判決文を裁判長が読み上げる中、私の瞳からは人目を憚らず大粒の涙が流れていた。

 

 

体側で両手の拳を握りしめ涙を堪えようとするも、堰を切ったように溢れ出す涙は止めることができなかった

 

 

 

  裁き

 

 

 

懲役4年

 

 

 

それが、他人を欺き地獄に落としながら、自分の私利私欲の為に私腹を肥やし続けた私に下された裁きであった。

 

 

 

私の関わった事件で資産を失い路頭に迷った高齢者、或いは路頭に迷った挙句に自死を選んだ高齢者もいるだろう。

 

 

 

それでも私は自己の保身に走る為に起訴を回避しようと黙秘を貫き、減刑のために本心にもない謝罪文や反省文を書き、法に裁かれる前に自ら命を絶とうとし、死からも逃げ生にしがみついている臆病者だ。

 

 

 

私は死刑になるべきだった。

 

 

 

その時の涙が、贖罪の涙なのか、反省の涙なのか、それとも大幅に減刑されたことへの喜びの涙だったのかは分からない。

 

 

ひとつだけ言えるとすれば、これだけ大粒の涙を流した経験は私の記憶には残っていなかった。

 

 

嗚咽で身体を震わせながら溢れ出る涙は止まることを知らず、耳に入る裁判長の言葉はまるで念仏のように聞こえていた。

 

 

 

 

  

 

 

証言台に立ち判決文を読み上げられる私の背後で私と同じく啜り泣く声が聞こえた。

 

 

 

母親であった。

 

 

 

逮捕されてすぐに接見禁止となり面会も手紙もできなくなった。

 

 

 

初公判の後に接見禁止が解けて接見が可能となったが、遠方に在住しており高齢ということもあって面会は断り手紙のやり取りを数通だけした。

 

 

 

手紙だけでは言いたい事の少しも伝わらない。

 

 

 

言いたいことは山ほどあるだろうけど伝える手段が他にないもどかしさややり切れなさが母の手紙からは伝わってきた。

 

 

 

それでも人の金で私腹を肥やし贅沢を尽くした成れの果て私に対し、母は限られた年金の中から捻出して金を送り、私服を自宅に取りに戻れない私に新品の衣類を郵送してくれた。

 

 

 

裁判の出廷も拒んだが、3回行われた裁判すべてに出廷し情状証人にもなった。

 

 

 

同世代の高齢者を息子が騙して金を奪い盗った事件の情状証人に立つなどということは想像を絶する苦痛だったはずだ。

 

 

 

裁判の為だけにはるか遠方から1日かけて東京へ上京する、手紙には40年振りの東京だと書いてあった。

 

 

 

出廷が終われば直ぐに新幹線に乗り蜻蛉帰りする、真夏の灼熱のコンクリートジャングルの中を裁判所に向かう母の姿を想像しただけで胸が苦しくなった。

 

 

 

打算でも偽善でもない。

 

 

 

無条件の愛情がそこにあった。

 

 

 

判決文の朗読が終わり、静粛な法定内には私と母親の啜り泣く声だけが残った。

 

 

 

法廷を後にする時、連行の刑務官の目を盗みすぐそこにまで近づいた母親に声をかけた。

 

 

 

”元気でね”

 

 

 

それ以外の言葉が見つからなかった。

 

 

感謝や謝罪の言葉を出すには烏滸がましかった。

 

 

私にとってそれまで家族に嘘を吐き、仲間に嘘を吐き、あげくに嘘を生業にしてきた私にとって薄っぺらい言葉は全くと言っていいほど意味を持たなかった。

 

 

そして、今後4年間は家族に対して何もすることができない。

 

 

文字通り私は無力であった。

 

 

私の言葉に対し母は黙って頷いた

 

 

それがどういった意図なのか汲みとることはできなかった。

 

 

ひとつだけ分かったのはふたりとも悲しい顔をしていた。

 

 

そして私は刑務官に促されて静粛を取り戻した裁判所を後にした。

 

 

その後3年間、母親の顔を見ることは無かった。

 

 

それが母親との面会を拒み続け、出所直前にようやく面会室で再会するまでに唯一交わした言葉であった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

  

 

 

 

夕暮れの空を護送車の窓から見ながら何故か私の心は澄み渡っていた。

 

 

いろんなものから逃げてきた人生だった。

 

 

逃げ回って逃げ回って、遂に私の後ろは厚い壁に囲まれてしまった。

 

 

しかし前にだけは道は残されていて、その先には僅かながら光が見えている。

 

 

母親の無条件の愛情に応えたい。

 

 

生き直したい。

 

 

言葉ではなく行動で感謝と謝罪を伝えたい。

 

 

ようやく心からそう思えた。

 

 

4年間の刑務所生活をちゃんと生きる。

 

 

それが私にできる全てであった。

 

 

だがその時の私には生き直す意味も手段も分かっていなかった…

 

 

 

 

深いトンネルの先に見えた小さな光を探す長い道のりがその日から始まった。

 

 

 

 

夕暮れの東京を走る護送車の外には真夏の蝉時雨が響き渡っていた………

 

 

(第一部 了)

 

 

 

 

Special Thanks

 

 

ここまで私の稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

依存症者のためのブログを開設したいと思い付きアメブロに登録してみたものの最初に何を書いたらいいのか本当に悩みました。

 

 

そこでまずは私自身の底付き体験を物語仕立てで書いてみようと思いつきました。

 

 

表現や使った言葉で大分誇張した感はありますが、全て嘘偽りないノンフィクションです。

 

 

自己紹介のつもりで書き出してみたものの作家気取りで筆が進みとても完成度の高い内容になったと自画自賛しています(笑)

 

 

 

 

最後の受刑生活を終えもうすぐ3年が経ちます。

 

 

出所した日にTwitterで釈放なうとツイートして以降、本当に多くの人に出会いました。

 

 

それはネットという枠を飛び越えリアルで繋がった方や、もしかしたら一生繋がり続けるかもしれないような大切な繋がりを作ることもできました。

 

 

今回のブログ立ち上げに際しても本当にたくさんの方に応援して頂き、RTやコメントなどで宣伝して頂いたおかげで自分の予想を超えるほどたくさんの方に読んでいただくことができました。

 

 

 

依存症界隈の有名人、依存症子さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉鎖病棟入院歴のある牧師、沼田和也牧師

 

 

 

 

 

 

 

 

並びにRTしてくれた方々本当にありがとうございました。

 

 

 

今後もこれまで通りブログは続けていくつもりですが、その後の話やそれ以前の話はまたいずれ、ということでこれからは依存症についてだったり生き直すことについてだったり、読み物的なブログではなく、教養的な内容で読んでくださる皆様のちからになれたらいいな、なんて思ったりしています。

 

 

こんな話聞きたいとか、要望があればコメント並びにTwitterのDMなんかで教えていただけると幸いです。

 

 

 

最後にはなりますが、その後の話をすこしだけ、、、

 

母親との関係は今は良好です、話には出てきていませんが父親も健在で顔を合わせたら雑談できるような関係を築けています。

 

この3年間で、正直完全に真面目な生活を送れているかと問われたらまだ不十分だと思います、両親にかけた迷惑を返しきれたかと言われたら全然です。

 

しかし、この3年間で親に金銭的な負担をかけたことは一度もなく、自分なりに自立した生活を続けることができています。

 

小さな積み重ねですがきっと大きな一歩よりも小さな一歩を積み重ね続けることのほうが両親にとっての喜びと思いながら日々生活をしています。

 

 

※両親に食事を御馳走した時の写真(本物)

 

 

これだけ大きな事件を起こして人生終わりかけた人でも、前を向いて歩いていけるんなら自分もやり直せる。

 

 

私のブログを読んで一人でも多くの人に生き直す決意を持って貰えれば幸いです。

 

 

 

今後もしゃブログをどうかひとつよろしくお願い致します!!!

 

 

 

 

 

しゃかび