雑話66「モンパルナスの狂乱の時代」
エコール・ド・パリの作家たちやピカソ、マチスが活躍中だった1920年代のモンパルナスでは、夜ごと乱痴気騒ぎが繰り返されました。
”飲んでは踊り、踊っては飲み、やがて夜が明けようという寸法だ。この日ばかりは、どこを歩いても夜明かしでバステイユの塔には、アカアカと革命の火が燃えるのである。・・・【中略】・・・誰ということはなく、手当たり次第に女と男は相擁して踊るのである。・・・【中略】・・・お祭り騒ぎの後で女が母になることも珍しくはない。”
カフェ・ロトンドではハッシッシュなどのドラッグの取引が日常茶飯事であり、画家たちはアトリエに持ち帰っては竹のパイプで吸引していました。
のちに「狂乱の時代」と呼ばれるパリの1920年代は、第1次世界大戦が終わると同時に始まり、1929年の世界恐慌で終焉を迎えるまでのわずか10年足らずの短い期間にすぎませんでしたが、これほど自由と荒廃が支配した時と場所はかつてなかったといえるでしょう。
大戦後のモンパルナスには様々な人種が大量に流れ込んできていて、街はさながら外国人居住区のようになっていました。
彼らの多くは芸術の都パリでの成功を目指してきた芸術家で、ヨーロッパ各地はもちろん、戦勝国側であった日本を含むアジアやアルゼンチンなどからも集まっていました。
また、アメリカからも戦後の好景気を背景に文化の香りを求めて大量にやってきました。彼らの多くは裕福で詩人や芸術家たちの即席のスポンサーとなりました。
こうして芸術家や様々な人種が暮らす街として有名になったモンパルナスは、フランス内外の大量の観光客をひきつけ、そんな観光客を目当てに多くの異国情緒溢れる個性豊かなカフェやレストラン、ナイトクラブが出来ました。
夜になると、飲み騒ぐことの好きな人々はナイトクラブやダンスホールに吸寄せられていきました。
その中でも有名なのは「ジョッキー」というモンパルナスで初のナイトクラブで、営業したのがわずか4年間だけでしたが、その間ずっと乱痴気騒ぎを続けたのでした。
そこでは、狭いダンスホールにもかかわらず、多くの人が詰めかけたため、満員電車のような状態で踊ることも多々あり、ある晩には一人の女の子が全裸で踊っていたのに誰も気付かなかったほどでした。
もう一つ、この「ジョッキー」とともにこの時代のモンパルナスを象徴する場所として「黒人舞踏会」というダンスホールがありました。
ここは元々植民地軍の軍曹たちや、植民地の役人たちに連れてこられた植民地の女性が頻繁に通った目立たないダンスホールでしたが、ここの記事がコメディア誌に載ったことをきっかけに、「黒人舞踏会」は夜の観光名所となりました。
すると、多くの白人女性たちが黒人ダンサー目当てにもやってくるようになりました。白人女性の自堕落な女のように振る舞う姿があまりにも目に付くようになったので、嫌気をさした当初からの客たちは別の静かな場所に移ってしまったほどでした。
「狂気の時代」の間、ダンスパーティか仮装舞踏会は開かれない週はないほど頻繁に開催されました。
これらのパーティはロシア人、スカンジナヴィア人、アメリカ人らの芸術家グループなどや、藤田やキスリング、パスキンらのエコール・ド・パリの画家たちも主催していて、中には同性愛男性の国際大会となった「男色舞踏会」など変わったものも少なくありませんでした。
「フーフー(少し気の変な)」と呼ばれていた藤田嗣治の逸話も多くあり、あるキュービズムの画家たちが開催したダンスパーティに裸で近い格好で現れた藤田は全身に入れ墨をしていました。
※家庭を顧みなかった藤田は1924年にフェルナンドと別れて、同年ユキと結婚しました
入れ墨の習慣のないパリの人々は太腿から背中にかけて描かれた妖艶な女性の姿に驚きましたが、彼はその上柳のかごを背負い、籠には縛られた妻のフェルナンドを入れていたのです。右手には「この女売ります」と書かれた紙まで持っていたそうです。
結局、冒頭のパリ祭の様子は藤田自身のことだったようですが、いずれにしても現在では考えられない喧騒の様子は思い描くだけで興味がそそられますし、男性なら誰でも羨ましい気がするのではないでしょうか?





