今日のお昼は今池の「麺屋玉ぐすく」です。一番人気のソーキそば(950円)とじゅーしー(沖縄風炊き込みご飯)(250円)をいただきます。沖縄でいただいたものより少しあっさりめのスープ、ソーキ肉は別皿に乗りトロトロでこれもあっさりめですがとても美味しいです。あまり辛好きではないのですが、卓上にあったコーレーグース(泡盛に、島唐辛子を漬けた沖縄名物のピリ辛の万能調味料)をスープに垂らすと「ん!?この味好きかも…」と、とても美味しかったです。時々食べに行きたくなる味でした。ごちそうさまでした♪。

 

麺屋玉ぐすく

名古屋市千種区今池1

 

今日は祇園祭の前祭(さきまつり)山鉾巡行の日ということで、京都の百名店に選ばれた有名店の「麺屋優光」で2種チャーシューらーめん(貝出汁)+煮玉子(1080円)をいただきます。まずレンゲでスープを一口、「すごい、貝だ なんてうまいスープ」立て続けにスープを3,4口いただきます。チャーシューも柔らかくてとても美味しいです。また訪れたくなる美味しいラーメンでした。ごちそうさまでした♪。

 

麺屋優光 名古屋店

名古屋市中村区名駅4

 

今日のお昼は約2か月半ほど前にオープンした北海道発 生仕立てドーナッツ専門店の「MILK DO dore iku? 名古屋桜山店」へ。もう個数制限もなく、先客が2組だけですぐに購入することができました♪。

 

 

写真手前から幸せあんバター(360円)一番人気の純生ホイップ(330円)アールグレイ(330円)の3つをいただきます。最近流行りの生ドーナツはどれもふわふわで生クリームがおいしく甲乙つけがたいほど美味しいです。もちろん一番人気の純生ホイップも美味しいのですが、個人的にはアールグレイが好きかな。ごちそうさまでした♪。

 

MILK DO dore iku? 名古屋桜山店

名古屋市昭和区桜山町4

 

今日のお昼は、ちょうど1週間前にオープンした「あんバターは名古屋のもの」のエシレあんバター(540円) マスカルポーネあんバター(410円)ピスタチオあんバター(454円)です。ネットの情報でこちらのお店のあんバターを見て、これ絶対に食べてみたいと今日買いに行きました。9時と12時と15時の3つに分けて作り上げられ お一人様5個まで ということなので、12時10分ごろに再訪します。4,5人が並んでいてエシレもあと4個の状態でしたがどうにか購入できました♪。当初は2個の予定でしたが、店頭で見ると 結構小振りなので、急きょ3個となりました。どれも塩味が効いていて後味がよくとても美味しいです♪。小振りなので女の人でも2,3個 罪悪感なしに食べられるのもグッド!ごちそうさまでした♪。

 

あんバターは名古屋のもの

名古屋市中区千代田5

 

あらすじ
『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した昭和史研究の第一人者・半藤一利が、最後に日本人に伝え残したかったこととは。本書では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、著者ならではの平易な文体で解説する。開戦から80年の節目の年に、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊。


ひと言
早いもので半藤一利さんがお亡くなりになって、ちょうど3年半。ニュースで半藤さんがお亡くなりになったことを知ったときは、もう歴史探偵の作品を読むことができないのかと とても悲しい気持ちに襲われたのを覚えています。図書館でこの本を見つけて、久しぶりに大好きな半藤一利を読みました。2021年の11月に読んだ本ですが、やっぱり半藤一利はいいなぁと思いました。半藤さんの本は一度読んだから終わりではなくて、折にふれて何度も何度も読むべき本、特に若い人に読んでもらいたい本だとつくづく思います。改めて歴史探偵 半藤一利さんのご冥福をお祈りいたします(合掌)

「容易ならざる戦争となる。将兵は本職と生死をともにせよ」と、きっぱりといいました。「ただし、はっきりいっておく」と山本はつけ加えました。「十二月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ十二月八日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、十二月八日の前日の午前一時までに、出動全部隊に即寺引昜げを命する。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発進後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」すると、機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かってない激しい口調でいいました。「百年兵を養うは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
(一(いつ)に平和を守らんがためである―山本五十六)

昭和十五年(一九四〇)につくられて、女優高峰三枝子が歌って大ヒットした「湖畔の宿」という流行歌があります。歌詞もメロデイもセンチメンタルな歌です。ところが、これは戦意高揚には役立たないと、内務省がすぐに発売禁止の命令を発しました。それじゃ歌があまりに可哀想だ、ということから、その鬱憤をはらすように、たちまちに替え歌がつくられました。太平嵂戦争がはじまった直後のことであったと思います。これがまた傑作でして、われら悪ガキによって爆発的に、ただし、ひそかに歌われました。警官や熱狂的な軍国おじさんの目と耳をかすめて、音痂のわたくしなんかもこの歌だけはいまも歌えるほど、とにかく歌いに歌いまくったものでした。見つかって説教もゲンコツもいくらかは平気の平左で、度胸をつけて歌ったところもあったかもしれません。
きのう召されたタコ八が 弾丸(たま)に当って名誉の戦死 タコの遺骨はいつ還る 

骨がないから還れない タコの母さん悲しかろ
いま歌ってみても、よくできた歌だと思います。底知れぬ悲しみがあります。
(タコの遺骨はいつ還る―流行歌「湖畔の宿」の替え歌)

秋も深まった昭和十七年(一九四二)十一月十五日、「大東亜戦争一周年記念 国民決意の標語」の大募集が行なわれました。朝毎読の三大新聞と大政翼賛会が主催し、情報局が後援というものものしさ。わたくしの通っていた国民学校(小学校)からも、何人かのえらばれた優等生たちが知恵をしぼって応募したようでしたが、全員落選。下町の優等生といったってタカがしれていますから、当然といえば当然のことでした。しかも、応募総数三十二万人余のうちから、十一月二十七日に各新聞にいっせいに発表された入選作の、しかも最優秀作のように、大々的に伝えられた標語には、ほんとうに地団駄を踏んで口惜しがった記憶が残っています。なぜならば、それは、「欲しがりません 勝つまでは」というもので、しかも麻布区(現港区)笄(こうがい)国民学校五年生の女の子がその作者である、というではありませんか。「なにッ、五年生のアマッチョが一等だと?そんなバカな。だれかほかのものが作ったのと違うか」と、われら六年生の悪ガキは疑いつつも、嘆声をあげました。「先公(先生)がオレたちにやらせれば、もっとスゲエのを作って、見事に一等賞をもぎとってやったものなのにな」「先公は人物を見る眼がねえからな」そう強がってみたものの、先生が悪ガキを指名するはずは毛頭ありません。じつは、ほんとうの作者は少女の父親(天理教布教師)であるとわかったのが、戦後も三十二年もたった昭和五十二年(一九七七)のこと。悪ガキのカンは当っていたことになります。
(欲しがりません 勝つまでは ―国民学校五年生の女子)

三枝昂之(さいぐさ たかゆき)といういま活躍している歌人がいます。二〇二〇年度の迢空(ちょうくう)(折ロ信夫)賞を受賞した人で、かれがじつに見事に、いまの悲しい事実を三十一文字にまとめています。
「沖縄県民斯ク戦へリ」「リ」は完了にあらず県民はいまも戦う
まったくこの短歌のとおり。沖縄県民の戦いは、戦後七十五年たってもまだつづけられている、わたくしはそう思うのです。
(沖縄県民斯(か)く戦へり ― 大田実)



 

 

あらすじ
剣は一流だが道場は閑古鳥の鳴く貧乏侍・草場弥市と、幼馴染みで武士の身分を捨てて商家に婿入りした小池喜平次。二人は、彼らを裏切り国許から追放の憂き目に合わせた勘定奉行の娘で、初恋の女・萩乃の用心棒を引き受ける。16年ぶりに再会した萩乃の変わらない美しさに心乱されるなか、父・民部から夫への密書を携えた萩乃の身に危険が迫る。一方、国許では、かつて化け物と呼ばれた男が藩政に返り咲き、復讐という見えない魔の手が、二人に忍び寄っていた。二度と戻れぬ故郷、忘れたはずの初恋の女、信じる友との絆……。儘ならぬ人生と初恋の結末を哀歓を豊かに描く、傑作時代小説。


ひと言
アマゾンのカスタマーレビューで「現代では失われた「忍ぶ想い」がとても新鮮でした」と書かれた方がいて、確かにその通りだと納得。もうお亡くなりになって約7年にもなるのに、まだ触れてないこのような作品がまだまだあり、また折にふれて未読の作品を読みたいと強く思いました。それにしても最近は文字が小さくて見えにくく、本を読んでいても疲れることが多く、好きな葉室麟さんの本を読むのにも一週間近くかかるようになりました。困ったものです。

「草波弥市があれほどの嘘をつくとは思わなかった」とつぶやいた。弥市は呂律がまわらない声でのんびりと応じた。「嘘をついたとは、聞き捨てならん。何のことだ」「わたしは元服してからもお主と同じ道場で剣術の稽古を重ねた。終われば、井戸端で汗をぬぐった。そのおりに、見たお主の背に傷などはなかった」ははっ、と弥市も天井を見上げて笑った。「さすがに小池喜平次は油断がならぬな。わしの背中のことまで覚えておったか」「荻乃殿の心持ちを楽にしてやろうと考えての偽り事か」「まあ、そうだが。わしがやくざ者と立ち合って怖気づいたのも、二度とこんなことはしたくない、と泣きながら穴を掘ったのも、まことだ。そして、わしはあれ以来、おのれの愚かさを隠さぬようになった」「愚かさを見せれば、争い事を避けられると思ったか」「ひとの争い事は見栄から起きるのだ。やくざ者に絡まれた時、わしは土下座してでも謝り、隙を見て竹という女中とともに逃げるべきであった」弥市は淡々と話を続けた。「やくざ者に挑まれたからといって、無駄な命のやり取りをすることはなかったのだ」「しかし、武士たる者はそうもいくまい」「だから、お主は武士を捨てたのであろう。見栄を張って、争い事をするのが嫌だったのではないか。わしはそう思っていたぞ」弥市から言われて喜平次はしばらく黙っていたが、やがて、「そうかもしれぬな」とぽつりと答えた。
(第三章 封じられた過去)

「そう言えば、それがしのことを泣き虫だとおっしゃいましたな」ふと思い出して弥市が言うと、弥生は控え目に声を立てずに笑った。「強いだけでなく、弱いところをお見せになる殿方を慕う女子もいるのでございます。そして、そのような想いは深いものだとわたくしは思っております。どうしてかと申しますと自分が相手にどのように思われるかではなく、相手のことをひたすらいとおしんでおるからでございます」「そんなものでござるか」弥市は困惑した頭つきになった。弥生は懐から小さい紙を取り出して、また折り始めた。やがてできあがった折鶴を弥市に渡した。
(第四章 明かされる想い)

 

 

今日のお昼は千種駅前にある「あんかけ家」であんかけパスタ カツとじ(1078円)をいただきました。あんかけパスタはピリ辛のものが多いのですが、こちらの餡はピリ辛感が少なく、どちらかと言えば、あまり辛いのが苦手な私にとっては食べやすくとても美味しいです。玉子でとじたカツも十分な量で餡とよくマッチしておいしいです。また時々利用させてもらいます。ごちそうさまでした♪。

 

あんかけ家 千種駅前店

名古屋市千種区今池1

 

あらすじ
「ワぁ、ゴッホになるッ!」1924年、画家への憧れを胸に裸一貫で青森から上京した棟方志功。しかし、絵を教えてくれる師もおらず、画材を買うお金もなく、弱視のせいでモデルの身体の線を捉えられない棟方は、展覧会に出品するも落選し続ける日々。そんな彼が辿り着いたのが木版画だった。彼の「板画」は革命の引き金となり、世界を変えていく。墨を磨り支え続けた妻チヤの目線から、日本が誇るアーティスト棟方志功を描く。感涙のアート小説。


ひと言
これ!これ!原田 マハのファンが待ち望んでいた小説です。少し前にマハさんの「黒い絵」を読んで消化不良気味でしたが、これはほんとうに感涙のアート小説でした。3年ぶりのアート小説ということですが、マハさんこれからもこういうアート小説をいっぱいいっぱい書いてください。お願いします。余談ですが、少し前に青森旅行に行き、酸ケ湯温泉で棟方志功の板画がたくさん飾られていたり、棟方志功がデザインしたマッチ箱の絵などがあったのを見ましたが、酸ヶ湯は棟方が愛した温泉だったんだということを後で知り、棟方が入ったであろう千人風呂に入れたことに感謝です。



棟方は、十七歳のとき、友人に見せられたとある雑誌の中に、鮮やかな色つきのロ絵をみつけました。それは黄色く燃え上がる花〈ひまわり〉でした。見たこともないような花のたたずまい、花なのかどうかもわからないくらいの迫りくる激しさ。あの人は、ひと目で心を奪われてしまった。だから絵描きになる決心をしたんだと、教えてくれました。―― ワぁ、ゴッホになる! って。ゴッホに憧れて、絵画に恋焦がて、油絵のなんたるかもよくわからないままに、最初はがむしゃらに始めました。悪戦苦闘するうちに、やがてあの人が見出したのは、板画の道でした。版画ではなく「板画」です。戦時中、棟方が自分の仕事を自らそう名付けました。板を彫る、墨で摺る画。世界にたったひとつ、板上に咲く絵。だから板画なのだと。
(序章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並)

「君。いま版画の絵巻物と言ったね。ちょっと見せてくれないか」「困ります。いま展示作業ですので……」係員が困惑して応えた。が、棟方はすぐさま、壁に後ろ向きに立てかけてある四枚の長い額の中のひとつをひっくり退して見せた。ふたりの顔に稲妻のような閃光が走った。ふたつめを返すと、ふたりの目が鋭く輝いた。三つめを返すと、ふたりのロが半開きになった。そして最後のひとつを返すと、ふたりはじっとそれをみつめたまま、動かなくなった。あまりに長いあいだふたりとも黙りこくってしまったので、棟方は戸惑った。しかし、声をかけるのがはばかられるほどふたりが没入して見ているのがわかった。「…… これは……」最初に口を開いたのは丸眼鈍の男だった。「これは、すごい……この連続する文字……まるでザアザア雨が降っているみたいだ。こんな版画は見たことがない」興奮しているのか、その声は熱を帯びて少し震えていた。となりのロ髭の男は低くうなった。言葉がみつからない様子である。彼は振り向くと、そこに突っ立っていた係員に向かってきっぱりと言った。「君、これは四点全部展示しなければ意味がないものだ。二段掛けにしてもいいから、とにかく全部展示してくれたまえ」「えっ」係員と棟方は同時に声を上げた。即座に男が続けて言った。「私たちは工芸部の審査員だ。版画部の審査員の先生方に言っておくからとにかく四点すべて展示するように。いいですね?」審査員と聞いて係員は態度を豹変させた。彼は何度もふたりに向かって頭を下げ、必ず全四点を展示すると約東した。棟方はキツネにつままれたように、ぽかんとするばかりだった。それからふたりの紳士は〈大和し美し〉を隅々まで見て、しきりに嘆息したり、首を左右に振ったり、近づいたり離れたりして、一文字一文字を追いかけ、この上なくていねいに見てくれた。それだけで棟方の胸は熱いものでいっぱいになった。最後の一文字までを見終わると、ふたりは顔を寄せて何ごとかひそひそと話し合い、うなずき合った。そして、ふたりして棟方のもとへやって来た。「君、名前は?」口髭の男に問われて、棟方は我に返って答えた。「む…棟方。棟方志功と言います」男は徴笑んだ。棟方君。私は柳宗悦、彼は陶芸家の濱田庄司だ。私たちは君の作品に心底感じ入った。いや、ほんとうに……すっかり持っていかれてしまったよ」棟方は目を瞬かせた。
(1936年(昭和11年)4月 東京 中野)



ニューヨークやフィラデルフィアの美術館で、棟方はついにゴッホの「本物」の絵を見ることができました。「白樺」の一ページに初めて〈ひまわり〉を見た日から四十余年が経っていました。やっと、ほんとうにやっと巡り会えた。棟方の胸中には熱いものが込み上げていたに違いありません。かくなる上は、どうしてもゴッホ「本人」に会いに行きたい。会ってお礼を言わなければ気がすまないと言い張ります。お世話になった旧友にどうしても思返しがしたい、そんな感じで。そうしてついに棟方と私は、ゴッホ兄弟のお墓の前に立ちました、ふたつの墓石をふさふさと木蔦の緑の毛布が覆い尽くしていました。棟方はじっと黙り込んで、いつまでも墓標に向き合っています。よほど感無量なのだろうと、私も棟方同様、沈黙したまま墓標の前で頭を垂れていました。と、棟方が私の方を向きました。そして尋ねたんです。―― チヤ子、眉墨持ってるか?一瞬、耳を疑いました。―― 眉墨?持ってるけど、なんのために……?訝しがる私の手から眉墨を奪うと、あの人はポケットに畳んで入れていた大判の和紙を一枚、取り出しました。それを墓標にぴったり当てがって、その上を眉墨でこすりはじめたんです。
ICI REPOSE VINCENT VAN GOGH (フィンセント・ファン・ゴッホ ここに眠る)
白い文字が浮かび上がりました。なんと、ゴッホの墓碑銘の「拓本」をとってしまった。あの人は、ゴッホ兄弟のお墓に向かって深々と頭を下げました。そしてこう言ったんです。―― お許しください、ゴッホ先生。ワんどの墓、そっくりに造らせていただきます。
(終章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並) 
 

 

明日は父の日。前からずっと一度は食べに行きたいなぁと思っていた「ステーキハウス キッチンリボン」。私が行ってみたいお店だということを知っていた娘夫婦がランチをプレゼントしてくれました。下の娘も誘ってもらい5人で行ってきました♪。こちらのお店はお肉がおいしいだけでなく、お店の雰囲気、スタッフの対応など食べログの口コミの評価もとてもよく、食べログの評価4.03(6/15現在)数々の受賞歴を持つお店です。

 

 

コースでおいしいお料理が出てきた後、お待ちかねのお肉ですが、一口食べた後、下の娘と顔を見合わせて、お互い笑顔がこぼれます。おいしいものは人をこんなに笑顔にするんだと実感。最後に出てきたデザートのプレートがまたとてもうれしかったです。

 

 

とても幸せなひとときでした。ほんとうに素敵な父の日のプレゼントでした。ありがとう。ごちそうさまでした♪♪♪。

 

 

ステーキハウス キッチンリボン

名古屋市昭和区菊園町4

 

あらすじ
オカルト、宗教、デマ、フェイクニュース、SNS。あなたは何を信じていますか? 口さけ女はいなかった。恐怖の大王は来なかった。噂はぜんぶデマだった。一方で大災害が町を破壊し、疫病が流行し、今も戦争が起き続けている。何でもいいから何かを信じないと、何が起きるかわからない今日をやり過ごすことが出来ないよ。飛馬と不三子、縁もゆかりもなかった二人の昭和平成コロナ禍を描き、「信じる」ことの意味を問いかける傑作長篇。


ひと言
久しぶりの角田 光代さんの本。角田さんらしい本だなぁと思いながら読みました。ノストラダムスの大予言、口さけ女、コックリさん 今の若い人には何のことかもわからない言葉だと思いますが、子どものころはすごくこわかったなぁと懐かしく思い出しました。ところで下に書いた小松菜やキャベツの葉の枕ってほんとうの話なの?信じていいの?

乳幼児が発熟した際、そんなに高熟でなければ小松菜やキャベツの葉を枕にしてやると、ゆるやかに熱が下がるというのは、科理教室の友人から勧められた本で知ったことだった。西洋医学に頼らない昔ながらの自然療法で、たとえば乗りもの酔いの防止には梅干しを食べさせるとか、あせもは挑の葉を煎じて風呂に入れるとか、そういうことの一環に青葉の枕があると知り、湖都が微熱を出したときに活用したのだ。
(第一部 望月不三子 1976)

りっちゃんの双子の赤らゃんについて話し続ける園花を抱きしめて不三子は思う。そうであったらどんなにいいか。母親は自分を置いてきぼりにしていったのではなくて、母親にしかこなせないたいせつな用事があったのだ。そうであればどんなにいいかと不三子だって思う。湖都だってそうだ。子どもを産めなかったのはわけもわからず打たれたワクチンのせい。得体の知れない新型ウイルスも、異様なスピードでできたワクチンも、だれかの思惑によるもの。そうであれば、どんなにいいか。理不尽の理由があったら、どんなにいいか。私たちのだれだってそうだ。何がただしくて何がまちがっているか、ぜったいにわからない今を、起きているできごとの意味がわからない今日を、恐怖でおかしくならずただ生きるために、信じたい現実を信じる。信じたい真実を作ることすらする。
(第二部 2021 望月不三子)