隣 人 ノ 憂 鬱 -3ページ目

ヒツジ ノ ウツワ

先日、山道をドライブしていると、小さい牧場をみつけた。


駐車場わきの草っぱらに、黒い羊が繋がれている。近づいてみると、黒いと思っていた羊は濃いグレーで、まだ子供のようだ。羊はまるで甘える犬のように頭を足にすりよせ、傍から離れようとしない。


触ると絶対手が臭くなるので、なついてくる羊を見下ろしながら「早くあっち行け」と心の中で呟く。4つ足の動物には心が通じるかも知れないと思ったりもしたが、どうも悪しき心は通じないらしい。


なおも執拗になついてくる羊に、根負けして仕方なくなでる。アフロのような羊の毛はごわごわのごっさごっさだ。3日間洗っていないアフロに粉をまぶすとこんな硬さかななどと想像してみる。


想像を膨らませながら羊をなでていると1箇所更に硬い箇所がある事に気づく。もう一度手で探りながらその場所を特定する。そして顔を近づけよく見てみると、そこには羊の毛よりもうす汚れたポップコーンが挟まっていた。


きっと誰かの悪戯だろう。それにしても、ポップコーンが落ちる事無く挟まり続ける羊の毛の密集度は異常だと考えながら、何気なく手の臭いをかいでみる。わーくさい。


こんな悪臭の毛を全身に纏っていても平気、ポップコーンが毛に挟まっていても平気、平気というより気づいてさえいない、きっと。羊とは何とおおらかな生き物なのか。


ソウイウモノニ ワタシハナリタイ。

愛しみ給う「その瞬間」

まだサンタクロースがいると信じていたころ、プレゼントにパンダをお願いした事があった。


目覚めると、枕元には一目でぬいぐるみと分かるパンダが置かれていて、本物のパンダがやってくると信じていた分、ひどく落胆した事を覚えている。初めてサンタクロースの存在に疑念をいだいた瞬間でもあった。


それからは、サンタクロースなどいないという事をうすうす気づき始めてはいたが、いない確証もないので、毎年空に向かって欲しい物を叫ぶという儀式を続けていた。


お願いしたプレゼントをもらえる事もあれば、もらえない事もあり、一進一退がが続く中、ある法則に気づく。それはお願いしたプレゼントが生き物の年は、決まって違うプレゼントであるという事。


まさかと思いつつ、ある年の12月初旬、水色の寒空に向かって「いぬくーださいっ!」と叫んでみる。それから3週間が経ち、枕元に将棋とオセロがリバーシブルになっているボードゲームが置かれていた瞬間、疑念が現実のものへと変わった。


子供は様々なかたちで本当のプレゼントの送り主を知り、サンタクロースを卒業していく。その瞬間は落胆だったり恥じらいだったり喜びだったりする事だろう。


それなのに「その瞬間」という大切な想い出が、将棋とオセロって。犬をお願いされて将棋とオセロを選ぶセンスが信じられない。

ランナーに注意

「ランナーに注意」という道路標識が近所にある。


最近そこでランナー同士が口論となり傷害事件に発展した。「ランナーに注意」 そういう意味だったのかと気付いた。

優れたモノより貧しきサガ

消せるボールペンを買ってみた。


試してみると、なるほどよく消える。こんな優れモノが登場した今日、字を書くためだけに限って言えば鉛筆やシャープペンの役目ってあるんだろうか。


ボールペンであれば芯が丸くなる事がないので削る必要がないし、手の横っちょが黒くなる事もない。シャープペンのように芯の補充も必要なければ筆圧で芯がはじけ飛ぶ事もない。


どう考えても鉛筆に劣るところなど一つも思いつかない。しかし、そんな完璧なアイテムを入手したというのに未だにメインの筆記用具はシャープペンだ。


それは、習慣とか鉛筆やシャープペンに対しての愛着とかそういったものではない。ただ消せるボールペンのインクがもったいないから。インクがなくなったら新しいのを買えばいいし、それが安価で買える事も知っている。


しかし長年培った貧乏性という性質がそれを許そうとはしない。ランニングコストで考えたってボールペンの方がきっと安いだろう。そこまで分かっていながらもインクがもったいないという考えを消すことが出来ない。


ああ、自分の頑固さや偏屈な思想も、このボールペンのように簡単に消すことができたなら・・・・。


わりと上手い事を言った気がする。

古の人よ、まず自分を何とかせよ

2012年


今なにかと話題の地球滅亡の日。ノストラダムスが息を吹き返したのかと思えば今回はマヤだそうだ。マヤの予言は全く知らないが、マヤ文明が滅亡した事は知っている。


地球が滅亡する前に、自分達が滅亡する事を予言しなかったのか。そこが気になって仕方ない。死にそうな人をお世話してたら自分が死んじゃったみたいな話が哀愁を誘う。


重要なのはマヤは己が文明の滅亡を予言したのかしないのか。もし予言していたなら敬おう。予言していなかったのなら、ポンポンと肩を叩き軽く頷いてあげたい。

追われる魚よ大洋を目指せ

昔は行きつけのカフェというものがあった。


休日、ちょっと遅い朝食を摂りに行ったり、学校や仕事の帰り道にぶらっと立ち寄り、たいして味も分からないくせに無理をしてブラックコーヒーをすすりながら「やっぱりコーヒーはブラック」なんてエラそうな事を言ってみたりして。とにかく足繫く通ったものだった。


今はというと行きつけのカフェは行きつけの自動販売機へと、無理して飲んだブラックコーヒーは500mℓのお茶へと変貌を遂げている。カフェへ入り、椅子に腰をおろしゆっくりと一息つくという事が出来なくなっている。


それは時間的にとか経済的な問題ではなく、気持の問題という意味で、どういうわけかいつも時間に追いかけられている気がするからだ。車で移動中コンビニで買ったパンやおにぎりも車を運転しながらでないと喉をとおらない。


駐車場でゆっくりなんてとても考えられない。別に先を急ぐ用があるわけでもないのに、常に進まなくてはいけない気がしてならない。いくら急いだところで一日の最後にたどり着くのは家であり、やってくる明日が早くなるわけでもない。


何を急いでいるのだろうと考えてみても皆目見当がつかない。これは体に刷り込まれた「何か」のせいなのだろうか。ではその「何か」とか何か?こんな押し問答を自分でしても何が分かるでもないけれど。


そういえば学生時代占い好きの女の子に、前世は魚と言われた事があった。それが本当だとすると、魚とはマグロの事だったのだろうか。回遊魚だけに前進しないと死んでしまう。そりゃ死に追いかけられれば理由もへったくれもなく前進あるのみである。


なるほど、だから理由もなく進みたがるのか。少しだけ納得がいった。しかし、納得したとはいえきっと今後も先を急ぎ続ける事だろう。でもそれは死に追いかけられるマグロとしてではなく、新たな大洋を目指すマグロとしてでありたいと思う。




なんちゃって。

地獄の沙汰も金しだい

以前より頭痛が激しさを増してきた。


市販の鎮痛剤ではほとんど効果がない今日この頃、病院か整体か鍼灸か、いよいよ御厄介になる日が来たかと覚悟を決めているところに、「散剤の鎮痛剤は粒状より効く」という噂を耳にした。


今なら頭痛に効く壺でさえ買ってしまいそうな状況下、ワラにもすがるおもいで薬局へ出発。到着後はレジへ直行し「散剤の鎮痛剤をくださいな」と大きく、そしてハッキリした声で伝える。


自分の声が頭に響いてギンギン痛む。後は一言も発する事無く促されるままお代を払って帰途につく。かすむ目と震える手でようやく箱を開けると中から粉薬が出てきた。


粉薬・・・ 散剤・・・ 散剤? 粉薬? 散剤<粉薬? 散剤±粉薬? 


散剤=粉薬 そうか、そういうことか。散剤って粉薬だよね、粉薬のこと散剤っていうんだよね。知ってたよそんな事、ただ頭の痛みで気付かなかっただけさ。いくら自分に言い訳してみたところで粉薬を飲めない事実は変わらない。


だって苦いから、すごくまずいから、粉っぽすぎるから、粉っぽいも何も粉そのものだという事はわかってはいるけれど。とにかくこのままでは飲む事が出来ない。一体どうすればいいのか。


とりあえずそのままチャレンジしてみる事にした。どんぶりに水をなみなみと入れ、口を開けた袋を片手に準備完了。いっきに粉薬を口の中に流し込む。すかさずどんぶりに手を伸ばす。


と、同時に薬が口の中から全部噴き出した。あまりの粉の勢いにとても我慢など出来なかった。すっかり口の中全体に広がった薬の味にしばし悶絶する。苦しみを処理しきれない脳裏に、さっき薬局で見た光景がよみがえってくる。


オブラート。レジ横のラックにぶらぶらとぶらさがっていたオブラート。確かに見た。あれさえあればこの薬を飲む事が出来るに違いない。再び薬局へ赴く。無言のままオブラートを購入し外へでる。


自販機でミネラルウォーターを買い、ポケットへ忍ばせておいた粉薬を取りだす。オブラートに粉を包み太陽に透かしてみる。やわらかなゼラチン質につつまれ眩いばかりの白さが際立つ粉、それはまるで一粒の真珠のよう。


これならいけると確信し、口の中に放り込む。少し力んでしまったせいか、おもったよりも奥に入ったオブラート達は、吸盤でもあるかのようにノドにへばりついた。


オエッ、オエッ、なんてやっているうちにオブラートが破れてまたまた悶絶。もう一度だけと挑戦を試みたものの、今度は先に含んだ水が多すぎて、飲み込む前にオブラートが溶けて失敗に終わる。


途方に暮れていると中からお店の人が心配そうな顔で出てきた。そりゃ、店の前で、オエーッとか、目いっぱい含んだ水を口からブーッとか出していたら心配にもなるだろう。


涙ながらに訳を話すと、店員さんは店の中へ消え、小箱を片手に再び戻ってきた。箱の中から何かを取りだし「これをお使いなさい」と手渡される。みるとそれはカプセルだった。中身が空のカプセルだった。


こんなモノがあるなんて・・・。言い尽くせぬほど感謝の言葉がわいてくる。どこぞの賢者のような店員さんは優しく微笑みながら店内へと手招きする。巡礼者の如く恭しく店員さんの後に続くと、店員さんはレジの前で立ち止まった。


そして優しくささやく「630えんです」と。金取るんだ、ただそう思った。少しだけ軽くなったサイフを片手に外へ出る。冷たい風に吹かれていると、すっかり頭痛が治まっている事にふときづく。


空のカプセルをころころと手のひらで遊ばせながら、「金取るんだぁ」という思いを噛みしめていた。

何か足りない男。

最近、他社と合同で仕事をする機会が多い。


今も同じ事務所で2社合同の作業中だ。相手の会社の担当者とはこれで3度目となるので、少しは気心が知れてきたのではないかと勝手に思っている。彼は出来る男なので、相当な額の給料をもらっていると聞く。


人間性もよく、上司や後輩との付き合い方も申し分ないそうで、当然出世街道を独走しているそうだ。頼んでもいないのに見せられた彼の家族写真の中には、それはそれは美しい奥さんと、輝くばかりにかわいい子供が二人、それから彼の四人が満面の笑みで写っていた。


例えるなら「え?世の中に不幸ってあるの?」ってな感じだ。一瞬彼の不幸を願う気持ちが胸をよぎったが、「いくらなんでもそこまでダメ人間じゃないだろ」と自分に言い聞かせ、ひきつりながらも笑顔を彼に返す事ができた。


そんな彼は、毎日机に向いながら同じ言葉を繰り返す。「何かたりない」と。書類を書いているとき、パソコンに向かっているとき、打合せをしているとき、愛妻弁当を食べているとき、どんなときも「何かたりない」と言う彼。


いったい何がたりないというのだろう。もし彼に何かが足りないとしたら、こっちは何もないに等しい。こっちにあって彼にないものと言えば i pod くらいだろう。そういう今も、彼は足りない、足りないと嘆いている。ぱくぱくと動く彼の口をみながら何が足りないのか考えてみる。


答えはすぐに分かった。彼は全てに満たされている。だから嘆く事が足りないだけだ。幸せだなと思うのと同時に、すこしばかりイラっとするのは気のせいではないだろう。

Turning Point.

社会全体が不況に喘ぐ昨今、人生の岐路という言葉を耳にする機会が多い気がする。


はて、自分にとっての岐路はいつだったのか、それともまだ岐路まで辿り着いていないのか。そもそも岐路とはどんな感じでどこらへんの事をいうのだろうか。


考えてみれば、どこらへんやここらへんではなく、日々選択の中を生きている以上、一刻一刻が人生の岐路なのだろう。生まれてから今日まで何回ぐらい選択をしてきたのかな。


全てが人生の岐路だったと思えば、今までとは全く正反対の選択をした人生を送ってみたいと思う。もしかすると世間一般でいう成功者になっていたかも知れないし、もうこの世にはいなかったかもしれない。


やり直す事が出来ないのが人生、するべき選択があるからこそ人生・・・。んー、考え慣れない事を考えたせいか、晩年の回想録のようになってきた。もう一度読み返してみる。


笑っちゃった。

たとえ輝かなくても。

親戚の子が遊びにきた。


まだ幼いとはいえ女の子、最近では宝石に目覚めたという話。中でも一番好きな宝石は「げんぶ岩」だそうだ。


かける言葉もない。