あらすじ
私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった! クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ。
ひと言
先日「成瀬は都を駆け抜ける」を読んで、森見 登美彦さんの「太陽の塔」を以前読んだなぁ でも何も覚えていないなぁ ということでもう一度読み直そうと思いました。以前のブログを見直してみると、2010年の4月の記載が残っていました。今読み返してみても「何のこっちゃ」という小説ですが、大学生時代を京都で過ごした者にとってはやっぱり懐かしく感じました。
この「東大路通り」というヤツ、洛北を通るときにはあたかも京都を南北にまっすぐ貫いているように装いながら、そのじつ祇園八坂でぐにゃぐにゃと腰砕けになり、やがてなし崩しに九十度回転して九条通りになってしまうという、私の嫌いなタイプである。私は東大路通りを通る機会が多いが、つねに警戒を怠らないようにしている。油断すると、どこへ連れて行かれるか分かったものではないからだ。
(P13)
太陽の塔を御存知であろうか。遠い昔、私という男が誰からも愛されるふわふわした可愛いものであった頃、私の家族は大阪の郊外にあるマンションに住んでいた。そこは大阪万博の跡地に作られた「万博公園」から、歩いてすぐのところにあった。週末になると私は両親に連れられて公園に出かけ、一日中野原や木立の中をころころ転がっていたと言う。したがって私の人格の底辺界隈はほとんど万博公園の風景で埋め尽くされている。その風景の中ににゅううっと屹立して、あたりを睥睨しているのが太陽の塔であった。作り手たる岡本太郎の名を知っだのは随分後のことで、今に至るも私は岡本太郎についてほとんど何も知らないし、これ以上知る必要性を感じない。私の場合、まずそこに太陽の塔があった。太陽の塔には人間の于を思わせる余地がなかった。それは異次元宇宙の彼方から突如飛来し、ずうんと大地に降り立って動かなくなり、もう我々人類には手のほどこしようもなくなってしまったという雰囲気が漂っていた。岡本太郎なる人物も、大阪万博という過去のお祭り騒ぎも、あるいは日本の戦後史なども関係がない。むくむくと盛り上がる緑の森の向こうに、ただすべてを超越して、太陽の塔は立っている。
一度見れば、人々はその異様な大きさと形に圧倒される。あまりに滑らかに湾曲する体格、にゅうっと両側に突きだす溶けたような腕、天頂に輝く金色の顔、腹部にわだかまる灰色のふくれっ面、背面にある不気味で平面的な黒い顔、ことごとく我々の神経を掻き乱さぬものはない。何よりも、常軌を逸した呆れるばかりの大きさである。「なんじゃこりゃあ」と彼らは言うことであろう。しかし、それで満足して太陽の塔の前を立ち去り、「あれは確かにヘンテコなものであった」と吹聴するのでは足りないのだ。「あれは一度見てみるべきだよ」なんぞと暢気(のんき)に言っているようでは、全然、からっきし、足りない。もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。
(P115)
