あらすじ
東京・新宿にある都立高校の定時制。そこにはさまざまな事情を抱えた生徒たちが通っていた。負のスパイラルから抜け出せない21歳の岳人。子ども時代に学校に通えなかったアンジェラ。起立性調節障害で不登校になり、定時制に進学した佳純。中学を出てすぐ東京で集団就職した70代の長嶺。「もう一度学校に通いたい」という思いのもとに集った生徒たちは、理科教師の藤竹を顧問として科学部を結成し、学会で発表することを目標に、「火星のクレーター」を再現する実験を始める。
ひと言
BSテレ東の「あの本、読みました?」で紹介され、読んでみたいとすぐ図書館に予約を入れました。以前読んだ「月まで三キロ」の伊与原 新さんが描く熱い青春科学小説。読んでいる途中、この伊与原 新さんって何者?という疑問が湧き、調べてみると神戸大の理学部を卒業後東大の大学院で地球惑星科学を専攻……。だからこんな小説が書けるんだ、と納得。青少年の読書感想文の課題図書にも選ばれているし、多くの若い人に読んでもらいたい本だと思いました。見逃してしまいましたが、NHK総合でドラマ化もされていて、見てみたかったなぁ。「月まで三キロ」といい、本書といい、伊与原 新、今後注目したい作家さんになりました。
父親はいつも多忙で、岳人の勉強を見るどころか、休日に一緒に遊んでくれることもほとんどなかった。そのくせ通知表を見るたびに、「お前が 悪いんじゃないのか」と母親をなじった。岳人は教科書を読むのが辛いようだと母親が 訴えても、「辛抱が足りないんだ。怠けたいだけの言い訳だよ」と面倒くさそうに繰り返すだけだった。そこそこ名の知れた大学を卒業した父親と違って 、母親はどうにか高校だけは出たという人だった。そこにどれほどの引け目があったのかは知らないが、ときに高圧的な態度に出る父親に、決して口答えをしなかった。息子が勉強ができないのも、育て方のせいではなく、自分の血を受け継いだからだと感じていたのかもしれない。
確か、三年生くらいの頃だったと思う。母親がディスカウントショップで買ってきたキッチンタイマーが、一度使っただけで動かなくなった。父親は、「わけのわからんメーカーのものを買ってくるお前が悪いんだ。不良品だよ」と言って、それをその場でごみ箱に捨ててしまった。その様子を見ていた岳人は、胸が締めつけられるような痛みを感じた。自分がそう言われたような気がした。
(第一章 夜八時の青空教室)
「電子書籍の地学の教科書なんてすが、どうですか」「どうもこうもねーって」さすがにいらたった。「無理だっつってんだろ」小さな文字が無秩序に目に飛び込んでくるので、見ているだけで酔いそうになる。読み取れたのは、〈マグマ〉という単語だけだ。タブレットを荒っぽく突き返すと、藤竹は画面を数回タップし、「今度はどうです?」ともう一度差し出してくる。あまりの驚きに、声も出なかった。何が起きているかよくわからず、タブレットを持つ手が小刻みに震える。〈マグマが地表に噴出したものを溶岩、地下に貫入して冷え固まったものを貫入岩体という。貫入岩体にはいくつか種類があり―― 〉読める。読めるのだ。もちろん、行は歪んで見えるし、文字も大きくなったり小さくなったりする。しかし、目を凝らしてさえいれば、文章がきちんと追えた。「―― 何だよ、これ……」喉を絞るようにしてどうにか言った。「読めるんですね?」画面を見つめたまま、二度うなずいた。「でも、なんで……あんた、何やったんだよ」「文字を少し大きくして、行間も広げましたが」藤竹は平然と答える。「一番のポイントは、フォントを変えたことです。さっきのは一般的な教科書体。今見てもらっているのは少しばかり特殊なフォントでしてね。はねやはらいも含めて線の太さが均一で、濁点なども大きめ。より手書きに近いので、文字の形をとらえやすい。ディスレクシアのために開発されたフォントです」「ディスレクシア……」初めて聞く言葉だった。「読み書きに困難がある学習障害です。音と文字を結びつけて脳で処理する力が弱かったり、文字の形をうまく認識できなかったりするせいで、文章をスムーズに読めない。当然、書くことも苦手になる」「俺が、そうだってのかよ」「おそらく。ディスレクシアの中には、そういう特別なフォントに変えるだけで、劇的に読めるようになる人がいるそうですから」そんなことで。そんな簡単なことで――。「この学習障害の存在は、最近まであまり広く認知されていませんでした。親や教師にも気づかれず、本人もそうだと知らないまま大人になるケースも多い。理由の一つは、ディスレクシアの多くは文字情報のデコーディングが不得手なだけで、情報の中身はちゃんと理解できるからです。つまり、知能には問題がない」「――バカじゃねえってことか、俺も」「バカどころか、聡明な人だと私は思いますよ。いくら練習しても歌が下手な人、球技がだめな人がいるように、単に君は読むことや書くことが――」
(第一章 夜八時の青空教室)
放課後、また藤竹に呼び出された。物理準備室を訪ねると、藤竹が一人、奥の机で論文らしきものを読んでいる。「今日は科学部はないんですか」省造は丸椅子に腰掛けて訊いた。「ええ。クレーター実験は中断中でしてね。でも、長嶺さんのおかげて、また進めることができそうです」「何のことだ。私は何もしとらんよ」「実は今日の夕方、奥様から私に電話がありましてね」「電話?うちのが先生に?」「それから、これを」藤竹は紙を一枚差し出した。「病院のコンビニからファックスで送ってくださいました」それは、省造が病室で手描きした、鉄球の発射装置の図面だった。あくまで暇つぶしに描いたもので、これが何かは妻にも説明したが、落書きなので捨てていいと伝えたはずだ。……。……。
「しかし――」何か起きているのか、本当にわからない。「なんで妻はこれを先生に。私はそんなこと、頼んでいない」「私は頼まれたんです」藤竹が目を細める。「あなたを科学部に入れてやってほしいと、江美子さんから。もっとあなた自身に、高校生活を楽しんでほしいから、と」「私が楽しむ? いや、だから私は……」「江美子さんは、あなたが以前、定時制高校の案内パンフレットを取り寄せていたことを、ご存じでしたよ」「そうなのか……」それは、もう十五年ほど前のことだ。福島の母が亡くなる直前、「省造、父ちゃんさ恨んではだめだぞい」と言って、遺言がわりに初めて教えてくれた。父がなぜヤマで孤立してまで、組合運動にもストライキにも加わらなかったのか。それはすべて、省造と妹のためであった。高等小学校しか出ていないために炭鉱で働くしかなかった父は、子どもたちをどうしても高校へ行かせたかったのだ。そのためには一銭でも多く稼がなければならない。父は月に一日休むことも惜しみ、組合もストもお構いなしに、賃金の高い危険な現場を選んで入っていった。そして、帰らぬ人となってしまった。それを知って以来、父に対して抱いていた怒りは、言いようのない申しわけなさに変わった。それだけではない。父が命がけで自分たちに望んだ高校というところを、このまま知らずに死んでいいのかと考えるようになった。
妻には黙って定時制のパンフレットを取り寄せ、六十や七十の人間でも受け入れてもらえることを知った。もうしゃかりきに働く必要もないし、ちょうど江美子も高校のことを口にし始めている。数年したら工場の仕事を減らして、妻と二人で通うのもいい。などと思っていた矢先に、彼女のじん肺が発症しか。自分だけが高校へ通うなどということは、当然ながら考えられなかった。
藤竹が穏やかな声で言う。「授業で習ってきたことを家で教えてほしい。そう言い出しだのは、奥様のほうだそうですね。もしかしたら、そんな風に頼めばあなたも気兼ねなく定時制に通えるとお思いになったのかもしれない」
省造は目を閉じて、静かに息をついた。そうでも言わないと、あなた、高校へ行くと言わなかったでしょ―― 。まぶたの裏で、ベッドの上の妻が微笑んだ。「江美子さんは、こうもおっしゃっていました。『病室でも科学部の話ばかりしているから、本当はすごく仲間に入りたいんだと思います。宇宙や地球にはそこまで興味ぱないかもしれないけれど、何か作ってくれと頼まれたら、お金にならない仕事でも腕まくりして張り切っちゃう人だから』と」
(第四章 金の卵の衝突実験)
束の間の沈黙のあと、息を潜めるように座っていた佳純が、小さく右手を上げた。「どうぞ、名取さん」「あの… …」佳純は震える声で言う。「もし……もしこの科学部が、先生の実験なんだとしたら……。先生の仮説は何ですか?」「仮説―― 」「何か仮説を検証したくて、実験したんじゃないんですか」訴えるように問う佳純に、小さくうなずきかけた。ずっと胸の奥にあった形のないものを、初めて言葉に変換する。「どんな人間も、その気にさえなれば、必ず何かを生み出せる。それが私の仮説です」佳純は瞳を潤ませて、「だったら―― 」と言った。「だったらそんなの、実験じゃないです。観察する相手のことを信じてやる実験なんて、ないです」言葉を失った。何も返せないまま、いつの間にか強張っていた肩の力が抜けていく。安堵と感嘆、そしてかすかな羞恥が混ざり合った不思議な感覚に、自然と口角が上がる。「まったく」眼鏡に手をやり、小さく息をついた。「あなたの言うとおりかもしれません」
(第六章 恐竜少年の仮説)