ポチです。
キャンプの外にて「お休み中」満喫だから、安穏とこんなこと言えるんだろうな、、と思いながらです。
モモの投稿によせた 明太子のコメントに
個人的に自分の思いの何かが重なり、
書いて少し整理してみたくなりました。
明太子のコメントになにかとても共感して癒されて、、
それでいて、それとそこから全然ピントはずれな個人の思いに思考はとんでいくのですが。。。
「親戚の中で、変な人に限って先生だったから
絶対先生にはなるまいと思いながら育った…
友達にカウンセラーが結構いて、こういう人に
相談したくないなと思いながらつきあった…」
わたしはおめでたかったのか、
学校の先生方には「恵まれた」と思ってこれまでこれました。
親戚には不器用で頑固で清らかなわたしにとっては愛すべき祖父だけが教師としておりました。
決して数多くはないカウンセラーの知人は、
皆それぞれにすてきな方々でした。
けれど、彼らとの距離というのは
もともとそれほど個人的な感情の交わりで左右されるほど
近しいものではなく、
いつのまにか、ご縁が遠くなっていった方が殆どです。
そんな自分の知人の中で
以前物別れになって終わった、かつては結構親しくしていた友人が
最近、人を癒すお仕事をしているようで
そこになにか、とてもひっかかりがちな自分がいました。
「人を癒す」
それは本当に素晴らしいお仕事で、すてきなお仕事で
そんなお仕事を、自分とは最終的にはうまくいかなかった人が
短期間で技術を身につけ
人々のお役にたっている、
その現実が羨ましいという、
ねたみ、羨望の気持ちもあるのだと思います。
(あ~あ。とほほ
)
そして、自分との関係が切れたころのその方との自分や他の人々とのやりとりを思い出して
「どうしてあの人にそんなことができるのかなあ?
(一面ではかなり攻撃的な面をもち、少なからず理不尽な形で彼女の言動に傷ついて来た人を複数見てきて)
どういう道理で人の癒しにたずさわり、どう着々と力をつけているのかしら、、」という
うらやましさを通り越した
不思議、疑問というか、どこか腑に落ちない思いもありました。
「本当にヒーリングはおこっているのかしら?」という疑問もありました。
そういう力と人格とは別物という、そういうことでなの?
そんな風にどこかで聞きかじった知識をこじつけてみたりもしました。
少し、冷静になって考えますと。。。
会わなくなったその期間に一体なにがあったのかは私にはわかりません。
何か彼女の人生に決定的なことが起こったのかも知れません。
あるいはごくごく自然な流れによって持って生まれた才能が開花したのかもしれません。
でもいずれにせよ、多分、癒しは本当におこっているのだと思います。
本当に、少なくとも今のわたしには
とても出来ない素晴らしいお仕事をして
他者の幸せに大きく貢献されているんだろうな、
それはやはり真実のように思います。
しかも主婦のお小遣いでちょこっと出せそうな
とても良心的な値段設定で
クライアントさんが十分満足される、
そういう素晴らしい提供をされているようです。
え~?この人こんなにいい人だっけ?(ああ失礼お許しを)
こんな人のクライアントになれたら、とってもいいじゃない!
いいなあ~。本当にそう思います。
やっぱり、そんなに「いい人」だったのです(^◇^)(笑)たぶん。
その方とはじめから仲違い関係だったわけではないので
その方の有能さ、他の人にはない素晴らしさも
それなりに十分見知ってきた自分でしたので。
なるほど、、と思うところもたくさんあったりします。
ただ、それでも「それ、どんな風なのかな」とか好奇心のような、品定めのような
あまり上等とはいえない気持ちから以上には、
彼女のヒーリングをやはり私は受けたいとは依然、思えない自分もいます。
パブロフの犬よろしく防衛本能に固まってしまうのです。
未熟なわたしの過去への執着とも言えると思います。
音信不通なので現在の彼女と私の関係は途絶えた
そのときのまま止まっているのですが
もし、、と想像すると
やはり怖くて、彼女を信頼して
彼女のヒーリングに身を委ねることが出来ないだろう自分がいます。
そして、ある意味とても残念なことのなのですが
きっと他のわたしの知らぬ方々への素晴らしいヒーリング同様の効果は
わたしとの間では起こすことは今の段階ではやはり難しいのではないかな、、とも思ったりします。
それが「関係性」ということなのかな、、と思います。
わたしには、ヒーラーとなった彼女と
自分と仲違いした当時の彼女と
同一人物と認めたくない
そういう思いがそもそもあったのだろうな、、、と
今は(実は最近になってやっと)思っています。
もしかしたら、自分と仲違いする彼女がまっとうなヒーラーなら
彼女からああいった扱いをされてしまう
わたしは自分で解ってないだけで
とんでもない悪い人間か、低俗きわまりない人間なのだ
そんなの嫌よ、それが現実なら耐えきれないわ
あるいはあんなこと人にする人
人の癒しになんか携われっこない、そんなの信じたくない
と、
よい人とはいい関係が築けて当然
そういう短絡的、両極的な
「いい人」「悪い人」という色分けを私自身がしたがっていたのでしょうね。。。
「よきヒーラーは、誰にとっても、もちろん自分にとっても素敵な友人である」のが当たり前で
自分にとって「?」「どうなの?」という人物が
そんなに素晴らしいヒーラーであるわけがないと私自身が思い込みたかったのだと思います。
でも、彼女の中の才能に天は役割を与えられたのだと思います。
彼女の努力もあったのだと思います。
そして、そのことによって、彼女自身はもとより
彼女に関わる多くの人は
より多く幸せを受け取ることになったのだと思います。
それは文句なしにやはり素晴らしいことだと思うようになりました。
(やっと、、ね
)
一方で、私や他の方々とうまくいかなくなった、
そういうその人の部分は
まだその片鱗がうかがえる、というのも、
愚かな私の偏見かもしれませんが、
自身の気持ちとしては正直なところです。
そして、、
「それでいいのかもしれない」、、
やっとそう思えはじめたわたしです。
そして、人を癒すというのは、とてつもなく奥深く
また恐ろしい落とし穴もありえる
大変な、生半可な気持ちではやれないお仕事
なのだなあ、、、と改めて思います。
当たり前ですが、完璧な人はどこにもいませんよね。
それをありのままに見せてもらえた
かけがえのない1つの事例なのかと今は思っています。
どこの誰から見てもいつもどんなときも
申し分ない素晴らしい人というのは
なかなかいないのだと思うのです。
そしてその人物が嘘と張りぼてで塗り固めているというのではなく
等身大でありのままで自分の長所を生かし、のばして、素晴らしいことをしている
その一面で、人としてまだまだ未熟と人から批判、非難されうる状態を抱えているということも
やはりあり得るのだろうな、、、と思います。
他者とかかわるのにあえて相手のあらさがしをして
他人の否定的な面を持ち出す必要はもちろん無いのですが
たまたま知ってしまった個人的には不都合な面を
見なかったことには、、、やはりできません。
それでも、あるからとそれを理由にだからといって、
その人の肯定されるべき美点まで否定するのは。。やはり違うのでしょうね。
(この辺はまだちょっぴり背伸びが入ってマース)
人は与えられた役割故にさらに確実に前進し、成長してる、
完璧でなくとも、今より一歩前進しようと目指している故に
人は既に、その至らなさも十分に許されている
人生にはそういう豊かさがあるのだなあ、、と感激しはじめました。
だから人生は面白い。
それに、やっぱりこの人本当に素敵!
素直にかなり手放しでそう思える対象もありがたいことに
ちゃんとしっかりいます。
ですから、彼女をうらやむのでなく、
祝福しようと思います
そうすると、あら不思議
なんだかとても幸せな気分になってきます
やはり全てギフトなのかもしれませんね~
あかの他人にとって素晴らしい英雄のような人物が
家族にとっては悪魔のような苦難を強いる人物であったり、、
よくいわれるけど、そんなこともあるでしょう。。。
身内には素晴らしい家人が職場では、
とんでもないお荷物ちゃんで
みんなを困らせているということもあるでしょう。
気の合う仲間のときには「最高」でも
一端気持ちが翻ったら、それまでのことが
嘘のようにまるで前世からの因縁の敵かなにかのようになってしまうこともあるでしょう
もちろん身近な人にとっても、遠くの人にとっても
気が合う人にとっても、気の合わない人にとっても
あまりその全貌がかけ離れることなく
丸に近く
人として成熟していけるのが理想なのですが。。。
欠点だらけの自分をして
なにがしかの長所を見いだしたい自分がいて、
自分の役割とは、一体何だろう、
何を軸に、何を足がかりに、終わりなき道を歩んでいくんだろうと
まだ見えぬ自分の道を思ってみるのでした。

キャンプの外にて「お休み中」満喫だから、安穏とこんなこと言えるんだろうな、、と思いながらです。
モモの投稿によせた 明太子のコメントに
個人的に自分の思いの何かが重なり、
書いて少し整理してみたくなりました。
明太子のコメントになにかとても共感して癒されて、、
それでいて、それとそこから全然ピントはずれな個人の思いに思考はとんでいくのですが。。。
「親戚の中で、変な人に限って先生だったから
絶対先生にはなるまいと思いながら育った…
友達にカウンセラーが結構いて、こういう人に
相談したくないなと思いながらつきあった…」
わたしはおめでたかったのか、
学校の先生方には「恵まれた」と思ってこれまでこれました。
親戚には不器用で頑固で清らかなわたしにとっては愛すべき祖父だけが教師としておりました。
決して数多くはないカウンセラーの知人は、
皆それぞれにすてきな方々でした。
けれど、彼らとの距離というのは
もともとそれほど個人的な感情の交わりで左右されるほど
近しいものではなく、
いつのまにか、ご縁が遠くなっていった方が殆どです。
そんな自分の知人の中で
以前物別れになって終わった、かつては結構親しくしていた友人が
最近、人を癒すお仕事をしているようで
そこになにか、とてもひっかかりがちな自分がいました。
「人を癒す」
それは本当に素晴らしいお仕事で、すてきなお仕事で
そんなお仕事を、自分とは最終的にはうまくいかなかった人が
短期間で技術を身につけ
人々のお役にたっている、
その現実が羨ましいという、
ねたみ、羨望の気持ちもあるのだと思います。
(あ~あ。とほほ

そして、自分との関係が切れたころのその方との自分や他の人々とのやりとりを思い出して
「どうしてあの人にそんなことができるのかなあ?
(一面ではかなり攻撃的な面をもち、少なからず理不尽な形で彼女の言動に傷ついて来た人を複数見てきて)
どういう道理で人の癒しにたずさわり、どう着々と力をつけているのかしら、、」という
うらやましさを通り越した
不思議、疑問というか、どこか腑に落ちない思いもありました。
「本当にヒーリングはおこっているのかしら?」という疑問もありました。

そういう力と人格とは別物という、そういうことでなの?
そんな風にどこかで聞きかじった知識をこじつけてみたりもしました。
少し、冷静になって考えますと。。。
会わなくなったその期間に一体なにがあったのかは私にはわかりません。
何か彼女の人生に決定的なことが起こったのかも知れません。
あるいはごくごく自然な流れによって持って生まれた才能が開花したのかもしれません。
でもいずれにせよ、多分、癒しは本当におこっているのだと思います。
本当に、少なくとも今のわたしには
とても出来ない素晴らしいお仕事をして
他者の幸せに大きく貢献されているんだろうな、
それはやはり真実のように思います。
しかも主婦のお小遣いでちょこっと出せそうな
とても良心的な値段設定で
クライアントさんが十分満足される、
そういう素晴らしい提供をされているようです。
え~?この人こんなにいい人だっけ?(ああ失礼お許しを)
こんな人のクライアントになれたら、とってもいいじゃない!
いいなあ~。本当にそう思います。
やっぱり、そんなに「いい人」だったのです(^◇^)(笑)たぶん。
その方とはじめから仲違い関係だったわけではないので
その方の有能さ、他の人にはない素晴らしさも
それなりに十分見知ってきた自分でしたので。
なるほど、、と思うところもたくさんあったりします。
ただ、それでも「それ、どんな風なのかな」とか好奇心のような、品定めのような
あまり上等とはいえない気持ちから以上には、
彼女のヒーリングをやはり私は受けたいとは依然、思えない自分もいます。
パブロフの犬よろしく防衛本能に固まってしまうのです。
未熟なわたしの過去への執着とも言えると思います。
音信不通なので現在の彼女と私の関係は途絶えた
そのときのまま止まっているのですが
もし、、と想像すると
やはり怖くて、彼女を信頼して
彼女のヒーリングに身を委ねることが出来ないだろう自分がいます。
そして、ある意味とても残念なことのなのですが
きっと他のわたしの知らぬ方々への素晴らしいヒーリング同様の効果は
わたしとの間では起こすことは今の段階ではやはり難しいのではないかな、、とも思ったりします。
それが「関係性」ということなのかな、、と思います。
わたしには、ヒーラーとなった彼女と
自分と仲違いした当時の彼女と
同一人物と認めたくない
そういう思いがそもそもあったのだろうな、、、と
今は(実は最近になってやっと)思っています。
もしかしたら、自分と仲違いする彼女がまっとうなヒーラーなら
彼女からああいった扱いをされてしまう
わたしは自分で解ってないだけで
とんでもない悪い人間か、低俗きわまりない人間なのだ
そんなの嫌よ、それが現実なら耐えきれないわ

あるいはあんなこと人にする人
人の癒しになんか携われっこない、そんなの信じたくない

よい人とはいい関係が築けて当然
そういう短絡的、両極的な
「いい人」「悪い人」という色分けを私自身がしたがっていたのでしょうね。。。
「よきヒーラーは、誰にとっても、もちろん自分にとっても素敵な友人である」のが当たり前で
自分にとって「?」「どうなの?」という人物が
そんなに素晴らしいヒーラーであるわけがないと私自身が思い込みたかったのだと思います。
でも、彼女の中の才能に天は役割を与えられたのだと思います。
彼女の努力もあったのだと思います。
そして、そのことによって、彼女自身はもとより
彼女に関わる多くの人は
より多く幸せを受け取ることになったのだと思います。
それは文句なしにやはり素晴らしいことだと思うようになりました。
(やっと、、ね

一方で、私や他の方々とうまくいかなくなった、
そういうその人の部分は
まだその片鱗がうかがえる、というのも、
愚かな私の偏見かもしれませんが、
自身の気持ちとしては正直なところです。
そして、、
「それでいいのかもしれない」、、
やっとそう思えはじめたわたしです。
そして、人を癒すというのは、とてつもなく奥深く
また恐ろしい落とし穴もありえる
大変な、生半可な気持ちではやれないお仕事
なのだなあ、、、と改めて思います。
当たり前ですが、完璧な人はどこにもいませんよね。
それをありのままに見せてもらえた
かけがえのない1つの事例なのかと今は思っています。
どこの誰から見てもいつもどんなときも
申し分ない素晴らしい人というのは
なかなかいないのだと思うのです。
そしてその人物が嘘と張りぼてで塗り固めているというのではなく
等身大でありのままで自分の長所を生かし、のばして、素晴らしいことをしている
その一面で、人としてまだまだ未熟と人から批判、非難されうる状態を抱えているということも
やはりあり得るのだろうな、、、と思います。
他者とかかわるのにあえて相手のあらさがしをして
他人の否定的な面を持ち出す必要はもちろん無いのですが
たまたま知ってしまった個人的には不都合な面を
見なかったことには、、、やはりできません。
それでも、あるからとそれを理由にだからといって、
その人の肯定されるべき美点まで否定するのは。。やはり違うのでしょうね。
(この辺はまだちょっぴり背伸びが入ってマース)
人は与えられた役割故にさらに確実に前進し、成長してる、
完璧でなくとも、今より一歩前進しようと目指している故に
人は既に、その至らなさも十分に許されている
人生にはそういう豊かさがあるのだなあ、、と感激しはじめました。
だから人生は面白い。
それに、やっぱりこの人本当に素敵!
素直にかなり手放しでそう思える対象もありがたいことに
ちゃんとしっかりいます。
ですから、彼女をうらやむのでなく、
祝福しようと思います
そうすると、あら不思議

なんだかとても幸せな気分になってきます

やはり全てギフトなのかもしれませんね~
あかの他人にとって素晴らしい英雄のような人物が
家族にとっては悪魔のような苦難を強いる人物であったり、、
よくいわれるけど、そんなこともあるでしょう。。。
身内には素晴らしい家人が職場では、
とんでもないお荷物ちゃんで
みんなを困らせているということもあるでしょう。
気の合う仲間のときには「最高」でも
一端気持ちが翻ったら、それまでのことが
嘘のようにまるで前世からの因縁の敵かなにかのようになってしまうこともあるでしょう
もちろん身近な人にとっても、遠くの人にとっても
気が合う人にとっても、気の合わない人にとっても
あまりその全貌がかけ離れることなく
丸に近く
人として成熟していけるのが理想なのですが。。。
欠点だらけの自分をして
なにがしかの長所を見いだしたい自分がいて、
自分の役割とは、一体何だろう、
何を軸に、何を足がかりに、終わりなき道を歩んでいくんだろうと
まだ見えぬ自分の道を思ってみるのでした。