エルサレム陥落の預言

「この日」

というから、今日まさにかと思いきや、陥落2年前の預言だそうな。

 

預言から2年も陥落しないと、

「たとえですか」っていっちゃうかもー

て、てへ。

そういうことじゃないでしょう、悔い改めの猶予期間でしょう

なんでしょうけど。

私も・・・だねぇ。

 

そしてこの詩は意味が分からないよぅ

とにかく、イスラエルは、鍋のようによく煮られちゃって

誰も逃れられないと。いうことのようです。

はだか岩 というのは、土の上とかだとしみ込んで見えなくなっちゃうけど、

はだか岩の上ならいつまでも流血があらわされたままであるということだと。

神さまのさばきが誰にでもよくわかると。

 

エゼキエルは、妻を亡くしとても悲しかったけど

人前で泣かないように神さまから言われた。

人々は、どうしたのかと問う。

ちょっと、エゼキエルと妻、ご近所さんとの良い関係が分かる感じがした。

大事な人を亡くしても悲しむ余裕が来ない日が来ちゃうから、

今、悔い改めて。と。

 

 

20章

ふたたび長老たちに語られる。

どうも定期的にエゼキエルの元学んでいたらしいと注解に書いてある。

そして、出エジプトの記述から、神さまがイスラエルを選んだことから話始め

もうその時から、

あなたたち逆らってたよね。その時から、あなた方が散らされることも苦しむことも実は語っていた神さま。

おぅ。

と淡々と聞いていたら、長老たちが、あ、それたとえでしょ

って

はぅ。あなたたちのことだよっ。

がっかりなのね。

繰り返し、はげしい裁きの預言がある

それによって神さまは、立ち返れ

しかし、

人は、

また言ってんの?たとえでしょ?

というわけだ。

ふむー

私も今そんな気分だなぁ。

まったぁ、そんな大したことないって。

まぁぁぁ一応、自粛してますけど。

もういいかなぁとか思っているけど

自粛、続けておこう。とか思いました。

母獅子は イスラエルの元のユダ王国のことで、

その子獅子はラスト3王

「しかし憤りのうちに引き抜かれた」

ということで、3王のための哀歌

(´;ω;`)ウッ…

:31 32

「あなた方が行ったすべての背きを あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい霊を得よ。~」

「わたしは誰が死ぬのも喜ばない。ー神である主のことばー。だから立ち返って、生きよ。」

 

だから

 

って。

 

今の苦しみは

先祖が悪いからだ。先祖の咎を我々が追っているのだ。

(だから、自分たちは悪くないよーだ)

というイスラエル人に、

そうじゃない。

自分自身が悔い改める必要があるんだ。

あなたの苦しみはあなたのものた。

列王記とか歴代記とか読んでると、

罪が重なった記事があるけれど

その時に生まれて、

罪を犯しているものは、

それゆえに

自分自身が罪を問われる。

 

ひっくり返せば、

自分自身が自分自身の罪を

放り出せばよいのだ。

自分が悔い改めれば

許すよ。と。

さっきまで罪を犯していても

それを悔い改めれば許しちゃうよって。

神の愛。その上に立つ神の公正。

 

で、でも

つい、

ああ、私は正しくあり続けられないから

最後には、罪びととして裁かれるのだと思ってしまう。

イエスキリストはそれを知らないだろうか

すでに

許したと

言ってくださいと願う。

たとえ

 

ただ読んだ感想だと、

木は、大鷲に折欠かれちゃうけど、

何気にいいところに植えられて

育つことができる。

ほかにも大鷲がいて、そっちにも根っこを伸ばして大きくなっていく?

 

と思っていたら

 

そうでなくって

木は、自分で何もでなくて、取り去られちゃう存在

大鷲は、強く乱暴で、空から急に襲い掛かる存在という。

木は大鷲につままれちゃうけど、いいとこに植えられて

高い木にはなれないけど育つ。

でも、木は強そうな別の大鷲に根を伸ばして・・・。

そうしたら、最初の大鷲に滅ぼされれちゃうよねーという神様からの怒り。

 

ほぅ。

あ、ゼデキヤ王のことかーそーかー。

 

:16「わたしは生きている」

すごく、印象的なのに、意味があまりよくわからない。

わたしは死んでいない。

動かない、静ではなく動である。

私は過去に過ぎ去った存在ではない。

わたしは今であり、今にも未来にも

あなたに関与する。

ということなのかな。

 

 

 

 

バビロン捕囚の預言。

捕囚の民らしく準備って?壁に穴って?

とか思うけど深い意味はないらしい。

とにかくあなたたちは捕囚されるってことわかってね、

ということらしい。

 

繰り返し

「わたしが主であることを知る」って出てくる。

「思い知る」って事かなぁとは思うけど、

それよりも愛情深い気がして。

知って、戻っておいで。と

 

そして12章最後に

「神である主のことば」何回も繰り返してーのー

13章

にせ預言者たちへ 注解によると

前半国家レベルの偽預言者

後半個人レベルのにせ預言とな

ほう。

男女差ってあるよねー。そう思った。

お父ちゃんは「この国は~、未来は~歴史は~」

って言いがちだし、

お母ちゃんは「あんたはー、今日は明日はー」

っていいがち

ともあれ当時のイスラエルは

どっちも偽預言者が横行というわけだ。

 

14章

ノアとダニエルとヨブ

あれ?ダニエルって若いんじゃあ?同年代の有名人って事なんだろうか?聖書でいうと、このエゼキエル書の次なんだな。

私の印象は、まぁみんな正しくあろうとした人

 ノアは、息子一家も一緒に救われた。

 ダニエルは、異教の地でも神に正しくあろうと尽くした頑張る少年

 ヨブは、とにかく神さまを求めた人

今のイスラエルに彼らがいたとしても彼らもこのイスラエルを救えないし、

家族さえ守れないと。

でも、最後には家族ごと救われる、名もなき一家を

エゼキエルも安心するよって。神さま。

理由があるのだ。と。

:23 「あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る。」

 

15章 イスラエル、ブドウの木になぞらえる。なんかけちょんけちょんです。

 

16章 なんか美しい恋物語かと思いきや。

どろっどろの背徳物語

あなたを愛したのに。

:19「あなたはわたしが与えたわたしのパンや~蜜までも、その前(姦淫の相手)に備えて芳ばしい香りとした。そうではなかったか。」

新改訳では「そうしたのだ」

昔語りをされている神様に、急に瞳を見つめられた感じ。がする。

 

 

また、幻ゾーンに突入。

 

エルサレムに「ねたみ」像?

てか、私の理解力がないのでさっぱり分けわからん

ので

注解を読む。

 

つまり、神聖なるエルサレムに、「ねたみ」と呼びたくなる、偶像が立っているということのようだ。

聖なる、何なら聖所に偶像まつっちゃってんだよ、ひどいよー

中も見てみなよー

善王ヨシヤ王の書記だったシャファンの子までもが加担してんだよ

(´;ω;`)ウッ…

ってかんじか。

女たちが泣いてんタンムズも偶像のことらしい、普通の聖書も解説してほしいわ

ブドウの房を鼻に突っ込む・・・・異教の儀式だろうとのこと

笑っちゃう。笑っちゃうけどそれを真剣にしちゃってるイスラエルに対して神様は、傷ついてしまわれたのだろう。

とても。

 

9章怒りゾーン

2017年に読んだときに自分のメモ書きがあり

「:4~6から、全滅でなく救われる人も残される」んだという希望もある

 

10章 わ、わからん  が、やはり、前に読んだ時のメモ書きに、

9:3

で「立ち上がった」=神の栄光が去った

と書いてあるけど

:18 とどまった

とあるから、神さまはさてもう帰ってこないってことじゃなかったんだよ、と。

そして、この幻は、エルサレムでのことだけど、

わたしがバビロンのケバル川で見たのと一緒なんだ、って

エゼキエルが感じてる、親近感。ああ、ああの幻だー的な。

 

11章

注解によると

「この都は鍋であり私たちは肉だ」

が、

イスラエル人の意味は「頑丈なイスラエルに守られたイスラエルのうち最もいい部分だ」なんだそうだ。ええ?

しかし、

どっちかというと鍋ン中で煮てやるわー的な感じよね。

 

そして、民の長のうち、ペラテヤが死んだとき、

エゼキエルが望みが去ったかのように嘆く。

そこからのー

神さまの救いの計画

散らして、その先にわたしを求めたら

そこが聖所となるんだよ。つまり一緒にいるよ。

そして

:19~一つの心~新しい霊~石の心を取り除き~肉の心を与える

:20~わたしは彼らの神となる
 

イスラエルにとって、肉ってとってもいいもんだの象徴なのね?

石=硬い=堅物・我が強くて神様の言うこと聞かないやつ

肉=柔らかくて神様の言うこと聞けるやつ

って教えてもらった感じだけど、

なんかそれ以上に、イスラエルにとって

って

すごくいいもんだ的な 雰囲気を感じる。

またーわけわかんない。髪の毛を剃るの?

 

剃って分けられた毛はイスラエルの滅び方、と。

イスラエル

祖 アブラハムは、

創世記12:3「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」

と祝福を受け

周囲の国にも祝福をもたらすものとなるはずだった。

 

でも

エゼキエル6:7「~あなたがたは周りの国より粗暴な者たち」

となったしまった。

 

自らを振り返る。周囲のものより粗暴になってはいないか。

神はより一層怒られる。

「主であるわたしが」と何度も書かれている。

あなたの神であるわたしが

あなたと私の間柄の神が

と、

とても親密な感じがする。

だから、

善悪の罪ではあるが

それは
私とあなたの間の 神への裏切り。

 

新改訳と新改訳2017の違いが

6:9「~わたしから離れた彼らの姦淫の心~わたしがどんなに傷ついたかを思い起こす。自分たちのした悪や、あらゆる忌み嫌うべきことを 彼らが嫌うようになる時」

「わたしがどんなに傷ついたか」

だから、神さまは私たちが罪を犯して悪に落ちていくのを哀しまれると、いうのだ。

 

7章は2017では詩の形に書かれている。

あなたは 謳って

人々に聞かせなさい ということか。

「そのときあなたがたは、

 わたしが主であることを知る。」

 

人の罪を そしてその顛末を言葉にして

人に預けられる神さま。

ほんとは、

この預言を聞いたときに悔い改め「わたしが主であることを知」ったらいいのだね。

ヨナが予言したニネベのように悔い改めたら神さまは

悔い改めのほうを受け入れてくれるのだね。

でももう罪が重なってその罪の報いを受けなければならないとしても

それはやっぱり、

「わたしが主であることを知る」ためだと言ってくださる神さまは

知ってそこから始めさせてくださるんだと思う。