20081225
今日はアニキの誕生日。38歳になった。 

本を読むのが好きなアニキに、元気になってヒマつぶしに本でも読んでもらいたいと金属製のシオリをプレゼントした。プレスで打ち抜いたアルミ板に色を付けただけの物であるが、2000円近くもした高価な物だ。 しかし当のアニキは、体の痛みのため本を読むどころでは無かったと思われる。

夜中は病室に1人だけで痛みに耐えていたようだったので、少しでも気を紛らわして欲しいとこの頃からアニキの携帯にメールを送るようになった。 
今まで用があるときしかメールをしていなかったので何を書いて良いか判らず、アニキ宛てにメールを書くことに違和感があった。なので大した内容ではなく、世間話程度のもの。
送信するが返信が来ない。 「アニキらしいや」と思っていたのだが、その頃のアニキはメールを読むことは出来るが打つことが難しかったらしい。打つのにかなりの体力を消耗してしまうのだろう。 
何しろアニキが俺のメールを読んでいることが判ったので、返信は期待せずメールを一方的にアニキへ送ることにした。

話が逸れるが、その頃俺は記憶力が低下しているような気がしていた。
日常生活で判らないことなどがあった場合はまずネットで調べるのだが、帰宅したときには何を調べようとしていたのか思い出せないことが多いのだ。忘れていることすら忘れていることもあったかもしれない。
ニンニクから抽出できるアホエンという成分が記憶力回復に役立つというのを以前テレビでやっていたのを思い出し、オリーブオイルを使ってアホエン入りのオイルを作った。
調べてみるとこのアホエンという成分はガン予防に効果があると書いてあったので、アニキのために多めに作り病院へ持っていった。あくまで予防効果があるだけで既に増殖している腫瘍が無くなるということでは無いと思ったが、少しでもアニキの力になりたかったのだ。
出来上がったオイルは加熱するとアホエンの成分が壊れてしまうためそのままサラダなどにかけて摂取すると良いのだが、俺の説明が悪かったのかアニキはそのままオイルを飲んでいたらしい。
お袋伝に、「何かスゲー苦くて、喉がピリピリするんだけど、って言ってたよ」と聞いて笑ってしまった。

病院の面会時間は13時から。アニキの奥さんは毎日看病のために板橋区の実家から築地まで電車で通っていた。毎日面会時間開始の13時に来ていたそうだ。
ある日お袋が面会可能開始時刻より早めに面会に行ったところ、アニキが涙を流しながら弱音を吐いた。何日も続いている体の痛みがかなり堪えているのだ。
奥さんが到着するからと涙を拭った時には既に遅く、奥さんに「何で泣いてるの? 泣いちゃダメでしょ!頑張って治すんでしょ!」と泣きながら叱られたようだ。

実際アニキの奥さんは頑張っていた。
弱音を吐かない。 泣かない。 不安な様子を全く見せない。 諦めない。 入院しているときは毎日彼女の実家から病院へ通っていた。 
強い人だ。
200812
2008
年も残すところ1ヶ月となった12月、アニキは自分で実家の車を運転し築地の中央病院へ出向いた。そしてとうとう「これ以上の抗がん剤の治療は効果が無い」と医者から言われてしまう。 
つまり病院でのガンに対する治療は終わりということだ。 あとは自宅療養のみ。抗がん剤の効果が期待できないぐらいに転移しまくっていた。
その頃アニキの体重は6キロほど増えていたのだが、段々と息苦しくなったため検査した結果、肺に体液が溜まっていることが判明した。 急遽入院し、肺から体液を出すことになった。 
見舞いに行くと体から管が伸びた先に容器が付いている。血の混じった体液が排出され痛々しい見た目だが、呼吸は少しだけ楽になってきたようだ。

丁度見舞いに行った時にアニキは足の感覚が無くなってきたと言い出し、神経を圧迫している腫瘍の放射線治療をすることになった。
病室を出て「アニキは足の感覚が無いって言ってる。車椅子で応接室に来たよ」とお袋に電話で伝えたところかなり驚いていた。「え゛~!! とうとう車椅子が必要になっちゃったのか」と。

「いよいよダメだ」というところまで絶対に諦めないオヤジは、ガン発覚当初からアガリクスやミネラルその他色々と入手しアニキに渡していた。2008年にはクアオルトという物を入手しアニキに与えていた。 それを飲んでいるアニキと同じような状態の人は、現在仕事ができるぐらいの状況になっているとのことであった。 出たばかり物のためまだまだその効果は未知数。 かなり値段の張る物であったが、それを開発した先生が無償で提供してくれた。 
アニキは自分が納得できない物には疑いの目を向ける性格だった。実績の無い物を進んで取り入れようとせず、あまりまじめに摂取しなかったのだろう。
そのうち後頭部や鎖骨付近など目に見える部分に腫瘍ができ、ボロボロの状態になったアニキをみていた俺は「先は長くないかもしれない」と感じていた。

最後の放射線治療が終わったアニキの見舞いに行ったところ、背中が少々痛いのか頻繁にベッドの角度を変えていた。相変わらず呼吸しづらそうであったが、アニキは話は出来ていたので「なんとか大丈夫そうだ」と思うようになった。 
 
奥さんは毎日看病していたが、お袋も頻繁に病院に顔を出していた。
奥さんが病院へ来る前に、アニキはオフクロの前で涙を流しながら弱音を吐いたという。相当辛かったのだろう。 

20074
片足の痺れと激しい腰痛のため、アニキは駐在しているシンガポールに奥さんを一人残して、順天堂病院での検査のため一時帰国した。
アニキが帰国したことを親に聞き久々に実家に戻ると、やせ細ったアニキが辛そうな顔で寝ていた。 
病院での検査が終わり、その結果手術や療養に時間が掛かりそうなことからアニキは仕事の引継ぎなどでシンガポールへ一度戻ることになった。 
 
ちょうど休みだった俺がオヤジと一緒にアニキを成田空港まで送っていった。
その頃買ったばかりのBMWをアニキに自慢しようとしたのだが、肝心のアニキは後部座席で空港に着くまでずっと横になって寝ていた。 こんな状態で長時間の飛行機は大丈夫なのか?と心配だった。 チェックイン手続きの最中もアニキは顔を歪め額に油汗をかいていた。
手荷物は1つだけであったが、どちらかと言うと筋肉質な俺が持っても重たいと感じるバッグだったので、体力の落ちていたアニキには重たいおもりを持っているような感じだったであろう。
体調を聞くと「足がしびれる」と言っていたアニキは、ひょろひょろな体で重たいバッグを手に持ち出国ゲートへと消えて行った。ジーパン越しに見えたアニキの足は異様に細くなっていた。

シンガポールから戻って直ぐに実家近くの国立がんセンター東病院へ行った。検査で判ったことだが、砂時計腫という物が脊椎の神経を圧迫していたことにより腰痛と足の痺れを引き起こしていた。
たまたま築地にあるがんセンターの偉い人が居合わせていたこともあり、20075月に外科手術を行うために築地の国立がんセンター中央病院へ出向いた。 アニキが痛みを訴えたためそのまま築地の中央病院へ入院することになる。

確か、最初に出来た背中の腫瘍は手術で切り取ったのだと思う。
ところが1週間の入院中に、首と別の場所にも腫瘍が出てきてしまった。
別のところに出来た腫瘍もやはり神経を圧迫していたため、そのうち右目のまぶたが開かなくなってしまう。 オヤジはこのとき「もうダメかもしれん」と思ったそうだ。
 
アニキの医者との面談
余命宣告、何もしなければ3ヶ月。
同時に数箇所の切除手術は体力が持たないと判断した医師は、抗がん剤治療を提案してきたそうだ。
医師との面談が終わり部屋から出てきたアニキは親に、「俺、あと3ヶ月で死ぬって言われたよ」とまるで本気にしていないような口ぶりだった。
そこから長い闘病生活が始まった。

1
週間前後の抗がん剤投与、23週間の自宅療養の繰り返しだ。
抗がん剤は良い細胞も弱らせるため体力が落ちる。白血球の数も激減するため抵抗力も落ちてしまう。治療中のガン患者の毛という毛が抜けるのは、抗がん剤が体内で作用した証拠のようだ。
抗がん剤のお陰で首の腫瘍が引き、右目のまぶたが開くようになったので「おお!効果が出てる!」と皆で喜んだ。

吐き気を伴う710日の抗がん剤治療が終わり自宅に戻ると、最初の1週間はダウンしたままであるが翌週には元気になる。良い細胞がどんどん増えてくるからのようだ。 
しかしせっかく毛が生え始めた頃に、また入院して抗がん剤投与という何とも可哀相なサイクルを繰り返す。

自宅へ戻るとアニキはカツラと眉毛を買った。
闘病生活中も何度か眉毛を付けカツラを被ってシンガポールへ渡航していた。
カツラの値段は聞かなかったが相当な値段だったと思う。丁度坊主頭だった俺はアニキが入院中に無断でカツラを被ってみたのだが、分け目の部分も本物のようにできており本当に自分の髪のような感じだった。「う~ん よく出来ているなぁ」と関心した。 
俺は元々眉毛が太いので付け眉毛は試さなかった。どうせ付けたところで俺の眉毛の方がはみでてしまうし。

判る範囲でアニキの生活・習性を述べると、
・日本ではコンビニ弁当が大好き
・タバコは112
・酒は人並みに飲む 
・営業のため接待の回数は多かったようだ
・シンガポールでは自宅で晩飯を取ることが少なかった。
・常に他人に気を使うタイプ 
・海外でほぼ1人で仕事を回していた。
・テニスで汗を流していた。
・昔からかなりクサいすかしっぺをする 

音の無いオナラをする人の方がガンの発生率が高いという文献を読んだことがあるが、俺のような素人にはどんな因果関係があるのか皆目判らない。
もちろん俺も屁はこくが、ほとんどの場合警告音付だ。

話を戻そう。
当然だが、自宅療養で回復してくると元気になる。元気になると食事のも増え、いつも通り沢山食べていた。 しかし栄養はがん細胞に取られてしまうためか、アニキはずっと痩せたままであった。
どこか体の一部が動かないわけでも無く食事も普通に取ることが出来るため、自宅にいると凄くヒマに感じるのだろう。何を考えていたのやら抗がん剤治療を始めてからしばらく喫煙をやめず、自宅療養中にも関わらずヒマすぎると感じパチンコもしていたそうだ。 白血球数が少ないことを自覚出来ていないかったのだろう。 免疫力が低下しているのでなるべく表にも出ない方が良いのだが、コンビニ弁当も買いに行ったりしていたと言うので呆れる。 
確かアニキの奥さんが帰国した2007年後半にタバコをやめたのだったと思う。やめたと言いつつ手がタバコ臭いことがあり、奥さんと喧嘩になった。
 
2007
年の5月から始まった闘病生活は続き、体調は相変わらずだがアニキは2008年を迎えることが出来た。 入退院の繰り返しの中で、アニキは勤めていた電子機器関連の会社に何度か顔を出していたそうだ。

闘病生活は合計18ヶ月に及んだが、俺はその間アニキの会社がどういう待遇をしてくれているのかが気になっていた。
俺は別の会社で働いているから内情は知らないが、話を聞いてるだけでも言葉では表せないぐらい社員思いの会社である。もし雇ってくれるのならアニキが抜けた分頑張らせてもらいたいぐらいだ。アニキほど俺は能力が高く無いかもしれないが。。。
その会社を表すためにあえて言葉を探すなら「義理と人情の会社」が近いかもしれない。
闘病生活開始の20075月から200811月まで籍を置いてくれると言うことで給料も出してくれていたのだが、その11月の時点で会社から言い渡されたのは「2009年の3月まで現役、それ以降も回復して働けるようになったら復帰可能」、普通の会社じゃ考えられない。 もちろんアニキの功績も考慮してくれているのだが、何て思いやりのある会社だとこの話を聞いただけでも涙が出そうになった。 この言葉のお陰でアニキはめげずにガンと戦うことが出来たのかもしれない。 本人も絶対に回復して元の生活に戻ると思い込んでいた。
病気と闘うためには希望が非常に重要なのだ。

現在の病院で可能な治療はたった3つ。手術・放射線治療・抗がん剤治療。その他自然療法・免疫療法などもあるが。 抗がん剤に関しては150以上もの種類があり、専門家もほとんど居ないという話を聞いたことがある。 

誰にでもガン細胞はあると言う。細胞分裂の時に正しく複製されなかった細胞がガン細胞になるそうだ。 1日当たりに5000個前後のガン細胞ができるらしいが、免疫細胞がガン細胞を殺しその増殖を抑えているという。 誰の体でもそれを毎日繰り返しているとテレビで言っていた。
原因は様々だが、体が弱りガン細胞を殺すことが出来なくなった時に増殖してしまうとのことで、免疫力の低下がガンの原因の一つとのことである。
精神的なストレスなども良くないのだろう。

20069
祖母の葬儀の時に、引き続きシンガポールに駐在していたアニキと久々に顔を合わせた。 

斎場のエントランスでタバコを吸ってたアニキを見つけ「よう!久しぶり」と声を掛けると、外ヅラは良いが身内にはぶっきらぼうな性格のアニキから「おう」という返事だけが返ってきた。 
子供の頃悪ガキだった俺がいつもアニキにちょっかいを出していたため、社会人になるまで仲が悪かった。

小学生、中学生の時はもちろん一緒にくらしていたため喧嘩が絶えなかった。
アニキが高校生になると全寮制の学校へ行ったため、長期の休みで家に戻ってくるとき意外は顔を合わせなかった。アニキが大学に入て2年ほど家で顔を突き合わすことになったが、あまり喋らずたまに喧嘩していた。 俺が大学に入ると、毎日学校近辺に住んでいる友人宅を渡り歩いていたため、アニキと顔を合わすことは少なかった。
そして俺が社会人になってからはアニキがシンガポールの駐在員になったため、お互い話す機会もほとんど無いに等しい。

俺の人生を語る場では無いが、社会人になった俺は金を稼ぐために宅配業で働きその金を持って海外へ行った。結局海外で成し遂げようと思っていた俺の野望は打ち砕かれ帰国し、その後1年ほどフラフラしていた。 縁があって今の会社への就職が決まったときに、アニキは俺のためにスーツとそれに合う4万円ぐらいのコートを買ってくれた。凄く嬉しかった。 
今考えると、なかなか落ち着かない弟のことを心配してくれていたのだろうと思う。 

祖母の葬儀のために帰国したアニキは日焼けしてしていて健康そうだったが、現地で営業の仕事をしていたためストレスが溜まっていたのか顔の肌は荒れ気味であった。

祖母の葬儀では、俺の上着のボタンの一つが外れていたのを何も言わずに直してくれたのを覚えている。 火葬場でも、3回お焼香をあげようとした俺の背中を突き「1回でいいんだよ」と教えてくれた。

そんなアニキは葬儀の間、座ったり立ち上がる度に顔を歪めた。
「どうした?」と声を掛けると
「ちょっと腰が痛くてさ・・・」オッサン臭いこと言ってしまったと思ったのか、バツの悪そうな顔をしながら返事が返ってきた。   
脊椎周辺に腫瘍が出始めたのはこの時期なのだろう。

200212月 
商社勤めでシンガポールの駐在員であるアニキは検査と手術のために一時帰国した。 


アニキの左前腕に出来た腫瘍は、手術直前には切り餅ぐらいの大きさになっていた。 
御茶ノ水の順天堂大学医学部附属順天堂医院で手術が行われ、腕の筋肉にまとわり付くように出来た腫瘍を筋肉ごと切除した。 俺に心配を掛けないようにと、腫瘍が悪性であったことは教えてくれなかった。 
筋肉も切除したが、特に生活に支障をきたしてはいなかったようなので俺は安心していた。 
それ以後1年に2回、経過観察と検査のためにアニキは帰国していたが、術後の経過は特に問題は見当たらないと言われていたようだ。 ただ、検査していたのは腕に関してだけであった。




2009119

 アニキが死んだ。 
 
 
「シュウちゃんが  シュウちゃんがもうダメ 呼吸が遅くなって  もうダメだから」パニックに陥り泣きながら母親が俺の携帯に電話を架けてきたのは1552分であった。
「おい 落ち着け!大丈夫だから。 何があった?!」と言ったところで電話は切れてしまった。

母親からの電話の7分後に「今から行く」と親父・お袋・アニキの携帯にメール送信し、曇り空の中車のエンジンを掛け16時丁度に走り出した。
「ヒデ君大丈夫? こう言う時は運転大変だから代わろうか?」と助手席の家内が心配してくれる。
「いや、大丈夫だ。」俺のアニキが死ぬとは思えない。おれ自身は冷静だった。

ラジオから日本語が堪能な外人のDJの明るい声が聞こえている。
普段と何も変わらないはずの車内だが、DJの言葉は耳に入らなかった。
大師出入口から横羽線に乗り、首都高1号から環状線を目指し首都高6号へ向かった。そこから常磐道を目指し愛車を走らせた。
本当は7年落ちの2500ccのBMWが出せる限りの速度で急ぎたい。アクセルを踏む右足に力が入りそうになるのを堪え他車の流れに乗って走った。 

「お兄さん大丈夫だよね?死なないよね?」今にも泣き出しそうな家内が助手席で声を絞り出す。
「行ってみないと判らない。地図を見てくれ。柏で降りたほうがいいのか?」 
国立がんセンター東病院は流山の実家から車で15分の距離にある。
「流山じゃなくて柏インターの方が近いみたい」地図を見ていた家内が教えてくれた。
柏インターからはほんの34分の距離であった。