明太子です  音譜


プチ近況…

こちらでは、まだタオルケット1枚で寝ています

おまけに、一昨日までずっと扇風機なしでは寝れなかった


昨日、久々扇風機なしで寝て、空気の動きがなくて
ちょっと淋しかった…

とはいえ、いつものように窓は少し開けて寝ているのだけど


そういえば、去年は、クリスマスの頃に

ふと気がついて窓閉めて寝るようになったっけ ( ̄_ ̄ i)




ポチに紹介された

『河合隼雄のカウンセリング教室』

読んでみました


いつものように、本筋とは違うとこにひっかかりました
「中年ネタ」です(;´▽`A``


ユングの所に相談に来る人の中で
仕事もお金も社会的な地位もあり
何もかも上手く行っている


そんな人達はどうしたら自分の地位が上がるかとか

どうやって税金をごまかそうか、なんて考える必要がない


そうすると、考えるレベルが深くなる、と


「いったい、自分とは何者だろう」

「人生とは何か」

「私はどこから来て、どこに行くのか」

というような根源的な問題に向き合わざるを得なくなるのですと…


そういう人にはカウンセラーとしても
「こうしなさい」とか
「ああしなさい」とか簡単に言えなくなる


だから、カウンセラーもこんな根本的な

問題を抱えることになる…


それはさておき


そっか、私は贅沢な悩みを持っているのだ…


おまけに、まるで何もかも上手く行っているような


リッチな人の仲間入りをした気分まで味わってしまった


なかなかいい本だね~ ( ̄▽ ̄)=3


モモです


現在、プ○ービ○グの最中なので、近況報告は
差し控えたいと思いますが、
今日、部屋の掃除をしていて、偶然、あるノートを
見つけました。


このノートには、2年前に読んだ本の印象的な部分が
書き残されていました。


その本とは、『モモを読む』 子安美知子著 学陽書房

そう、私の大好きな『モモ』 について、シュタイナー研究の
視点から解説された本です。

1年生だった私が書き写していた部分を、そのまま引用してみますね。


シュタイナー『いかにして、より高次の世界の認識を獲得するか』

「他の人間の語る言葉に耳をかたむけるありかた」


そのさいには、自分自身の内なるものが完全に沈黙するように
なる習慣が、身につかなければならない。
だれかが意見を言う。ほかの人がそれを聞くとき、
ふつうは聞く人の心のなかに賛成・反対のどちらかの
反応がうごめくものである。また多くの人たちは、
ただちにその賛成や、とくに反対の意見を外に表したい
気もちにかられてしまうものでもある。
しかし、この道の修行を志す人はこうした賛成や反対の
気分をすべて沈黙させねばならない。



ひとつの練習として、ある期間、自分と正反対の考えに
耳をかたむけ、いっさいの賛成、とくにいっさいの否定的判断を
完全に沈黙させる行をみずからに課する。
いっさいの合理的な判断が静まるばかりでなく、嫌悪、拒絶、
いや賛成の気持ちも、いっさい沈黙することが大切である。
とくに、ほんとうに注意深く自己観察をする必要があるのは、
そうした感情が、たとえ意識の表面にはのぼらないようでも、
自分の心の奥深いところに、ひそんでいはしないだろうか、
という点である。
たとえば、なんらかの意味で、自分よりずっと低いところにいる
人の発言に聞き入りながら、知ったかぶりや、優越のあらゆる
感情を、抑える練習が必要となる。



そして、もうひとつ、別の部分から、こんな文章を書き写して
ありました。


が、モモは、その相手の正体をもっと明確につかまえなければ
なりません、そして、そのためには、いちど相手のなかに、
すっぽりはいりこむ必要があります。
たとえ善いものだろうと悪いものだろうと、その善悪の判断を
いちおうさしひかえて、相手の言葉を完全に自分に作用させること


―― それが、アントロポゾフィーでの「聞く力」の意味なのでした。
モモには、これまでそれができていました。


これをあらためて読み直して、ウーン、やっぱりモモってすごい
と思ったのでした。

いつか、モモのようになれる日がくるかな~

まずは、今、私にのりうつっている、このエネルギーの声に
耳をかたむけたいと思います。


ポチです。

こんなスペースとるほどでもないんだけど

以前モモの投稿へのコメントに付記した本のタイトル違ってました。。ごめんなさい。
河合隼雄さんの本
気になって確かめてみました。

多分
「河合隼雄のカウンセリング教室」

です。
前に言ったタイトルの本をもう一度手に取ってみようと
図書館でかりたら全然違う本が。。。おおっと。
わたしはこれも読んでなかったから借りてよかったけど

職業としての3大要件「時間」について書いてあってなるほど。。と思ったのは
やはり上記でした。見出しがでてたんで以下の参考まで

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4422114220-1.html

モモです


ポチの投稿や皆のコメントを読んで、色々なことを思いめぐらせました。


そうするうちに、以前から、ずっと私の心の中で引っかかっていたことが
かなりはっきりした形で浮かび上がってきました。


この学びの道に入ったころから、形にするのをためらってきたこと。
そして、3年目になっても、まだはっきりとさせたくないもの。


そもそも、「人を癒す」 ということを、金銭と引き換えにできるのか?
ポチの投稿にもあったように、完全な人はいないでしょうし、
現在、そういったお仕事をしている方の中には、人間として尊敬に値する
素晴らしい人物だと言えるのか、疑問符がつく方も多くいるでしょう。


そして、何より自分自身、人からそういう意味で認めてもらえるとは
とても思えないのです。
だから、これを仕事としてやっていくことには、まだまだためらいが
あります。


そこを、どこかで “割り切って” 仕事にする、という考え方もあり
なのかとは、思いつつも、現時点では、それにも違和感を感じてしまいます。


これが今の私の正直な気持ち。
もうしばらく、このままの気持ちで、流れに身を任せていきたいな
と思います。


実は、そう思うことができるようになったきっかけが最近ありました。
国際キャンプの2日目の夜、体調が万全ではなかった私は、
懇親会を1次会で切り上げて、ホテルへ戻りました。
その時、たまたまあるスタッフの方と一緒になり、
(この方は、生徒として学んだことはないのですが、お仕事として
 時々キャンプに参加されています。)
その時、色々お話しをしたのですが、


私が、ちょっと弱気になっていたので、思わず

「この先、どうなるのか、見当もつかないんですけどねえ・・・」

と口走ると、その方は

「いえ、こうして勉強することで、人として成長していけるのは、
 素晴らしいと思いますよ。」

と言ってくださって、その一言で、私はすごく癒されました。


それに、すっかり忘れていました。大切なことを。

「人は自分自身が癒される余波でしか、人を癒すことはできない」



癒される機会は、たくさんあって、気づかないで通り過ぎてしまう
ことも多々あるけれど、なるべく見過ごさないで行きたいな、と
思う今日この頃です。


家では、可愛い猫たちが、これでもかといわんばかりに
甘えてくれるし、
職場でも、病に苦しんでいる患者さんたちがなんとか治ろうと
努力する姿を見せてくれたり、ささやかな声がけに、嬉しそうな
表情をしてくださったり・・・

人を癒すことは、人に癒されることでもあるんだな、と
感謝したくなります。


人との相互作用の中で、学んでいくこと。
一人で頑張るだけでは、得られない大切なもの。


学ぶ内容が専門的な方向になってきている今だからこそ
初心を忘れずに行かないとねって、
自分にこの場を借りて言い聞かせたいと思います。



以上、『初心表明演説』 でした~ニコニコ

“しょしん” の字が違うけどにひひ




ポチです。しっぽフリフリ

キャンプの外にて「お休み中」満喫だから、安穏とこんなこと言えるんだろうな、、と思いながらです。

モモの投稿によせた 明太子のコメントに
個人的に自分の思いの何かが重なり、
書いて少し整理してみたくなりました。
明太子のコメントになにかとても共感して癒されて、、
それでいて、それとそこから全然ピントはずれな個人の思いに思考はとんでいくのですが。。。

「親戚の中で、変な人に限って先生だったから
絶対先生にはなるまいと思いながら育った…

友達にカウンセラーが結構いて、こういう人に
相談したくないなと思いながらつきあった…」

わたしはおめでたかったのか、
学校の先生方には「恵まれた」と思ってこれまでこれました。
親戚には不器用で頑固で清らかなわたしにとっては愛すべき祖父だけが教師としておりました。
決して数多くはないカウンセラーの知人は、
皆それぞれにすてきな方々でした。
けれど、彼らとの距離というのは
もともとそれほど個人的な感情の交わりで左右されるほど
近しいものではなく、
いつのまにか、ご縁が遠くなっていった方が殆どです。

そんな自分の知人の中で
以前物別れになって終わった、かつては結構親しくしていた友人が
最近、人を癒すお仕事をしているようで
そこになにか、とてもひっかかりがちな自分がいました。

「人を癒す」
それは本当に素晴らしいお仕事で、すてきなお仕事で
そんなお仕事を、自分とは最終的にはうまくいかなかった人が
短期間で技術を身につけ
人々のお役にたっている、
その現実が羨ましいという、
ねたみ、羨望の気持ちもあるのだと思います。
(あ~あ。とほほガーン

そして、自分との関係が切れたころのその方との自分や他の人々とのやりとりを思い出して
「どうしてあの人にそんなことができるのかなあ?
(一面ではかなり攻撃的な面をもち、少なからず理不尽な形で彼女の言動に傷ついて来た人を複数見てきて)
どういう道理で人の癒しにたずさわり、どう着々と力をつけているのかしら、、」という
うらやましさを通り越した
不思議、疑問というか、どこか腑に落ちない思いもありました。

「本当にヒーリングはおこっているのかしら?」という疑問もありました。シラー
そういう力と人格とは別物という、そういうことでなの?
そんな風にどこかで聞きかじった知識をこじつけてみたりもしました。

少し、冷静になって考えますと。。。

会わなくなったその期間に一体なにがあったのかは私にはわかりません。
何か彼女の人生に決定的なことが起こったのかも知れません。
あるいはごくごく自然な流れによって持って生まれた才能が開花したのかもしれません。

でもいずれにせよ、多分、癒しは本当におこっているのだと思います。
本当に、少なくとも今のわたしには
とても出来ない素晴らしいお仕事をして
他者の幸せに大きく貢献されているんだろうな、
それはやはり真実のように思います。
しかも主婦のお小遣いでちょこっと出せそうな
とても良心的な値段設定で
クライアントさんが十分満足される、
そういう素晴らしい提供をされているようです。
え~?この人こんなにいい人だっけ?(ああ失礼お許しを)
こんな人のクライアントになれたら、とってもいいじゃない!
いいなあ~。本当にそう思います。
やっぱり、そんなに「いい人」だったのです(^◇^)(笑)たぶん。


その方とはじめから仲違い関係だったわけではないので
その方の有能さ、他の人にはない素晴らしさも
それなりに十分見知ってきた自分でしたので。
なるほど、、と思うところもたくさんあったりします。


ただ、それでも「それ、どんな風なのかな」とか好奇心のような、品定めのような
あまり上等とはいえない気持ちから以上には、
彼女のヒーリングをやはり私は受けたいとは依然、思えない自分もいます。
パブロフの犬よろしく防衛本能に固まってしまうのです。
未熟なわたしの過去への執着とも言えると思います。
音信不通なので現在の彼女と私の関係は途絶えた
そのときのまま止まっているのですが
もし、、と想像すると
やはり怖くて、彼女を信頼して
彼女のヒーリングに身を委ねることが出来ないだろう自分がいます。
そして、ある意味とても残念なことのなのですが
きっと他のわたしの知らぬ方々への素晴らしいヒーリング同様の効果は
わたしとの間では起こすことは今の段階ではやはり難しいのではないかな、、とも思ったりします。
それが「関係性」ということなのかな、、と思います。

わたしには、ヒーラーとなった彼女と
自分と仲違いした当時の彼女と
同一人物と認めたくない
そういう思いがそもそもあったのだろうな、、、と
今は(実は最近になってやっと)思っています。

もしかしたら、自分と仲違いする彼女がまっとうなヒーラーなら
彼女からああいった扱いをされてしまう
わたしは自分で解ってないだけで
とんでもない悪い人間か、低俗きわまりない人間なのだ
そんなの嫌よ、それが現実なら耐えきれないわしょぼん
あるいはあんなこと人にする人
人の癒しになんか携われっこない、そんなの信じたくないむっと、
よい人とはいい関係が築けて当然
そういう短絡的、両極的な
「いい人」「悪い人」という色分けを私自身がしたがっていたのでしょうね。。。

「よきヒーラーは、誰にとっても、もちろん自分にとっても素敵な友人である」のが当たり前で
自分にとって「?」「どうなの?」という人物が
そんなに素晴らしいヒーラーであるわけがないと私自身が思い込みたかったのだと思います。

でも、彼女の中の才能に天は役割を与えられたのだと思います。
彼女の努力もあったのだと思います。
そして、そのことによって、彼女自身はもとより
彼女に関わる多くの人は
より多く幸せを受け取ることになったのだと思います。
それは文句なしにやはり素晴らしいことだと思うようになりました。
(やっと、、ねDASH!

一方で、私や他の方々とうまくいかなくなった、
そういうその人の部分は
まだその片鱗がうかがえる、というのも、
愚かな私の偏見かもしれませんが、
自身の気持ちとしては正直なところです。

そして、、
「それでいいのかもしれない」、、
やっとそう思えはじめたわたしです。

そして、人を癒すというのは、とてつもなく奥深く
また恐ろしい落とし穴もありえる
大変な、生半可な気持ちではやれないお仕事
なのだなあ、、、と改めて思います。


当たり前ですが、完璧な人はどこにもいませんよね。
それをありのままに見せてもらえた
かけがえのない1つの事例なのかと今は思っています。

どこの誰から見てもいつもどんなときも
申し分ない素晴らしい人というのは
なかなかいないのだと思うのです。
そしてその人物が嘘と張りぼてで塗り固めているというのではなく
等身大でありのままで自分の長所を生かし、のばして、素晴らしいことをしている
その一面で、人としてまだまだ未熟と人から批判、非難されうる状態を抱えているということも
やはりあり得るのだろうな、、、と思います。

他者とかかわるのにあえて相手のあらさがしをして
他人の否定的な面を持ち出す必要はもちろん無いのですが
たまたま知ってしまった個人的には不都合な面を
見なかったことには、、、やはりできません。
それでも、あるからとそれを理由にだからといって、
その人の肯定されるべき美点まで否定するのは。。やはり違うのでしょうね。
(この辺はまだちょっぴり背伸びが入ってマース)

人は与えられた役割故にさらに確実に前進し、成長してる、
完璧でなくとも、今より一歩前進しようと目指している故に
人は既に、その至らなさも十分に許されている
人生にはそういう豊かさがあるのだなあ、、と感激しはじめました。
だから人生は面白い。
それに、やっぱりこの人本当に素敵!
素直にかなり手放しでそう思える対象もありがたいことに
ちゃんとしっかりいます。

ですから、彼女をうらやむのでなく、
祝福しようと思います
そうすると、あら不思議虹
なんだかとても幸せな気分になってきますラブラブ
やはり全てギフトなのかもしれませんね~

あかの他人にとって素晴らしい英雄のような人物が
家族にとっては悪魔のような苦難を強いる人物であったり、、
よくいわれるけど、そんなこともあるでしょう。。。

身内には素晴らしい家人が職場では、
とんでもないお荷物ちゃんで
みんなを困らせているということもあるでしょう。

気の合う仲間のときには「最高」でも
一端気持ちが翻ったら、それまでのことが
嘘のようにまるで前世からの因縁の敵かなにかのようになってしまうこともあるでしょう

もちろん身近な人にとっても、遠くの人にとっても
気が合う人にとっても、気の合わない人にとっても
あまりその全貌がかけ離れることなく
丸に近く
人として成熟していけるのが理想なのですが。。。


欠点だらけの自分をして
なにがしかの長所を見いだしたい自分がいて、
自分の役割とは、一体何だろう、
何を軸に、何を足がかりに、終わりなき道を歩んでいくんだろうと
まだ見えぬ自分の道を思ってみるのでした。