ウディ・アレン版『アマルコルド』と言われることも多い本作。
いつものアレン節のような皮肉っぽい視点ではなく、
自らの少年時代を投影したと思われる少年・ジョーの視点で描いた1940年代の優しい世界。
その優しいタッチはオープニングの雨のシーンから感じ取ることができます。
(*2009年6月18日UP)
主人公ジョーの一家はニューヨークのクイーンズ地区に住んでいる大家族。
狂言回し的な役割のジョーは12~13歳くらい?
家族の娯楽の中心はいつも大きなラジオから流れてくる音楽やお洒落な話題。
時に流れてくる映画スターカップルの小粋な会話に若い女性はうっとりだ。
ジョーの父親と母親は討論好き。
太平洋と大西洋はどちらが広いかなんてどうでもいい話題を真剣に討論する。
父親は何かの商売をしているようなのだが、
ジョーには決して教えてくれない。
そんな父親の商売をジョーが知ることになるシーンは胸が熱くなる。
そんなジョー少年のお気に入りラジオ番組は『覆面の騎士』というラジオアクションドラマ。
主人公がはめている秘密の指輪が欲しくてたまらないのだが、
貧乏なジョー一家には高価すぎるものだった。
そんな指輪をクラスメイトの一人が持っていたものだからジョーの心はざわついてしまう。
叔母のビーは、いつもデートデートとはしゃいでいる。
そんなビー叔母さんが素敵な紳士とドライブデートにこぎつける。
そんな深夜のドライブデート中カーラジオから流れてきたのが、
オーソン・ウェルズの『火星人襲来』。
男の方はすっかり恐怖に震えあがってしまいビー叔母さんを車に置いたまま逃げ出してしまうなんてエピソードも面白い。
家族でラジオを聴いていると臨時ニュースが飛び込んでくる。
少女がマンホールに転落してしまったという。
ラジオの前で沈痛な思いで祈る家族の姿もとてもよかったなあ。
第二次大戦が開戦し、
本土防衛を心に秘めて双眼鏡で海を見ているとでてきた潜水艦の影。
日本軍の潜水艦なのか、それとも幻なのか。
ここはジョーの淡い思い出として描かれている。
そして忘れられないシーンが、
ビー叔母さんらに連れられてラジオ・シティ・ミュージックホールに映画を観に行くシーン。
胸が高鳴るというのはこの事でしょう。
まさに夢の世界。
ジョー少年は映画館で眠っちゃうのも可愛いですね。
そんなジョー家族の描写と並行して描かれるのが、
ミア・ファローが演じるシガレットガールの出世物語。
方言丸出しの田舎娘が言葉を磨いて社交界デビューを果たして成功するまでを描いています。
そんな上流階級の人間たちが集まる大みそかのパーティーで歌を披露するのが、
私生活でアレンの元彼女だったダイアン・キートン。
この辺のキャスティングもなんだかいいですね。
パーティーの芸人たちが会場のビルの屋上に集まる。
数年先になったら俺たちのことなんかみんな忘れてしまうのかなあなんてしんみりしたところに雪が降って来る。
そんなことは考えないで来年も楽しく生きようというメッセージを残してエンディング。
これらのエピソードは本編で描かれる中のほんの一部です。
そしてどのエピソードもめちゃくちゃ優しいのです。
最後に、
淀川長治先生の『ラジオ・デイズ』評を転載させていただきます。
まさに淀長名調子。
アメリカはディズニーを誇るとともにウッディも誇るべきであろう。
この映画はニューヨークのアストリア・スタジオの作品である。
私の若い頃それはトーキーになった頃、東部アストリア撮影所作品といえば胸弾ませた。
ハイカラだったからである、粋(すい)だったからである。
この映画はフェリーニの「アマルコルド」をおもわせた。
10才の少年ジョーが暮らしていたニューヨーク。ときは1944年という時代。
そしてこの映画は少年ジョーの目と心で見せた。
ウッディの「ボギー!俺も男だ」(1971)は映画狂。「スリーパー」(1973)はダリの絵。
「インテリア」(1978)はニューヨーク第一級の舞台劇の香り。
「マンハッタン」(1979)はハドソンの夜空に打ち上げられたマンハッタンの夏の夜の花火とガーシュインのメロディとブロードウェイの露地に落ちた古新聞。
「ブロードウェイのダニーローズ」はマンハッタンのデリカッセンのテーブルのナプキンの匂い。
芸人とマネージャーと舞台リハサールのその内幕。
すべてニューヨークの大人の世界と大人の目。
ところが「ラジオ・デイズ」は少年ジョーが1944年を通り抜けた、そのころのスーヴェニールだった。
ラジオ、ラジオ、ラジオの世界。
映画はその始まりから二人のコソ泥とラジオ局を結びつけ‘この曲の名は’というクイズから入っていく。この見事なスタート見事な脚色。
ウッディのこの脚本この演出に見るニューヨークは生きて生活しているニューヨークの庶民の肌だった。
ジョー少年のママの姉の亭主はいつも市場であまった安い魚を自慢して買ってきた。
ママの妹の方はオールドミスでデイト、デイトとはしゃぎまわる。
ジョーのママはしっかり者、パパはお人好し。
このパパとジョーがこの映画のラストシーンでふと思わずめぐり逢うシーンはこの映画の最も美しいシーン、最も心打つヒューマン・タッチだ。
ウッディ・アレンは今年52才。ブルックリンのタクシー運転手の子。
10才で映画狂。17歳でギャグマンを志し22歳ではプロのギャグマン。それは舞台でのギャグ考案者。
そしていまウッディがラジオ、ラジオ、ラジオをとりあげたのは、かんぐれば、あの時代に帰れというのであろうか。はたまたSF映画のその芸の無さを馬鹿にしたのか。
ここにウッディはありとあらゆる懐かしのメロディを流し「ダニー・ローズ」「マンハッタン」の粋さを裏返してニューヨーク庶民の“われらお人好したち”の仲間を描きぬく。
そしてその人たちが楽しんだラジオから流れるおびただしいメロディ・・・・コール・ポーターの“ナイト・アンド・デイ”“ビギン・ザ・ビギン”そしてアステアが目に浮かぶ“キャリオカ”。
みんながカルメン・ミランダをまねて踊ったあの“チコ・チコ”
そしてなんと“セプテンバー・ソング”から“イン・ザ・ムード”。
またまた恥ずかしげもなく“ドンキィ・セレナーデ”。
メロディはその時代を呼び戻しその時代を懐かしむ。
しかもここはニューヨーク。
ブルックリンは勇み肌、クィーンズは古めいてマンハッタンは粋。
「ラジオ・デイズ」はこれらの人たちを胸いっぱい吸わせてくれる。
マンハッタンあの五番街横通りのセント・レジスのレストラン・ルームのそのディナー・テーブルを見てあの階段づくりのレストランには誰もが憧れた。
そしてまたジョー少年の目で見たラジオ・シティ・ミュージックホールの赤いじゅうたん、広い階段、見上げるシャンデリア、そして場内の映画はこれぞキャサリン・ヘップバーンの映画だ。
少年の高鳴りがこちらにも伝わるばかり。
やっぱりこれはフェリーニの「アマルコルド」を思わせる。
しかしここにはアメリカがありマンハッタンがありナイト・クラブのシガレット・ガールが登場する。
このあたりのこの脚本の手馴れた芸術。
私たちはアメリカ映画のなかでどれくらいシガレット・ガールの出世物語を見てきたことか。
そのシガレット・ガールが支配人に連れ出されての夜の屋上シーン。
ブロードウェイの電気広告のまえでの爆笑シーン。
これぞウッディ描くニューヨークのヴォードヴィルの舞台芸。
あれもこれもがウッディの演出才能におどりそしてそれらを楽しませ
“ビギン・ザ・ビギン”から“イン・ザ・ムード”とあらゆる懐かしきメロディでうつつを抜かせながらも、
ジョー少年がタクシーをよびとめるところ、あるいは魚ばかり買ってくる伯父さん・・・・
これらのヒューマン・コメディにこの映画はオニールやサロイヤンの名舞台劇の香りさえ身につけて。
ラジオ・ラジオにはしゃぎ回ったあの善良さを忘れ、映画はシネラマからシネスコそして3Dとだらくした。
この映画は今一度あのころのアメリカの良き時代を振り返れといわんばかりの皮肉のトゲを、
笑ってメロディに酔ったあとでチクリと刺すのであった。