JR高島屋の1階 北ブロック デリシャスコートに「京 八坂プリン」が来てくれています。お店近くの八坂庚申堂の有名なくくり猿をイメージしたようなカラフルで小さな寒天ボールとマンゴーゼリーボールが入った一番人気の 京 八坂プリン(500円)と丹波産黒豆が底に隠れている抹茶黒豆(500円)をいただきます。インスタ映えをイメージしているだけかと思ったらはちみつレモン味の透明なジュレと寒天ボールそして下の層のプリンが絶妙なバランスで口の中いっぱいに広がり新食感のとてもおいしいプリンで人にもあげたくなるような逸品でした。ごちそうさまでした♪

 

京 八坂プリン 

京都市東山区星野町

 

あらすじ
父を亡くし母に捨てられ、祖父に引き取られたものの、学校ではいじめに遭っている耀子。夫を若くして亡くした後、舅や息子と心が添わず、過去の思い出の中にだけ生きている照子。そして、照子の舅が愛人に生ませた男の子、立海。彼もまた、生い立ちゆえの重圧やいじめに苦しんでいる。時は1980年、撫子の咲く地で三人は出会うこととなった。


ひと言
「四十九日のレシピ」「犬がいた季節」がとてもよかったので、伊吹 有喜の他の作品をこのゴールデンウイーク中に読もうと借りました。読み始めは少し長いかなという印象でしたが、第九章ぐらいからは引き込まれて読みました。自律…うつくしく生きること、あたらしいじぶんをつくること。『どうして』ではなく『どうしたら』という魔法の言葉を信じること。読んでよかったなぁと思える一冊でした。


「自律とは、新しい自分をつくること。自分の手で、自分という楽器の音色をつくること。ご飯を食べるのも勉強をするのも、運動するのも遊ぶのもすべて、なりたい自分をつくるための手段。どんな大人になりたい?どんな新しい自分になりたい?」「わかんない」「わかりません、と言いなさい」わかりません、とあわてて耀子は言い直す。こんな話をするのは初めてだ。「わかりません……。けど……わかるように……なりたい」……。白板に書かれた文字を見た。
自立、かおを上げて生きること。
自律、うつくしく生きること、あたらしいじぶんをつくること。
(第四章)

耀子は愚鈍ではない、と青井が言った。「のろまでもない。じっくりと考えるタイプです。たくさん考えた分、心のなかは豊かで深いはず。だけど結果や速さだけを良しとする世界では落ちこぼれてしまうでしょう」この子に必要なのは何かと、間宮が青井に聞いた。「自覚と教育です」
(第九章)

魔法?と青井を見上げたら、真剣な顔をしていた。「そう、今を変える魔法の言葉。これが今年最後の私の授業」「何?なんですか?何?」「どうして、って思いそうになったら、どうしたらって言い換えるの」「そんだけ?」そう、と青井が答えた。「『どうして』グズなの? この質問に答えは出ない。だけど『どうしたら』グズではなくなるの? この質問には考えれば答えが出る。たとえば……何かをする前に、あらかじめ準備をしておくとか。手順を書いて練習してみるとか。答えが浮かばなかったら誰かに相談してもいい」「相談……」人に聞くのは恥ずかしい? と青井がたずねた。うなずくと、そうね、と優しい声がした。
「恥ずかしいかもしれない。でもね、どうして私はグズなんでしょうと人に聞いても、おそらく誰も答えられない。だけど、どうしたら私はグズでなくなるのでしょう、と聞いたら、親身になって一緒に考えてくれる人がいるかもしれない」どうして嫌われるの、と青井がつぶやいて立ち上がり、窓にもたれた。「そうじゃない。そう思いそうになったら……」「『どうしたら』きらわれなくなるの?」そう、と青井がうなずいた。「それに慣れたら今度は暗い言葉を前向きな言葉に言い換えるの。攻めるのよ。一歩前に踏み込むの。どうしたら嫌われなくなる、ではなく、どうしたら好きになってもらえるの? というふうに。それで言えば、どうしたらグズでなくなるの?は」「どうしたらチャカチャカやれるの?」「チャカチャカつて可愛いわね。でも、手早くやれるの? のほうが解りやすいかもしれないわ」簡単そうでしょう、と青井が言った。……。……。「『どうして』と自分を責めない。『どうしたら』と前に進もうとする。やっぱりそれが今を変える魔法の言葉。そうやって私はなんとかやってきた。
(第十章)

「誰にも負けないもの、ずうっとやっていても苦にならないもの。料理が好きとか、お裁縫が好きとか、計算が得意とか。そういうものでいい。それを見つけたら、大事に磨いて武器にすれば生きていきやすい」「私、なんもない」「じゃあ、それが見つかるまで、こつこつ勉強をするのは大事なこと。勉強というのは、自分の武器を見つけるための手段なの」「でも私、バカだし」耀子ちゃんはバカじゃない、と力強い声がした。「グズでもない」青井が手を伸ばして、耀子の両手をとった。「そんな言葉は何も生み出さない。人の心を砕くだけ」青井に握られた両手が、軽く振られた。「ほら、この前、手に作った擦り傷が、もう治りかけている。あなたが自分のことをどれだけグズだのバカだの言っても、身体は何も言わずにあなたのことを支えている。毎朝、新しくなっているのよ。身体はあなたのことが大好きだ。なのにどうして自分のことをいじめるの? 反省は大事。謙虚であるのも良いこと。だけどその前に自分を信じてやらねば。グズとかのろまとか、そんな言葉は心を壊すだけ。たとえ世界中のみんながあなたにそう言っても、自分だけは自分にそう言ってはいけないのよ」「なんで……ですか?」父の腕時計に青井が手を重ねた。「あなたを思っている人がいる。あなたへ命をつないだ人がいる。お誕生日にプレゼントが届かなくても、毎年大きくなっていくこの身体は、お父さんとお母さんからのプレゼント。贈り物に文句を言ってはだめよ」青井の手が温かい。
(第十章)

つながっている。手を伸ばせば、きっとつながれる。たとえその手が遠くても、いつかどこかでつながっていける。右手と左手をつなぐと感じる。ここに自分がいることを、つないでくれる手があることを。つないだ手を離して、耀子は新しいノートの一ページを開ける。どの教科のノートにも表紙の裏には小さくこの言葉を書いた。自立、かおをあげていきること。自律、うつくしくいきること。始業のベルがなり、クラスメイトが席につく。先生が教室に入ってきて、学級委員が起立の号令をかけた。ゆっくりと立ち上がって、耀子は両足に力をこめる。黒板を見上げて、自分に言った。やらまいか。あたらしいじぶんを、つくるんだ。
(エピローグ)

 

先日TVでバウムクーヘン博覧会のことが取り上げられていて、2021年秋のファイナルクーヘン総選挙で愛知県西尾市の「King Farm」のバウムクーヘンが1位に選ばれたとのこと。一度食べてみたいなぁと思っていたところ、スーパーで究極のしっとりバウムクーヘン(1404円)が売られているのを見つけました。箱に書かれているとおりレンジで10秒ほど温めていただきます。一番外側の部分が少し甘めですが、名前とおり しっとりして後味がよくとてもおいしいです♪。1週間ほど前に「治〇〇」のバウムをいただきましたが、「King Farm」の方が断然おいしいです♪。バウム総選挙で1位だけのことはあります。とても美味しかったです。ごちそうさまでした♪。

 

King Farm Cafe

西尾市西浅井町坂下

 

あらすじ
平安貴族のプレイボーイは、ウルトラ不倫あり、結婚モラトリアムあり、ナンパあり、有名なゴシップあり、告白できなかった恋あり、妻公認の浮気あり、自然消滅あり(もう何でもあり)。恋愛のパターンは今も昔も変わらない。伊勢物語を現代語訳した著者が、脱線アリ体験談アリ個人的恋愛論アリでその面白さを伝える、ロマクチックでユーモラスなエッセイ。古典の勉強はちょっと若手、という人にもこれならきっと好きになる、恋する受験生の必読書。

ひと言
ちょうど3年前のこの時期に「史跡八橋かきつばたまつり」に行きました。そうだ!このゴールデンウイーク 伊勢物語読もう。と思って探していたときに見つけたのがこの本。第九段 東下り、第二十三段 筒井筒、第二十四段 梓弓、第八十二段 渚の院、第百六段 龍田河、第百二十五段 つひにゆく道 などなど。やっぱり伊勢物語はいいなぁ。私と2歳違い、今年還暦の俵 万智さんの解説もグッド。ゴールデンウイークを楽しく過ごすことができました♪。


「むかし、男ありけり」これが、『伊勢物語』に収められている百いくつの章段の、典型的な書き出しだ。むかし――と言ったって、どれぐらい昔なのか、たとえば時代でいうとどのあたりなのか。男ありけり――そりゃ、昔だって男ぐらいいたでしょうけど、一体どんな男なのか。飲み物の注文をする時に、「とりあえず、ビール」という言葉をよく耳にするけれど、『伊勢物語』の書き出しというのは、あれに似ている。「(とりあえず)むかし、男ありけり」しかも、この場合の「けり」という過去の助動詞は、詳しく分類すると「人づてに聞き知った過去」を表すもの。だから話し手は、「男」と会ったりしゃべったりしたことはない。「(とりあえず)むかし、男ありけり(なんだけれど、いや別に、そいつと親しかったとか、よく知っているとかっていうんじゃあないんだ)」受験生のために付け加えておくと、過去の助動詞にはもう一つ「き」というのがある。こちらは、過去に直接体験したことを回想する場合に、多く用いられる。「むかし、男ありき」となると、現代語訳では同じ「昔、男がいた」であるが、話し手は、この男とつきあいがあった、ということになる。そうすると、「むかし」という時代も、「男」という存在も、少しは限定されてくるだろう。
(1 とりあえず、男がいた)

「むかし、男ありけり」。例によって、第九段も、この一文から始まっている。
主人公の「男」は、都会での生活に疲れ、恋に傷ついた心を癒すため、旅に出る。古くからの友人が一人二人同行して、めざすは「東のかた」――できればそこに安住の地を見つけたい、とまで男は考えている。東のかた、とは、今の関東地方あたりをいう。都のあった京都から見て東ということで、だからそちらへ向かう旅路は「東下り」。……。三河の国(愛知県)の八橋というところで一休みしていた時のこと。近くにかきつばたが美しく咲いていた。それを見た友人の一人が、歌を詠めと男に迫る。しかも、注文つきで、「かきつばたといふ五文字を句のかみにすゑて、旅の心をよめ」と言う。注文の内容を簡単にいえば、五七五七七のそれぞれの頭に、か・き・つ・ば・た、という五文字を折りこめ、ということになる。たわいない言葉遊びのようだが、これはれっきとした短歌の修辞技巧の一つで「折句」と呼ばれている。そこで男が詠んだ歌を、平仮名で記してみると、

からごろも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ


見事に折句の注文をクリアしているだけでなく、その他の技巧もあれこれ凝らされていて、まるで修辞テクニックのカタログみたいな歌である。唐衣とは、唐風の衣服で、それを着るように馴れ親しんできた妻が都にいるので、はるばると来た旅の遠さが思われることだ――と、歌の意味もまことにこの場にふさわしい。どのあたりが「カタログ」かというと、まず、「唐衣」は「着る」の枕詞、そして「唐衣着つつ」までが「馴れ」を導く序詞、「唐衣、着、馴れ、褄(つま)、張る」は着物の縁語、「つま」には「妻」と「褄(着物の襟先から下のふち)」が掛けられ、「はるばる」には「遥々」と「張る張る」が掛けられている。
(6 風流心は忘れない)

まだ幼い男の子と女の子が、井戸のところで遊んでいる。この井戸は、筒井といって筒のように丸く掘られていた。地面の上に出ている部分を囲んだものを「井筒」という。井筒は大人の胸ぐらいの高さがあった。その井筒の隣に立っての背くらべ。「ほら、ぼくはもうこんなに大きくなったよ」「私だって、このまえよりも少し…… 」「あっだめだよ。背のびなんかしちゃ」「だって……」「心配しないで。ちゃんと大きくなるまで待っててあげるから。そしてぼくの背がこの井筒よりも高くなったら、きみをお嫁さんにもらいにくるよ。いいかい?」「それじゃあ私は、その日までうんと髪を長く伸ばして、待っているわ。きっとよ。げんまんしましょう」第二十三段は、「筒井筒」の愛称で人々に親しまれてきた段である。幼い二人の、幼い約束。まるで、おままごとの延長のような……。それは、どちらかが忘れてしまったら、その瞬間に消えてしまうような、頼りないはかない約束だった。……。自分の心に芽生えた恋に対して、あるいは相手に対して「恥ずかしい」と思う感情。こういう奥ゆかしい気持ちは、できれば長く保存したいものだが、悲しいかな、年齢と経験とを重ねるにつれて、まっ先になくなっていくもののようだ。だからこそ貴重で、人々はこの段を読むたびに、「うんうん、いいなあ」と思い、何だか胸がキュッとしめっけられるような感じがするのだろう。『伊勢物語』の中でも特に愛されてきた段であることの理由の一つは、ここにあるのではないかと思う。さて、そろそろ年頃になった女のところへは、親がたびたび縁談を持ってくるようになった。しかし、がんとして娘は受けつけない。幼い日の約束を信じて、彼女は待っていたのだった。そんなある日、男から歌が届けられた。

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ すぎにけらしな 妹(いも)見ざるまに

筒井を囲う井筒と比べていた私の背丈は、もう過ぎてしまったようです。あなたに長くお会いしないうちに……。歌を贈るということは、一人前の男が、一人前の女へ接するという態度である。「私の背は、井筒よりも、もう高くなりました」――これはもちろん、求愛の歌である。幼い日の二人の思い出を重ね合わせながら、実に奥ゆかしい表現で、またまた読む者は「いいなあ」と思ってしまう。……。「ああ、やっぱり二人の約束を、あの人も大切に覚えていてくれたのね」――喜びに小さな胸をふるわせて、女もさっそく返事の歌を詠んだ。

くらべこし ふりわけ髪も 肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

ふりわけ髪というのは子どもの髪型で、左右に分けて肩のところで切りそろえるスタイルである。女は年頃になると、髪あげをして成人の姿となるのが習いだった。ふりわけ髪のころから、その長さを比べあったりして遊んできましたが、その髪も、もうずいぶん長くなりました。あなた以外の誰のために、髪をあげましょうか。私が大人になるのは、あなたのためです……。素直で、思いのこもったいい歌だ。幼い頃の思い出と二人の成長の過程を詠みこみ、男の求愛にまことにぴったりとこたえている。 
(11 妻が公認する浮気)

誰を待つ 何を吾は待つ 〈待つ〉という 言葉すっくと 自動詞になる

〈待つ〉という言葉には、「○○を」という目的語がつくのが普通である。ところが、あまりにも待つことが長びいてしまうと、一体自分は何を待っているのか、よくわからなくなってしまうことがある。右の一首は、そういう末期的段階を歌ってみた。本来は、目的語のある他動詞だったはずの〈待つ〉が、いつのまにかそれ自体で世界を完結させてしまっている……。あたかも自動詞のような〈待つ〉。
(12 三年目の悲劇)

『伊勢物語』って、どうして『伊勢物語』なんだろう、と素朴な疑問を抱いている人は、かなりおられるのではないだろうか。……。この不思議なタイトルについては、古来、さまざまな説が出されてきた。作者が「伊勢」という名前だったという説、伊勢の国(現在の三重県の北半部)に関係づけて考える説、伊は女で勢は男を表す、つまり男女物語の意味であるとする説、えせ物語がなまったのだとする説、などなど、このほかにもいろいろある。現在、最も有力とされているのは「伊勢斎宮」の登場する話があるので、それに由来して、とする考えだ。
(19 斎宮の青春)

第九段の東下り、第二十三段の筒井筒の話などと並んで、第八十二段もまた、古くから人々に親しまれてきた。惟喬(これたか)の親王(みこ)の交野の桜、といえば、「あ、あの話ね」と思いあたる人も多いだろう。……。春、桜の花まっさかりの季節、惟喬の親王は、気の合う仲間をさそって、花見へと出かけられた。水無瀬というところ(現在の大阪府三島郡島本町)に親王は離宮を持っていたので、毎年この季節には、そこへおいでになる。そして必ず、常にお供としてご一緒していたのが、当時馬頭(馬に関することをつかさどる役所の長官)だった男であった。……。淀川を隔てて、水無瀬の対岸に交野というところがあり、そこの「渚の院」恚呼ばれているお邸の桜が、ことのほか見事だった。一行は馬からおりて、その桜のもとに座り、枝を折って冠に挿し、身分の別なく全員が歌を詠む。ここで、馬頭だった男が、素晴らしい一首を残した。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

この世の中に、桜の花というものがもし全くなかったら、春の心は、のんびりのどかであるのになあ……。春になると私たちは、桜の開花はまだかまだかと待ちわびる。そして咲いたら咲いたで、妙にウキウキし、また、散りやしないかとハラハラする。風雨に弱いこの花は、心配どおりあっというまに終わってしまい、みんな、がっかり。まったく、人の心を騒がせる花だ。わかってはいるけれど、毎年のように、この「まだかまだか、ウキウキ、ハラハラ、がっかり」は、繰り返されるのである。もちろん、右の一首は、本当に桜がなくなればいい、という意味のものではない。こんなにも私たちの心を乱す桜の花であることよ、という言い方で、その魅力というものを、賛美しているわけである。この一首に答えるように、また別の人が歌を詠んだ。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ うき世になにか 久しかるべき

散ってしまうからこそ、桜というものは、よけいにいいんですよ。この悩みの多い無常の世の中に、永遠のものなんてあるでしょうか……。
(20 桜の花は罪つくり)

第百二十五段は、『伊勢物語』最後の段である。ある男が病気になり、もう自分の命の長くないことを悟り、辞世の歌を詠む。

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりしを

誰でもいつかは、必ず行かねばならない死への道。かねがね聞いてはいたが、それが昨日今日といった深刻さで我が身のこととなるとは、思わなかった……。人間は、必ず死ぬ。予測できない人生において、これだけは間違いない。私たちはそのことを充分承知のうえで、とりあえず日常生活の中では、忘れている。そのことだけでも、人間は本質的に、楽天家にできているなあと思う。……。……。この辞世の歌は、人間の、死に対する心構えというものを、実にみごとにとらえている。死を前にして動揺しない人間なんて、いないはず。理屈では理解していても、感覚としては実感されない(これもあたりまえの話。人間は死ぬ瞬間ま
で、生きているのだから)。『古今集』巻十六に載せられているので、この歌は業平の作ということがわかる。最後が業平の辞世の歌で締めくくられているあたり、「業平の一代記」の印象を強く与えるが、『伊勢物語』は決して業平の話ばかりではないことは、これまでにご紹介してきたとおりである。……。……。確かに辞世の歌というと、かっこいいものが多い。たぶん、それらは、死の直前ではなく、あらかじめ作っておいたものなのだろう。だから、一生をまとめて振り返って、含蓄のある言葉で締めくくったり、悟りすまして、もう思い残すことはない、死ぬのもちっとも恐くない、といった感じになってしまうのではないだろうか。要するに「死ぬときはこうありたい」という願望をまじえて詠まれるから、ついついかっこよくなってしまうのではないかと思う。そういう目で百二十五段の歌を読み返してみると、まことに率直に、死を前にした人間の気持ちが、飾ることなく詠まれている。どんなに覚悟をしていても、いざ目の前に死というものが迫ってくると、こういう気持ちになるのではないだろうか。
ところで、かっこいい辞世の歌というと、私は千利休をまず思い出す。

提(ひつさ)ぐる 我が得具足の 一太刀(ひとつだち)今この時ぞ 天に拠(なげう)つ

秀吉に命乞いをせず、切腹で自らの命を絶った利休。生きのびる道もあったはずなのに、死への道を選んだ。彼の場合は、「きのふ今日とは思はざりし」ではなく、自分で「きのう今日」のことにしてしまったのだから、辞世の歌にこれだけの力みがあるのも、頷けることではある。彼は自分の死をも、定型の美学をもってデザインした。「つひにゆく……」の歌とは対照的な一首である。
(37 いつかゆく道)
 

 

 

 

金山のLOVE2 Sweets に5/11まで出店している兵庫県尼崎の「アマリア」のチーズプレーン(1350円)をいただきました。オーストラリア産のナチュラルクリームチーズと生クリームの2層のふんわりトロトロのスプーンで掬って食べるチーズケーキです。ざらめシュー(194円)と同様、口の中いっぱいに甘さが広がります。少し甘めですがとても美味しいです。ごちそうさまでした♪。

 

アマリア (Amaria)

尼崎市浜田町5

 

あらすじ
「友よ、最上のものを」戦中の東京、雑誌づくりに夢と情熱を抱いて―― 平成の老人施設でひとりまどろむ佐倉波津子に、赤いリボンで結ばれた小さな箱が手渡された。「乙女の友・昭和十三年 新年号附録 長谷川純司 作」。そう印刷された可憐な箱は、70余年の歳月をかけて届けられたものだった――戦前、戦中、戦後という激動の時代に、情熱を胸に生きる波津子とそのまわりの人々を、あたたかく、生き生きとした筆致で描く。実業之日本社創業120周年記念作品の本作は、竹久夢二や中原淳一が活躍した少女雑誌「少女の友」(実業之日本社刊)の存在に、著者が心を動かされたことから生まれました。


ひと言
ロシアのウクライナ侵略が行われている今だからこそ読まなければいけない本だと思いました。「言論の自由」が奪われ、底なしの戦争が続いているウクライナ。国連は、NATOは、アメリカそしてわれわれ日本は、21世紀の時代に行われているこの蛮行をどうして止めることができないんだろう。


「東京に万が一のことがあったら、親父は走って逃げられないし。せめて兄貴の忘れ形見だけでも安全な所に置いておかないと。これで安心して行けるよ、出征するんだ」さらりと言われて、一瞬、息が止まった。「慎ちゃん……卒業がまだじゃない」高等学校や専門学校、大学に通っている学生は徴兵が猶予されており、卒業するか、二十六歳になるまでは戦地に行かなくてもよいはずだ。「文系の学生は徴兵猶予が解かれるそうだ。仕方がないかもな。女子学生が工場に動員されるような状況では……」その先を言わず、慎が煙草をくわえると歩き出した。夕焼けの色が薄れ、あたりに闇が迫り始めている。行くしかないよな、と声がした。「おふくろとか兄貴の子どもとか見てると、そう思う。本土が戦地になる前に」不意に、玉砕とは全滅を言い換えた言葉だと有賀が言ったことを思いだした。日本軍が全滅したというアッツ島でも、誰かの父や兄や弟や、幼馴染みの青年たちが戦っていたのだ。思えば、この日本も島だ。本土での戦いがあるのだろうか。
(第四部 昭和十八年)

「今度会ったら、ということは、必ず帰ってきてくれるってことですよね」有賀は黙っている。その間を埋めたくて、波津子は続ける。「以前、言霊という言葉を教えてくださいました。口に出した言葉には、そうなる力が宿っているという……あれは古典、万葉集に出てくる言葉だったんですね。この間、そういう原稿を書いたんです。『磯城(しき)島の、大和の国は言霊の……』」それから先が浮かばず、言葉に詰まる。電話の向こうから歌の続きが聞こえてきた。―― 言霊の助くる国ぞ、ま幸(さき)くありこそ……柿本人麻呂だね。「そうです、柿本人麻呂。

『磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞ、ま幸くありこそ』」「ま幸く」とは「ご無事に」という意味だ。そこに「あり」と「こそ」がつくと、相手の無事を祈る言葉になるのだという。「歌の意味は『日本の国は言葉の力が人を助ける国だ。だから私はあなたに申し上げます、どうかご無事でありますように』。いい歌ですね」そうだね、と有賀が答えた。耳元でささやかれているみたいだ。「私、原稿を書きながら、感じ入りました。千年以上も前、はるか古代の歌なのに、どうしてこんなに胸に迫ってくるんだろう……そのとき思ったんです。有賀主筆は『永遠なんてない』とおっしゃったけれど、もしかしたら、永遠ってあるんじゃないかって」―― そうであればと願うけどね。「あるような気がするんです」静かな時間が流れた。まるで有賀に見つめられているようだ。
(第五部 昭和二十年)

純司がため息をついた。「いやだね。もう言い訳かい? 有賀さんが聞いたらなんて言うだろう」「それをおっしゃらないでください」やだやだ、と波津子が拾った「乙女の友」を純司が手にした。「終戦二ヶ月前まで発行していた気合いの入った雑誌が、たかが戦争に負けたからといって、このままおめおめと引っ込むつもりかい?」「たかがって……軽くおっしゃらないでください」そうだね、と純司が低い声で言った。「でもそう思わないと、僕はやりきれない。そう考えないと、失ったものの大きさに、立ち上がれなくなってしまう。しかしそれでは亡くなった人たちが浮かばれない」「何を作ったらいいんでしょう。何を特集すれば? 想像がつきません」決まってるよ、と純司が手にした「乙女の友」を見る。「『友へ、最上のものを』。ただ、それだけ。心をこめて、それを届けるだけ」……。……。僕らが敬愛する彼ならば、と純司が微笑んだ。「きっとこう言う。巻頭には文化の香り高き詩を。誌面の中盤には心癒やす物語を。今の時代に必要な智恵と工夫と美を、日本の叡智を結集して届けるんだ、僕らの友たちに」……。……。「何もかもなくなったわけじゃない、人がいる。人が残っている。この町は明治の大火や大正の大震災のときもこんな状態になったんだ。壊滅状態から何度も復興してきた町の雑誌社なんだよ、君が働いているところは」……。……。

佐倉君、とあらたまった声で純司が言う。「作ろう、もう一度、今だからこそ」美しい音色に耳を傾けていると、なつかしい日々が心に浮かんできた。敬愛する人の斜めうしろに立ち、編集作業や原稿の書き方を一つひとつ丁寧に教えてもらった日々だ。その人が掲げた標語を思い出す。友へ、最上のものを ――。今こそ。今だからこそ。そう思ったら、大きな声が出た。「先生、私、目が覚めました。ええ、作りましょう。作りましょうとも」「そう来なくては」純司がオルゴールをコンクリートの残骸の上に置いた。「復員して、いの一番に、ここに来た。戦争は終わったんだ。もう一度僕を、『乙女の友』に起用してくれないか」
(第五部 昭和二十年)
 

 

今日のお昼は、神戸のミシュランを受賞店したENISHIがプロデュースしたラーメン店「KOBE ENISHI (コウベ エニシ)」です。

食べログラーメンアワードを受賞した鶏白湯ラーメンとダイブめし(60円)セット(940円)をいただきます。エスプーマのスープをまず一口、おいしい♪。特筆すべきは鶏チャーシューのおいしさ。兵庫県但馬鶏のムネ肉を使用したレアチャーシューとのことですが、今まで食べた鶏チャーシューの中で間違いなくベスト3に入るおいしさです。

 

メニューに高級濃厚たまご使用した兵庫但馬鶏丼(450円)もあるので次はそれも食べてみたいです。ごちそうさまでした♪。

 

 

KOBE ENISHI (コウベ エニシ)

名古屋市中村区名駅4 名駅地下街サンロード

 

あらすじ
メルボルンの若手画家が描いた一枚の「絵画(エスキース)」。日本へ渡って三十数年、その絵画は「ふたり」の間に奇跡を紡いでいく――。二度読み必至! 仕掛けに満ちた傑作連作短篇。
(2022年本屋大賞2位)


ひと言
2021年の本屋大賞でも『お探し物は図書室まで』で2位を受賞した青山 美智子さんの本で、受賞が決まってから図書館で借りました。個人的には大賞の『同志少女よ、敵を撃て』よりこちらの方が大賞じゃないかなと思います。ただ狙撃の臨場感は今まで読んだことがないぐらい読者に伝わってくるので、それが大賞に選ばれた理由だろうし、また書店員の2次投票締め切りが2月28日(ウクライナ侵略の4日後)だったのも不幸でした。


始まれば終わる。私がいつも怖いのは、終わりになることじゃなくて、終わりになるんじゃないかと不安になるあのぞわぞわとした時間だ。相手に対して猪疑心がめばえたり、知らないことが増えたり、わかってくれていると思っていたことがぜんぜん見当はずれだったり。そのころにはもう、どちらかが熱くて必死で、どちらかが冷めてしらけている。どちらの立場になっても、私はいつも自分から先に手を放してしまう。持っていられないのだ。熱すぎるものも、冷たすぎるものも。
(一章 金魚とカワセミ)

彼は笑ってお面を手に取りながら言った。「青い鬼もあったんだよな。でもなんか、青鬼って怖くない印象があって」「そうなの?」「うん。『泣いた赤鬼』のイメージかも」日本の童話だ。村人と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼はわざと悪者になって、最後は赤鬼から突然去っていくのだ。さよならの貼り紙を一枚残して。「……… 私はあの話、好きじゃない」自己犠牲や献身、友情があの物語のテーマなのかもしれない。美談として捉えるのが、きっと正解なんだろう。でも私は、あの青鬼がずるいとしか思えなかった。いきなりあんなふうにいなくなっちゃうなんて。「青鬼が赤鬼に残した貼り紙って、君のことを想って自分は身を引くみたいな内容だったじゃない? でも私が赤鬼だったら、きっと嘘だ、私のことなんて嫌いなんだって思っちゃう。本当はひとりになりたかったんじゃないの? 前からその機を狙っていたんじゃないのって」もちろん赤鬼だって愚かだ。青鬼に甘えて、なんでも許されるとか、青鬼は自分から離れていったりしないってのんきに構えていたのが悪い。彼はお面を持ったまま、首をかしげた。「そうかな。俺は、青鬼の言葉どおりに受け取ればいいと思うけど。赤鬼のこと、本当に好きだったんだと思うよ。だから自分と離れて自由になってほしいと思ったんだ。赤鬼にとってそのほうが幸せなら」

変な間ができた。猫はのんびりと自分の体を砥めている。なんだか、その沈黙に耐えられなくなった。「わかってない。いきなりいなくなるなんて、卑怯よ」私は豆の袋をひとつ、彼に投げた。「いなくなったのは、そっちじゃないか」彼も私に投げ返してくる。「俺はどこにもいかないよ。ここにいる」私を見つめる彼の瞳が、怖いくらいにまっすぐだった。私は顔をそらす。「『泣いた赤鬼』の、青鬼の話をしているのよ」彼はそれには答えず、少しの間黙っていたが、何を思ったのかハンガーにお面をくくりつけ、壁にかけた。コミカルな鬼のお面は、ばかにしたようにこちらを見て笑っている。
(四章 赤鬼と青鬼)

エスキース。デッサンやスケッチなどと意味合いは似ているが、決定的に違うことがある。それを元にして、本番の作品を必ず完成させる。描き手にその意志があるということ。わたしが描いた水彩画は、図らずも、それがそのまま本番の作品になった。しかし、ふたりにとってのエスキースの本番を描くのはわたしではない。ブーとレイ、彼ら自身の手によってのみ、完成させることができるのだから。
(エピローグ)

 

あらすじ
女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ男・千利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、天下一の茶頭に昇り詰めていく。刀の抜き身のごとき鋭さを持つ利休は、秀吉の参謀としても、その力を如何なく発揮し、秀吉の天下取りを後押し。しかしその鋭さゆえに秀吉に疎まれ、理不尽な罪状を突きつけられて切腹を命ぜられる。利休の研ぎ澄まされた感性、艶やかで気迫に満ちた人生を生み出したものとは何だったのか。また、利休の「茶の道」を異界へと導いた、若き日の恋とは…。  
(第140回 直木賞受賞作)


ひと言
今年(2022年)は千利休の生誕500年にあたるというニュースを聞いていて、図書館の棚にこの本を見つけて読んでみようと借りました。直木賞作品でもあり、私の地元の名士でもある千利休の本なので、以前読んだことがあるような気がするのですが、本を最後まで読んでも以前に読んだかどうかも全く思い出せません。だからこういうブログを始めたのですが……。歳は取りたくないものですね。


「それにつけても、わかりませぬのは、さきほど仰せの茶の湯の名物道具」秀吉はうなずいて、あとを続けさせた。「歴世の名刀ならいざ知らず、茶入などは、ただの土器ではございませぬか。ただの土くれに、なにゆえ銭三千貫もの高値がつくのか、さっぱり合点がゆきませぬ」首をかしげる景勝に、次客の席で相伴していた石田三成が口をひらいた。「それこそ利休めの罪状にございます」年若だが、いたって聡明な男である。「悪しき道具を佳しとし、いたずらに値をつり上げるとは、もってのほかの売僧(まいす)。あまりにも不届きゆえ、殿下はこたびの御処分を決定なさいました」その答えに、景勝は納得していない。さらに首をかしげている。「やはり、合点がゆきませぬ。売る者がいかに値をつり上げたところで、買う者がおらねば売れぬのが道理。茶の湯の数寄者は、高値をいとわず、むしろ高いのを喜んで欲しがるのでござろう。無骨者のそれがしには、それが分かりませぬ。聞けば、三千貫の茶入でも、欲しがる数寄者が大勢おるそうではござらぬか。それが不思議でなりませぬ」秀吉は、扇子でじぶんの膝を叩いた。「そのとおりだ。そこがまた茶の湯の魔性たるゆえんでな、名物道具を手にした者は、驕りたかぶり、じぶんが偉くなったと勘違いしおる。それが名物の魔力よ」話しながら、秀吉は口が酸っぱくなった。高値を惜しまず、天下の名物道具をいちばん狩り集めているのは、ほかのだれでもない秀吉自身である。
(おごりをきわめ)

口にふくむと、極上の濃茶であった。「お服加減はいかがでございましょう」利休がたずねた。「けっこうだ。甘露である」茶の深い滋味が、酔いに火照ったからだにゆきわたる。膝のまえで、茶碗をながめた。赤い肌に、おぽろな黒釉が刷いたようにかかっている。「銘はなんというのかな」「木守でございます」秋に柿の実を取るとき、来年もまた豊かに実るよう、ひとつだけ取り残す実が、木守である。赤い茶碗のなにがその名につながるのか。「はて、銘の由来はなんであろう」利休にたずねた。「他愛もないことでございます。長次郎の焼きました茶碗をいくつも並べ、弟子たちに好きなものを選ばせたところ、これひとつが残りました」なるほど、と、家康はみょうに合点がいった。―― この男は、稀代の騙りである。
(木守)

秀吉が利休を見ている。「そのほうは、なんと見た。ただ茶を喫するばかりのことに、なぜ、かくも人が集まってくる。なぜ、人は茶に夢中になる」利休はゆっくりうなずいた。みなが利休を見ている。「それは、茶が人を殺すからでございましょう」真顔でつぶやいた。「茶が人を殺す……とは、奇妙なことをいう」秀吉の目が、いつになく抉(えぐ)るように利休を見すえている。「はい。茶の湯には、人を殺してもなお手にしたいほどの美しさ、麗しさがあります。道具ばかりでなく、点前の所作にも、それはどな美しさを見ることがあります」「なるほどな……」「美しさは、けっして誤魔化しがききませぬ。道具にせよ、点前にせよ、茶人は、つねに命がけで絶妙の境地をもとめております。茶杓の節の位置が一分ちがえば気に染まず、点前のときに置いた蓋置の場所が、畳ひと目ちがえば内心身悶えいたします。それこそ、茶の湯の底なし沼、美しさの蟻地獄。ひとたび捕らわれれば、命をも縮めてしまいます」話しながら利休は、じぶんがいつになく正直なのを感じていた。「おまえはそこまで覚悟して茶の湯に精進しておるか」うなずいた秀吉が、溜息をついた。
(北野大茶会)
 

 

今日のお昼は、先日TVで紹介された新瑞橋の「めし処 銭屋」です。自転車で何回も前を通っており、お店も評判のお店であることは知っていたのですが初入店です。みなさん先日のTVを観て訪れたのか、座る席もないほどの混雑です。玉子丼(220円)などの定食をいただこうと思っていたのですが、席には定食を頼んでそれが出来上がるのを待っているお客が大勢いたので、テーブルの上に並べられた一皿100円のおかずと中ライス110円、みそ汁70円をいただきました。税込みで合計418円。味もおいしく値段もお値打ちなので、次は定食もいただいてみようと思いました。ごちそうさまでした♪。

 

めし処 銭屋

名古屋市瑞穂区瑞穂通7