


C伯母のはなしは今まで何度かしてきた。
C伯母は父の姉で、父とは一回り違いの寅年、大正3年生まれで俗に言う五黄の寅年生まれ。当に「五黄の寅」の人だった。そして波乱万丈で朝ドラのヒロインを地でいくような人だった。
曾祖母の実家はT本で、曾祖母は双子だった、その姉だったか妹だったかは忘れたが、元は家具職人のもとに嫁いだが、今で言うところのDVで嫁ぎ先から逃げ出した。逃げた先が堺で、その縁から堺のお寺の奥さん、お庫裏さんとして後妻に入った。
寺の住職には子どもがなく、C伯母を養女として迎えたが、厳しいお寺の作法に馴染めず、持ち前の負けん気もあり、寺の養女に嫌気がさし、ある夜大和川をつたって逃げて帰ってきたのだとか。妹のS伯母も寺の養女として続いて入ったが長続きはしなかった。ただ二人に悪いことをしたと住職は二人が嫁入りするときのためにといくばくかのお金を祖父母に渡した。
ただ祖父母は二人の嫁入りにそのお金を使わずにそのお金で田畑を買った。(祖父母ながら、悪い奴ちゃ)その一つが天美の田地であり、今のセブンパークがある場所である。祖父母がなくなり、父が相続して分家するときに、他所の田として本家のT則伯父から押し付けられた土地でもある。そしてその田地を私が父から相続したと言う具合である。
閑話休題。のちC伯母は高見の里のT中のH夫伯父と結婚した。もともとH伯父は陸軍の軍人で大阪の八連隊の騎馬隊に属していた。今、堺の警察学校のあるところに兵舎があって、そこからM宅まで馬に乗って、C伯母によく会いに来てたのだとか。
やがて支那事変に夫のH夫伯父とC伯母の弟であるT秋伯父が中国大陸に渡ることになる。二人が中国大陸に渡る前に、京城(今のソウル)に一時、駐屯していて、何月何日なら面会ができると聞きつけるやいなや、女一人単身で朝鮮半島に渡り、面会に行った。
終戦後、嫁ぎ先のT中の稼業からの自転車屋から自転車にエンジンをつけたバタコの販売を手掛け、これからはモータリぜーションの時代だと思い、そこからバイク販売、自動車の修理、中古車販売を手掛け成功した。
その商才は長女の従姉妹のY美姉に引き継がれた。私たちは手芸店を営むY美姉を「毛糸屋の姉ちゃん」と呼んで慕っていた。
私や姉が子どものときはC伯母の商売が一番繁盛した時代で、やれ鰻だ、やれ中華料理だと、よく食べに連れて行ってもらった。母があまり子どもにぜいたくさせないでくれとクレームを言っていたくらいだった。
晩年は逼塞して奈良の山奥にこもったけど、間違いなくC伯母は「昭和の女傑」だったと私は思う。
もしC伯母でドラマを作るなら、そのタイトルは「虎に翼」ならぬ絶対に「五黄の寅」だな。
さて、私の父方は兄弟姉妹が多くて、兄弟の順番がよくわかっていない。それに加えて、曽祖父や祖父も篤志家で親戚で親が亡くなったもの、生活が苦しかったものを養子、養女にしたので、血の繋がらない(多少は繋がってはいるが・・・)親戚がたくさんいる。鎌倉もそうだし、名古屋・岐阜あたりのM野もそう。元はと言えばUMAのところもそう。親戚だけど関係性がよくわかっていない。
義理の大伯父とか、義理の伯父とか、親父との義理の従兄弟などもやたらと多い。私はもう祖母の実家のN村のS口までは把握ができてはいない。はなしには聞いているが知らない人も多い。N村の付合いはもう本家に任せている。S口も3代、4代前の親戚付合いなんかやってられるかだろうが、惣領はM野とS口はとやたら関係性を口にする。大事には思っているみたいだが。
だが戦後、食い詰めかけた祖母は長年築いていた親戚関係を切っていった。本家のT則伯父も、S子伯母もそうしていった。とくに伯母は閉鎖的な人だったのでより一層本家は孤立していった。生きるために必死だったからでもあろう。孤立していても「M野の本家」というプライドだけは強い。
鎌倉もKさんや名古屋のMさんらは育ててもらった恩義を生涯忘れていなかった。末子の息子の私にもなにかとよくしてくれた。
父の姉のC伯母の朝ドラのヒロインみたいな波乱万丈な人生を最初は書こうかと思ったが、それはまた別の機会に。
うちの父は大正15 年生まれ、母は昭和4年生まれだったので、戦争には従軍していないが、戦時中のはなしはよく生きてるとき聞いた。
父方の一番上のT秋伯父は、支那事変(今は日中戦争と呼ぶらしい)で亡くなった。
次兄のH雄伯父は、南洋のウェーキ島(今はウェーク島と呼ぶらしい)で戦死した。戦後三男のT則伯父はウェーキ島からの遺骨収集に尽力した。豪快なH雄伯父だったみたいで、召集が決まってから、死を覚悟して毎晩ドンチャン騒ぎをして、戦争に行く前に自分の財産を使い切ったそうな。みんなからHaruさん、Haruさんと慕われていたらしい。
三男のT則伯父は農家の三男で口減らしの意味もあってか、はやくに海軍に志願し、海軍に入った。兄弟で唯一の生粋の軍人であり、唯一戦争に行って生き残った兄弟である。戦後、本家(母屋)を継いだ。私が本家(母屋)の伯父と言ってるのはこのT則伯父のことである。
四男である父Rは、極度の近視で、中学を受験できずに稼業の畑仕事を手伝った。一度はその視力のために徴兵検査に落ちた。しかし、再度の徴兵検査で合格したが、召集をされる寸前で終戦になった。
目が悪い自分が兵隊に取られるくらいだから、日本はもう長くはないと思ったと何度も聞いた。
もし戦争が長引いていたら、もちろん父もこの世にいなかったろうし、自分も生まれては来なかった。
母Y生は女学校から学徒動員で、軍需工場に働きに出てた。風船爆弾作戦で、風船部分を作っていたらしい。その風船爆弾が失敗してから、機関銃の銃弾が規格に合っているか、毎日ノギスで測っていたそうだ。
なんでそんな話を思い出したのかと言うと、「雪風」のあるシーンで玉木宏扮する早瀬専任伍長の當間あみ扮する早瀬専任伍長の妹さんが学徒動員の軍需工場で、機関銃の銃弾を検査するシーンがあり、母と同じだなあ思い出したのだ。
