あらすじ
「ワぁ、ゴッホになるッ!」1924年、画家への憧れを胸に裸一貫で青森から上京した棟方志功。しかし、絵を教えてくれる師もおらず、画材を買うお金もなく、弱視のせいでモデルの身体の線を捉えられない棟方は、展覧会に出品するも落選し続ける日々。そんな彼が辿り着いたのが木版画だった。彼の「板画」は革命の引き金となり、世界を変えていく。墨を磨り支え続けた妻チヤの目線から、日本が誇るアーティスト棟方志功を描く。感涙のアート小説。


ひと言
これ!これ!原田 マハのファンが待ち望んでいた小説です。少し前にマハさんの「黒い絵」を読んで消化不良気味でしたが、これはほんとうに感涙のアート小説でした。3年ぶりのアート小説ということですが、マハさんこれからもこういうアート小説をいっぱいいっぱい書いてください。お願いします。余談ですが、少し前に青森旅行に行き、酸ケ湯温泉で棟方志功の板画がたくさん飾られていたり、棟方志功がデザインしたマッチ箱の絵などがあったのを見ましたが、酸ヶ湯は棟方が愛した温泉だったんだということを後で知り、棟方が入ったであろう千人風呂に入れたことに感謝です。



棟方は、十七歳のとき、友人に見せられたとある雑誌の中に、鮮やかな色つきのロ絵をみつけました。それは黄色く燃え上がる花〈ひまわり〉でした。見たこともないような花のたたずまい、花なのかどうかもわからないくらいの迫りくる激しさ。あの人は、ひと目で心を奪われてしまった。だから絵描きになる決心をしたんだと、教えてくれました。―― ワぁ、ゴッホになる! って。ゴッホに憧れて、絵画に恋焦がて、油絵のなんたるかもよくわからないままに、最初はがむしゃらに始めました。悪戦苦闘するうちに、やがてあの人が見出したのは、板画の道でした。版画ではなく「板画」です。戦時中、棟方が自分の仕事を自らそう名付けました。板を彫る、墨で摺る画。世界にたったひとつ、板上に咲く絵。だから板画なのだと。
(序章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並)

「君。いま版画の絵巻物と言ったね。ちょっと見せてくれないか」「困ります。いま展示作業ですので……」係員が困惑して応えた。が、棟方はすぐさま、壁に後ろ向きに立てかけてある四枚の長い額の中のひとつをひっくり退して見せた。ふたりの顔に稲妻のような閃光が走った。ふたつめを返すと、ふたりの目が鋭く輝いた。三つめを返すと、ふたりのロが半開きになった。そして最後のひとつを返すと、ふたりはじっとそれをみつめたまま、動かなくなった。あまりに長いあいだふたりとも黙りこくってしまったので、棟方は戸惑った。しかし、声をかけるのがはばかられるほどふたりが没入して見ているのがわかった。「…… これは……」最初に口を開いたのは丸眼鈍の男だった。「これは、すごい……この連続する文字……まるでザアザア雨が降っているみたいだ。こんな版画は見たことがない」興奮しているのか、その声は熱を帯びて少し震えていた。となりのロ髭の男は低くうなった。言葉がみつからない様子である。彼は振り向くと、そこに突っ立っていた係員に向かってきっぱりと言った。「君、これは四点全部展示しなければ意味がないものだ。二段掛けにしてもいいから、とにかく全部展示してくれたまえ」「えっ」係員と棟方は同時に声を上げた。即座に男が続けて言った。「私たちは工芸部の審査員だ。版画部の審査員の先生方に言っておくからとにかく四点すべて展示するように。いいですね?」審査員と聞いて係員は態度を豹変させた。彼は何度もふたりに向かって頭を下げ、必ず全四点を展示すると約東した。棟方はキツネにつままれたように、ぽかんとするばかりだった。それからふたりの紳士は〈大和し美し〉を隅々まで見て、しきりに嘆息したり、首を左右に振ったり、近づいたり離れたりして、一文字一文字を追いかけ、この上なくていねいに見てくれた。それだけで棟方の胸は熱いものでいっぱいになった。最後の一文字までを見終わると、ふたりは顔を寄せて何ごとかひそひそと話し合い、うなずき合った。そして、ふたりして棟方のもとへやって来た。「君、名前は?」口髭の男に問われて、棟方は我に返って答えた。「む…棟方。棟方志功と言います」男は徴笑んだ。棟方君。私は柳宗悦、彼は陶芸家の濱田庄司だ。私たちは君の作品に心底感じ入った。いや、ほんとうに……すっかり持っていかれてしまったよ」棟方は目を瞬かせた。
(1936年(昭和11年)4月 東京 中野)



ニューヨークやフィラデルフィアの美術館で、棟方はついにゴッホの「本物」の絵を見ることができました。「白樺」の一ページに初めて〈ひまわり〉を見た日から四十余年が経っていました。やっと、ほんとうにやっと巡り会えた。棟方の胸中には熱いものが込み上げていたに違いありません。かくなる上は、どうしてもゴッホ「本人」に会いに行きたい。会ってお礼を言わなければ気がすまないと言い張ります。お世話になった旧友にどうしても思返しがしたい、そんな感じで。そうしてついに棟方と私は、ゴッホ兄弟のお墓の前に立ちました、ふたつの墓石をふさふさと木蔦の緑の毛布が覆い尽くしていました。棟方はじっと黙り込んで、いつまでも墓標に向き合っています。よほど感無量なのだろうと、私も棟方同様、沈黙したまま墓標の前で頭を垂れていました。と、棟方が私の方を向きました。そして尋ねたんです。―― チヤ子、眉墨持ってるか?一瞬、耳を疑いました。―― 眉墨?持ってるけど、なんのために……?訝しがる私の手から眉墨を奪うと、あの人はポケットに畳んで入れていた大判の和紙を一枚、取り出しました。それを墓標にぴったり当てがって、その上を眉墨でこすりはじめたんです。
ICI REPOSE VINCENT VAN GOGH (フィンセント・ファン・ゴッホ ここに眠る)
白い文字が浮かび上がりました。なんと、ゴッホの墓碑銘の「拓本」をとってしまった。あの人は、ゴッホ兄弟のお墓に向かって深々と頭を下げました。そしてこう言ったんです。―― お許しください、ゴッホ先生。ワんどの墓、そっくりに造らせていただきます。
(終章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並) 
 

 

明日は父の日。前からずっと一度は食べに行きたいなぁと思っていた「ステーキハウス キッチンリボン」。私が行ってみたいお店だということを知っていた娘夫婦がランチをプレゼントしてくれました。下の娘も誘ってもらい5人で行ってきました♪。こちらのお店はお肉がおいしいだけでなく、お店の雰囲気、スタッフの対応など食べログの口コミの評価もとてもよく、食べログの評価4.03(6/15現在)数々の受賞歴を持つお店です。

 

 

コースでおいしいお料理が出てきた後、お待ちかねのお肉ですが、一口食べた後、下の娘と顔を見合わせて、お互い笑顔がこぼれます。おいしいものは人をこんなに笑顔にするんだと実感。最後に出てきたデザートのプレートがまたとてもうれしかったです。

 

 

とても幸せなひとときでした。ほんとうに素敵な父の日のプレゼントでした。ありがとう。ごちそうさまでした♪♪♪。

 

 

ステーキハウス キッチンリボン

名古屋市昭和区菊園町4

 

あらすじ
オカルト、宗教、デマ、フェイクニュース、SNS。あなたは何を信じていますか? 口さけ女はいなかった。恐怖の大王は来なかった。噂はぜんぶデマだった。一方で大災害が町を破壊し、疫病が流行し、今も戦争が起き続けている。何でもいいから何かを信じないと、何が起きるかわからない今日をやり過ごすことが出来ないよ。飛馬と不三子、縁もゆかりもなかった二人の昭和平成コロナ禍を描き、「信じる」ことの意味を問いかける傑作長篇。


ひと言
久しぶりの角田 光代さんの本。角田さんらしい本だなぁと思いながら読みました。ノストラダムスの大予言、口さけ女、コックリさん 今の若い人には何のことかもわからない言葉だと思いますが、子どものころはすごくこわかったなぁと懐かしく思い出しました。ところで下に書いた小松菜やキャベツの葉の枕ってほんとうの話なの?信じていいの?

乳幼児が発熟した際、そんなに高熟でなければ小松菜やキャベツの葉を枕にしてやると、ゆるやかに熱が下がるというのは、科理教室の友人から勧められた本で知ったことだった。西洋医学に頼らない昔ながらの自然療法で、たとえば乗りもの酔いの防止には梅干しを食べさせるとか、あせもは挑の葉を煎じて風呂に入れるとか、そういうことの一環に青葉の枕があると知り、湖都が微熱を出したときに活用したのだ。
(第一部 望月不三子 1976)

りっちゃんの双子の赤らゃんについて話し続ける園花を抱きしめて不三子は思う。そうであったらどんなにいいか。母親は自分を置いてきぼりにしていったのではなくて、母親にしかこなせないたいせつな用事があったのだ。そうであればどんなにいいかと不三子だって思う。湖都だってそうだ。子どもを産めなかったのはわけもわからず打たれたワクチンのせい。得体の知れない新型ウイルスも、異様なスピードでできたワクチンも、だれかの思惑によるもの。そうであれば、どんなにいいか。理不尽の理由があったら、どんなにいいか。私たちのだれだってそうだ。何がただしくて何がまちがっているか、ぜったいにわからない今を、起きているできごとの意味がわからない今日を、恐怖でおかしくならずただ生きるために、信じたい現実を信じる。信じたい真実を作ることすらする。
(第二部 2021 望月不三子)
 

 

「やっぱり食堂」のお子様ランチを食べた後、同じ仁王門通を東に進んだ本町通の角で昔からやっている「新雀本店」に立ち寄ります。みたらし団子(100円)ときなこ団子(100円)をいただきます。写真を撮るのを忘れて手渡されてすぐきなこ団子を1つ食べてしまいました。とても柔らかい団子とみたらし・きなこ ともとてもいい味付けです。知りませんでしたが、こちらのお店は 和菓子・甘味処EAST百名店2023に選ばれていました。納得! ほんとうに久しぶりにいただきました。ごちそうさまでした♪。

 

新雀 本店

名古屋市中区大須2

 

今日は、昨日 閉まっていた大須の「やっぱり食堂」へお昼を食べに行ってきました。沖縄発の「やっぱりステーキ」の系列店です。うたい文句が大人のお子様ランチ!もう食べるっきゃないでしょう。Cランチ(980円)をいただきます。ハンバーグ、トンカツ、からあげ、赤ウインナー、ナポリタン、ポテト、マカロニ。大人の男が食べたいものが満載です。お子様ランチらしくライスに国旗が立っています。Aランチではその上にカットステーキと海老フライが盛られます。次はAランチを食べてみたいです。ごちそうさまでした♪。

 

やっぱり食堂

名古屋市中区大須2

 

今日は自転車で大須へお昼を食べに行きましたが、お目当てのお店はお休み。そうだ、まだ食べたことのない「@DONUT」があったことを思い出し、お昼は生ドーナツです。Wクリーム生ドーナツ(460円)アップル生ドーナツ(460円)生ドーナツ プレーン(300円)をいただきます。えっ!生ドーナツってこんなに美味しいの?! ひと昔のドーナツとは隔世の感があります。こんな美味しいドーナツを食べたら、もう普通のドーナツが食べられなくなりそうです。ごちそうさまでした♪。

 

@DONUT (アットドーナツ)

名古屋市中区大須3

2024年6月4日(火)~6日(木) LCCで青森(秋田)を巡る旅に行ってきました。

 


以前からずっと行きたかった新緑の奥入瀬渓流、そして世界自然遺産の白神山地と八甲田山と自然たっぷりです 。

 

 

小牧空港から青森までFDAで一人片道16500円です。予定より早く9時20分には青森空港に到着です。

 

 

窓から男鹿半島と雲から頭を出した岩木山が見えました。

 

 

先ず最初に 鶴の舞橋を観光します。青森県民の山 岩木山の全景が見えないのが少し残念です。

 

 

ネットから綺麗に岩木山が見える写真を拝借。こんな風に見えれば最高だったのに…。

 

 

次の目的地 不老ふ死温泉へ行く前に「食事処 広〆」でうに入り海鮮丼定食をいただきます。サザエもついてとてもおいしいです♪。レジの横に小泉進次郎さんの色紙がありました。

 

 

人気の秘湯 海辺の混浴露天風呂の不老ふ死温泉。下の写真の右中央がお風呂です。写真は厳禁とのことですが、全く誰もいないので記念に一枚(ごめんなさい)。女房も湯浴み着を借りて混浴露天風呂にも入浴。

 

 

今日の最後は白神山地の十二湖散策コースを歩きます。一番人気の青池がとてもキレイでした♪。

 

 

ブナの自然林 沸壺の池もとてもキレイでした。

 

 

1日目の宿は十和田湖畔の「とわだこ遊月」。こちらは秋田県になるので、きりたんぽ鍋や珍しい山菜が盛られた皿や朝食には煮干やかつお節、白・赤みそを好みで混ぜて作るお味噌汁など ホテルでは食べられないような食事に大満足です。

 

 

2日目は朝一番にJRバス子ノ口でレンタサイクルを借りて奥入瀬渓流を堪能します。

 

 

 

 

時系列ではもっと後の方の風景ですが奥入瀬渓流の記念に一枚。

 

 

電動自転車を予約してあったのでとても快適です。

 

 

右下の写真が石ヶ戸休憩所です。予定ではこちらでレンタサイクルを返して子ノ口まで約8.8km 3時間半を歩く予定でしたが、帰りも自転車を利用することに急きょ変更です。

 

 

少し先の三乱の流れまで自転車で見学します。

 

 

バスツアーの人は石ヶ戸休憩所から阿修羅の流れ(左下)まで散策し、ここからバスに乗って要所要所を巡るみたいです。星野リゾートのバスも同様でした。

 

 

左下の写真が公衆トイレです。ただ自然を守るため汲み取り式なので よっぽどでない限り女の人は使えないかも…。

 

 

どこもかしこもすべてが絵になる風景ばかりです。

 

 

子ノ口まで後1.5kmの銚子大滝です。死ぬ前に一度は訪れたいと思っていた新緑の奥入瀬渓流。もう言葉にできないくらい最高です。今日のお天気に感謝!この素晴らしい自然を守っている青森に感謝!

 

 

9時から13時30分まで奥入瀬渓流を十分堪能し、高村 光太郎の乙女の像を見学して、休屋から休屋へ戻ってくる十和田湖遊覧船に乗船。

 

 

2日目の宿は「十和田プリンスホテル」です。とにかく今回の青森旅行は奥入瀬渓流の散策がメインなので、天気の具合によって奥入瀬を何日目にでも持って来れるように十和田湖畔に2泊です。部屋にミルで挽くコーヒー、お洒落なテーブルランプで美味しい食事をいただきます。

 

 

3日目は十和田湖をパワーボートでクルーズします。十和田湖遊覧船とこのパワーボートなら断然こちらの方をおすすめします。

 

 

もう一つの有名な混浴千人風呂「酸ケ湯温泉」。もちろん撮影禁止なのでネットから画像を拝借しました。

 

 

女房も湯浴み着を借りて四分六分の湯まで入浴。

 

 

八甲田山ロープウエイで山頂へ。途中 映画「八甲田山」で大隊長の三國連太郎が「青森湾だ」と言った陸奥湾が見えました。山頂を散策予定でしたが少し霧が出て視界が悪くなってきたので次のロープウエイで下山します。

 

 

こちらは行く前からの予定通りの田代平湿原です。入り口付近は「えっ こんなところを行くの?!」という景色ですが360m(案内板にはそう書いてあるが、もう少し遠いかも…)歩くと素晴らしい湿原が現れます。おすすめです。

 

 

こちらは行けたらいいなぁとは思っていたのですが、時間に少し余裕ができたのと、次の三内丸山遺跡までの通り道だったので行きたかった「八甲田山雪中行軍遭難資料館」にも立ち寄ることができました♪

 

 

1977年の夏 私が高校生のときに映画館で観たのが高倉 健さん主演の映画「八甲田山」です。この映画の中で、健さんが吹雪の中を道案内した秋吉久美子に対し「気をつけ! 案内人殿に対し かしら右」と言って敬礼するシーンがあり、なんて格好いいんだろうと、高倉 健さんの大ファンになるきっかけになった映画です。ちなみにこの旅行から帰って 映画 八甲田山を見直したのは言うまでもありません。

 

 

雪中行軍で亡くなられた方々のお墓にもお参りすることができました。

 

 

最後の見学地 三内丸山遺跡も見学することができました♪

 

 

青森空港で青森のソウルフード青森みそカレー牛乳ラーメンをいただきます。まろやかでとても食べやすく美味しいです。

19時35分青森発21時00分小牧空港到着予定でしたが15分早く小牧に到着。着陸時小牧城が見えました。

 

 

お天気にも恵まれ、念願の新緑の奥入瀬渓流も十分堪能し、とても充実した青森旅でした。FDA(フジドリームエアーライン)もいい時間の出発到着で、セントレアに比べ小牧空港は圧倒的にアクセスが早いので、また小牧から各地に旅行に行きたいです。

 

あらすじ
ついに封印を解かれたのは、著者初の「ノワール小説集」。嗜虐と背徳によって黒く塗りこめられた、全6作品を収録する衝撃作!
『深海魚 Secret Sanctuary』
高校生の真央は友だちも彼氏もいないうえ、クラスメイトからいじめられていた。そんな真央が安息を得られるのは押入れの中だけだった。真っ暗にすると「海の底」のようで……。
『楽園の破片 A Piece of Paradise』
ニューヨーク発の急行列車は遅れていた。ボストン美術館での講演会でスピーチをする予定の響子は焦る。もうひとりの話者のレイとは7年間の不倫関係を清算したばかりだった。
『指 Touch』
私は私大の日本美術史博士課程の2年生。家庭を持つ彼の研究室で助手をしている。ある週末に奈良の室生寺を訪れ、ずっと手をつないでいる私たちは、どう見ても不倫カップルだ。
『キアーラ Chiara』
アッシジには10年ぶりの再訪だった。亜季は文化財の修復科のある芸術大学を休学して20歳で渡伊し、長年フレスコ画修復の修業をしていたところ、中部の大地震に見舞われ……。
『オフィーリア Ophelia』
わたくしは絵の中の囚われ人。水に浸ってあとひと息で命が絶えるその瞬間を、生き続けています。ロンドンから日本へ連れて来られたわたくしが目撃した、残虐な復讐とは…。
『向日葵(ひまわり)奇譚 Strange Sunflower』
超売れっ子の役者・山埜祥哉の舞台の脚本を書きたくて、脚本家の私は、ゴッホが主人公の脚本を完成させる。が、脚本が仕上がった直後に、ゴッホらしき人物の奇妙な写真を入手して……。


ひと言
ノワール…? 調べてみるとフランス語で黒という意味で、最初の『深海魚』からショッキングな作品で、これが原田 マハ?!と読了感は決していいものではありませんでした。読者がマハさんに求めているのはこういう作品ではないので、今、図書館に予約を入れて待ちの「板上に咲く」は棟方志功の感動作でありますように!!



広々としたギャラリーは、来館者で賑わっていた。小学生の一群が、ギャラリーの片隅で膝を抱えて座り込み、先生が説明するのにじっと耳を傾けている。先生から、質問が飛んだ。「みなさんのなかで、このゴーギャンの作品の題名に、答えられる人はいますか?」私は立ちどまって、振り向いた。壁いっぱいに広がる横長の絵。中心に、両腕を掲げてすっと立つ裸体の人物像が見える。その周辺には人物が群れている。ある者はくつろぎ、ある者は談笑し、またある者は誘惑するようにこちら側へ視線を投げている。陽の昇る前だろうか、青い大気にはしんとした静けさがある。弾けるような生の喜びがあるわけではない。ただ、淡々とした日々の営みがある。
私たちはどこから来たのか? 私たちは何者なのか? 私たちはどこへ行くのか?
私はボストンに生まれ育ち、少年の頃からこの作品に親しんで、いつのまにか絵ではなく、題名のほうを強く記憶してしまいました。そして、やはりいつのまにか、それは私自身の問いとなったのです。
小学生のグループの何人かが手を挙げる。先生がひとりを指すと、その少年は立ち上がって言った。「ぼくたちは入り口から入ってきて、ぼくたちはいま絵を見ている小学生で、ぼくちは出口から帰ります」どっと笑い声が上がる。先生も、そばを通りかかった老夫婦も笑っている。強いめまいを覚えて、私はそのまま前屈みにしゃがみ込んだ。
私はタヒチに行き、そこで生涯を終えたいと思っている。タヒチに発つ前、ゴーギャンはそんなふうに画家ルドンに手紙を送っています。にもかかわらず、彼には永住する気はなかった。なぜか。楽園だったからです。タヒチがゴーギャンにとって、圧倒的な楽園だったからです。対極にある現実があってこそ、楽園は楽園たりうるのです。現実と楽園を行き来する危ういポートに、ゴーギャンはカンヴァスと筆とイーゼルとを持ち込んだ。彼は楽園に安住できなかったのです。だからこそ、この作品を描いた。私はこの作品を見ると、ゴーギャンは楽園に浸って堪能するというよりは、エデンの園を侵してしまった部外者としての自らの罪を贖(あがな)うために、これを表したのではないかと思えてならないのです。……。……。
結局、私たちは誰もが、楽園とは決して手に人れられないものであるとあきらめている。そして、楽園に似たもの、あるいはその破片を生涯大切にして、憧れ続ける運命なのです。エデンの園で林擒を口にして以来、私たちは臆病な生き物になりました。私たちはどこから来たのか? 私たちは何者なのか? 私たちはどこへ行くのか? そう自分自身に問い続けなければ、生きてはいけないほどに。
私は目を閉じた。白濁する意識のなかで、ゆっくりと、音もなく、楽園のドアが閉まるのが見えた。
(楽園の破片)

 

あらすじ

閑静な別荘地で起きた連続殺人事件。愛する家族が奪われたのは偶然か、必然か。残された人々は真相を知るため「検証会」に集う。そこに現れたのは、長期休暇中の刑事 加賀恭一郎。私たちを待ち受けていたのは、想像もしない運命だった。


ひと言
東野圭吾作品の中でも大好きな加賀恭一郎シリーズ。22までを読み終えて、見つかっていない2本のナイフを共犯者が家のどこかに隠したというのは警察が調べればすぐにわかることで少し無理があるように思いましたが、23でどんでん返し。またこの作品も映画化されることになると思いますが、山之内静枝は誰が演じるのかが気になりました。久しぶりの加賀恭一郎おもしろかったです。ネタバレになるので加賀恭一郎の推理の一部を以下に記載します。

 



わかりました、といって加賀がポケットから手帳を取り出した。「じつは疑問点を自分なりにまとめてあります。それを書きますから、皆さんの御意見を伺いたいと思います」そういってホワイトボードに向かい、ペンを手にした。達筆とはいえないが、大きさの揃った文字で書かれたのは次のようなものだった。
『1.なぜ犯人は遠く離れた別荘地を犯行現場に選んだのか。
2.なぜ栗原夫妻が車庫にいることがわかったのか。
3.なゼ犯人は、高塚桂子さんが屋内で一人きりだとわったのか。
4.逮されるつもりなのに一部の防犯カメラを無効化したのはなぜか。
5.高塚桂子さん段害、的場雅也さん刺傷に用いたナイフはどこに消えたのか。
6.高塚桂子さんの手にあった紙片は何か。元の紙は誰が持ち去ったのか。』……。

「単に疑問点を整理しただけでなく、もし何らかの推理なり考えなりをお持ちならば、とうかお聞かせくださいませんか」「俺の、ですか?」……。
「わかりました。ではお話しします。ここに書いた1から5までの疑問については、たった一つの解答を用意することですべて説明がつきます。その解答とは、久納さんが疑っておられることをさらに進めたものです。つまり――」加賀は一同を見回してから徐に続けた。「何者かにそそのかされて桧川大志が犯行に及んだだけではなく、その何者かはもっと積面的に犯行に加担した可能性がある、ひと言でいえば共犯者だった疑いが極めて濃い、というのが俺の推理です。1の疑問、なぜ犯人は遠く離れた別荘地を犯行現場に選んだのか。答え、共犯者から指示されたから。2と3の疑問、なぜ犯人には栗原夫妻が車庫にいることがわかったのか。なぜ高塚桂子さんが屋内で一人きりだとわかったのか。答え、共犯者から教えられたから。4の疑問、逮捕されるつもりなのに一部の防犯カメラを無効化したのはなぜか。答え、共犯者の姿が映るのを防ぐため。5の疑問、高塚桂子さん殺害、的場雅也さん刺傷に用いたナイフはどこに消えたのか。答え、共犯者が処分した。そして6の疑問にも答えられるかもしれません。紙片を持ち去ったのは共犯者、ただし元の紙が何だったのかは不明」以上です、といって加賀は締めくくり、皆の反応を窺うように彫りの深い顔をゆっくりと巡らせた。
(17)

 

あらすじ
島津勢の猛攻に耐え、駆けつけた豊臣秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と誉めたたえられた立花宗茂。もともと九州探題・大友家の家臣であったが、秀吉によって筑後柳川十三万石の大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで西軍に加担した宗茂は浪人となったが、十数年後、かつての領地に戻ることのできた唯一人の武将となった。右顧左眄せず義を貫いた男の鮮烈な生涯を描く傑作歴史小説!


ひと言
秀吉が「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と褒めたたえたという話は聞いたことがあったが、立花宗茂についてはほとんど知らなかったのでとても勉強になりました。家康が戦の下手な秀忠を跡継ぎにしたということも知られた話であるが、死後に江戸の鬼門である日光東照宮に祀るようにと言い残し、関八州、日本国中の大平を守る鎮守になりたいという家康の強い意志に戦国はひれ伏した。ウクライナやガザなど平和や大平が脅かされている現代において、家康や立花宗茂のような人が現れて欲しいと強く思いました。

秀吉が秋月に着陣すると、宗茂は、さっそく兵を率いて駆けつけ拝謁した。初めて会った秀吉は、緋縅(ひおどし)の鎧に鍬形の兜、赤地錦の直垂(ひたたれ)という大層きらびやかな出立ちだった。しかも小男で、猿のようにしわだらけな顔をしていた。(こんな男が天下様なのか)宗茂は呆れはしたものの、秀吉は二十五万もの大兵力を率いて九州入りしていた。その力は恐るべきもので、宗茂は最初に感じた秀吉への侮蔑の念をやがて忘れた。秀吉はにこやかに宗茂に声をかけ、「その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一」と激賞した。秀吉は宗茂をことのほか気に入って〈九州の一物〉と呼んだ。島津を降伏させた後、博多で九州の国割りを行うと、宗茂に柳川十三万二千石余りの領地を与えた。宗茂が道雪から引き継いだものは、城とそれに付属する田地百十七町歩だった。それが秀吉により、一挙に大名となったのである。いままで主君と仰いでいた大友宗麟は、豊後一国を安堵されたものの天正十五年(一五八七)五月二十三日に死去した。気がつけば宗茂は大友の家臣から独立した大名へと取り立てられていた。さらに秀吉は小田原攻めの際には、諸大名の前に徳川家康の家臣本多忠勝とともに呼び出し、

「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」とまで言って讃えた。忠勝は、秀吉と徳川家康が戦った小牧長久手の陣の際、出撃した家康を追った秀吉の大軍を足止めするため寡兵で挑みかかった勇将だった。忠勝の武勇は広く知られており、九州の若い武将が忠勝と並んで〈西国無双〉と称賛されたことは、大名たちに強い印象を与えた。宗茂を諸大名の前で煽るように褒めあげた秀吉は、稀代の〈人たらし〉だった。いつの間にか宗茂は、秀吉から与えられた〈西国無双〉の言葉にふさわしい武功をあげよう、と意気込んでいた。
(一)

「そなたは、此度のわしの戦を快く思うておらぬのではないか」「武門として誇れる戦とは言い難いと存じおります」ためらいなく口にする宗茂に家康は怒りも見せず、言葉を継いだ。「しかし、わしはこれでよし、と思うておる。なぜだかわかるか」「それがしには、わかりかねまする」「わしが誇れるような戦をして天下を取ったとすれば、跡を継ぐ者の心の内はいかが相成る」「さて、それは―― 」「また、戦をしとうなるに決まっておろう。太閤を見よ。鮮やかに、見事に天下を取り、世に誉めそやされた。それゆえに、また戦がしとうなって、朝鮮にまで兵を送る破目になったではないか」家康の言葉に、宗茂は深くうなずいた。見事に戦に勝って天下人となった秀吉は戦から離れることができなかった。
「わしの旗印を〈厭離械土欣求浄土〉としておるのは汚れしこの世を厭い、清き世を求めてのことじゃ。この世から戦を無くさねばならぬと思えばこそ、わしは汚い手を使うてでも天下を取らねばならぬと意を決したのじゃ。跡を継ぐ者にかような戦をしたいと思わせぬようにわしは手を尽くす。秀忠を跡継ぎにいたしたのも、戦が下手だからじゃ。秀忠は無用の戦をせぬであろうゆえな」宗茂はこれまでの見方をあらためるように家康の背に目を向けた。老齢にも拘わらず、背に負わねばならぬものの大きさに思いを致した。「立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すを恐れぬが徳川の義ぞ」「畏れ入ってござります」宗茂は自ずと頭を下げていた。「とは言うものの、汚きことをいたせば、その報いも必ずある。心は荒(すさ)み、欲にまみれていく。じゃが、立花はまみれなんだ。そなたを召し抱えたのは直ぐなる心根のほどを見極めたからじゃ」「それがしに何をせよと仰せにござりまするか」「秀忠とやがて将軍になる世嗣の傍を離れるな。決してひとを裏切らぬ立花の義を世に知らしめよ。さすれば秀忠と次なる将軍もひとを信じることができよう。そなたは、泰平の世の画龍点睛となれ」梁の画家が壁画に白竜を描き、仕上げに睛(ひとみ)を書き込んだところ、たちまち風雲生じて白竜は天に上ったという。家康は、天下を見守り、ひととしての在り様を示すことを宗茂に求めているのだ。「身に余るお言葉にござりまする」「それが西国無双、立花宗茂の務めぞ」家康は静かに言うなり、踵を返して陣所へと戻っていった。 翌八日 家康は、秀頼が寵もる土倉への発砲を井伊直孝に命じた。昼過ぎになって、秀頼は淀殿、大野治長らとともに土倉に火を放って自害して果て、豊臣氏は滅亡した。
(十三)

「それがしは大御所様が三河におられたころ鷹匠として仕えており申したが、一向一揆が起きた際、一揆に加わり、大御所様を裏切り申した。それから十年余り諸国を流浪いたしたが、徳川家に帰参がかなった時、ひとつだけ胸に誓ったことがござる」正信は息を入れて言葉を途切らせた。その様子を案じながらも宗茂は問うた。「それはいかなることでござろう」「二度と大御所様を裏切らぬとおのれに誓い申した」正信はこれまで見せたことのない真剣な面持ちで宗茂を見つめた。「それがしは謀(はかりごと)によって大御所様をお助けして参った。たとえどのように謗られようとも大御所様のためにならぬ者には容赦いたさなんだ。大久保忠隣も諸大名から人望を集め、豊臣家にも親しく通じておりましたゆえ、大坂の陣を前に始末いたした」正信の語気には謀略だけに生きてきた男の凄みがあった。宗茂は正信が幕府で権勢を振るいながら、所領は相模玉縄二万二千石の少禄に留まっていることを思い出した。「それゆえ、所領は望まれなんだか」宗茂の問いかけに、正信はわずかに頬をゆるめた。「大御所様は何度も加増のことを仰せ下されたが、その都度お断わり申した。謀を用いた者が大領を得てはならぬのでござる」「さほどのお覚悟なれば、伊達殿も本多殿の心持をおわかりくだされよう」「いや、それがしはただおひとり、大御所様を裏切らぬと決めた者にござる。それゆえ、他の者をいかに裏切ろうと平気でござった。かような者の心根をわかってもらおうなどとおこがましいことは考えており申さぬ。ただ、立花殿だけには――」「それがしだけに? 何でござりましょう」「ひとを裏切らぬという義を守られておられる立花殿に、かようなる者もおると知っていただきたいと存じたまでのこと」これは愚痴でござるよ、と言って笑った正信はまた激しく咳き込んだ。正信を介抱する小姓を急ぎ呼び寄せ、宗茂は本多屋敷を辞した。ただひとりだけを裏切らぬとおのれに誓っているという正信の言葉が胸に沁みていた。自分もまた、誾(ぎん)千代との約束を裏切らぬためにひたすら立花の義を貫き、大名に返り咲きたいと願う思いだけで生きてきたではないか。そんな感慨を抱きつつ、宗茂は大手門の番所へと戻っていった。家康は四月十七日に七十五年の生涯を閉じて、遺骸は駿河の久能山に葬られた。正信は家康の後を追うように六月七日、他界した。享年七十九。
(十五)