雑話51「万博と印象派」
先月末に何かと話題だった上海万国博覧会(上海万博)が終わりました。
これまで過去最高だった大阪万博の累計入場者数を抜いて、7300万人を超える人々が訪れました。
実は、この国際的なイベントは印象派が活躍する少し前から始まりました。
1867年の巨大な万博会場、シャン・ド・マルスのほぼ全域を占めた
1851年に第1回となるロンドン万博が開かれ、パリでは1855年の第3回博覧会を筆頭にこれまでに9回も開かれています。
さて、パリで開かれた万博の歴史を見ていくと、印象派の画家たちの名前があちこちに出てきます。そこで、今回はパリ万博と印象派の出来事やその他興味深いお話をご紹介しましょう。
まず、パリで最初に開かれた1855年の万博では、美術館に当時の大家であるアングルの「グランド・オダリスク」やドラクロアの「ダンテの小船」など5千点もの作品が展示されました。
ギュスターヴ・クールベ「画家のアトリエ」1854-55年
しかし、印象派の前の世代で反アカデミズムのクールベは自身の意欲作であった「画家のアトリエ」や「オルナンの埋葬」が万博の展示に選ばれなかった事に抗議して、万博の美術館近くに展示会場を借り、自身の作品40点あまりを展示しました。
それまで、一人の画家の作品だけの展覧会が開かれたことがなかったため、これが歴史上初めての個展ではないかといわれています。
次の1867年のパリ万博には日本が始めて正式に参加し、徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出品しました。
日本の使節団。中央にいるのが徳川慶喜の弟の昭武か?
当時、既に芽生え始めていたジャポニズムは彼らの出品した日本の工芸品や浮世絵によって盛り上がりを見せ、印象派やポスト印象派の画家たちは浮世絵の影響を大いに受けることになります。
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」1875-76年
2回目となったこのパリ万博ではクールベの作品4点が展示されましたが、クールベはまたもや会場外に個展を開き133点の絵画と2点の彫刻を展示しました。
また、クールベと同じようにサロンから冷遇されていた印象派の兄貴分であるマネもクールベの個展の5日前に自身の回顧展を会場外に開き、「オランピア」や「草上の昼食」など50点以上を展示しました。
1878年に開かれたの3回目のパリ万博は普仏戦争からのフランスの復興を祝って開催されました。
会場の様子。セーヌ川をはさんで左がシャン・ド・マルス
現在エッフェル塔が立っているシャン・ド・マルスに、アメリカに寄贈するために建設中の”自由の女神”の頭部が展示されました。
展示された自由の女神の頭部。実はこの像の制作資金集めのために、出展された。
この4年前に第1回印象派展は開催されていましたが、印象派に対するアカデミー派の評価は低く、モネやルノワールなどの印象派の画家たちの作品は展示されることはありませんでした。
4度目となる1889年に開催されたパリ万博のシンボルはその年に完成されたエッフェル塔で、万博会場の入場門として使われました。
1889年の万博会場
この万博にはゴッホやゴーギャンが訪れています。
19世紀最後の開催となった1900年のパリ万博はパリオリンピックにあわせて開催されました。
そこで、このオリンピックは異例の5ヶ月間にも渡って開催されました。
1900年のパリ万博。中心的な建造物だった電気館(奥)と水宮噴水(手前)
その時会場として建てられたグラン・パレで「フランス美術100年展」が開かれ、19世紀のフランス美術を代表する絵画や彫刻が約3000点出品されました。
ダヴィットやジェリコーなどの新古典主義の作家と共に、以前なら拒否されていたクールベ、マネ、モネ、ルノワールもようやく展示されることになったのです。
印象派とアカデミーとは万博の展示に関しても争っていたのは不思議ではないにしても、こんな早くから日本が海外の万博に参加していたなんて驚きですね。