六月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

〔昼の部〕の第一は池田大伍の傑作「名月八幡祭」。水郷の花街といわれた深川を背景に、マノン・レスコーの主人公をモデルにした美代吉という魅惑的な芸者が、深川芸者の意地と神経をもち、自由奔放に生きてゆくという、それまでにない新しい女人像を創作しようと意図したものだが、風姿はともかく、美代吉(笑也)に保身のための手練手管だけではない、近代人のみがもつ複雑な心理を明確に窺わせてくれるような雰囲気がなく、また、しっかりとした台詞術がないために、甚だつまらない結果に終わってしまった。あの独特な、辰巳芸者の男言葉の面白さなども全く伝わらない。松緑は、実直な越後の小商人である縮屋新助を予想以上に好演し、特に、不貞寝をする美代吉に枕をあてがい、半纏をゆっくりと着せかけて、〽︎夢か現か」のなか、その寝顔をうっとりと眺める件などは凡庸ならざる技量を示したが、やはり台詞がまずく、従って美代吉との大切な会話のやりとりの面でも歯切れが悪い。情夫の三次は猿之助だが、日頃女形を勤めているせいか強い撫肩で期待はずれ。女を意のままに操る三次のイメージからは遠い。さて、大詰ではすべての人々が出払った後、川音を聞かせながら深川仲町の裏河岸に大きな月が静かに昇ってくる。まさに西洋の近代劇的な素晴らしい演出だと思うにつけ、「魚惣裏座敷」の幕切れで、新助が巻紙をハラリと手摺から落とす演出は如何なものか。ここは、「八幡祭小望月賑」ではないのだから、「旧世話物的」な演出ではなく、加賀山直三氏のいわれるように、「舞台を半回しにして新助の心象風景を表す渺茫たる海」の景をみせたほうがよいのではあるまいか。藤岡は亀蔵、魚惣と女房は猿弥と竹三郎。第二は沢瀉十種の内と冠された「浮世風呂」。江戸期の風呂場を背景にした風俗舞踊。三助の猿之助がなめくじ(種之助)を相手にしたり、「まぜこぜ節」となって「佐渡甚句」や「かっぽれ」などを仕方噺ふうに、洒脱軽妙に踊ってみせる。ところどころに沢瀉屋特有の跳躍的な振りがみられるのも面白い。第三は「弁慶上使」。イガグリ鬘に紅隈をとった魁偉な容貌、それに大紋を摺りつけた厚手の黒の着付けに長袴。吉右衛門はこうした弁慶の扮装に負けぬ豪宕な演技を大時代に展りひろげてゆく。しかも荒事一辺倒ではなく、ある時は愁嘆をきかせて実直に、またある時は稚気横溢の滑稽味の仕科をみせるなど、その巧技は自在である。具体的にいえば、卿の君への「三忘」の長台詞に流れる実直さ、〽︎こんな面(つら)でも」で両手の指で顔をさし、舌を出して稚気溢れる滑稽な仕科をみせる件、また、そのすぐ後に続いての「こればっかりが残念だ」という荒事風の大音声。仕科でも〽︎三十余年の溜め涙」でのあの大紋を染めぬいた黒の大袖をぐっと大きく目から離して吠えるように泣く「大落とし」などは絶対に他優の追随を許さない。おわさは雀右衛門。尋ねあぐねていた恋人に再開し得た「歓喜」と、娘の死を痛切にいたむ「愁嘆」。この対極に位置する心境を一瞬のうちに交叉しなければならない難役をさらりと演じおおせているあたりに、この優の実力をみる。侍従太郎は又五郎。卿の君としのぶの二役を勤めた米吉に、著しい技芸の進捗が認められる。

〔夜の部〕の第一は「鎌倉三代記」。幸四郎は高綱となって、井戸から姿を現す二度めの「出」が素晴らしい。古怪で不気味な顔が映え、いかにも「時代物」らしいコクが濃厚に漂っている。「物語」になっての台詞の活け殺しの見事さ、〽︎坂本の総大将」で六文銭を散らした衣装にぶっかえる勇壮さなど、まさに圧巻の二文字にふさわしい。雀右衛門の時姫には、立女形としての輪郭の大きさが認められ、三姫の一にふさわしい品位が備わって上々である。加えて、〽︎短い夏の」の件の可憐さも特筆に値しよう。義村は松也。長門は秀太郎。第二は「御所五郎蔵」。両花道を使い、颯爽とした仁左衛門の五郎蔵、重厚な左団次の土右衛門と並ぶと、もうそれだけでグッと舞台は大きくなる。五郎蔵は、「奥座敷」で床几に片足をのせた怒りの見得を美しく見せ、また花道での「みそかに月の出る廓も」の肺腑を抉る台詞術でも観る者の心を掴みとる。雀右衛門の皐月は縁切りの台詞に微妙な陰影を漂わせ、米吉の逢州はここでも成長した巧技をみせる。甲屋の主人は歌六。第三は「一本刀土俵入」。幸四郎の茂兵衛は、「序幕」で後ろ向きに櫛・髪挿を受けとり背中で泣いてみせる件に、「利根の渡し」で土地のヤクザ者たちを叱りつける件のイキ、「お蔦内」では、敷居に手をついて過去の恩義を謝する台詞回しの卓抜さが無類である。猿之助は「序幕」で、今までのお蔦にはない太い声音で発声していたが、それがいかにも酒やけのした「だるま屋」の酌取女の雰囲気を感じさせて面白かった。波一里儀十は歌六。掘下の根吉は松也である。