権益を巡る衝突もあったかもしれない。山内上杉氏側が有利となる局面では、“太田資康側に鞍替えした方がよいのではないか”と考える者が一族から現れたかもしれない。

太田六郎右衛門尉は、
・道灌時代より削られた権力権益しか有しない状況で、
・当時山内上杉氏と激しい抗争を展開していた扇谷上杉氏への忠勤を誰よりも求められ、
・正統性を争うもう一人の当主資康が、敵側に存在する、
そんな状況下で、奮戦しなければならなかった苦労多き当主だったと考えられるのだ。

・岩付城攻略という慶事

本稿の想定では、そのような人物が、かつて祖父太田道真が築城した岩付城を攻略し久方ぶりに同城に入ったことになる。それは恐らく、苦難の太田氏にとって大きな慶事だったことであろう。

第一に、太田六郎右衛門尉の岩付城攻略は、主家 扇谷上杉氏に対してはその領国防衛に資する忠勤となる。古河公方と対立関係にあった明応年間の扇谷上杉氏は、あたかも四十年前の長禄元年(1457年)と相似形をなすかのように、荒川防衛線の前線基地としての岩付城を必要としたのだ。

第二には、太田氏自身の所領の安定と拡大である。岩付城とその周辺の確保は、太田氏としても足立郡の防衛強化となっただけでなく、久方ぶりの所領の拡大であったであろう。

第三には、太田六郎右衛門尉の当主としての権威向上である。一族繁栄の基礎を築いた長老であり、九年前の長享二年(1488年)に没した太田道真が築いた城を取り戻し、その城主として返り咲いたことは、太田六郎右衛門尉に道真の再来のような栄誉をもたらしたのではないだろう。

筆者は、岩付城奪還がこのような慶事であったからこそ、『自耕斎詩軸并序』という詩軸が書かれたのだと考える。

・不思議な詩軸『自耕斎詩軸并序』

ここで『自耕斎詩軸并序』に目を向ける。

『自耕斎詩軸并序』は、不思議な詩軸である。
玉隠英璵の『玉隠和尚語録』や『文明明應関東禅林詩文等抄録』においても、万里集九の『梅花無尽蔵』においても、武将に捧げられた詩や詩序は多数掲載されている。
しかし、『自耕斎詩軸并序』のように子が依頼主となって亡き父を賞揚するスタイルのものは(あくまでも筆者が確認した限りにおいてであるが)他に例がない(註1)。

もちろん、葬儀の祭文や法要の法語という形式でならば故人を称えた詩文は多く存在する(註2)。しかし、床の間に飾り客人に見せるために作らせる詩軸(詩が書かれた掛け軸)において、故人の賞揚を中心としたものは見当たらない。『玉隠和尚語録』や『文明明應関東禅林詩文等抄録』、そして『梅花無尽蔵』に収録された武将に捧げられた詩軸は、いずれも依頼主その人への賛なのだ。

『自耕斎詩軸并序』は、依頼主である岩付左衛門丞顕泰はほとんど登場せず、亡き父自耕斎正等ばかりが現れる詩軸である。顕泰自身の事跡は一切記されない。そしてこの岩付左衛門丞顕泰なる人物は、偉大なる自耕斎正等の子として、その家督を継いだ後継者(一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰より)としてしか登場しないのである。

それだけではない。
『玉隠和尚語録』や『文明明應関東禅林詩文等抄録』、そして『梅花無尽蔵』に収録された武将に捧げられた詩軸は、基本的に依頼主の姓や名字を明確に打ち出している(註3)。中には法名や斎号・軒号のみで武将が漢詩に登場する事例も存在する(註4)。しかし、正式な姓や名字を持つ武将に対して、それとは別に関連する地名を名字のように掲げた詩軸は、筆者が調べた範囲で存在しないのである。

ところが『自耕斎詩軸并序』は異なる。
岩付左衛門丞顕泰が、成田氏であろうと、太田氏であろうと、渋江氏であろうと、これらの名字は『自耕斎詩軸并序』には登場しない。そこに名字の如く登場するのは、地名「岩付」だけである。
同時代に、名字「岩付」を名乗った有力領主の存在は確認されない。「岩付」は、明らかに他の名字を持ったはずの岩付左衛門丞顕泰な対して、あたかも名字のように付されている地名なのだ。こうした事例を筆者は他に知らない。

このような不思議な詩軸を、岩付左衛門丞顕泰はなぜ作らせたのか。なぜ自身の事跡を称えさせることをせず、もっぱら父を賞揚し、自身はその後継者という形でしか登場させなかったのか。なぜ、真の姓や名字を書かせなかったのか。
この不思議は、『自耕斎詩軸并序』作成の背景にどのような想定を置けば説明できるでろうか。

既に読者諸兄は、筆者の回りくどい記述に辟易されているかもしれない。『自耕斎詩軸并序』の不思議を説明できる作成背景を、筆者はすでにかなりの程度述べているのだから。

『自耕斎詩軸并序』の不思議は、
・岩付左衛門丞顕泰を太田六郎右衛門尉に、
・自耕斎正等を太田道真に、
それぞれ比定した時に、整合的に説明されるのである。

以下で、本稿の想定から導きだされる仮説としての『自耕斎詩軸并序』作成の狙いについて、逐次説明を行う。

・『自耕斎詩軸并序』の狙い①

岩付左衛門丞顕泰=太田六郎右衛門尉は、『自耕斎詩軸并序』を作成することで太田氏当主としての自身の地位の権威付けを図ったと、筆者は考える。

本稿の想定に従えば、岩付城を築いた「白羽扇」と言えば、当時の読み手にとって、それが太田道真であることは明らかだったであろう。明らかに太田道真とわかる自耕斎正等による岩付城築城の偉業と、その城を家督とともに継承した岩付左衛門丞顕泰。この構図を、太田氏と縁の深い鎌倉五山の高僧 玉隠に依頼して見事な漢詩文として書かせた太田六郎右衛門尉は、自身を一族の伝説・太田道真の後継者として改めて宣言したのである。

3.2節「『岩付左衛門丞顕泰』の比定リンク)で検討した通り、太田道真は、扇谷上杉氏方に残り太田六郎右衛門尉を支持した可能性が高い。その意味では、太田六郎右衛門尉の当主としての地位は、太田道真によって認められていたことになる。
しかし、古河公方側に奪われた岩付城を実力で奪い返したことの意義は大きかったはずである。古河公方に対抗して太田道真が築いた岩付城を、今また古河公方との抗争の中で取り戻した。この関係性により、岩付城は、道真から六郎右衛門尉に対する家督認定の象徴となったと考えられる。

仮に、太田六郎右衛門尉の当主としての指導力に不満を覚える一族の者がいたとするなら、そうした者達を黙らせることが意図されていたのかもしれない。
あるいは、太田道灌の実子であることを自身の権威付けに利用していたと考えられる山内上杉氏方の太田資康との対比も意図されていたかもしれない。

いずれにせよ、岩付左衛門丞顕泰=太田六郎右衛門尉にとって、『自耕斎詩軸并序』を作成する上で何より大切だったのは、
・岩付城築城者である自耕斎正等=太田道真の賞揚であり、
・自耕斎正等から家督と岩付城を継承した自分という関係性であることになる。

本稿の仮説は、『自耕斎詩軸并序』の不思議の一つ(亡き父の賞揚ばかりで依頼主はその父との関係性しか示されない)を説明できるのである。

なお、太田六郎右衛門尉には、「自耕斎正等」だけでなく、自身「岩付左衛門丞顕泰」の事跡についても『自耕斎詩軸并序』において併せて賞揚させるという選択肢もあったはずである。それが行われなかったのは、義父道灌が自身の功績を臆面もなく詩僧らに称賛させたことも主家扇谷上杉氏からの不興を買った理由と考え、控えたものと筆者は想定する。

また、太田道真と太田六郎右衛門尉の関係は祖父と孫であり、自耕斎正等と岩付左衛門丞顕泰の父子関係と異なる。しかし筆者は、『自耕斎詩軸并序』が顕泰を正等の「苗裔」(末裔に同じ)と表現することで、両者が直接的な父子でないことを明確に示唆していると考える。これについては既に3.2節「『岩付左衛門丞顕泰』の比定リンク)にて議論しているため、詳細は同節を参照されたい。

・『自耕斎詩軸并序』の狙い②

太田六郎右衛門尉の第二の狙いは、主家扇谷上杉氏に対する太田氏の忠勤のアピールであろう。

扇谷上杉氏にとって、太田氏は難しい存在である。
道真・道灌という傑物を輩出した太田氏は、享徳の乱期に扇谷上杉氏を大いに支え、その勢力の拡大に貢献した。扇谷上杉持朝が当主だった長禄元年(1457年)になされた道真による岩付城築城、道灌による江戸城築城と古河公方陣営との対峙は、そうした貢献の一つである。

しかし一方で、扇谷上杉氏当主の早死が続くと、太田氏は増長した。
太田道灌は、享徳の乱や長尾景春の乱鎮圧における自身の功績を鎌倉五山の高僧達に賞揚させ、その詩文を江戸城に掲げて、悪い言葉を使えば悦に入ったのである。
例えば『寄題江戸城静勝軒詩序』における「与公差肩者鮮矣、固一世之雄也」(道灌公に比肩する者は少なく、まさに一世の英雄である)や、「三州之安危、系于武之一州、武之安危、系于公之一城」(南関東三州の安全保障は武州に掛かっており、武州の安全保障は道灌公の江戸城に掛かっている)は、家宰太田氏への称賛としては、少々行き過ぎていよう。また太田道真も、扇谷上杉氏当主の城である河越城で「河越千句」を主催している。

これらは、扇谷上杉氏当主としては“面白くない”歴史である。

扇谷上杉氏にとって太田氏は、強力な武力で扇谷上杉氏の勢力拡大を支える役割を果たして欲しい存在であると同時に、同氏の権力に挑むような真似を取って欲しくない存在であったのだ。

こうした観点から見れば、岩付城を築城した道真を賞揚し、その道真から家督と共に岩付城を受け継いだことを誇りとする『自耕斎詩軸并序』の岩付左衛門丞顕泰=太田六郎右衛門尉は、扇谷上杉氏にとって好ましい太田氏の姿と言える。

今や扇谷上杉氏領国の中枢を担う城となった河越城や江戸城において城主あるいは城主然として振る舞う太田氏は、扇谷上杉氏にとって危険な存在である。
しかし岩付城は、扇谷上杉氏領国の東端に位置し、強敵古河公方との対峙においてその前線を守る基地である。この前線基地を守る任を一族の栄光として詩序に詠う太田六郎右衛門尉は、太田氏を扇谷上杉氏の“防人”として位置付けていると見なすことができよう。

ここにおいて、太田六郎右衛門尉が『自耕斎詩軸并序』において、名字「太田」を名乗らず、地名「岩付」を名字のように掲げたことに意味が出てくるのである。

「太田」の名字は、
・相模国守護代として鎌倉を治めた太田氏、
・江戸城の権力者として武蔵国でも守護同然の振る舞いをした太田氏、
・扇谷上杉氏当主の居城河越城で、城主然と振る舞い千句を催した太田氏、
を連想させるものである。

扇谷上杉氏の領国である相模国・武蔵国の全域にその権力を及ばせたその太田氏が、今や領国東端の前線地域である「岩付」という地名を名字のように冠した詩序を表した。

それは、太田氏が金輪際、扇谷上杉氏に比肩しようとはしないこと、そして一宿老として扇谷上杉氏の盾として生きることの宣言となったのではないだろうか。

その権勢のあまり主君に誅された太田道灌の次の当主であった太田六郎右衛門尉は、敢えて地名「岩付」を名字のように冠する必要があったのである。

本稿の仮説は、『自耕斎詩軸并序』の不思議の二つ目(真の姓や名字を打ち出さず、地名「岩付」が名字のように掲げられる)を説明できるのである。

また、地名「岩付」を名字のように掲げたことは、単に名目上のアピールではなかった可能性も考えられるであろう。

道灌の謀殺は、扇谷上杉氏の戦国大名化プロセスの一環で起きた事件とする立場に立てば、主君の側に仕え、主君の領国を主君と一体化して統治した「家宰」という存在もまた、変質を迫られることになったはずである。

主君自身が領国中枢を治める地域領主となり、家臣達はその外縁部の小地域領主となる。そうした形での戦国大名化を扇谷上杉氏が進めていたのであれば、太田六郎右衛門尉も、扇谷上杉氏の直轄地とは別に太田氏自身の直轄地を領国外縁部に持つことを迫られたことであろう。

岩付地域は、太田氏が以前から領国化していた可能性のある足立郡とも隣接する地域であり、太田氏が扇谷上杉氏領国の外縁部に直轄地を広げるには、最適の地域であったと考えられるのである。

・『自耕斎詩軸并序』の狙い③

太田六郎右衛門尉の狙いは他にもあったことでろう。次に考えられるのは、実際の岩付地域の統治のための効果である。

本稿は、「城主の不在と城代渋江氏の台頭」という視座を置いて、岩付城築城以降の同城在城者を検討してきた。
太田道真は、本稿の想定どおり長禄元年(1457年)に岩付城を築城したとしても、四年後の寛正二年(1461年)には隠居し岩付城を離れたことになる。
『岩槻市史年表』の“岩付城主太田資忠”を仮に是としても、資忠が岩付城主でいられたのは、文明三年(1471年)から文明九年(1477年)までの六年間に過ぎない。

想定によっては、岩付城に城主太田氏が在城できたのは文明九年(1477年)が最後であり、以降明応六年(1497年)までの二十年間、岩付城は城主不在であった可能性も出てくるのだ。
これだけ長い期間、岩付城の統括を城代渋江氏が務めていれば、渋江氏は事実上の城主と化していたことであろう。

太田道真の築城から四十年、太田資忠の河越城入りから二十年。それだけの年月を経れば、渋江氏も代替わりする。
明応六年(1497年)時点で渋江氏の当主であった人物を筆者は知らないが、この人物にとって太田道真による築城など伝承に過ぎず、物心ついた時から岩付城の統括は、渋江氏が執り行っていた。そのような状況も十分想定される。

このような状況下で二十年ぶりの太田氏城主が岩付城に入るならば、その城主はどのような準備を行うか。
恐らくは「そもそも岩付城は太田氏が築城した城であり、真の城主は太田氏である」と周知し、その上で「正統な城主が久方ぶりに岩付城に戻った。それが私である」との主張をしたことであろう。

この時、岩付城築城者とその後継者、すなわち真の岩付城主が誰であるかを記した『自耕斎詩軸并序』は、鎌倉五山の高僧による権威付けの効果を伴い、“田舎領主”に対して大きな影響力を発揮したのではないだろうか。

『自耕斎詩軸并序』の詩文そのものが、渋江氏一族が読めるよう貼り出されなくてもよいのだ。鎌倉五山の高僧のお墨付きがある、という事実そのものが、久しぶりに帰還した太田氏城主に、在地勢力を従える力を与えるのである。

・『自耕斎詩軸并序』の狙い④

最後の狙いは、太田一族の矜持を取り戻すことだったのではないだろうか。

合戦に命を賭ける武人には、命を賭ける価値があると思えるだけの誇りが必要である。太田氏にとってそれは、道真・道灌時代の栄光であったことであろう。

しかしこうした一族の誇りは、太田道灌の謀殺以降、表立って語れるものではなくなったことであろう。

上で述べた通り、太田道灌の果たした享徳の乱入や長尾景春の乱鎮圧の働きや功績、そしてそれらを臆面もなく称賛させて江戸城に掲げられて詩序群。それらは、太田氏一族の誇りの源泉であったことであろう。
しかし、道灌の権勢を恐れて誅した扇谷上杉氏によって、それらは以降、太田氏の扇谷上杉氏への不敬の象徴と見なされたのではないだろうか。

語り、誇ることが許されなくなった道灌の偉業と文学。しかし、誇りを持ってこそ勇敢に戦えるのが武人である以上、太田氏には一族の新たな誉れの物語が必要である。それは、太田氏にとって誇れる英雄譚でありながら、同時に主家扇谷上杉氏への忠勤の証となり、同氏の不興を買わない物語でなければならない。

こう考えた時、筆者は、太田道真による前線基地岩付城の築城こそ、最適な題材であると考えるのである。
道真の岩付城築城は、英雄譚であり、しかも扇谷上杉氏の“防人”としてその国境を守った忠勤の行為と見なせる。そこに描かれるのそ、扇谷上杉氏領国の中枢をなす、河越城や江戸城で権勢を振るい主君に比肩しようとする危険な太田氏ではない。あくまでも主君を守る忠臣として知勇を振るう太田氏なのだ。

・『自耕斎詩軸并序』に隠された「太田」

以上、太田六郎右衛門尉の政治的位置と、『自耕斎詩軸并序』の不思議(亡き父の賞揚ばかり、真の姓や名字が書かれず名字風の地名が示される)が、驚くほど相補的に互いを説明できることを確認した。

無論、整合的なストーリーテリングが行えることが即ち、真実であることの証明はならない。

しかし、成田氏築城説や渋江氏築城説ではこれまで説明をなし得なかった『自耕斎詩軸并序』の不思議を、太田氏築城説であれば説明できることに、筆者は一定の価値を見出だしたい。

とは言え、疑問も湧くことであろう。

・名字「太田」を敢えて名乗らず、地名「岩付」を名字のように名乗った理由は説明できたが、それでも真の名字である「太田」が全く登場しない理由も説明できるべきではないのか。

・あるいは、「太田」は伏せるにしても太田道真には「自得軒道真」という有名な軒号+法名がある。仮に、道真が「自耕斎正等」という斎号+法名も名乗っていたと仮定したとしても、なぜ有名な組み合わせを使用しなかったのか。その点も説明されるべきではないのか。

この二点については、この場で筆者の回答をお示ししたい。

後者については、確かに「自得軒道真」を用いれば岩付城築城者が太田道真であることが明確化できる。しかし反面、「自得軒」が越生の庵であったことは知られており、岩付城主としての道真の訴求が不十分になってしまう。これを避けるために、「自得軒道真」は使われなかったのだと筆者は考えたい。

『自耕斎詩軸并序』に書かれた道真の自耕生活は、実際には岩付ではなく、越生でのものであろう。しかし、それが越生での自耕生活であると明示してしまえば、道真から始まる太田氏と岩付城の縁は薄いものに感じられてしまう。
そのため太田六郎右衛門尉は、玉隠英璵に「自得軒道真」ではなく「自耕斎正等」で詩軸を書くよう依頼した、と考えるのである。

そう考えた時、『自耕斎詩軸并序』に現れる「自得逍遙」を「自得は逍遙し」と読み、自耕斎正等が自得軒道真であることが仄めかされているとする小宮氏の指摘(小宮氏指摘(ア)ー1)は、説得力を増すことになる。
「自得軒道真」と書けば誰もが道真とわかるのに、それを「自耕斎正等」としなければならない。その制約下において、玉隠英璵は「自耕斎正等」=「自得軒道真」を仄めかす言葉遊びとして「自得逍遙」を挿入したと考えることができるのだ。

では、前者についてはどう考えるか。
実はこの疑問は、成田氏築城説や渋江氏築城説にも共通して投げ掛けられるものである。太田氏築城説が回答を示せなくとも、他説に対して不利にはならない。そのため、筆者自身では、真剣に考え抜くことをしていなかった。
この点を深く考察したのは、3.1②節「『中扇』新解釈の展開」リンク)で紹介した「会計ねこ子」氏である。同氏の考察は、非常に示唆に富むものであるので、ここに紹介したい。

「会計ねこ子」氏は、『自耕斎詩軸并序』の「一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」 (一家の機軸は百畝の郷田なり、これを苗裔顕泰に付す)に着目し、以下のように論じる(註5):
・「百畝郷田」は「一家機軸」とされていることから、家督の象徴と解釈される。
・「百」は「多い」の意味であり、象徴的表現としての「百畝郷田」は、「多い田」と解釈すべきであろう。
・「多い田」は「太田」ではないか。
・以上より、「一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」 は、「太田」(百畝郷田)の家督(一家機軸)を顕泰に渡したと解釈できるのではないか。

「会計ねこ子」氏のこの解釈は非常に魅力的である。この解釈を取るならば、『自耕斎詩軸并序』のあの執拗とも言うべき農業に関する記述も、「百畝郷田」すなわち「太田」の家督継承のメタファーを表現するための仕掛けであったと考えることができるからである。
 
もちろん、「会計ねこ子」氏の解釈が真実であるかの検討は難しい。
しかし、「なぜ『自耕斎詩軸并序』には、岩付左衛門丞顕泰の真の名字が示されないのか」との疑問に対して、少なくとも太田氏築城説が仮説としての回答を示せることは、これで明らかになったと言えよう。

太田氏築城説は、明応六年に詩軸『自耕斎詩軸并序』が書かれた理由も、その内容の不思議についても、説明を行うことができるのである。

このことが持つ意味に対する評価は、読者諸兄に委ねることになる。しかし、筆者自身はその意味は決して小さくないと考えるものである。


長くなったため、本節冒頭から記してきた「鎌倉五山の高僧である玉隠英璵に『自耕斎詩軸并序』のような作品の作成を依頼できたのは、明応六年時点では扇谷上杉氏とその有力被官たけだったのではないか」という仮説については、次の④ー4で述べることにしたい。


(註1)
先述の通り、『文明明應関東禅林詩文等抄録』については、手書き行書体の史料である。その前部精査は筆者の力量を越えるため、本稿では『信濃史料』に引用され活字に起こされた内容のみを確認した。

(註2)
玉隠英璵であれば、既に紹介した扇谷上杉持朝の三十三回忌での法語や、伊勢宗惴の葬儀での祭文が代表的である。
万里集九であれば、太田道灌の葬儀を集九が秘かに執り行った際の祭文と言われる「武州江戸城祭太田春苑道灌禅定門文」が有名である。

(註3)
例えば『玉隠和尚語録』の「高厳之号」では里見義豊が「源義豊公」と記される。

(註4)
例えば、『玉隠和尚語録』において、扇谷上杉定正は、漢詩によっては「贋釣亭」としか現れないことがある。
「自耕斎正等」も、『自耕斎詩軸并序』では「岩付自耕」と称されているが、『玉隠和尚語録』に収録された漢詩部分だけでは単に「自耕斎」とされている。

(註5)
会計ねこ子氏のブログより:
「100は少ない数ではない」

(自耕斎詩軸并序)