
あらすじ
天才数学者でありながら不遇な日々を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、2人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。ガリレオシリーズ初の長篇、直木賞受賞作。福山雅治主演で2008年に映画化され、堤真一、松雪泰子の熱演も話題になった。累計320万部突破!東野圭吾40周年企画「104冊1億部 全国民投票」で圧倒的第1位!
ひと言
ニュースで7月23日に東野圭吾さんがお亡くなりになっていたという報にふれたとき、「えっ、嘘だろ!!」と信じられませんでした。そして20年ぶりにもう一度読み直そうと、すぐに街の図書館にこの本の予約を入れ、その夜にプライム・ビデオでこの映画を観直しました。あのときのラストの驚きと感動は今でも色あせることはありませんが、結末がわかっている今読み返してもやっぱり感動の一冊でした。私が、そして多くの人々にとって東野 圭吾作品を読むきっかけになった一冊であり、100冊を超える東野 圭吾作品の中の最高傑作、No1作品だと思います。

俺より3つ歳上だけなのに…早すぎるよ圭吾さん!たくさんの感動作をほんとうにありがとう。20年ぶりにまたこの本と出会えてほんとうにほんとうによかった。ありがとう。ご冥福を心よりお祈りいたします(合掌)。
「でもこいつには興味があるわけか」石神は自分のノートを手にした。「証明済みだからな。証明されたことは知っておいて損はない」彼は石神の目を見て続けた。「四色問題は証明された。すべての地図は四色で塗り分けられる」「すべてじゃない」「そうだった。平面または球面上、という条件つきだったな」それは数学界において最も有名な問題のひとつだった。『平面または球面上のどんな地図も四色で塗り分けられるかどうか』というもので、一八七九年にA・ケーリーによって提出された。塗り分けられることを証明するか、それが不可能な地図を考案すればいいわけだが、解決されるまでに百年近くを要した。証明したのはイリノイ大学のケネス・アッペルとウォルフガング・ハーケンで、ふたりはコンュータを用い、あらゆる地図が約百五十の基本的な地図のバリエーションでしかないことを確かめ、それらすべてについて四色で塗り分けられることを証明したのだ。一九七六年のことだった。「俺はあれが完全な証明だとは思っていない」石神はいった。「そうなんだろうな。だからこそ、そうやって紙と鉛筆で解こうとしているわけだ」「あのやり方は人間が手作業で調べるには膨大すぎる。だからこそコンピュータを使ったんだろうが、おかげてその 証明が正しいのかどうかを完璧に判断する手段がない。確認にもコンピュータを使わなければなんてのは、本当の数学じゃない」「やっぱりエルデシュ信者だ」長髪の男はにっこり笑った。(6)
湯川は軽く首を振りながら、草薙と向き合って座った。「最後に石神と会った時、彼から数学の問題を出された。P≠NP問題というものだ。自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か――有名な難問だ」草薙は顔をしかめた。「それ、数学か。哲学的に聞こえるけどな」「いいか。石神は一つの答えを君たちに提示した。それが今回の出頭であり、供述内容だ。どこから見ても正しいとしか思えない答えを、頭脳をフル回転させて考案したんだ。それをそのままはいそうですかと受け入れることは、君たちの敗北を意味する。本来ならば、今度は君たちが、全力をあげて、彼の出した答えが正しいかどうかを確かめなければならない。君たちは挑まれているし、試されているんだ」「だからいろいろと裏づけを取っているじゃないか」「君たちのしていることは、彼の証明方法をなぞっているだけだ。君たちがすべきことは、ほかに答えがないかどうかを探ることなんだ。彼の提示した答え以外には考えられない――そこまで証明して初めて、その答えが唯一の解答だと断言できる」強い口調から、湯川の苛立ちを草薙は感じた。常に沈着冷静なこの物理学者が、そんな表情を見せることはめったにない。(17)
石神は相手の男を殺害した。顔を潰したのは、もちろん富樫慎二でないことを隠すためだ。しかしじつは指紋を焼く必要はなかった。レンタルルームには殺された男の指紋が残っているはずだから、そのままでも警察が死体の身元を富樫慎二と誤認しただろうからね。だけど顔を潰す以上、指紋も消しておかないと犯人の行動として一貫性がない。そこでやむをえず指紋を焼いたんだ。ところがそうなると、警察が身元の確認に手間取るおそれがある。だから自転車のほうに指紋を残したんだ。衣類を串途半端に燃え残したのも同様の理由からだ」「しかしそれなら自転車が新品である必要はないんじゃないか」「新品同様の自転車を盗んだのは、万一のことを考えたからだ」「万一のこと?」「石神にとって重要なことは、警察が犯行時刻を正確に割り出してくれることだった。結果的に解剖によって比較的正確に推定できたようだが、死体の発見が遅れるなどして、犯行時刻に幅をもたせられることを最も恐れたんだ。極端な場合、前日の夜、つまり九日の夜まで広げられたら、彼等にとって極めてまずいことになる。その夜は実際に花岡母娘が富樫を殺した日だから、彼女たちにアリバイはない。それを防ぐため、少なくとも自転車が盗まれたのは十日以後だという証拠がほしかった。そこであの自転車だ。丸一日以上放置されているおそれの少ない自転車、盗まれた場合に持ち主が盗難日を把握していそうな自転車、となると新品同様の自転車ということになる」「あの自転車にはいろいろな意味があったということか」草薙は自分の額を拳で叩いた。「発見された時、両輪がパンクさせられていたという話だったね。それも石神らしい配
慮だ。おそらく、誰かに乗り逃げされるのを防ぐためだろう。彼は花岡母娘のアリバイを生かすために細心の注意を払ったんだよ」「だけど彼女たちのアリバイはそれほど確実なものではなかったぞ。映画館にいたという決定的な証拠は、今も見つかっていない」「だけど、いなかった、という証拠も君たちは見つけられずにいるだろ?」湯川は草薙を指差した。「崩せそうで崩れないアリバイ。これこそが石神が仕掛けた罠だった。もし鉄壁のアリバイを用意していたなら、警察は何らかのトリックが使われた可能性を疑う。その過程で、もしかしたら被害者が富樫慎二ではないのではないか、という発想が出てくるかもしれない。石神はそれを恐れた。殺されたのは富樫慎二、怪しいのは花岡靖子、そういう構図を作り上げ、警察がその固定観念から離れられないようにしたんだ」草薙は唸った。湯川のいうとおりだった。死体の身元が富樫慎二らしいと判明した後、すぐに花岡靖子に疑いの目を向けた。彼女の主張するアリバイに、中途半端な点があったからだ。警察は彼女を疑い続けた。だが彼女を疑うということは、即ち、死体が富樫であることを疑わない、ということになる。恐ろしい男だ、と草薙は呟いた。同感だよ、と湯川もいった。「僕がこの恐るべきトリックに気づいたのには、君の話がヒントになっている」「俺の?」「石神が数学の試験問題を作る時のセオリーというのがあっただろ。思い込みによる盲点をつく、という話だ。幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題、というやつだ」「あれがどうかしたのか」「同じパターンなんだよ。アリバイトリックに見せかけて、じつは死体の身元を隠すという部分にトリックが仕掛けられていた」あっと草薙は声を漏らした。「あの後、君に石神の勤怠表を見せてもらったことを覚えているかい。あれによると、彼は三月十日の午前中、学校を休んでいた。事件とは関係がないと思って、君は重視していなかったようだが、あれを見て僕は気づいたんだ。石神が隠したい最も大きな出来事は、その前夜に起きたのだとね」
隠したい最も大きな出来事――それが花岡靖子による富樫慎二殺しというわけだ。(18)
それらの指示の最後に、次の文章が付け足してあった。『工藤邦明氏は誠実で信用できる人物だと思われます。彼と結ばれることは、貴女と美里さんが幸せになる確率を高めるでしょう。私のことはすべて忘れてください。決して罪悪感などを持ってはいけません。貴女が幸せにならなければ、私の行為はすべて無駄になるのですから。』読み返してみて、また涙が出た。これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。いやそもそも、この世に存在することさえ知らなかった。石神のあの無表情の下には、常人には底知れぬほどの愛情が潜んでいたのだ。(18)
彼女たちとどうにかなろうという欲望は全くなかった。自分が手を出してはいけないものだと思ってきた。それと同時に彼は気づいた。数学も同じなのだ。崇高なるものには、関われるだけでも幸せなのだ。名声を得ようとすることは、尊厳を傷つけることになる。あの母娘を助けるのは、石神としては当然のことだった。彼女たちがいなければ、今の自分もないのだ。身代わりになるわけではない。これは恩返しだと考えていた。彼女たちは身に何の覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。
富樫の死体を目にした時、石神の頭の中ではすでに一つのプログラムが出来上がっていた。死体を完璧に処分するのは困難だ。どれだけ巧妙にやっても、身元の判明する確率をゼロにはできない。また仮に運良く隠せたとしても、花岡母娘の心が安らぐことはない。いつか見つかるのではないかと怯えながら暮らすことになる。彼女たちにそんな苦しみを味わわせることは耐えられなかった。靖子たちに安らぎを与えるには方法は一つしかない。事件を、彼女だちと完全に切り離してしまえばいいのだ。一見繋かっていそうだが、決して交わらない直線上に移せばいい。(18)