三月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

〔昼の部〕の開幕劇は「明君行状記」。真山青果氏の手になる新歌舞伎には、常に「人間」に対する鋭い洞察眼が認められ、なおかつ、それが「台詞劇」の形をとって表現されているところに大きな特色がある。本作にしても、善左衛門(亀三郎)が自らの身命を賭して、明君と称された光政侯(梅玉)の実像に迫ろうと、罪を犯し、「直裁判」を申し入れ、厳しく対峙し、激しい台詞の応酬となる。しかし、梅玉はともかく、亀三郎には、祖父・十七代目羽左衛門を彷彿とさせる良い声音(こわね)を持ちながらも、その台詞にキレがなく、また抑揚にも未熟さが露呈して効果があがらない。団蔵の権左衛門、高麗蔵のぬい、権十郎の甚太夫、松江の三之允、橘太郎の林助、萬太郎の大五郎。第二は「義経千本桜」(渡海屋)(大物の浦)。ここでは、終始、仁左衛門の風情と巧技に心を奪われる。まず、色のんこの鬘に大振りの厚司、それにやや高めに番傘をさして花道を歩みくる、船頭銀平の「出」の風姿が素晴らしい。しかもそれが、「渡海屋」の後半で、上手屋体の障子を開くと同時に、白装束に身をかため、幽玄、気品に満ちた知盛卿に鮮やかに変貌してみせるのだ。「大物の浦」に舞台が移っても、満身創痍の知盛が悲憤無念の思いを胸に秘め、血を吐くような声音で述懐する「三悪道」の卓越した台詞回しなども強く心奥に浸みてゆく。典侍の局(時蔵)は、お柳となって義経に語る亭主の日和見自慢の件などに、世話女房らしい色気や愛嬌を少しく欠く不満はあるものの、本性を顕してから「大物の浦」での芸容の大きさ、品位、気概などは相当なもの。殊に眼目の「いかに八大竜王」の台詞などは周囲を圧するほどの響きで観客の心を顫わせた。義経(梅玉)は、なによりも「渡海屋」で漂わせた憂愁哀切な風情が良く、弥十郎の弁慶も重量感のある演技で一幕をひきしめる。相模五郎は巳之助、入江丹蔵は猿弥、安徳帝は右近。第三は、十代目三津五郎の三回忌に因んでの「どんつく」。江戸の風俗を写した賑やかな常磐津の舞踊。〔夜の部〕の第一は「引窓」だが、これが今月の一番の秀逸な舞台となった。まず、幸四郎の南与兵衛が傑出した技量で観客の心を掴んでゆく。仕科では、大きな見せどころの、あの手水鉢に写る濡髪の姿を見て屹っとキマる形の美しさ。台詞では、「なぜに物をお隠しなさいます」以下の、時代と世話を巧みに交叉させながら、母への深い情愛を揺曳させてゆく見事さ。また、「あの長五郎はいずれにあるや」と声を張りあげるその調子の素晴らしさも特記ものだ。弥十郎の濡髪は、「柄」もあって悪くはないのだが、ただ、「同じ人を殺いても、運の良いのと悪いのと」の件での「思い入れ」が薄いのと、「謝りました母者人」を平板に発声して、床に軽く手をつく仕科にして終えているのは感心しない。ここでは両手を大きく上にあげて、大袈裟とも思えるほどの大振りな仕科で「時代」に謝罪をしなければならないところだ。右之助のお幸は、諸事心くばりが行き届いているのが良く、魁春のお早には昔を憶わせる脂粉の香りが漂っているのがいい。第二は、藤十郎(女五右衛門)と仁左衛門(真柴久吉)による「けいせい浜真砂」で、豪華絢爛、歌舞伎の色彩美を堪能させる一幕。第三は歌舞伎十八番の中でも特に大曲とされている「助六由縁江戸桜」。市川宗家のみに許された「助六」であるという意識、これまでの数度に及ぶ所演から生まれた余裕もあって、大切な「出端」の振りなども、凛とした動きのなかにも和事味を含ませ、スッキリと美しく仕終せた。本舞台へ入ってからも、「抜かねえか」の件の見得などは立派なものだったが、いかんせん、台詞は依然として芳しからず、「いかさまなァ」で始まる件も妙な抑揚をもつ一本調子。「こりゃまた何のこったい」という悪態などにも、全く面白味というものが感じられぬ。本格的な台詞の勉強を望まずにはいられない。雀右衛門の揚巻は初役。吉原一の傾城としての貫目、伊達、意気地、色気などにはまだ一息としても、花道の「出」の酔態、「悪態の初音」の台詞回し、助六や満江への情愛などを見る限り、その実力は侮りがたい。梅枝の白玉には古風な美しさがあり、菊五郎の白酒売りには茶気を含んだ和事味が、また左団次の意休にはその挙措の全てに重厚味があるのが貴重である。満江は秀太郎、門兵衛は歌六、福山かつぎは巳之助。そして口上は市川家の門に繋がる右団次が勤める。