GOD DRAG

 

 

私は、初めて覚せい剤使用してこれまでに味わったことの無い快楽を知ってしまいました。

 

ビデオ試写室を出た後もその高揚感は続き、帰宅したあとも自慰行為をしました。

 

 

性欲以外の欲望は一切消えました。

 

食べ物も飲み物も口にしたくありませんでした。

 

いや、食欲と言う概念が消えていたというのが正解かもしれません。

 

食事を摂るということ自体が私の中から欠落していました。

 

 

睡眠も同じく。

 

目が冴えどれだけ起きていても平気でした。

 

その時の私にとって覚醒剤はもはや神の薬と言っても過言ではありませんでした。

 

 

 

  切れ目

 

 

 

しかし神の薬の効果は長くは続きませんでした。

 

 

2日間ほぼ飲まず食わずで睡眠もとらず過ごしているとまずはまずは睡魔が急に襲いだしました。

 

力尽きるようにその場で眠りに落ちましたが、10分もしないうちに目が覚めまた眠れなくなりました。

 

身体は倦怠感に襲われて眠りたいはずなのに目が冴えわったていました。

 

食事も無理やり取ろうとすると顎が固まってしまい口が大きく開きませんでした。

 

同じ体勢を何時間も続けたせいで全身が硬直状態に陥っていました。

 

体重を測るとものの2,3日で3キロも減っていました。

 

たった一度の摂取だったはずなのに身体への負担は計り知れませんでした。

 

3日目になると身体の底から疲労感が襲いました。

 

そしてようやく充電が切れて泥のように眠りこけました。

 

 

元気の前借り

 

 

覚醒剤の効能はよくこう例えられることがありますが身をもってそれを味わいました。

 

目が覚めても瞼と脳みそが機能せずすぐにまた眠ってしまう。無理やり起きていても正常に思考が働かない。

 

食欲も回復しましたが圧倒的なカロリー不足状態で、それを埋めるためにスナック菓子やジャンクフードのようなとにかく体に負担がかかるほどカロリーが高いものを自然と選んで摂取しました。

 

 

 

そして、覚醒剤を摂取したことによって不足していた睡眠と栄養を取り戻して元の状態に戻るとまた覚醒剤を摂取したいという欲望が復活したのです。

 

 

 

正直に言って、切れ目と言われる離脱症状があることは知識として知っていたけど実際に味わってみるとこれくらいなものなら耐えられるし、それ以上の快楽が味わえるなら気になりませんでした。

 

しかし、現実的に私がまた覚醒剤を使うためには一緒に使用した友人が使う時に誘いを待つしか方法は無く、その友人にまた覚醒剤を使いたいと頼むことは私にはできませんでした。

 

それは覚醒剤中毒者だと思われたくなかったし、私自身が覚剤中毒者になりたくないといった気持ちがまだあったからです。

 

それからは、月に2回ほどその友人の誘いを待ち、声をかけられた時だけ覚醒剤を使用す所謂たまポン(たまに使用すること)生活になりました。

 

 

しかしそんな生活は長くは続きませんでした,,,

 

 

 

  単独行動

 

 

 

数ヶ月後、私は自分ひとりで覚醒剤を買いに行くことになりました。

 

友人が仕事の都合で買いに行くことができず、私に売人の連絡先を教えてくれたのです。

 

私は自分の携帯電話からイラン人の密売人に連絡をとった後、ひとり車に乗り待ち合わせ場所に向かいました。

 

当時の待ち合わせ場所はとある飲食店の付近、〇〇の1番と言われたら裏の駐車場、2番と言われたら少し離れたパチンコ屋の駐車場が受け渡し場所でした。

 

イラン人密売人はとても日本語が達者で、そしてとても陽気で話しやすい人物でした。

 

仲良くなるのに時間はかかりませんでした。

 

その時、購入した覚せい剤の入ったパケと注射器以外に、おまけとして2回使用できるほどの覚醒剤の入ったパケと注射器を一本私にくれたのです。

 

それを正直に友人に伝えてシェアするといった発想はありませんでした。

 

 

 

 

自分一人でくすめてこっそり使ってやる

 

 

 

 

きっとそれは必然だったのだと思います。

 

 

その後、私はさらなる深みに落ちていきました。

 

もう後に引くことはできませんでした。

 

覚せい剤の沼に足を踏み入れ、私は自分の意志で底の見えない沼の中に嵌まっていったのです。

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

注射器の中に私の血液が綺麗に吸い込まれていきました。

 

吸い込まれた私の血液に覚醒剤が混ざった液体をもう一度体内に戻してまた引き抜いてまた戻して…

 

2.3回その行為を繰り返していくうちに遂に注射器の中の覚醒剤がすべて私の体内に全て注ぎ込まれました

 

 

  天国

 

 

 

変化は一瞬で分かりました。

 

全身で覚醒剤の恩恵を感じました。

 

鼓動が早くなり、動悸も激しくなり、身体からは脂ぎった汗が出てきました、それが一旦落ち着いた瞬間、私の目の前は一気に明るくクリアに開けました。

 

 

夜ということもあり眠気もあったけど嘘のように何処かへ消えていきました。

 

暗闇の猫のように自分の瞳孔が開いていることがはっきりと分かりました。

 

徐々にではなく、一瞬にして私は天国へたどり着きました。

 

例えるならスーパーサイヤ人

 

自分にない力が一気にみなぎった気分になりました。

 

自分では無い別の誰か。

 

唯一無二の存在。

 

人知を超えた強大な力を手に入れたと思いました。

 

すぐにまた2度目の注射をしました。

 

俗に言う追い打ちというものです。

 

天国だと感じたあの瞬間からさらに天国のその先へ舞い上がりました。

 

それは天国以上という言葉のき他に例えようのない程、これまでには味わったことの無い素晴らしい感覚でした。

 

そして次に訪れたのは今まで感じたことの無い性欲でした。

 

股間は全く反応していないのに身体全体が性感帯のようになっていました。

 

肌に触れるものがすべて気持ちよく感じられ、髪の毛は逆立つような感覚となり、早く性的快楽に溺れたい衝動に駆られました。

 

勃起はしていないのに既に私の股間は精液で濡れていました。

 

 

  蹂躙

 

 

当時の私が友人に言い放った言葉を未だに記憶しています。

 

だれでもいいから早く女を攫ってレイプしよう。

 

嘘でも冗談でもありませんでした。

 

心の底から本気でそう思ってしまいました。

 

すぐにでもこのはちきれんばかりの性欲を処理したい。

 

手段はなんでもいい。

 

まさに私は獣でした。

 

まだ私には自分に与えられた強大な力をコントロールすることができていませんでした。

 

誤解の無いよう記しておきますが、わたし自身強姦や無理やり誰かと性的関係になりたいなどという願望も欲求も全くありません。

 

そんな人間が、知らない人間を蹂躙しようと本気で思い実行にまで移そうとしてしまう。

 

それほどまでに覚醒剤がもたらす性欲と無敵感は凄まじいものでした。

 

初めての覚醒剤を摂取して異様なまでの高揚感に見舞われていた私は友人に諌められビデオ試写室に連れていかれました。

 

常人には理解できないほどの性的快楽を解放させるために覚醒剤の使用者は試写室に閉じこもりマスターベーションをするということを初めて知りました。

 

そしてそもうふたり、私の知人が合流することになりました。

 

とても覚醒剤をするような人間だと思ってなかったふたりでした。

 

覚醒剤というもの自体がやらない人からは忌み嫌われており、やっている同士にしかカミングアウトできないという背景がそこにあったのだと思います。

 

 

  自慰

 

 

4人で市内のビデオ試写室に入りました。

 

私は一目散にAVを選び個室に篭もりマスターベーションを始めました。

 

私のペニスは全く反応しないものの、ただ触り続けるだけでこれまでにないほど快感を得ることが出来ました。

 

勃起してもいないのに精液が出るという異様な光景でした。

 

休む間もなく行為をし続け、予定だった3時間が終わったものの射精することも勃起することすらできず部屋を出ました。

 

射精はできなかったけどそれでも私は満足でした。

 

いつも射精する時の何倍もの快楽を得ることができたことと、射精した時にどれほどの快楽が得られるのかを考えただけで興奮が治まりませんでした。

 

部屋から出て他の友人を探したところまだ他の全員ともAVを選んでいる最中でした。

 

3時間ものあいだAVを選んでいても気が付かないほど彼らはそれに没頭していたのです。

 

わたし自身も3時間ものあいだ勃たないペニスを触り続けて流れるAVに没頭していたのだからその感覚はとても理解できました。

 

狂気な程の集中力。

 

まだここにいられる。

 

まだここにいて快楽の沼で溺れ続ける事が出来る。

 

3時間も弄られていた私の男根は摩擦で赤くなって腫れてしまっていましたが友人にローションと玩具を勧められ使用したところ、その痛みを忘れるほど気持ちがよく、遂に私は勃起することができました。

 

それから何時間マスターベーションを続けたのか覚えていないほど私は行為に集中しました。

 

画面の中に入り込んで中にいる裸体の女性と本当にセックスしているような錯覚に陥りました。

 

射精する時の感覚がずっと続いているようでした。

 

どれだけ手を動かしても射精には至らず、時間すら忘れ、予定時間になっても延長を繰り返し日が昇り昼が近づくくらいまでかかってようやく私は射精しました。

 

射精の瞬間、腰が浮くほど体全体に快感が訪れました。

 

何度も身体全体から精液が出る感覚を味わいました。

 

覚醒剤の魅力に私はひと夜にして魅了されてしまいました。

 

 

  地獄への入り口

 

 

 

この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。

 

何故なら、それ以降どれだけ量を増やしてもどれだけ回数を増やしてもこの時に勝る快感を得ることはできなかったからです。

 

地獄の入口はとても綺麗で鮮やかでした。

 

 

(続く)

 

 

 

あとがき

 

 

 

 

 今回ブログを始めるにあたって、覚醒剤の本当のことを書くことが最重要課題であり、覚醒剤の依存性ややめにくさを語る上で悪い話はもちろん、良いことも同時に伝えないと一般的な断薬を伝える情報と同じになってしまうと思い、最初に使った時のリアルな話を書くことに決めました。

 

 刑務所の中で覚醒剤使用者と話をする時に、必ず皆が口を揃えて言うのは、

 

覚醒剤の良さを知らずに生きているのは人生半分無駄にしてる

ということです。

 

身体も精神もズタボロにして、逮捕されるリスクまでつきまとう覚醒剤をどうしても辞めることができないのか?

 

それは、覚醒剤の効力が魅力的すぎて代用が効かないからです。

 

そして、最初の1回の使用が常識では考えられないほどセンセーショナルな体験なり、その体験を追い求め続けてしまうからです。

 

シンナーをはじめ、ほかの違法薬物にも色々と手を出しましたが覚醒剤に勝るものは何ひとつありませんでした。

 

代用薬物なんてないんです。

 

合法覚醒剤と言われたリタリンすら本物を使用した私にとってはなんの興奮も得られないただの錠剤でした。

 

正直に言うと、今回の話を書いている最中に何度も湧きました。

 

過去の事を思い出してこれほど鮮明に当時のことを思い出せるということは、文字通り忘れられない思い出だったんだと思います。

 

次回からは私がどんどん覚醒剤の深みに落ちていき人生が狂っていく話を書こうと思っています。

 

人生最高の快楽をい味わった私が地獄の底に落ちていく様を見て本当の覚醒剤の怖さを知っていただけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回は私がシンナーを使いだした時の話を書きました。

 

今回はいよいよ覚せい剤と出会って使用しだすまでの事を書こうと思います。

 

 

 

 

※リアリティを優先してその時のありのままを書きます。断薬に励んでいる方や、そういう話がトリガーになってしまいそうな方は閲覧を控えて頂けると助かります。

 

 

 

  クリーンな日々

 

 

 

20歳間近でシンナー依存からいとも簡単に抜け出した私。

 

 

正直、使わなくても全然平気だったしその後1度だけ誘われてシンナーを吸ってみたものの、過去のような高揚感を得ることはできずすぐに吸うのをやめてしまったほど、シンナーに対する執着は消えていました

 

しばらく薬物とは縁遠い普通の生活を送ることができていました。

 

当時付き合っていた彼女が実家に転がり込んできたこともあり、半同棲のような生活をしながら真面目に仕事に励んでいました。

 

その当時、すでにスロットにはまり借金もあり、金銭的に余裕があった訳じゃないけど実家暮らしということもあり人生が切羽詰まるようなこともなく毎日を幸せに過ごしていました。

 

 

 

 

  運命の日

 

 

 

覚せい剤と出会ったのは彼女と同棲を初めて2年ほど経った頃でした。

 

 

 

スロットに投資するための金を稼ぐため、休みを削り毎日遅くまで残業し、そのせいで彼女のことを放ったらかしにしていたことが原因でついに彼女が家を出ていってしまいました。

 

年末年始の連休に入ってすぐのことでした。

 

当時の私には根拠の無い自信があり、また直ぐに戻ってきて仲乗りできるだろうと久しぶりの1人の連休を謳歌しようと自由な連休を楽しんでいました。

 

あれは、正月休みの最終日だったと思います。

 

当時一緒に仕事をしていた同級生から電話がかかってきました。

 

ちょっと付き合って欲しい。

 

小学校からの同級生で、少年時代は一緒にシンナーも吸った悪友でした。

 

しかし、20歳を過ぎお互いにシンナーもやめて毎日ふたりで一緒に仕事をするほど気心の知れた人間でした。

 

目的は聞かされませんでした。

 

私の車で彼を迎えに行き、車を20分ほど走らせました。

 

案内されてとある牛丼屋の駐車場に車を停車させました。

 

しばらく待っていると、型落ちのTOYOTAのセダンがやって来ました。

 

運転席には国籍不明の屈強な男が乗っていました。

 

ちょっとまってて、と友人はその車に乗り込みどこかへ行ってしまいました。

 

3.4分して戻ってきて友人は男と笑顔で挨拶すると私の車に再度乗り込み、近くの人気のない場所へと私を連れていかれました。

 

そこで私が見せられたのは、小さなポチ袋に入った結晶と、病院でしか見たことの無い注射器でした。

 

 

 

それが私と覚せい剤の初めての出会いでした

 

 

私は初めて覚せい剤を使用することに躊躇はありませんでした。

 

シンナーと覚せい剤の境界線がまったく無くなっていました。

 

どちらも同じ薬物だしあれだけやめられなかったシンナーだって辞めることができた。

 

そんな根拠のない自身と、新しく目の前に現れた薬物への興味で超えてはならない一線を一気に超えてしまったのです。

 

 

当時の相場は0.4gで1万円、薬物初心者のふたりが使ってもおつりがくるくらいの量でした。

 

名刺を縦に折り曲げ、そこにポチ袋の上からライターで砕いて粉末状にした覚せい剤を乗せ、溢れないよう細心の注意を払って流し込む。

 

溶かす水はコンビニで買ったボルヴィックでした。

 

ヴォルビックの蓋に水を入れ、栓をした注射器の先端を入れ水を引く、水の中にで覚せい剤の結晶が泳ぐように舞うそれを溶かすように手首をスナップさせて振り、最後に気泡一つ残らないように慎重に空気を抜いていよいよ血管に入れるだけになった。

 

腕に充電器のコードを巻き付け拳を強く握ると、太い血管が浮かびありました。

 

自分で注射器を使うことに慣れていない私に友人は注射をしてくれました。

 

血管に刺さる注射器の房を引き抜くと一気に私の血が吸い込まれていきその棒が元の位置まで戻った瞬間、私の体内に覚せい剤が一気に浸透していきました。

 

 

 

 

 

その時の私にとって、いや現在でもこのときの瞬間が私の人生において

最高で、そして唯一無二の快楽でした。

 

私はその瞬間、人間が絶対に味わってはいけない快楽を得ました。

 

その快楽を味わってしまえばもう一生それ以上の快楽を味わうことのできない禁断の果実を口にしてしまったのです。

 

 

 

(続く)

 

 

 

私の人生は薬物とギャンブルに支配されてきました。



途中で逮捕され刑務所に収監されその間はやっていないけれど、社会にいるときはほぼ途切れることなく薬物を使用して賭け事をしていました。

前回までのブログで行き直すことを決めたきっかけまでを書きましたが、次は薬物とギャンブルについて自分の遍歴を書いていこうと思います。

 

文体は少し崩させていただきましゅがご容赦願いますね。


 

 

  シンナー遊び

 



私と薬物との出会いは15歳の時でした。


当時シンナー遊びというものが田舎のヤンキーの間で流行っていました。

 




本当にふとしたきっかけ、興味本位で友人の吸っていたシンナーを吸わせてもらったら一気に脳みそに刺激が走り吸えば吸うほどその刺激が脳みそに広がっていく、そんな感覚でした。


いわゆるラリる。といった感覚です。


ラリった脳みそで遊ぶのはとても楽しかった、異性にも積極的になれるし人間関係を円滑にできると思いました。


まだ少年だった当時、お酒の美味しさはまだわからず、タバコは臭くてとても吸う気になれなかったので、シンナーが唯一の嗜好品でした。


当時の価格はペットボトル一本で3000円、今考えると原価は大したことなくてほんとぼったくられてたな、と思うけど当時はたまにサービスで小さいペットボトルをつけてくれたりすると嬉しかったものです


家の中で吸うと匂いがこもって親にバレてしまうので、普段は友人たちと色んなところでシンナーを吸いました。


夜中の学校に忍び込んだり、大きな橋の下に隠れたり、道路にずっと放置してある車のガラスを割ってその中を秘密基地にしたり・・・


当時は私たちも未成年で今ほど警察もうるさくなかったので、警察が来ても逮捕や補導はされず注意ですべて終わっていました。

 

 

  幻覚遊び

 



最初はコミニケーションの一貫で使用していたシンナーですが、次第に楽しみ方が次の段階に入っていきました。


使用量やその時の相手にもよるけど、吸う量や時間が長くなればなるほど脳みそは次第に毒されていき幻覚が見えるようになりました。


当時流行った遊びでタバゲーと言うのがありました。


暗い部屋の中でタバコに火をともし、それを灰皿の中に立ててみんなでそれを見つめながらシンナーを吸う。


それだけなのですが、一気にラリるし幻覚も見えるしたのしかったのを記憶しています。


しかし幻覚遊びに慣れてくると、もう大人数でシンナーを吸うことが嫌になっていきました。


自分の買ったネタをみんなでシェアするのがもったいない、独り占めしたい。


そう考えるようになりました。


当時中の良かったO君とだけふたりだけで吸うようになりました。


彼は私の師匠でした。


彼は煩悩線という光線を指から放ち幻覚を自在に操ることができる人でした。

 




例えば一緒に吸いながら空を見てると雲の形が文字に変わったり、川の水門をその光線で開けてみたりと、普通に考えればおかしな話だけど当時は昼間の世界ではっきりと世界を煩悩線で操るO君がいて私は彼のことを神格化していました。


その当時は他のシンナー仲間も煩悩線を操ることができ、私は遅れを取った気持ちでした。


なんとか自分も煩悩線を極めて幻覚を操作して一人前になりたい。


もうなにを言ってるのか普通の人にはまったく理解できないだろうけど、10代のまだ純粋なしゃかび少年は心からそう思ったのです。

 

 

  
ひとりあそび

 


シンナーに対する熱意が強くなりすぎた私は遂に自宅で自主トレをする決意を固めます


昼間家族のいない時間を見計らい部屋の雨戸を閉め、部屋の電気を消し暗い中でシンナーを吸うと差し込んだ光がいろんな幻覚に見えました。


煩悩線なんかよりこっちのほうが楽しいと思ってしまいました。


襖の隙間から差し込む光で壁がパチンコみたいになったり、エッチなお姉さんも出現したりと夢の世界が私の部屋の中に広がりました。


最終的にこたつの中に頭を突っ込んで吸うのが一番楽しかった、密閉空間でシンナーを吸うとその中に充満して気づいたら失神して眠ってるという一つ間違えたら死んでもおかしくないような遊び方になってしまっていました。
 

 

 

  

 

 

実家に住んでいたので親にはすぐバレました。

 

こたつの中で吸おうものなら失神してる中、お尻を思い切り叩かれてボトルは没収。

 

ただ、違法薬物とは少し違うので逮捕もされないし、すぐにまた買えるから、結局また手に入れてラリる。

 

そんないたちごっこみたいな毎日で親も諦めるというか呆れていたように見えました。

 

当時の私にとってシンナー中毒ではあるけど、辞める日はかならず来る。

 

そう考えていたし、母親にその考えを力説して納得させようとする私がいました。

 

まだ薬物依存について私も親も無関心で無知でした。

 

 

 

 

  シンナーをやめた日

 

あれだけ好きだったシンナーですが20歳になるかならないかのある日でぱたっとやめました

 

 

きっかけもへったくれもない、今日やって次やる日がもう来なかった。

 

 

不思議な感じでした、手放すもなにも勝手に離れていきました。

 

 

きっとこのときの経験が覚せい剤を初めて使ったときのハードルの低さに繋がることになるんだけどそれはもう少し先の話・・・

 

 

シンナーと離れて3年。

 

 

クリーン期間を経て私は覚せい剤と運命的な出会いをすることになりました。

 

 

それが天国の入り口でもあり地獄への片道切符でもありました

 

(続く)

 

 

 

 


 

 

判決文を裁判長が読み上げる中、私の瞳からは人目を憚らず大粒の涙が流れていた。

 

 

体側で両手の拳を握りしめ涙を堪えようとするも、堰を切ったように溢れ出す涙は止めることができなかった

 

 

 

  裁き

 

 

 

懲役4年

 

 

 

それが、他人を欺き地獄に落としながら、自分の私利私欲の為に私腹を肥やし続けた私に下された裁きであった。

 

 

 

私の関わった事件で資産を失い路頭に迷った高齢者、或いは路頭に迷った挙句に自死を選んだ高齢者もいるだろう。

 

 

 

それでも私は自己の保身に走る為に起訴を回避しようと黙秘を貫き、減刑のために本心にもない謝罪文や反省文を書き、法に裁かれる前に自ら命を絶とうとし、死からも逃げ生にしがみついている臆病者だ。

 

 

 

私は死刑になるべきだった。

 

 

 

その時の涙が、贖罪の涙なのか、反省の涙なのか、それとも大幅に減刑されたことへの喜びの涙だったのかは分からない。

 

 

ひとつだけ言えるとすれば、これだけ大粒の涙を流した経験は私の記憶には残っていなかった。

 

 

嗚咽で身体を震わせながら溢れ出る涙は止まることを知らず、耳に入る裁判長の言葉はまるで念仏のように聞こえていた。

 

 

 

 

  

 

 

証言台に立ち判決文を読み上げられる私の背後で私と同じく啜り泣く声が聞こえた。

 

 

 

母親であった。

 

 

 

逮捕されてすぐに接見禁止となり面会も手紙もできなくなった。

 

 

 

初公判の後に接見禁止が解けて接見が可能となったが、遠方に在住しており高齢ということもあって面会は断り手紙のやり取りを数通だけした。

 

 

 

手紙だけでは言いたい事の少しも伝わらない。

 

 

 

言いたいことは山ほどあるだろうけど伝える手段が他にないもどかしさややり切れなさが母の手紙からは伝わってきた。

 

 

 

それでも人の金で私腹を肥やし贅沢を尽くした成れの果て私に対し、母は限られた年金の中から捻出して金を送り、私服を自宅に取りに戻れない私に新品の衣類を郵送してくれた。

 

 

 

裁判の出廷も拒んだが、3回行われた裁判すべてに出廷し情状証人にもなった。

 

 

 

同世代の高齢者を息子が騙して金を奪い盗った事件の情状証人に立つなどということは想像を絶する苦痛だったはずだ。

 

 

 

裁判の為だけにはるか遠方から1日かけて東京へ上京する、手紙には40年振りの東京だと書いてあった。

 

 

 

出廷が終われば直ぐに新幹線に乗り蜻蛉帰りする、真夏の灼熱のコンクリートジャングルの中を裁判所に向かう母の姿を想像しただけで胸が苦しくなった。

 

 

 

打算でも偽善でもない。

 

 

 

無条件の愛情がそこにあった。

 

 

 

判決文の朗読が終わり、静粛な法定内には私と母親の啜り泣く声だけが残った。

 

 

 

法廷を後にする時、連行の刑務官の目を盗みすぐそこにまで近づいた母親に声をかけた。

 

 

 

”元気でね”

 

 

 

それ以外の言葉が見つからなかった。

 

 

感謝や謝罪の言葉を出すには烏滸がましかった。

 

 

私にとってそれまで家族に嘘を吐き、仲間に嘘を吐き、あげくに嘘を生業にしてきた私にとって薄っぺらい言葉は全くと言っていいほど意味を持たなかった。

 

 

そして、今後4年間は家族に対して何もすることができない。

 

 

文字通り私は無力であった。

 

 

私の言葉に対し母は黙って頷いた

 

 

それがどういった意図なのか汲みとることはできなかった。

 

 

ひとつだけ分かったのはふたりとも悲しい顔をしていた。

 

 

そして私は刑務官に促されて静粛を取り戻した裁判所を後にした。

 

 

その後3年間、母親の顔を見ることは無かった。

 

 

それが母親との面会を拒み続け、出所直前にようやく面会室で再会するまでに唯一交わした言葉であった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

  

 

 

 

夕暮れの空を護送車の窓から見ながら何故か私の心は澄み渡っていた。

 

 

いろんなものから逃げてきた人生だった。

 

 

逃げ回って逃げ回って、遂に私の後ろは厚い壁に囲まれてしまった。

 

 

しかし前にだけは道は残されていて、その先には僅かながら光が見えている。

 

 

母親の無条件の愛情に応えたい。

 

 

生き直したい。

 

 

言葉ではなく行動で感謝と謝罪を伝えたい。

 

 

ようやく心からそう思えた。

 

 

4年間の刑務所生活をちゃんと生きる。

 

 

それが私にできる全てであった。

 

 

だがその時の私には生き直す意味も手段も分かっていなかった…

 

 

 

 

深いトンネルの先に見えた小さな光を探す長い道のりがその日から始まった。

 

 

 

 

夕暮れの東京を走る護送車の外には真夏の蝉時雨が響き渡っていた………

 

 

(第一部 了)

 

 

 

 

Special Thanks

 

 

ここまで私の稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

依存症者のためのブログを開設したいと思い付きアメブロに登録してみたものの最初に何を書いたらいいのか本当に悩みました。

 

 

そこでまずは私自身の底付き体験を物語仕立てで書いてみようと思いつきました。

 

 

表現や使った言葉で大分誇張した感はありますが、全て嘘偽りないノンフィクションです。

 

 

自己紹介のつもりで書き出してみたものの作家気取りで筆が進みとても完成度の高い内容になったと自画自賛しています(笑)

 

 

 

 

最後の受刑生活を終えもうすぐ3年が経ちます。

 

 

出所した日にTwitterで釈放なうとツイートして以降、本当に多くの人に出会いました。

 

 

それはネットという枠を飛び越えリアルで繋がった方や、もしかしたら一生繋がり続けるかもしれないような大切な繋がりを作ることもできました。

 

 

今回のブログ立ち上げに際しても本当にたくさんの方に応援して頂き、RTやコメントなどで宣伝して頂いたおかげで自分の予想を超えるほどたくさんの方に読んでいただくことができました。

 

 

 

依存症界隈の有名人、依存症子さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉鎖病棟入院歴のある牧師、沼田和也牧師

 

 

 

 

 

 

 

 

並びにRTしてくれた方々本当にありがとうございました。

 

 

 

今後もこれまで通りブログは続けていくつもりですが、その後の話やそれ以前の話はまたいずれ、ということでこれからは依存症についてだったり生き直すことについてだったり、読み物的なブログではなく、教養的な内容で読んでくださる皆様のちからになれたらいいな、なんて思ったりしています。

 

 

こんな話聞きたいとか、要望があればコメント並びにTwitterのDMなんかで教えていただけると幸いです。

 

 

 

最後にはなりますが、その後の話をすこしだけ、、、

 

母親との関係は今は良好です、話には出てきていませんが父親も健在で顔を合わせたら雑談できるような関係を築けています。

 

この3年間で、正直完全に真面目な生活を送れているかと問われたらまだ不十分だと思います、両親にかけた迷惑を返しきれたかと言われたら全然です。

 

しかし、この3年間で親に金銭的な負担をかけたことは一度もなく、自分なりに自立した生活を続けることができています。

 

小さな積み重ねですがきっと大きな一歩よりも小さな一歩を積み重ね続けることのほうが両親にとっての喜びと思いながら日々生活をしています。

 

 

※両親に食事を御馳走した時の写真(本物)

 

 

これだけ大きな事件を起こして人生終わりかけた人でも、前を向いて歩いていけるんなら自分もやり直せる。

 

 

私のブログを読んで一人でも多くの人に生き直す決意を持って貰えれば幸いです。

 

 

 

今後もしゃブログをどうかひとつよろしくお願い致します!!!

 

 

 

 

 

しゃかび

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被告人に懲役6年を求刑する。

 

普段から、同じようなフレーズを毎日のように言い渡してるであろう検察官の冷酷な声がうねうねと蚯蚓のように脳内を這いつくばっていた。

 

 

裁判所から拘置所へ戻る車中の記憶は殆どない。

 

6年という求刑は特殊詐欺事件の実行犯としたらきっと軽い部類に入るはずなのだが実際に自分自身が裁かれる立場になって、下された年月の真の重みを痛感していた。

 

小学生が入学して卒業するまで…

 

中学校に入学して高校生を終えるまで…

 

その期間を想像すればするほどその長さに愕然とし絶望した。

 

しかしそこに反省なんて気持ちなどはなにひとつ無かった

 

黙秘したことに対する後悔、私たちを売ったことにより僅か半分の求刑で済んだ北村への怒りと憎しみ、出所した時の自分の年齢を想像した時の焦燥感、とにかく負の感情しか湧いてこなかった。

 

拘置所に戻った時は既に夕食の時間を過ぎており部屋には冷えた食事が準備してあったが口を付けることはできなかった。空腹という概念が私から欠落してしまっていた。

 

夜も全く眠れなくなった。

 

目を閉じても瞳孔は開いたままで、気がつけば窓の外から差し込む日差しで朝の訪れに気がついた。

 

日中もじっと座っていることができなくなり3畳ほどの部屋の中を理由もなくひたすら歩き回った。

 

とにかく同じことを延々と考え続ける思考のループに陥ってしまい、それから3日間食べれず眠れずの日々を過ごすことになった。

 

 

  絞首

 

 

そして3日目の夜になるといよいよ思考を廻らすことさえ苦痛になり、遂に私は独居房の中で自殺を図る決心を固めた。

 

 

拘置所は自殺防止の観点から紐状のものは所持できず、紐をかけることの出来るような突起物は全て排除されている。

 

そこで私は、私物を入れるために貸与された備え付けのキャリーバッグの取っ手部分に私物の上着の袖を細く丸めて結び、そこに首を入れて吊る計画をたてた。

 

多少無理はあるが、過去に某ロックバンドのギタリストが部屋のドアノブにひもを掛けて自死したことを知っていたのできっと完結できると思った。

 

シネバスベテオワラセラレル…

 

アノヨナドナイ…

 

タダハイニナルダケ…

 

心の中で呪詛の様に反芻した。

 

見回りが15分に1度程度の周期でやってくるためチャンスは限られる。

 

練習する余裕はない。

 

消灯後、布団の中でなんども予行練習をして体感時間で深夜2時を過ぎた頃、刑務官の巡回の足音が通り過ぎるのを確認して、頭の中で思い描いた通りに素早く準備をし、上着で作ったロープ代わりの紐に首を通して体重を預けた。

 

次第に息苦しさが増していった。

 

視界が白くなりぼやけてきた。

 

顔から血の気が引き死が近くにあることを直感した。

 

 

  未遂

 

 

しかし、私に完遂することはできなかった。

 

あまりの苦しさにロープを外し首を抜いた。

 

せきとめられていた血流が一気に身体の中を駆け巡り心臓の鼓動が部屋の中に響き渡ると錯覚するほど音を立てた。

 

自分で死ぬ勇気も覚悟も無いことを初めて痛感した。

 

口ではなにかあれば死ねばいいなんて言って高を括っていた当時の自分を恥じた。

 

死ぬことはそんなに簡単なことではなかった。

 

これからの刑務所生活を受け入れて生きていくしか道は残されていない。

 

そう考えざるを得なくなってしまった。

 

それは覚悟でも勇気でもないただの臆病だった。


逃げるために死のうと思ったのに、死からも逃げて生にしがみつく、矛盾しているがそんな心理状態だった。

 

 

死ぬ事が逃げ道だと思っていたが、その逃げ道すら棘の道で私にその道を進むことはできなかった。

 

・・・・・・

 

 

 

 

薬を飲んで眠ったおかげで食欲も次第に回復した。

 

それ以降、私の中に自死するという概念は消えた。

 

死ぬことは生きることより困難だということに初めて気がついた。

 

それは希望というより諦めに近い感情であった。

 

 

  地獄の底

 

 

それから約ひと月。

 

季節はすっかりと真夏になり灼熱の日差しが照りつける中、私は最後の法廷に立つため裁判所へ向かっていた。

 

不思議と気持ちは落ち着いていた。

 

すべてが終わりこれから次のステップに進むという安堵感というか

 

 

刑務官に連れられ法廷の扉が開けられると数え切れないほどの傍聴人、そしてその傍らに母親がいるのを目視した。

 

同じ裁判にかけられた共犯者2人は先に入っており最後の私が席に着いてまもなく判決の時が来た。

 

 

自分の人生が決まる。

 

いや、他人に自分の人生を決められる。

 

 

 

私は俎の上の鯉であった。

 

手錠を嵌められ裁きの言葉を身体を震わせながら待つ....

 

証言台の上に呼ばれ、手錠を外し一礼をした。

 

そして自分の名前を述べた後に、判決文の朗読が始まった…

 

覚醒剤に翻弄され、ギャンブルに翻弄され、どん底に堕ちたつもりで藁をも掴む思いで振り込め詐欺グループに加入し他人に迷惑をかけ、家族に迷惑をかけ、社会と真逆の人生を送りながらとことん沼地の中に嵌っていった私にとっての本当の底つきであった。

 

 

 

......遂に私は地獄の底に足をついたのだ。

 

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  証言

 

 

罪状認否から約1ヶ月。

 

第二回公判が行われた

 

 

今回は検察側と弁護側から証拠品の提示が行われ、私たちの論告求刑が言い渡されることになる。

 

いよいよ自分の問われている罪の重さがはっきりと提示される。

 

検察側の求刑は事前に決まっているため、あとは裁判長に判決を少なくしてもらえかどれだけ反論できる証拠を提示できるか。

 

それが私と弁護士の役割だった。

 

拘置所の中で書き上げた虚構の反省文は情状証拠として受理された。

 

示談も被害弁済もしておらず、裁判まで罪を認めることもしていなかったわたしにとってできる減刑の手段はそれしか残されていなかった。

 

 

  被告人質問

 

 

検察の被告人質問が始まった。

 

私は自分のしたことについて検察から聞かれたことに関してはすべて正直に認め、反省と更生の言葉を口にした。

 

マイクを通じて法廷に響き渡る私の言葉に心はこもってなく、ずっと前から拘置所の中で考え続けていた形式的な返答を繰り返した。

 

証言台に立っている私は法廷の主人公であり、中にいる全ての人の注目の的だということは間違いなかった。

 

こんな場所で話すことには慣れていないし、こんな大人数の前に立つという経験も私にはない。

 

自分の言葉をその場で紡ぐことなど不可能だった。

 

 

質問は次第に確信に迫ってきた。

 

共犯の調書に書かれていることはただの確認であって、検察側が本当に知りたいことは私が黙秘し続けてきた組織の中身、主犯格の正体。

 

畳み掛けるようにそれらのことについて検察からの質問が矢継ぎ早に飛んできた。

 

その全ての質問に私は壊れかけたラジオのように言えません、答えられません、そのフレーズだけを繰り返し続けた。

 

20分ほどの攻防の末、見かねた裁判長が検察の質問を制止して私の被告人質問が終わった。

 

握った拳のなかでは汗が吹き出し、足はガクガク震えていた。

 

ドラマや映画で見たような風景の中に自分がいることに妙な既視感があった。

 

 

佐伯 

 

 

私の被告人質問が終わり、次の被告人質問が始まった。

 

主犯格と私、そしてもうひとり黙秘を続けた男で名前は佐伯(仮称)と言った。

 

佐伯は私たちと違い、恐怖から黙秘を続けていた。

 

借金を背負わされその代償に詐欺グループに強制的に入れられていた。

 

報酬も他の人間よりかなり少なかった。

 

少ない分は佐伯を仲介した人間がピンハネしていた。

 

そして残された報酬の中から借金を返済し、残された金の中から慎ましやかに生活を送る本当の意味で普通でそして真面目な人だった。

 

 

他の人間よりひとまわり以上年の離れた佐伯には家庭がありまだ幼い子供が5人いた。

 

仕事が終われば遊びに行かず真っ直ぐに帰宅し、休日は子供を連れて公園に遊びに行き帰りにファミレスで食事をとって帰宅する家族思いの父親だった。

 

彼が黙秘を続けた理由は定かではないがきっと私の理由とは別のものだったのだろう。

 

証言台に立った佐伯は終始涙を流しながら私と同じく反省の弁を述べつつ言えないことは言えない、というより本当に知らないと供述した。

 

主犯格と深くつながりすぎた私には言えないことが多すぎたが、佐伯は組織の内情を本当に分かっていなかった。

 

2人とも取り調べ調書はひとつもないがその内情は全くと言っていいほど違うものだった。

 

 

北村 

 

 

そして、逮捕当日に全ての罪を認め私たちのことをチンコロした私の古くからの友人北村(仮称)が最後に証言台に立った。

 

彼は全ての罪を認め、そして私たちを売った

 

私との出会い、私から詐欺グループに誘われた経緯、組織の中身、主犯格の素性、矢継ぎ早に投げかけられる問いかけにスラスラと本当のことを話した。

 

北村はもともと心の弱い人間だったこともあり、逮捕当時の恐怖感に耐えきれず苦渋の思いで罪を認めたと信じていたがその質問に答える姿を見てそれがただの保身であったのだとようやく分かった。

 

私と佐伯が隠し通そうとしていた事実は北村の証言によっていとも簡単に覆された。

 

 

  罪の重み

 

 

そして、全ての証拠調べと被告人質問が終わりいよいよ検察側からの求刑が行われた。

 

3人並んで被告人席に並び順番に求刑の言い渡しを受ける。

 

私と佐伯に言い渡された求刑は6年だった。

 

そして、逮捕直後に供述した北村は私たちの半分の3年であった。

 

頭が真っ白になった。

 

足はそれまで以上に震え、意識が朦朧としだした。

 

チンコロした北村が心の中でベロを出しているのが簡単に想像できた。

 

悲しみよりも絶望よりも、怒りの感情がフツフツと湧き出してきて私の頭の中に初めて逮捕された時の光景が鮮明に蘇ってきた。

 

初めて逮捕された時に私のことを警察に売ったのも北村だった。

 

それは2度目の裏切りであった。

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

留置場の窓から見える桜の木が満開の花を咲かせた頃、私は起訴された。

 

 

罪名は詐欺未遂罪、及び詐欺罪

 

届いた起訴状をぼんやりと眺めながら釈放への期待は淡く消えていった。

 

逮捕されたタイミングがそれまでの証拠をすべて破棄してアジトも変えてまもなくだった為、その後に再逮捕も追起訴もされることはなったがそれでも被害額3000万円という金額は長い刑務所生活を想像させるには十分すぎる金額だった。

 

 

  ユダ

 

 

主犯格が私に付けた弁護士は共犯者全員の弁護を請け負っており、他の仲間がどんな様子なのかを知らせてくれた。

 

 

逮捕された時点でひとりが自白した。

 

再逮捕された時点でもうひとりが自白した。

 

そう教えられたのは起訴される直前だった。

 

犯行当時、俺は絶対に何も喋らないと自信満々に語っていた2人だ。

 

そして、一番最初に自白したのは私と同じく覚せい剤とギャンブルに溺れ自死する寸前で私に助けを求め、私が東京へ呼び寄せた古くからの友人だった。

 

私が必死にジェスチャーで黙秘を促した時、彼は既に全てを認めており、何もかもを話していた後だった。

 

あの時見た彼の表情の意味をようやく理解できた気がした。

 

彼に覚醒剤を教えたのも私。

振り込め詐欺に引き入れたのも私。

 

ひとりの人生を狂わした私に責任はあるし、私一人にその責任がまわってくる分には仕方がない。

 

だが、それはほかの共犯者とは関係の無いこと

であって彼の軽率な行動に怒りのような悲しみのような言葉にできない感情がフツフツと湧いてきたが、その時の私にはなにもする術がなかった。

 

その時の私には、そのこぼれ落ちそうな感情を飲み込み、これからの裁判にどう望むのか考えることしかできなかった。

 

その後、先に自白をしたふたりは別の私選弁護士を雇った。

 

紛うことなき完全なる裏切であった。

 

 

  偽りの反省

 

 

 

起訴後の有罪率が98%という日本の裁判事情を鑑みると私が刑務所へ行くことは決定的だった。

 

これまで黙秘を貫き通して恩人への義理は果たしたという思いと、長期収容が決定的となった今、私は裁判で自分の犯行を認め少しでも刑期が軽くなるように舵を切ることにした。

 

私の供述調書がひとつも無い以上、証拠となるのは状況証拠とチンコロした共犯者の供述調書のみ。

 

私はそれに基づいて、罪状認否では罪を認めつつほかの共犯者のことは一切黙秘することに決めた。

 

謝罪文や反省文も書いた、本心なのかどうかは定かではないが思ってもいないような言葉がスラスラと思い浮かんだ、以前に1度収監された時にそんな文章は書きなれており、惰性で反省の言葉が浮かんでくる、そんな思考回路が知らないうちに自分の中に形成されていた。

 

目的は減刑

 

それ以上もそれ以下もない、空想の反省と謝罪の言葉を書き連ね虚構の謝罪文が書き上がった。

 

この頃になると、私は東京拘置所へと移送され被疑者から裁判を待つ被告人へと立場が変わっていた。

 

 

  拘置所

 

 

東京拘置所はまるで要塞だった。

 

世界屈指の先進国の日本、その中核を成す東京にある拘置所。

 

冷たく聳える巨大な建造物の中の狭い独居房で私はひとり裁判の日を待っていた。

 

被告人となり新しい番号が私に付けられた。

 

4420番

 

もはや、名前を呼んでくれる刑事もいない。

名前を失った私は独居房でひとり裁判が終わり刑務所が終わることをただ待ち続ける約立たずの木偶の坊と化していた。

 

起訴され裁判を待つ間は被告人となるが、法的にはまだ裁かれていない為、保釈が認められ保釈されれば一般人と同じように判決まで社会で普通に生活ができるし、拘置所でもある程度の自由が保証されているはずだった。

 

しかし、拘置所での生活は刑務所に毛が生えたほどの完全な自由とは程遠い生活だった。

 

 

決められた物品の中から食料や本を買うことはできたが、数量に制限もあり届くまで1週間近くかかる。

 

夕方になればラジオはつくがテレビは無い。

 

特に苦痛だったのは会話がないということだった。

 

取り調べで雑談できる刑事ももう来ない。

仲の良かった同収ももういない。

1日に30分だけ許された外での運動時間ですらひとり狭い鳥かごのようなスペースでその中を歩き回るそんな孤立した日々が続いた。

 

ストレスは溜まりそれを発散させるのは食だけになった、差し入れてもらった金は嗜好品にみるみるうちに消えていき、その代償は私の身体にみるみるうちに蓄えられて言った。

 

会話もせず、ただひたすらに食べ、決められた時間に眠りただ肥え続けていく私は家畜以外の何者でもなかった。

 

 

  罪状認否

 

 

裁判当日、過食により逮捕された時に来ていたスーツすら着れなくなった私は拘置所で借りたジャージを身にまとい裁判所へ向かった。

 

 

手錠を嵌められ腰ロープで繋がれた被告人が10人ほどまとめられて地下にある代用監獄に入れられその時を待つ。

 

もちろん時計なんかは無く、ただトイレと小机があるコンクリート打ちっぱなしと言えば聞こえはいいが固く冷たい塀に囲まれた薄暗い部屋でその時を待った。

 

あれだけ綺麗な外観や法廷の粛々とした内装からは想像できないほど地下にある被告人の待合室は質素で薄汚かった。

 

何時間ほど待ったろうか、刑務官に呼び出され地下からエレベーターから9階にある法廷に連行された。

 

共犯者は5人いたが、完全に否認している主犯格は別で裁判が行われることになり、2番目にチンコロした男も新しくついた弁護士の都合上法廷が分けられた。

 

 

私を含めた残り3人は同じ法廷で裁判を受けることになった。

 

法廷は大法廷、傍聴席はほぼ満席だった。

 

 

その隅にいる母親の顔を見つけ、小さく会釈した。

 

逮捕されて以降手紙も面会もやりとりすることができずどんな気持ちでいるのか慮ることすらできない母親の悲しい表情を見て胸が締め付けられた。

 

そして、目を他に向けたら逮捕当日に私たちを真っ先に裏切り自供した知人の顔が見えたが彼は目を合わせようともしなかった。

 

また、彼も悲しい表情をしていた。

 

それが私に後ろめたい気持ちなのかそれともこれから始まる裁判への不安なのかは私には分からなかった。

 

私の事件の裁判は判決を含め合計3回だった。

 

 

初回は人定質問と罪状認否、2度目の裁判で被告人質問や情状証人への質問が行われ求刑が出る。

そして、3回目の裁判で判決が言い渡される。

 

証言台に立ち、氏名や住所、生年月日を述べた後、裁判長から今回の起訴事実が読み上げられその罪を認めるか問われた。

 

 

私は起訴事実を認めた。

 

 

他のふたりも同様だった。

 

第1審はそれで終わった。

 

ものの30分ほどの裁判は終わり、私は法廷を後にした。

 

 

 

 

法廷を出る時に見た母親の顔は、大粒の涙を流しながら私の方を見つめていた。

 

 

 

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  最後の夜

 

 

 

東京の夜景を柵のついた護送車から眺め、自分が今置かれている現実を受け入れようとしたが一向に受け入れることはできなかった。

 

 

逮捕され、そのまま私は留置場へ移送された。

 

私を含め共犯者は5人。

 

取調べの都合上、全員が別々の警察署へ移送されることになった。

 

ついさっきまで一緒に食事をし、同じ空間で過ごしていたはずなのに突然警察に突入され、それから一言も言葉を交わすことも許されず離れ離れになる。とても不思議な感じだった。

 

あれだけ一緒にいた仲間と別れの言葉すら交わせず離れ離れになる。

 

最後に交したアイコンタクトだけで仲間たちのの心の中を読み取ることはできなかった。

 

私の移送先は都内でも端の方にあり高速に乗っても1時間ほどかかった。

 

そして、この時見た夜景が釈放されるまでに見た最後の夜景となった。

 

 

  腐った金銭感覚

 

 

 

逮捕された時の所持金は僅か5千円。

 

当時は金銭感覚が完全に麻痺しており無くなればまた騙せばいいと、手にした現金は湯水の如く消えていた。

 

そのほとんどが酒と女だ。

 

自分を偽り、仕事に誇りを持つこともできない私たちにとって自分を誇示するためにはたくさん金を使い見栄を張る以外に方法が見つからなかった。

 

逮捕された当日は報酬が入る予定だったが、ガサ入れの際、主犯格の机の上に置いてあった私たちが受け取るはずの給料200万円が手に入る訳はもちろんなく押収されることになった。

 

散々、他人を欺きその対価で贅沢の限りを尽くし終焉を向かえた私にはぴったりな結末だった。

 

全てを失い、それを取り戻すために始めた悪事は全てを取り戻すどころかさらに私を地獄の底へ突き落とすことになった。

 

 

  留置場

 

 

留置所へ到着し、自分の荷物は許された衣類以外はすべて自分の手の届かない場所に保管された。

 

すべての服を脱がされ身体検査を受けてから檻の中へ入れられた。

 

 

偽名を使い生活をしていて、ついさっきやっと本名を取り戻し私自身に戻れたばかりなのに今度は番号を与えられ私の名前はまたすぐにどこかへ消えてしまった。

 

私は15番と呼ばれるようになった。

 

同房の人間にも15番さんと呼ばれた。

 

自分の名前を呼ばれるのは取調べの刑事だけだった。

 

起きて食べて寝る。

その繰り返し。

 

食事すら地べたで摂る、そんな家畜のような生活が始まった。 

 

朝7時に起きて夜の9時に就寝するまで食後に15分だけ流れる録音したニュースと音楽だけが唯一の娯楽だった。このご時世にカセットテープに何度も上書きしているため音質は最悪だったがその時間が唯一の癒しだった。

 

備え付けの小説も読むことはできたが最初のうちは内容が入ってこずただ文字を眺めることしかできなかった。

 

スマホもテレビもない退化した世界に戻ってきてしまった。

 

分かってはいた事だけどやはりこの時代にネットが使えないのは不便だった。

 

普段しているSNSのチェックももちろんできない。

 

LINEで捕まったことを連絡することもできない。

 

1日で無人島に流されたような気になった。

 

組織犯罪ということもあり接見禁止がついた。

 

家族と面会はおろか手紙をやり取りすることすら許されなかった。

 

部屋の外に付けられた15番というプラカードの端に貼られた赤いテープがその目印だった。

 

いつ取れるか聞いても誰も教えてくれない。

 

その時の私はこれからどれだけの期間、留置所にいるのか、いつから裁判になるのか、実刑は免れないだろうが何年刑務所に入るのか想定すらできない、想定したとしてももただの予想なだけでますます混乱するという負のループに陥っていた。

 

 

  黙秘

 

 

その当時、私には交際相手がいた。

 

地元で知り合った女性で、ちょうど逮捕される日に東京に来て一緒に暮らす約束をしていた。

 

その相手にすら連絡が取れない。

 

今頃、こっちに着いているのか。

連絡してきて電波が届かないと言われたらどう感じるのか。

彼女のことが頭をよぎった。

 

しかしそんなことすら心配できないほど私は自分本位になっていた。

 

住んでた家のことも、実家の両親のこともなにも頭に浮かんでこないほど混乱していた。

 

間もなくして弁護士がやってきた。

 

主犯格の寄越したアウトロー弁護士だった。

 

数万円の差し入れとともに、黙秘し続けたらもしかしたら釈放されるかもと助言された。

 

それより前から逮捕された時は完全黙秘を通すと私は決めていたので素直に従った。

 

釈放うんぬんももちろんだが、私は主犯格の男に本当に感謝していた。

 

なにもない、残された道は死しかない自分を受け入れてくれ面倒を見てくれた主犯格の男は私にとっては命の恩人だった。

 

善悪は置いておいて、私にはほかの仲間を裏切るという選択肢はなかった。

 

そして、最初の逮捕事実は他人を騙そうとしたという詐欺未遂容疑だったこともあり、私の中でこのまま黙秘を続ければ本当に起訴されることなく、詐欺をし続けることは難しくても拘留期限を迎える20日後には晴れて釈放されて自由になれるとう望みを捨てることはできなかった。

 

すべて失った上にそれでも娑婆に執着する私の心の中は悪魔のように醜くドロドロとしていた。

 

逮捕された翌日に新規検事調べで検察庁へ連行された。

 

そこでほかの共犯者と再会することになる。

 

小さな牢屋が並んだような待合室に続々と連行されてくる共犯者たちに刑務官の目を盗むように合図を送り口を紡ぐようなジェスチャーで全員黙秘を促した、仲間と言えど所詮偽名を使って繋がった素性の知らない他人。

 

 

誰かがチンコロするかもしれないと互いに疑心暗鬼に陥っていた。

 

ありがとうでもがんばれでもなく、黙秘しろ

 

そう合図を送ったのが私たちの最後の別れとなった。

 

刑事の取り調べは楽しかった。

 

黙秘というものの雑談程度の世間話はしたし、歳の近い刑事ということもありとても仲良くなった。

 

その中で半年以上前から内偵捜査をしていて私たちの行動をこと細かく監視されていたことが分かり事件の重大さや警察の操作力の凄さを思い知らされた。

 

一方、検事調べは苦痛でしかなかった。

 

朝、2時間近くかけて検察庁へ赴き夕方2時間近くかけて帰るまで拘束され、狭い部屋の中の木でできたイスに手錠をつけたまま待たされる。

 

食事は小さなパンふたつとパックコーヒーのみ。

 

誰とも会話は許されず硬い椅子の上でひたすらに時が過ぎるのを待つ。

 

時間も分からない中で時が過ぎるのを待つのは想像を絶する苦痛だった。

 

検事とは雑談すらしなかった。

 

1時間以上無音の個室で、お互いにらめっこするそんな感じだった。

 

常時、録音録画されている室内は何一つ言葉を発することのできる雰囲気ではなかった。

 

会話がないと段々と不安になり話せば楽になれたはずだったけど地獄に落ちきった私が、自我を維持するためには黙秘を貫き通すしかなかった。

 

馬鹿げた話だけど黙秘を貫いて恩義を返すことが最後の男気だった。

 

 

  運命の日

 

そして、拘留期限の20日目を向かえた。

 

朝、留置担当から呼び出され荷物をまとめて釈放された。

 

面会室のいつもは面会に来る相手が入るスペースで荷物を確認し、私服に着替えズボンにベルトを通し意気揚々と留置場を出た。

 

留置場の扉を開けた瞬間待っていたのはいつも私の取り調べを担当していた刑事だった。

 

そこで、新たな逮捕状を提示され私は再逮捕された。

 

詐欺罪それが次の逮捕事実だった。

 

留置場の窓から見える桜の木には蕾が付き春の訪れを知らせていた。

 

(続く)

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晴天の霹靂だった……

 

当時の私は東京にいた。

 

 

  振り込め詐欺

 

 

薬物に溺れ、ギャンブルに溺れ、金も人も地元すら全てを失った末に流れ着いた街、花の都大東京の雑居ビルの一室で、私は振り込め詐欺グループの一員として知らない誰かに知らない誰かを装って電話を掛ける非現実な世界に身を置いていた。

 

当時は自分の名前すら捨てて誰も知らない都会の中に、クドウシンイチなんてどこかの探偵みたいなふざけた偽名を使い2年近くもアンダーグラウンドな世界を生きていた。

 

金さえあれば全てが好転する。

それだけを盲信し、すべての良心を殺しながら毎日を刹那的に過ごしていた。

 

 

  終わりの始まり

 

 

その日も、オフィス街には似合わない派手なスーツ姿で出勤し、いつものように知らない誰かを騙す日々のルーティーンを淡々とこなしていた。

 

オフィスビルの4階の窓ガラスが一気に割られたのはその最中だった。


唖然としている私達の中に閃光弾が投げ入れられ一瞬にして私たちは鎮圧された。

 

何人いたのかははっきりと覚えていない。

 

軽く20人はいただろう、最初に突入してきたsitと呼ばれる特殊部隊に加え、犯人確保の為の刺股を持った刑事や知能犯を相手にする捜査二課の刑事たち。

 

ガサ入れ対策で、入口ドアには防犯カメラに防音シートを取り付け、証拠隠滅するために備え付けてあった携帯電話を破壊するための電子レンジ、それに騙す対象者の情報の書いてある水溶性の紙にそれを溶かすために準備してあった小さなプールはまったく意味をなさなかった。

 

普段からしていた緊急時のためのシミュレーションなどただのおままごとの様なものだった。

 

閃光弾の衝撃に完全に怯んだ我々は、警察にとってはまるで赤子同然だった。

 

気がつけば私は刑事に腕を押えつけられて地面に突っ伏していた。

 

ガサ入れが始まった。

 

部屋の中のすべてのものに番号が付けられ1つづつダンボールに納められて搬出されていった。

 

もう抵抗するだけの気力も残っていない私たちは、ただただそれを呆然と眺めるしか無かった。

 

真冬の冷風が割られた窓ガラスから吹き抜け、その寒さに耐えながら自分たちの行く末を案じる以外には何もすることが出来なかった。

 

時間の経過が過ぎるのがやけに早く、そしてやけに遅かった。

 

3時間強に及ぶガサ入れが終わり、私たちはそれぞれ別の警察署に連行された。

 

警察署に入る瞬間、フラッシュが焚かれた。

 

新聞なのか週刊誌なのか分からないけれど、自分の事件がメディアに晒されることだけは理解できた。

 

これからの事よりも明日の新聞に自分が載るのか、そんなどうでもいいことばかりが頭の中を駆け巡った。


 

まだ被害者が特定されていなかったため任意での出頭だったため、手錠こそはめられなかったが警察署の取調室にはいる時、入口に⟬特殊詐欺事件⟭という文言が書いてあるのを見てようやく自分達がしていた事の重大さを思い知らされた。

 

 

  逮 捕

 

約1時間後、私は逮捕された……

 

逮捕されたその瞬間から、私は一般人から特殊詐欺事件の被疑者Aとなった。

 

逮捕直前に刑事が最後に吸わせてくれたタバコは瞬くうちに灰へと変わっていた……

 

この先どれだけの間刑務所で過ごすのか、皆目見当もつかない先の見えない闇の中へと私は吸い込まれていったのだ。

 

(続く)

 

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ブログを始めた理由について

 

 

私はヤクザでもなければ、半グレでもりません。

ちょっとふざけたただの人です。

仕事も真面目にすれば、人あたりも悪いほうじゃないと思います。

 

なぜこうなってしまったのか今でも信じられません。

 

ただ、強いて挙げるとすればきっと人よりギャンブルが好きで薬物も好きでした。

 

好きを超えて趣味を超えて、辞めることのできなくなったモノやコトはまはや依存です。

 

依存症者のたどる末路は死、あるいは病院、そして私のように犯罪を犯し刑務収監されます。

 

幸いなことに私は死にもせず、病院にも入らずただ刑務所に入っただけで今は普通の一般人見たくのうのうと生きています。

 

今も依存症から脱却したのかと問われるとYESとは言えないのが現状ですが、私の経験や刑務所で考えていたこと、それを経て現在どういった生き方をしているのかをブログを通じて発信することで。現在も依存に苦しみ生き場所を見失ってる人が一人でも多く救われたらと思いブログを開設することにしました。

 

依存症は一生の病気です。

 

しかし、根治はできなくても回復させることは可能です

 

私のブログを通じて、苦しんで自ら命をたってしまう人、限界まで頑張って心が壊れてしまう人、そして私のように犯罪行為に手を出して刑務所に収監されてしまう人が一人でも減ることを願っています。