346)阿仏尼の上って下った箱根路 | 峠を越えたい

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戻るより未だ見ぬ向こうへ

 以前話題に上せたことのある“馬でも越せる”箱根の山の越え方ですが、実際にその道中を徒歩で鎌倉時代中期に辿った人の日記文によって、追体験したいです。私は旧東海道を箱根湯本から上って芦ノ湖畔に立ち、箱根峠を越えて三島まで歩きましたが、寄る年波のせいか1日がかりでは済みませんでした。

 箱根越えルートの変遷を『箱根越えの交通路の移り変わり』(「中学校社会科地図帳」帝国書院、1950)より、

 以前掲げた『箱根越えの今と昔』(「小学校社会科地図帳」帝国書院、1960)を再掲します。

 両者を見ると、上図では足柄峠を越えて小田原宿へ下ってくる道や湯坂道がありません。また古代の交通路が幾分異なりますか。下図では湯坂道が描かれず、箱根裏街道を載せてくれました。93)でまとめた「天下の嶮克服の道」は4つでした。

  ①足柄路(矢倉沢往還)

    古代の東海道。御殿場線の内側乃至は沿って。足柄峠経由。

  ②箱根路(湯坂道)

    中世の東海道。早川と須雲川に挟まれた尾根筋を登っていく。箱根峠経由。

  ③箱根路(須雲川道)

    江戸時代。旧東海道、箱根旧街道。須雲川に沿って遡る。箱根峠経由。。

  ④箱根裏街道

    外輪山の内側を辿り乙女峠を越えて御殿場へ。乙女峠経由

 基礎知識を確かめた上で、阿仏尼の辿った箱根路が辿れるでしょうか。阿仏尼(?~1283)が京より鎌倉へ向け出発したのが1279年(弘安2年)のことなので、鎌倉幕府は執権・北条時宗の時で、文永の役(1274)と弘安の役(1281)のちょうど間の時期は世の中騒然たる状況であったでしょうか。この時代、そうです、日蓮の名前が浮かびます。鴨長明(1155?~1216)と同時代ではなく、前者が鎌倉中期、後者が鎌倉前期と言えます。阿仏尼は問注所に訴状を提出したのでしょうか。

 『十六夜日記-解釈と現代語訳-』(西下経一著、復刻版、響林社文庫)より、

 前日夕方三島明神にお参りしました。伊豆国府も同じ三島にありました。上文の続きは、

 “湯坂より浦に出でて、日暮れかかるに、なほとまるべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるる海づらを、「いづことかいふ」と問へば、知りたる人もなし。あまの家のみぞある。………鞠子川といふ川を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂(さかは)という所にとどまる。あすは鎌倉へ入るべしといふなり。二十九日。酒匂を出でて浜路をはるばると行く。…………”。

 箱根路に入り、足柄の山は長い道のりと言いながら、それ程辛そうではありません。箱根峠を過ぎて下りになると難儀であったようです。「いとさかしき山」の「さかし」は「さがし【険し・嶮し】」(旺文社古語辞典)と載っていて、けわしいという意です。足が留まれないほどの急坂。「からうじて」越えはてたとのこと。「湯坂」は覚えています。(93)にて経路の説明文章と地図を載せました。新たな地図は『箱根』(「山と高原地図30」昭文社)から引用します。

 

 「湯坂道ハイキングコース」が(中世の東海道と呼ばれる)「湯坂道」です。箱根湯本温泉で合流する早川とその支流である須雲川に挟まれた位置で尾根伝いに歩きます。旧東海道(江戸時代の東海道、須雲川道、県道732号)と箱根新道(国道一号バイパス)は須雲川に、現・東海道(国道一号、箱根国道)は早川に沿って辿ります。箱根駅伝選手達が正月に走る箱根国道から、湯坂道は湯坂道入り口(芦の湯の少し東)で分岐して尾根伝いを通り、塔ノ沢辺りで再び箱根国道に合流することになります。芦の湖畔から湯坂道入り口までは箱根駅伝道路と同じか、或いは少し違うところが有るかもしれません。

 さて「ふもとの早川」まで下りてきました。ここから浦に出ると伊豆大島が見えました。「鞠子川」が早川と酒匂川との間に見つかりません。残念です、と思いきや、西下経一氏の『十六夜日記』内の注釈に書かれていました。鞠子川は酒匂川の古名とのことです。『酒匂川-小田原-Localwiki』が見つかりました。題名を「酒匂川」として、その「名称」の所です。

 “………「酒匂(さかわ)」の語源については、『海道記』に、「汐のさす時、上さまに流るゝ故さかはと云ふ」とある(3)

古くは丸子川(まるこがわ)ないし鞠子川(まりこがわ)と呼ばれていた(3)(2)。『東鑑』の治承4年(1180)8月23日の記事で、三浦氏源頼朝の陣に参加するため川辺に宿陣したとき、大沼三郎が西岸に到着して、和田義盛に馬を借りて川を渡り、石橋山の合戦のことを伝える中に、「丸子河辺」でみえる(3)

 また『平家物語』海道下段、元暦元年(1184)3月の記事に、三位中将・平重衡が鎌倉下向のとき「鞠子川」を渡ったことがみえる(3)(他にも『風土記稿』に挙例があるが、省略する)”。

 阿仏尼が鞠子川を渡ったのは平重衡の下向から凡そ100年を経過しています。鞠子川(酒匂川)を渡って着いた「酒匂」(村)に宿泊し、明日は鎌倉に着きそうです。「酒匂」川の語源は「酒の匂い」とはまるっきり関係ないようです。地名の漢字を好き勝手に変えてしまう例を多々見かけます