方丈記は読みやすい本であると言っても、それは専門家が漢字と仮名を現代風に書き下ろしてくれたからです。伝わる写本そのものはそんなわけに行きません。和漢混淆文として知られた方丈記ですが、底本として使われることの多い「大福光寺本」は混淆文が漢字とカタカナの仮名交じり文であり、他の伝わる写本で、漢字と平仮名で書かれている本もあるそうです(Wiki.)。カタカナは比較的読みやすいので、ほんの一部をちらっと見ただけですが、読めそうな気がするものの、漢字の方は崩されると大変です。
世の無常を訴えた鴨長明の綴る文章の書き出しは素晴らしく、その後に自身が経験した天変地異や火災の幾つかを書き連ねます。東大寺大仏の頭部が、もげてしまった事件が方丈記に記されていることは、高校時代の古文の授業で耳にしているはずですが記憶の彼方に行ってしまい、最近改めて方丈記を読んで印象を新たにしました。どれ程激しい地震に奈良地方が見舞われたのか知りたいです。大仏の頭部が落下するほどですから地面の揺れは大変なものでしょう。体の他の部分の損傷は如何だったのでしょうか。方丈記(新注『方丈記』、白楊社)の「七、元暦の大地震(げんりゃくのおほな ゐ)」の後半部分ですが、今は昔に起こった別の地震の記憶として書かれているところです。見出しの「一、二、三、…七、……」は便宜上の分類で、方丈記本文はずらずらと書き並べられている文章と思われます。
“………昔、斉衡(せいかう)のころとか。大な ゐふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほこのたびにはしかずとぞ。……”。
この文章を含めた1ページ弱をコピーします。
鴨長明の語る「斉衡の大地震」は文徳天皇御世(850~858)に起こったもので、年号の「斉衡」は854~857年に当たります。「せいかう(斉衡)」は日本国語辞典や広辞苑は「さいかう(さいこう)」と読んでいます。この地震は『文徳実録』の「斉衡二年五月の条」に述べられている(『方丈記』全訳注、安良岡康作、講談社)ということは、855年ですね。藤原良房が太政大臣に就く2年前で、空海や最澄の生きた時代の少し後です。この地震を体験した偉い人は誰か。文徳天皇、(のちの)清和天皇、藤原良房、藤原基経、円仁、円珍、(10歳の)菅原道真。有名人をこれだけ並べると時代感覚が大体掴めます。
文徳実録の語る「大仏仏頭落下事件」について詳しく説明してくれる文献を見付けました。『貞観三年東大寺大仏供養呪願文』(後藤昭雄氏の論文、成城大学)を引用させて下さい。“文徳朝の斉衡二年(八五五)五月二十三日、南都東大寺の大仏の頭部が落下するという椿事が出来した。この日、”の続きが下の文章です。
文徳実録を漢文体で読まなければならないところ、助かりました。地震は何回か連続して起きたようです。建立してから時代が経っているので、劣化による破損であると主張する文徳実録ですが、仏頭落下の直接の原因は地震の揺れによるものだろうとされています。どれ程の強さの地震なのかは知る由もありませんか。それと、その現場を見てみたいなんて言ったら不謹慎のような。
東大寺の公式サイト(ホーム>参拝のご案内>大仏殿)の「盧舎那大仏と大仏殿」に述べられていることは、
“………平安時代になると、早くも大仏さまの背部に損傷が見られたり、傾斜を止めるために背後に盛り土をするなど補修工事がなされたが、斉衡2年(855)、大地震により頭部が落ち、修復がなされた。一方、大仏殿をはじめ諸伽藍も、天災や失火などにより修復を迫られることが多かった。………平安時代末期になると、東大寺はその荘園をめぐって様々な紛争に巻き込まれ、ついに治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した。………”。
大仏様は大分傷んできていたようなので、それに地震の追い打ちが加わったのでしょうか。大仏と大仏殿は一旦修復なったものの、あろう事か、平安時代末期に平重衡(清盛の五男)による南都焼き打ちで東大寺は殆どが灰燼に帰しました。鴨長明(1155?~1216)は同じ治承年間に起こった「治承の辻風」、「福原遷都」のことを話している割には「南都焼き打ち」に触れていないのは人為的な事件ということもありましょうか。
方丈記に載る災厄の幾つかの内、大火事の話についてもどんなに激しい火事であったのか考えてみたいと思います。「安元の大火」として有名です。「二、安元の大火」で始まっていますが、本文にこの題名は書かれてはいません。京の町をなめて行く火の恐ろしさを、臨場感あふれて語ってくれる鴨長明の卓越した文章に感動しつつも、火事の恐ろしさを身に浸みることが大事です。本文を掲げます。
更に続きは、“牛のたぐひ辺際を知らず。……”。焼失は都の内の1/3に及んだそうです。平安京図から火元の樋口富小路(8)が分かります。辰巳から戌亥に火事は広がったので主に南東の風だったのでしょう。この大火のことは『玉葉』(九条兼実著)に載っており、『安元の大火』(Wiki.)では,
“………西は朱雀大路(幅約84メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居(里内裏)だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮・平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日辰の刻(午前8時頃)になっても鎮火しなかったという(『玉葉』29日条)。焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目であったが、内裏で天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており以後は再建されることはなかった”。
2つの情報源から都の焼失範囲を考えます。平安京図を大きくしました。
1~7が焼失した範囲でしょうか。富小路より西、六条大路より北、朱雀大路より東(朱雀以西とは?)、大内裏の南北中央より南、と凡そ考えて良いでしょうか(赤い破線)。 “七珍万宝さながら灰燼となりにき。そのついえいくそばくぞ(いくばくぞ)”が、恐ろしい状況を忘れて、その言葉の響きに引かれて記憶に残っています。そう、「安元の大火」は、讃岐の配流地で亡くなった崇徳上皇の祟りとして恐れられたのでした。