うちの父は大正15 年生まれ、母は昭和4年生まれだったので、戦争には従軍していないが、戦時中のはなしはよく生きてるとき聞いた。
父方の一番上のT秋伯父は、支那事変(今は日中戦争と呼ぶらしい)で亡くなった。
次兄のH雄伯父は、南洋のウェーキ島(今はウェーク島と呼ぶらしい)で戦死した。戦後三男のT則伯父はウェーキ島からの遺骨収集に尽力した。豪快なH雄伯父だったみたいで、召集が決まってから、死を覚悟して毎晩ドンチャン騒ぎをして、戦争に行く前に自分の財産を使い切ったそうな。みんなからHaruさん、Haruさんと慕われていたらしい。
三男のT則伯父は農家の三男で口減らしの意味もあってか、はやくに海軍に志願し、海軍に入った。兄弟で唯一の生粋の軍人であり、唯一戦争に行って生き残った兄弟である。戦後、本家(母屋)を継いだ。私が本家(母屋)の伯父と言ってるのはこのT則伯父のことである。
四男である父Rは、極度の近視で、中学を受験できずに稼業の畑仕事を手伝った。一度はその視力のために徴兵検査に落ちた。しかし、再度の徴兵検査で合格したが、召集をされる寸前で終戦になった。
目が悪い自分が兵隊に取られるくらいだから、日本はもう長くはないと思ったと何度も聞いた。
もし戦争が長引いていたら、もちろん父もこの世にいなかったろうし、自分も生まれては来なかった。
母Y生は女学校から学徒動員で、軍需工場に働きに出てた。風船爆弾作戦で、風船部分を作っていたらしい。その風船爆弾が失敗してから、機関銃の銃弾が規格に合っているか、毎日ノギスで測っていたそうだ。
なんでそんな話を思い出したのかと言うと、「雪風」のあるシーンで玉木宏扮する早瀬専任伍長の當間あみ扮する早瀬専任伍長の妹さんが学徒動員の軍需工場で、機関銃の銃弾を検査するシーンがあり、母と同じだなあ思い出したのだ。
