一月の歌舞伎座は、高麗屋三代の襲名披露興行である。九代目幸四郎が二代目白鸚に、七代目染五郎が十代目幸四郎に、そして四代目松本金太郎が八代目染五郎となる。まずはおめでとうと、心からの祝意を述べておきたい。
白鸚、染五郎はさておき、新幸四郎には、この際、「松本幸四郎」という名跡が、いかに偉大なものであるか、という意識をしっかりともって貰いたい。すなわち、高麗屋からは、かつて二人の団十郎を送りだしているほどの、それこそ、江戸随一の市川団十郎家に次ぐ名家であり、しかも「松本幸四郎」という芸名は、その統領に与えられる大切なものなのだ。この大名跡を襲いだ以上は、更なる気力をふり絞り、熾烈な情熱を傾注して、正しい古典歌舞伎の継承に努めてもらいたい。と同時に、決して、これを重圧に感じたり、また、目先の軽薄な流行に心を奪われてはならないであろう。
さて、〔昼の部〕はまず「箱根霊験誓仇討」から。夫婦愛を織り込んだ霊験物で、筆者などは子供の頃に頻繁に観た狂言だが、今の若い役者たちには所詮理解の届かぬものらしく、業病の上に、女房を敵に奪われてしまうという二重の複雑な勝五郎の屈折感、また、箱根権現の霊験によって、突如として業病が癒える歓喜の表現が、勘九郎には出来ていない。初花は七之助。上野、筆助の二役は愛之助。第二は「七福神」。これは高麗屋の襲名を寿ぐめでたい舞踊の一幕だ。第三は「車引」、新幸四郎の松王丸。台詞といい、仕科といい、荒事風に、豪快に、キッカリと演じているのがいい。登場しての気迫に溢れた横向きの見得、次いで、白い襦袢となり、左右に梅王丸と桜丸を配し、胸に手を当て、グッと腰を落としての豪気の見得、そして、その足の親指の「反り」の力強さ。台詞にしても「命知らずの暴れ者、止めらるるものなら止めてみろ、エーエー」など、荒事としての正しい発声で見事なものだ。勘九郎の梅王丸には、拳をふりあげ、深く腰を沈める姿に十八世勘三郎の面影が揺曳するのが懐かしい。七之助の桜丸は、柔らかく、若衆らしい凛としたところは良しとしても、なぜか「桜丸としての風情」には今少し不足を感じるし、弥十郎の時平は柄は立派だが台詞の活殺に工夫がいる。第四は「寺子屋」で新白鸚の演しものだが、この松王丸は台詞、仕科ともに大立派。前半は深い呂の声で、終始重厚な演技をみせる。が、特に今回では首実検の後に病の窶れのみならず、犠牲となった我が子への愛惜の情を色濃く見せていたのを多としたい。後半は、人間的な気持ちの揺れを強調して感動させるが、「大落とし」の件だけは、やはり懐紙をぶ厚く掴みとって荒事風に、豪快な泣きをみせてほしかった。玄蕃は左団次だが、役柄からいっても、台詞などは、もう少しベリベリとありたいところ。梅玉の源蔵は本役であるにも拘らず、雀右衛門の戸浪がしっかりと義太夫物らしい発声をしているのに対し、抑揚のない淡々とした台詞回しを続けていたのが不満。千代は魁春だが、サワリの〽︎未練と笑うて下さるな」の件に実力を示す。園生の前は藤十郎。涎くりは猿之助。
〔夜の部〕は「角力場」から。芝翫の濡髪は立派な柄と重厚な声量を持ちながら、キレがないのが惜しまれる。愛之助は与五郎と放駒の二役だが、上方風な「つっころばし」の味わいがある与五郎に点が入る。第二は「口上」。出演中の幹部一同が祝意を述べ、最後に新白鸚、幸四郎、染五郎が謝意と向後の決意を語って胸を打つ。第三は「勧進帳」で、これは幸四郎の演しもの。長唄の美しい旋律のなか、吉右衛門の富樫と見事に揃った四天王、それと番卒たちのアンサンブルによって優に水準を超えた舞台となった。幸四郎は「やあれ暫く」の第一声からして、弱点といわれた声を是正し、終始響きある「呂」の声で観衆を圧倒した。勧進帳の読み上げもしっかりとしていたし、富樫とのたたみ込んで迫ってゆく山伏問答も、冨樫の「甲」の声との心地よい対照をなしていたばかりか、「かくの通り!」とか、「阿吽の二字!」といった荒事の発声も誤魔化しではなしに見事にやり抜けた。驚くべき変貌といっていい。「物語」での仕科の大きさも好感。また「延年の舞」も踊りの名手らしい技巧をみせる。ただ、厳しく言えば、弁慶の「大人格」を漂わす「大盃」の件の風格に、大きさの不足があるのが、無念といえば無念。新染五郎の義経は、珍しく「能」の子方を思わせるが、何よりも品位のあるのを褒賞したい。台詞はまだしも、〽︎山隠す」〽︎判官御手を」の件の玲瓏たる風姿などは相当なものだ。吉右衛門の巧技については、今更言うこともない〔夜の部〕の切は「相生獅子」、「三人形」の舞踊二題。前者は扇雀と孝太郎が手獅子を持っての優雅な踊りを、後者は若衆の鴈治郎、奴の又五郎、傾城の雀右衛門が古風な振りをみせて終幕となる。